千早隊と菊水隊 ~ 琉球新報・首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕

 

投降「琉球新報首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕」

統率力失った32軍 ~ 民間人の中に住民装う兵士の姿も

 首里撤退後、鉄血勤皇隊千早隊菊水隊(斬込隊)は、後方攪(かく)乱など秘密行動を命じられている。千早隊だった富村盛輝さん(67)は「私たちは便宜を図ってもらうため、情報部の出した身分証明書をもらった。日本軍の壕で快く迎えてくれる所もあったが、時には壕から追い払われることもあった」と言う。

 

 32軍残務整理部の「師範隊史実資料」は、菊水隊首里撤退から逐次、秘密行動を開始、爆薬や秘密兵器通信機を携行、「摩文仁糸満へ、あるいはさらに敵陣の後方へと侵入せるものあり」とし、千早隊については「地方人となりて侵入せるもの多くは途中にて倒れわずかに数名を残すのみにて、その活動状況不明なり」と記している。

 

 沖縄戦はすでに残虐な結末へ向けて足を早め始めていた。

 米軍の砲弾に自然壕や岩陰に追われた住民らは、そこもまた日本軍の銃や剣で追われねばならなかった。32軍はすでに統率力を失っていた。戦うべき将兵らは身を隠し、丸腰の住民が砲弾の嵐の中を走り回るという状態に、この戦争は変わっていた。

 

 やがて住民の中には、米軍の投降勧告に応じる集団も出てきた。木の枝に汚れた白布を結び、ぞろぞろと海岸沿いを米軍の支配する具志頭方面に向け歩きだしていく。司令部付の将校だった安谷屋謙さん(87)が、そんな光景を見たのは6月下旬のころだ。

 

 「頭に乗せられるほどの、わずかばかりの家財道具を持って歩く住民の後ろ姿は疲れきっていた。が、ジーっと見ていて、集団の中に軍服を脱いだ多数の兵隊の姿を見つけハッとした」。米軍の目には民間人に見えたかもしらないが、安谷屋さんらには一目りょう然だ。

 

 子供を抱いたりして住民を装っても、彼らが着ていたのは、日本軍が支給したシャツとズボン下。明らかに脱走だ。しばらく前までは、投降する兵隊に向けて銃弾が飛んだが、もう1発もなかった。すでに軍の体裁もなかったし、1発の銃弾を撃つことで、返ってくる数十倍もの反撃も恐怖だった。

 

 兵隊の死も、鉄血勤皇隊の若者たちの死も見てきた安谷屋さんは、ある日岩陰で若者らの死を考えた時、無性に怒りがこみあげてきた。が、ぶつける相手はなく、自らの命さえまだ“軍命”の中にあった。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年8月9日掲載

 

鉄血勤皇隊に解散命令 ~ 住民から食糧奪う日本軍

 安谷屋謙さん(87)は6月18日か19日のことと記憶する。参謀部に呼ばれて行ってみると、各参謀がピストルの手入れをしている。その時初めて摩文仁からの脱出計画があることを知った。安谷屋さんに下った命令は「北部に行き、敵後方かく乱に協力せよ」。

 

 敵陣を突破するという勇ましいものではなかった。兵隊らは住民の壕を訪ね、“調達”したボロの衣料に着替えた。高級将校になると、私物の背広や着物だ。これらは首里撤退の時、ぬかるみの道を砲弾の雨の中、鉄血勤皇隊の学生らが大事に運んだ将校行李(こうり)の中に入っていた。中には行李を失った将校もいた。もちろん、将校行李とともに若い命も消えた。多くは将校行李の中に入っているものが、重要な書類と思い込んだまま―。

 

 鉄血勤皇隊に解散命令が下ったのは6月19日だ。やはり指示は「北部を目指せ」。

 

 千早隊にいた仲田清栄さん(67)は「国頭を目指し、たとえ捕虜になっても軍の指示を待て。決して犬死にはするな―と言われた。3人1組みで敵中突破し指令を待てというものだった」と証言する。

 

 築城隊の高良吉雄さん(65)は、解散命令を受けても、どう行動していいか分からなかった。こちらの人数はわずかしかいない。だが、周りにいる敵は見当もつかないくらいに多い。

 

 高良さんの靴下の中には、軍からの最後の配給の米が大事にしまわれていた。まずこの米を食べてから、国頭に突破することで仲間と意見が一致した。

 

 しかし、水はない。米をとぐのには海岸まで行って、くんできた海水を使った。そのころの海岸には、おびただしい数の死体が漂っている。海水で炊いたご飯は、おにぎりにして食べた。赤飯のおにぎりだ。海を染めた血が、白いご飯を変えていた。

 

 一帯はもう軍民の区別がつかぬほどになっている。軍を最後まで信じてきた住民は、既に軍隊の持つ本性を間近に見て、日米両軍の動きにおびえねばならなかった。

 

 米軍の圧倒的火力の前に無力な日本軍だったが、彼らの残された武力は、このころに最も威力を発揮する。それは住民に向けられたものだった。食糧の強奪と、壕追い出しで得る安全が、その代表する「戦果」だった。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年8月10日掲載

 

方言使うと「スパイ」に ~ 司令官と知事が最後の晩餐へ

 戦闘も終わりに近い6月10日ごろ、鉄血勤皇隊築城隊の内間武義さん(65)は、摩文仁の海岸べりの自然壕に軍民約200人で雑居していた。上からは米兵の声も聞こえ、目の前には米艦船があふれている。

 

 ある日、壕の入り口で赤ちゃんを方言であやしている50代ぐらいの女性がいた。「おっぱいもない。水もない。口に入れるものが何もないから泣き方もすごい。壕内の人もいらいらしていた」。

 

 すると突然、壕内の下士官が抜刀、「お前は沖縄人だろう。敵に場所を知らせようとしている」と、いきなり女性の左手に切り付けた。「女性は『アレー、ワンティーヨー(あっ、私の手がー)』と叫び外に飛びだした。それから方言を使うとスパイという雰囲気になった」と内間さんは言う。

 

 内間さんら師範の勤皇隊は6月21、2日ごろ、「最後の晩餐(ばんさん)」のため、壕内の屋根づくりの命を受けた。周辺では今日の命をつなぐのに精一杯の住民、そして人間性を失い野獣化した兵の群れがいる中ではそぐわぬ儀式だ。この晩餐は牛島司令官と島田知事とのもの。

※ ブログ註 - 島田知事は轟の壕から司令部壕に出かけたことは明らかになっているが、島田知事が司令部壕に到着し会食したかどうかは記録に記されていない。

 

 屋根は米須集落のがれきのかわらを師範の隊員12、30人が2列に並んで手渡しで運んだ。迫撃砲で中断されるまで続いたが、もうふらふらだった。翌晩、中をのぞいて見ると勲章をいっぱいぶら下げた牛島司令官と長参謀長の姿があった。最後の誇らしげな姿だったかもしれない。

 

   ◇   ◇

 鉄血勤皇隊の学生らはこのあと敵陣に切り込み、若い命を散らせた者も少なくなかった。機会をうかがい、摩文仁の壕をさまよった学徒のうち運よく生き残った者は、6月中旬から秋口にかけて、米軍に収容される。かつて鬼畜米英と教えられた敵は、そこにはなかった。

 

 収容されたある学徒兵が見たものは、大人たちの変わり身の速さだ。傷ついた友人の看護を収容所の責任者に頼んだ時、返ってきた言葉は「学徒兵といえども兵隊は兵隊。そんな言い訳は聞かない」だ。沖縄戦の前まで軍部と一緒に戦場に駆り立てた人が、もう米軍の下で威張っている

 

 沖縄戦が始まってから32軍崩壊まで3カ月足らず。この期間に得た大きな教訓から、彼らの戦後はスタートする。

 

(32軍司令部壕取材班)1992年8月11日掲載

 

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