第5砲兵司令部壕 ~ 「第5砲兵軍壕・工業学生の9割犠牲に」(琉球新報 1992年)

 

 

32軍壕周辺の埋没壕 負傷兵を閉じ込め爆破、遺骨は放置されたまま<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>9 - 琉球新報デジタル

 

 

琉球新報首里城地下の沖縄戦32軍司令部壕』シリーズより

琉球新報「第5砲兵軍壕・工業学生の9割犠牲に」

将校のそばには慰安婦

 第32軍司令部の直轄部隊、第5砲兵軍司令部の壕は、現在の首里城公園総合休憩所の南側斜面に造られた。首里城周辺には第32軍司令部壕のほかにも、日本軍の陣地が構築されており、一帯は軍事要さいの様相を呈していた。

 

 第5砲兵軍司令部には沖縄県立工業学校の生徒86人が鉄血勤皇工業学校隊の通信隊要員として入隊していた。彼らが無線、有線、暗号に分かれ訓練を始めたのが1945年1月上旬。十分に技術を習得しないまま沖縄戦に突入した。

 

 工業学校隊の1人、長嶺勝正さん(63)は「通信隊としては役に立たなかった。壕の修理や飯上げ、運搬作業など雑役に追われていた」と振り返る。

 

 司令部壕の大きさは長さ約100メートル、北側に向かう坑道は約50メートル。長嶺さんによると、この壕は当初、東側にある第32軍司令部壕と連結する予定で築城を進めていたが、米軍上陸で計画を取りやめたという。

 

 壕内には兵士や工業生らが常時80人以上おり、首里に米軍が近づくにつれ、緊迫度を増していった。負傷兵も時折、運ばれるようになり、壕内の医務室で手術が行われた。「重症患者の『殺してくれ、殺してくれ』という叫び声が今でも頭から離れない」と長嶺さんは語る。

 

 戦火の阿鼻叫喚はまだ10代後半の工業生にとって、ショックの連続だった。そして、心の形が変わっていった。精神に異常をきたし、壕の外をはいずり回るものが出た。

 

 壕の住民は兵士、工業生だけではなかった。将校たちのそばには女性の姿もあった。工業学校隊の新垣安栄さん(62)は「将校部屋には慰安婦いた」といい、「兵隊たちは中の様子を見せようとはしなかったが、慰安婦だということは、話に聞いていた。顔から見て朝鮮人だと分かった」と証言する。

 

 5月下旬、第32軍司令部の撤退に伴い、第5砲兵司令部も首里を去る。撤退の日、慰安婦たちは司令部より先に壕を出てふろしき包みを手に、砲弾の雨の中を金城の石畳の方向へ駆けていったという。

 

 南部に下がった工業生を待っていたのは、まさに地獄だった。86人の工業生のうち、生き残ったのはわずか9人だったという事実が、それを物語っている。

(第32軍司令部壕取材班)1992年7月13日掲載

 

琉球新報首里杜館地下に日本軍砲兵司令部壕か」

県立第一中学校の学徒も

平和学習フィールドワーク・首里城周辺の埋没した戦跡壕を巡る(県平和祈念資料館友の会主催)が22日、開かれた。那覇市首里金城町の當山真徹さん(71)は現在の首里城公園内にある首里杜(すいむい)館の駐車場付近で1975年ごろ、「地面の陥没を見た」と証言した。友の会の仲村真事務局長は位置的に「第5砲兵司令部だろう」と指摘。同司令部壕は、第32軍司令部壕のすぐそばにあったが、戦後ほぼ調査が行われていない。県が保存・公開に向けて作業を進める第32軍壕と、周辺の埋没壕との関連も今後、調査が課題となっている。

 

 第5砲兵司令部には沖縄戦当時、県立第一中学校の3~5年生220人が配属された。45年5月、第32軍司令部の首里の放棄と南部撤退に伴い、一中生だった故・玉栄貞信さんは、第5砲兵司令部と独立工兵第66大隊の壕の爆破を命じられた。二つの壕で計約100人の重傷兵が置き去りにされたという。

 

 第5砲兵司令部壕はコの字型で北東側はトーチカだったとみられ、90年代の県の第32軍壕の試掘調査では、トーチカ内部で遺骨の存在も確認された。北西側の位置は確認されていないが、當山さんは、大雨の後に一メートル四方の穴が並んで二つあいていたと証言する。穴は数日後に埋め戻されたといい、當山さんは「原因は分からないが地盤が緩くなっていたのでは」と話す。

 

 第5砲兵司令部壕を巡っては、仲村事務局長や養秀同窓会で解説員を務める山田親信さんの調査で、坑口が首里金城町の民芸館広場と、真珠道の途中にあったとみられることも分かってきた。

 

 22日のフィールドワークでは、首里安国寺の境内にある壕の跡の前で、沖縄特設警備隊第223中隊(通称・永岡隊)に動員された翁長安子さん(92)も米軍の馬乗り攻撃を受けた壮絶な体験を語った。首里城公園内の「留魂壕」の前では、藤原健本紙客員編集委員が、沖縄師範学校の学徒や当時の新聞「沖縄新報」に触れながら「沖縄の近代史が集約されている場所だ」と公開の必要性を指摘した。
 (中村万里子)

首里杜館地下に日本軍砲兵司令部壕か 沖縄戦で南部撤退前に爆破 「戦後に陥没を見た」の証言も - 琉球新報

 

2022年02月16日

県が保存・公開に向けて検討を進める、首里城地下の日本軍第32軍司令部壕周辺には複数の埋没した壕がある。その一つ、第5砲兵司令部壕内には遺骨が放置されたままとみられ、調査や遺骨収集を求める声も関係者から上がっている。

 

 県は1993~94年度に第32軍司令部壕の試掘調査を実施。その一環で第5砲兵司令部のトーチカ内部も掘削した。95年3月に出された報告書によると、トーチカ内部は、深度16メートルに達した時点で東側に巨大なガマが出現した。調査現場を訪れた元通信兵が(1)ガマは炊事部屋として利用(2)トーチカは砲兵大隊壕と連結(3)トーチカは(32軍壕の)第1坑道と連結予定だったが、工事途中で完成しなかった―と証言したという。

 

 この試掘調査の際、ガマ内部には、金物や遺骨などが確認された。県保護・援護課の担当者は「収骨はまだされていない。骨が残っている状態だと思う。収骨に向けて作業を進めたい」と話す。

 

 第5砲兵司令部には、県立第一中学校の3~5年生約145人が1945年3月28日、一中鉄血勤皇隊として配属された。生徒は壕の構築や武器弾薬の運搬などに従事。5月14日には6部隊に再編配属され、多くが首里から南部へ撤退する日本軍と行動を共にした。

 

 兼城一氏の「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録 上」には、南部撤退の際、爆破を指示された玉栄貞信氏の証言が掲載されている。それによると、5月29日午前7時ごろ、第5砲兵司令部の壕には歩けない兵隊が約30人、同司令部配下にあった独立工兵第66大隊の壕には約70人がいた。敵が首里城に接近してきたため、二つの壕の開口部に爆雷を8個ずつ装てんし、爆破した。「身動きできぬ多くの負傷兵を閉じ込めた壕は一瞬のうちに崩壊した」と記す。

 

 一中学徒資料を展示し体験を伝えている養秀同窓会の山田親信さん(70)は第5砲兵司令部について独自に調査している。山田さんや県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長(66)の調査で、第5砲兵司令部壕のコの字型の片方の出入り口は、首里金城町の民芸館広場近くにあったとみられることが分かってきた。山田さんは「行政が調査で壕の場所を確定し、遺骨収集もしてもらいたい」と話す。

 

 首里城東側には第62師団司令部もあった。「第62師団司令部編成職員表」の「首里戦闘開始時より首里戦闘司令所における状況」によると、敵の上陸に備え首里赤田町に戦闘司令所を構築し、3月25日から5月25日まで戦闘を指揮した。

 

 昨年1月に第1回会合が開かれた県の第32軍司令部壕保存・公開検討委員会では、沖縄戦研究者の吉浜忍氏から、平和学習の行程作成に向けて「司令部壕周辺も調査する必要があるのでは」との提案もあった。今後、32軍壕の活用に向けた議論の中で、周辺の埋没壕の議論の進展も期待される。
 (中村万里子)

32軍壕周辺の埋没壕 負傷兵を閉じ込め爆破、遺骨は放置されたまま<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>9 - 琉球新報デジタル