犠牲率47%の西原村 - アメリカ公文書館資料から見る沖縄戦の実相

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その時 歴史が動いた さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~

NHKティーチャーズ・ライブラリー

沖縄戦では県民の四人に一人、十数万人もが犠牲となった。2003年にアメリカで発見された日本軍の作戦文書から、男性住民が根こそぎ防衛隊員に動員されたこと、日本軍が住民に偽装して米軍を攻撃する計画を立てていたことなどが、多くの犠牲者が出た一因であることが分かった。番組は、犠牲率が47%と県内最大の西原村(現・西原町を舞台に、村人が戦争に巻き込まれていった過程を検証する。

 

2004年3月31日放送

  

西原村(現在は西原町)は沖縄戦当時、日本軍の飛行場があったうえ、司令部が置かれた首里攻防をかけた激戦の地であったため、住民の47%が死亡するなど多くの被害を出した。

沖縄県西原町|西原の塔

  

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これは町がまとめた世帯別被災者記録。翁長地区の欄には「一家全滅」と記された場所が目立ちます。翁長地区では全世帯の38%にあたる71世帯が一家全滅となりました。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶 – QAB NEWS Headline

 

武器を持った人間は

極限状態に置かれるとどのように変貌していくのだろうか。

 

日本軍の戦況が悪化すると、薄暗い疑念が拡散した。沖縄人のなかにスパイがいる、いや沖縄人はスパイだ、そうした言説が司令部壕のなかですら飛びかった。

 

スパイにならないためには「自決」するしかない。そうして自決を迫られた沖縄人の犠牲者はどれほどの数になるのか、

 

日本軍にスパイとして、あるいはスパイ容疑をかけられただけで殺された沖縄人の犠牲者はどれほどの数になるのろうか。

 

その反面、日本兵の中でスパイとして処刑されたものはどれだけいるのか。

 

兵士たちは沖縄人のふりをして、沖縄人を生きた砦として利用し、生き延びるためにも生身の人間を砦として使った。

 

武器を持つと、人間は変わる。

自分は変わらないと断言できる人間はいるだろうか。

 

兵隊の保身、目の当たり「戦争は殺し合い」
2019年10月27日 14:15

沖縄タイムス

 

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[語れども語れども・うまんちゅの戦争体験]大嶺盛義さん、85歳、父母ら家族を失った沖縄戦の記憶を語る大嶺盛義さん。当時11歳だった=15日。

 

 沖縄県西原町小橋川で9人きょうだいの5男として生まれた。父は区長だったから、兵隊に提供するためによくみんなから芋や野菜を集めていた。

 西原国民学校に通っていたけど、校舎は兵隊が使うってからさ、最初は津花波、次は小那覇の公民館で授業した。最終的には、内間御殿の大樹の下で青空授業だった。3年生ごろから竹やり訓練もしたよ。朝の5時に起きて、学校でルーズベルトチャーチルに見立てた人形を3回突くわけ。

 

 沖縄戦が始まった時は11歳。近くの宇津尾(うちゅー)の壕に逃げつつ暮らしていた。そんな時、防衛隊に取られていた当時18歳の三男盛徳が、もう生きて帰れないからと一時帰宅を許され帰って来た。でも、両親は用事でおらず会えなかったんだ。盛徳兄、さみしそうな顔で立ち去ったよ。やはり戦死した。

 11歳上の次男の清光は陸軍兵で戦死。長女、次女、三女は嫁いで家を出ていた。

 

 小橋川も厳しくなってからは、50代の父の仁和と母カマ、体が弱く兵役免除された30代の長男亀吉と嫁シゲ子と子の光男(1)、次男嫁のトヨ子(20歳前後)、子の光子、四男の盛善(16)、四女のキヨ(20)と西原町池田の知り合いの墓の中に逃げた。近くの壕に小橋川集落の家族7~8人がいたが、艦砲射撃で壕が崩落。窒息死したはずよ。

 

 5月初旬ごろたどり着いた大里村大城で壕を掘った。そこは逃げた誰かの馬をさばいて商売している人がいてさ、馬肉が食べられた。芋畑も買った。

 壕に日本兵が来てからは、父が馬肉をお裾分けした。兵隊は赤子が泣いても「子どもは泣いて育つ」と言っていたのに、商売人が死んで肉がなくなってからは「こいつが泣くと何人が死ぬか。こっちで殺す」と脅した。結局、壕は追い出された。

 

 糸数(現南城市)に向かう途中だったと思うが、銃を持った日本兵数人に「どこに行くか証明書を出せ」と言われた。父は「区長だがそんな証明はない」と説明したが「ではスパイだな。家族の目の前で殺してやる」と弾を込めだした。すると艦砲が落ちて、破片で日本兵数人がけがしたんだ。父らが隣の集落まで移動させた兵からは、謝罪も礼もなかったと聞いた。

 

 具志頭、米須、喜屋武、摩文仁と転々とする中で、最初に長男が死んだ。父母、シゲ子、トヨ子、光男、光子、キヨも爆撃などで死んだ。私は左足首や尻、盛善は耳をけがしたが助かった。民家に避難していた時、爆撃を受け、がれきに足を挟まれたキヨは最初は「助けて」と叫んでいた。周りに助けを求めたけど「どうせ皆死ぬ」と手を貸す人はいなかったさ。

 

 盛善と周りの大人について行き、摩文仁で捕虜になった。米軍のジープ型の車に乗せられて具志頭の収容所に行った。そうそう、見覚えある日本兵が着物着て、うちなーんちゅふーじーして一緒に捕虜されてたよ。防衛隊には「自分たちの島は自分で守れ。死ぬまで戦え」ーんち、言ったのによ。

 

 しばらくして知念村にいた次女が迎えに来た。西原町に戻ってからは私は長女と、盛善は次女と暮らした。でも、盛善は戦後数年で死んだ。戦争は殺し合い。絶対にやってはいけない最低のことだ。あとさ、兵隊がいない所に弾は撃たないよ。いつまでも平和で暮らしたい。

浦添西原担当・宮里美紀)

 

2019/10/27 沖縄タイムス

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慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶 – QAB NEWS Headline