瀬底島の沖縄戦 ~ 島の住民のいのちを守った判断とは

 

瀬底島の沖縄戦

戦争になったとき、島の運命を左右するのは、実は、島の大小ではない。その島に基地があるかどうか、である。

日本軍拠点のなかった島、瀬底島 (2.99km2) や宮城島 (5.54km2) や前島 (1.59km2) と、基地がおかれ要塞となっていた島津堅島 (1.88km2) や阿嘉島 (3.80km2) や瀬長島 (0.18km2) *1 を比較してみるとよい。

 

今回、焦点を当てるのは、瀬底島。

本部町 (Motobu) の西南に位置するリゾートアイランド。

 

1945年3月下旬の空襲

日本軍の拠点になっていた本部港・浜崎が対岸にあるため、瀬底島も激しい空襲の被害を受けた。

【訳】上陸日4月1日に海軍の砲撃を受ける渡久地山と八重岳への進入路を守る第一線の丘。右奥には瀬底島が見える。(米海軍写真)

Battle of Okinawa Chapter 06 p. 108

そのため住民は本部半島に避難させられたが、逆に本部半島で激しい米軍の掃討戦に巻き込まれてしまうことになった。

三月下旬には瀬底でも空襲に見舞われた。私の家も焼けてしまったので、それからは墓を開けて、その中で過ごさなくてはならなくなった。家も焼け、金もなくなって途方に暮れていると、間もなく、瀬底は危険だから本島に急いで避難せよとせきたてられた。

「本部山中への避難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

今帰仁の山には瀬底の人々がたくさん避難していた。 

 「健堅」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

そこで瀬底の婦人たちが射殺されているのを見て、一目散に逃げて帰ったこともあった。

「子供を三人かかえて - 崎本部」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

本部半島に避難していた瀬底島の女性たちは米軍が瀬底島に上陸する4月22日までには、島に戻ってきていたようである。

(三月下旬に) 瀬底を出てから二十一日目の夜、私たちは島の見える所まで戻って来た。そして、どうせ死ぬなら生まれ育った島で死んだ方がましだという思いに駆られて、浜崎で小舟を見つけ、板切れで櫂を作ってやっと頼底に帰り着くことができた。

「本部山中への避難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

 

1945年4月22日 米軍上陸

日本軍のいない瀬底島

米軍は、本部半島の日本軍拠点を掃討し、4月20日には本部半島の北端、備瀬に到達、その後に、21日に屋我地島22日に瀬底島、23日に古宇利島に上陸する。

Battle of Okinawa Chapter 06 p. 108

米軍は当初、瀬底島にも日本軍の拠点があると判断し、攻撃計画が予定されていた。

【訳】航空偵察は瀬底島が日本軍によって占拠され防御されていると報告していたため、1個連隊を増援して同島への攻撃を開始することが決定された。しかし、攻撃に先立って、目標の水陸両用偵察中に住民が捕らえられ、(その尋問から) 島に日本軍はいないことが明らかになった。その後の実地偵察により、その証言は裏付けられた。

Battle of Okinawa Chapter 06 p. 108

攻撃計画は回避され、米軍は4月22日に瀬底島と宮城島に上陸。宮城島はすでに4月7日に偵察済みである。どちらも日本軍がいなかったため、ほとんど犠牲はなかった。

【訳】海兵隊第3水陸両用軍団の一部は4月22日に沖縄の東にあるタカバナレ島 (註・高離島=宮城島) を占領し、同日、本部半島の西にある瀬底島に上陸した。

CINCPOA COMMUNIQUÉ NO. 340, APRIL 22, 1945

 

日本兵を追い返す

また、瀬底島に米軍に追われた日本兵が渡ってきたとき「兵隊がいるとかえってあぶない」と日本兵を追い返していた。その判断が島を守った*2

本島北部の瀬底島では、日本軍がいると住民が犠牲になるとして、島へ渡ってきた日本兵を追い返したという例もありました。

沖縄の歴史

瀬底島に逃げてきた敗残兵は、4月1日の米軍上陸時に前線に残された「読谷の工兵隊」だった*3。こうした背景が伊是名島の住民の証言でわかってくる。

日本の敗残兵による住民虐殺があった伊是名島の住民の証言

私の家であずかったのはシゲノブ軍曹という鹿児島出身の人でしたが、ほかに東京出身の伊藤中尉、ほか七名の兵隊たちがいました。この敗残兵たちは読谷の工兵隊だと言っていましたが、ここまで来るまでには大変な目に逢ったようです。読谷から逃げてしばらくは恩納山にかくれていたが、それから恩納の浜からクリ舟をだして瀬底島に渡り、そこの自然壕に二、三日ばかり隠れていたようです。それから先は、伊江島も本部半島も占領されているから、伊江島と備瀬崎の海峡はアメリカの軍艦が停泊しどおしで、昔の関所みたいになっているわけです。危険なもんだから二、三日隠れていたらしい。はじめのうちは島の婦人会などが芋など持ってきたらしいが、後になると青年会の連中から抗議がきて、こんな者をかくしておくとこの島が大変なことになると言って追いだしにかかったわけです。

「無防備の島の戦争」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 伊平屋島・伊是名島 - Battle of Okinawa

片手を失った漁師というのは兵役経験者だったのだろうか、この漁師は所有する大きな漁船を提供してまで、敗残兵に瀬底島から出て行ってもらった。敗残兵は米軍がうようよ停留する備瀬沖を潜り抜け、伊是名島に逃れる。

日本の敗残兵による住民虐殺があった伊是名島の住民の証言

そこで、島に片手をダイナマイトでやられた年とった漁師がいて、この爺さんが大型の漁船を提供して、この船で逃げてくれと言ってきたそうです。この船は普通のクリ舟を三度ばかり板合せにした大きさがありましたね。この船でアメリカのきびしい監視をくぐりながらようやく備瀬を越えて新里 (註・本部町新里) の海岸まで着いたわけです。そこで一旦上陸して蘇鉄の下に分散してかくれて様子をうかがっていたわけですが、とても明るいうちは動けるものではない。やっと日が暮れてきたので、さあ逃げようということになって、船に毛布の帆を張ってまっすぐこの島 (註・伊是名島) へ向って脱出してきたわけです。ギタラ(東南海岸の地名)のところにたどりついて船をあげているところを牧取りに行っていた伊是名部落の連中がみつけたわけです。

「無防備の島の戦争」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 伊平屋島・伊是名島 - Battle of Okinawa

日本の敗残兵に出て行ってもらった瀬底島の判断は、二重の意味で正解だった。

米軍の攻撃を免れただけではない。幾つかのルートで伊是名島に逃れてきた複数の敗残兵は、「終戦」後も軍当局を名乗り、島民を支配し、島の住民、ちいさな少年までをスパイとして惨殺している。瀬底島の青年たちは、敗残兵が巻き起こす虐殺の危険性からも住民を守ったともいえる。

 

米軍占領下の瀬底島

米軍と直接交渉し、強制収容をまぬがれる

本部半島が大規模に基地化され、住民が辺野古・大浦湾の「大浦崎民間人収容所」に強制移送される中、瀬底島の代表者は米軍と交渉し、そのまま島にとどまることを許された。本部半島での強制移送と収容のすえ、劣悪な収容所の環境で多くの人命が奪われるなか、瀬底島では、米軍と直接交渉し、学校も開始され、住民の生活が継続された。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ospreyfuanclub/20230223/20230223044858.png

177.    ARMY REC AREA (SESOKO SHIMA) ANTENNA FARM FEAF (註・Far East Air Forces?)【訳】陸軍保養地区 (瀬底島) 極東空軍通信所?

1945年8月31日 米軍部外秘 沖縄マップ - Basically Okinawa

 

1945年8月、瀬底島の少女

瀬底島は米陸軍の保養地になっていたため、LST は休暇を楽しむ兵士を乗せての上陸と思われる。 

USS LST-795 beached at Sesoko Beach on 1 August 1945 along with several other LSTs including USS LST-875 in the far distance. Coast Guard Heritage Museum, Di Rosario Collection. 【訳】USS LST-795 は、向こう側に着岸する USS LST-875 を含む他のいくつかの LST とともに、1945年8月1日に瀬底ビーチに着岸した。沿岸警備隊遺産博物館、ディ・ロザリオ・コレクション。

Tank Landing Ship LST-795

1945年8月1日に LST 795 で瀬底島に上陸した沿岸警備隊員ディ・ロザリオ*4は、瀬底島で一人の少女の写真を撮影している。

瀬底島湾の地元の女性。 (1945年)

Native woman at Sesoko-shima Bay - Digital Commonwealth

  • 現在は瀬底大橋があるアンチ浜あたりに立つ少女。表情からは緊張している様子はない。
  • 対岸には本部港と八重岳が見える。本部港との距離がとても近く見えるため、少女が建つ場所は、現在もあるアンチ浜の瀬底島旧船着場の近くかと思われる。右側にみえるのは桟橋か LSD か。
  • 対岸の浜崎あたりや健堅の周辺が白く削られているように見える。日本軍拠点があったために激しく爆撃されたが、その後崎浜や健堅は米軍の拠点となり多くの兵舎などが立ち並んでいた。特に浜崎には第五空軍司令部がおかれていた。

南側から瀬底大橋をのぞむ。八重岳のシルエットは上の写真と変わらない。

また、背景からおなじ瀬底島で撮影されたと思われる写真がもう一枚ある。保養地にきている米兵と地元の女性たち。

沖縄の地元の女性とマコーミック (1945年)

Native women on Okinawa and McCormick - Digital Commonwealth

  • 米兵がビーチで地元の女性に話しかけている。話しかけられた女性は、米兵の手をはらいながら、笑顔のように見える。
  • きれいなスカートとワンピース姿。安定した生活がうかがわれる。

この1945年8月の時点では、本部半島の多くの住民は田井等や大浦崎の収容所に収容されており、飢餓とマラリアの蔓延で深刻な状況に置かれていた。

 

強制収容がなければ復興も早い

強制収容されなかった瀬底島の女性たちの状況は、食糧難にもマラリアにも悩まされることなく、戦後の立ち上がりのプロセスは正常にすすんだ。

瀬底では、どういうわけかマラリアは流行しなかった。また、島に戻るとすぐに芋や麦を植えておいたので、食糧に困るということもなく、本部や久志からさえ芋を買いに来るほどであった。砂糖を作ってこちらから本部半島一円に売り歩いたこともあった。だから戦後のあの食糧難の時期にも、栄養失調で倒れた者もなく、マラリアで亡くなった者もいなかったことは、私たちにとって大きな喜びであった。

「本部山中への避難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

 

一方、対岸の本部港周辺 (崎浜や健堅) は米軍の拠点となり、米軍兵舎が立ち並んでいたため、住民は、長期にわたって収容所を転々と移住し、食べる食糧、着る服すら事欠き、なかなか帰村でなかった。その収容所で、住民は、飢餓、寒さ、マラリア、米兵の暴力にさらされたのである。

やがて私たちは仲尾次 (田井等収容所) から引き揚げたが、すぐに村には帰れず、しばらくは桃山のテント小屋で過ごさなくてはならなかった。南国とはいえ沖縄の冬も寒い。それなのに人々は殆んど寝具らしい寝具を持ち合せていなかった。食無事情もいぜんとして悪く、飢えと寒さに苦しみながら、マラリアの猛威の前になすすべもなく、毎日のように誰かが死んでいくのであった。

間もなく私たちは、桃山から辺名地に移って来た。そこにはしばしば米兵が現われたが、普通の米兵はとくに悪いことをするようすでもなかったので、私たちは安心していた。ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。事実、彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。また、若い女性がそいつに拉致されかかっていたのを助けて、射殺されそうになったので格闘の末に銃を奪い返し、それを海に投げ捨てて逃げて来た男もいた。

「避難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

こうして、本部地域の住民が翌年やっと帰村できても、農地も生活インフラも壊滅的な状況であった。そんななか、瀬底島の住民からの支援が人々の大きな助けとなった。

瀬底の人々の温情

(収容所から本部町大浜の) 村に戻った私たちは、瀬底の人々から実に多くの援助を受けた。瀬底では割りに早くから作付けが行なわれていたので、豊かに実った芋や麦などを、補助タンクで作った小舟  (註・戦闘機などの下部についている補助燃料タンクを縦に切って作った) に積んで、浜崎や大浜まで運んでくれたのであった。そのおかげで私たちは、あの食糧難の時期にも、まったくソテツを食べずにすんだ。また瀬底の婦人たちは、早くから米軍の部隊で洗濯婦や雑役婦として働いていたのでたびたび石鹸などの日用品をもらったものである。おかげでどうやら私たちも生活を維持することができるようになった。

「避難」『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言・本部半島編 (1) - Battle of Okinawa

米海軍の軍医スタンレー・ベネットも指摘するように、本部半島の基地化と住民の長期にわたる強制収容がなければ、本部半島の戦争犠牲は、もっと少なく抑えられていたはずであった。

 

島の住民のいのちを守ったのは

島に日本軍はいないと証言し攻撃計画を回避した住民捕虜、そして敗残兵に大きな漁船を提供してまで出て行ってもらった青年らの判断、そして強制収容を避けるため米軍と交渉した島の代表、こうした決断と勇気が、島の住民のいのちを救ったのである。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

*1:離島の面積は下記を参照した。離島関係資料(令和6年3月)|沖縄県

*2:林博史沖縄戦の諸相―離島における沖縄戦藤原彰編著『沖縄戦ー国土が戦場になったとき』(青木書店、1987年)所収 paper12

*3:北飛行場(読谷飛行場) の建設に携わった北飛行場56飛行場大隊に「重信班」(要塞建築勤務第6中隊 北飛行場56飛行場大隊派遣重信班 陣中日誌(昭和20.1)防衛省 陣中日誌 [B03-1] 291-300件:沖縄戦関係資料閲覧室 - 内閣府) が記録されているが、この重信伍長が「シゲノブ軍曹」かどうかは確認できない。彼らは3月23日に「特設第一連隊第二大隊」に編入され(読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 読谷山村への日本軍部隊配備)、米軍上陸の最前面に置かれて全滅、恩納岳からクリ舟で瀬底島に逃れてきたようである。

*4:The Di Rosario Collection - Digital Commonwealth