17歳の一中鉄血勤皇隊 ~ 親友との別れ ~ 戦争とは

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山田 義邦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

一中鉄血勤皇隊 ~ 親友との別れ

 

昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。

 

この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。

昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。


さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。

山田 義邦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

授業がなくなった

何年かな、4年の後半、ほとんど授業なかったような気がしますよ。毎日、壕(ごう)掘りですよ。5年なってからは、ほとんどあれですね。壕掘りに行ったりね、軍の那覇港ですか、あの辺に入ってくる軍の機材とかなんかを運ばされた記憶があるんですよ。

 

Q:どこの壕を掘ってたんですか? どっちの壕掘らされてたんですか?

 

壕堀りね。あちこちやりましたよ。首里の今の砲兵司令部の壕とかね。いろいろやりましたよ。それから、那覇の飛行場。飛行場の滑走路をね。あのころは日本はね、なんですか電柱みたいな大きな、あのころにはないんですよ、機材が、日本軍には。人力ですよ。人力でやってましたよ、ほとんど。

 

Q:じゃあ、全然もう、学生生活というか、本当に軍作業ばっかりだったんですね。

 

そうそう。ただあれですね、4年、5年なるころまでにね、ほとんどあのころ皇民化教育でしょう。ですからね、国のためにというんで、体の健康な奴とかね、あるいはがっちりした連中なんかは、ほとんど半分以上はあれですよ、沖縄から出て行ってるんですよ。陸士(陸軍士官学校)・海兵(海軍兵学校)とかね、頭のいい連中は陸士・海兵。それから予科練とかね、特別幹部候補生とかいうような学校ありまして、そこに行ってるんです。だから残ったのは半分ですよ。残った半分が、そのまま残されたのが入隊させられたんですよ。いや、向こうに行ってる連中は生き残って帰ってきているんですよ。ここにいた連中が、大体、はっきりしませんけど、わたしが見た資料では88名、わたしの同級生、入隊してるんですよ。入隊した88名の中で戦死したのが55名なんです。だから、向こうに行った連中は帰ってきて、ここにいた連中は半分以上は死んじゃったんですよ。3分の2はね。

 

艦砲射撃の中の卒業式

卒業式はね、3月の27日かだったかな。28日でしたかね。あれはね、この頭上をね、夜ですよ。頭上をね、ドラム缶みたいな大きな砲弾がピューって真っ赤な大きな砲弾が飛んでくるんですよ。首里城めがけて飛んでいくんですよ。その都度、みんな本日ここに沖縄県立第一中て言ったらみんな伏せるんですよ。10分間で終わりましたけどね。島田知事、軍司令官なんか来ておられたようですけどね。10分間で終わりました。頭の上をね、大きなドラム缶みたいな砲弾が飛んでくるんです。ビュー、ヒューっていってね。あっという間に終わりましたけどね。

 

そのときに、卒業したときに、はもう、翌日かな、我々決まってたんですよ。誰それはどこの部隊。どこの部隊。砲兵指導の管轄ですか。砲兵指導部の中のね、司令部。次それから子飼いの体つきのいい奴はね、一中健児隊の本部に残されて。それからあと連隊砲兵司令部、野戦重砲とかね。測地隊とか、工兵隊とかに分かれて配属されたんですよ。

 

米軍艦船に埋め尽くされた沖縄の海

みんな国のためという気持ちはあったんじゃないですか。わたしみたいな弱虫でもね、一応はそういう気持ちあったと思いますよ。もう分かりませんけどね。すっかり忘れてしまいましたけど。とにかくそれ以外に、我々の生きる、いや行く道はなかったんじゃないですか。もう決められていたもんですからね。ただ、4月、我々配属されてからね、この東シナ海、真っ黒です。船がいっぱいで。アメリカの軍艦から船からね、もういっぱい。海が埋め尽くされているんですよ。あれ見たときはね、これは話違うなと思いましたね。あんなもう何千隻でしょう。真っ黒ですよ。真っ黒なってるんですよ、船で。で、こちらから大砲なんか撃つ暇もないでしょう。撃ったって届かないはずですよ。向こうからボンボン飛んでくるでしょう。ああこれはちょっと話が違うなあと思いましたけどね。反撃しない、できないんですよ。こちら。

Q:それは、反撃すると場所がばれちゃうからですか?

いや、届かないからでしょう。だって向こうは、今の慶良間とこっちの本島の間にね、神山島ってありますね。あそこに大砲据え付けてね、ボンボンボンボン撃ってくるんですよ。大きな大砲ですからね。それが頭の上通過していくんですよ。こちらは反撃どころか届かないはずですよ。届かなかったはずです。まあそんなね、それはさておいてね、ちょうど5月の22日ですか、もう日本軍がやられてね。浦添の、浦添の、で随分戦ったんです、みたいですよ。わたしもそこに何ですか配線のためにね、行かされたんですけどね。あのころはね、壕に入るときは転がってコロコロって降りていくんですよ。転がっていくんですよ。そしたら中でね、今のあの多分浦添城址の壕だと思いますけどね、何百名の兵隊がね、壕の中に横たわっているんですよ。何百名ですよ。ひょっとすると、何千名。で、いちばん奥の方でね、若い女の子が、17・8の女の子が20~30名。米搗いているわけですよ、歌唄いながら。その都度、ゴンっ、ボンっ、ウォン、ウォンでしょ。あの子たちどうしたんですかね。そこが完全にやられて、今日の日、5月22日ですか、南部の方にみんな撤去したんですよ。撤去っていっても退却ですよ、本当は。もうどうしようもなくなって逃げたんですよ。みんな。それからあれですよ、組織的な戦争っていうのは、部分的にはあったかもしらんけど、こうゴチャゴチャですよ。

 

配属

卒業と同時にそのまま配属されたような気がしますね。そのまま。その前から壕の中にいましたんでね。今の一中健児の塔ありますね、あそこにいたんですよ。そこからすぐ、第五砲兵司令部の方に配属されたと、ような気がします。

 

麾下(きか)に砲兵、野重29とか何とかいろいろありましてね。そこから命令しているみたいだったですね。野重29、3発撃てとか、3発撃てとかね。丁度あれ、今の首里の寒川ですか、そこから撃ってるような気がしますけどね。何発ですよ。3発、4発ですよ。

 

Q:その司令部から出してる命令が、弾3発撃てとか

 

そうそうそう。弾3発撃てとか何とか言ってるんですよ。惨めなもんですよ。だから前線に行くとね、豆炒るようなパチパチパチパチっていうのもう、聞こえるんですよ。パチパチパチパチパチって。あれ日本軍の三八銃でしょうね。パチパチパチパチパチあっちこっちパチパチ聞こえるんですよ。ところが、アメリカのもんは違うんですよ。一発撃つと百発返ってくるもんですからね。全然音が違うんですよ。

 

大体アメリカ軍は、丁度ね、ぬかるんでるでしょう。あれが幸いしてたって言っちゃあおかしいけど長持ちしたのはあのせいですよ。雨が降ってなけりゃもう、いっぺんにやられてますよ。雨が降ってるから戦車が動けないわけですよ。ところが、嘉数台地ってあるでしょ。あそこはね、随分頑張ってましたけどね。米軍なんかね、トラックにロケット砲を後ろ向きにして撃つんですよ。こう。何十台もこう向けて。バンバンバンってくるでしょう。あれすさまじかったですね。僕らなんか、その間隙(かんげき)を縫って逃げるでしょう。側溝がありまして、こんな小さな側溝ですよ。畑道ですからね。音で分かるんですよ、あ、今身近に来たっていうのは。音で。だからドドンドーンていうのが来たら、それ来たっていって側溝に入るわけです。それが終わった途端にまた逃げるわけですよ。それはね、いつの間にか分かりましたね。

 

追いだされた地元住民

そうですね。何やってたんでしょうね。わたしはもう、丁度糸満にね、あの辺の道を通ってた気がするんですけどね。保栄茂(現、豊見城市)っていうんですか、保栄茂。あの辺から東風平に抜けたような気がするんだけど。あれでね、途中で、弾薬なんか持ってるもんですからね、重くて。それで飯も食ってないでしょう。下痢でしょう。で、我々を引率しているのが准尉だったんですけどね。もうこの人に、ぶん殴られた憶えがあるんですよ。刀でね、鞘ごとですよ。で、民間の壕に入るでしょう。民間の壕に入るとね、その田舎ですから、みんな着物着た田舎の人が家族で入ってるわけですよ。それを追ん出せっていうのでやったりなんかしてね。命令ですよ。出て行けっつて。我々が入るからだって。そんなことまでやらされたような気がしますよ。いちばん困ったのはね、我々沖縄の人間でしょう。いわゆる日本語ってのを話せない人が多いんですよ。田舎の人特に多かったんですよ。今でこそみんな日本語ですけどね。あのころは沖縄の人間は日本人じゃないとわたしは思ってますよ。だって話せる人いないんだもの。我々だってね、中学出てるから、曲がりなりにも古文なんかね、『日本書紀』だの『万葉』でも一応勉強してるから理解はできるわけですよ。ところが、家帰ると方言でしょ。さあ、話しようったら出てこないわけですよ。

 

だからあの当時はね、言葉のハンディがありましてね。随分戦争が始まって、逃げまどってるころね、逃げ回ってるころ、あれですよ、郵便配達さんとかね、何とか随分やられた人もいるみたいですよ。話せないんだから、軍の壕に入ると。「お前スパイだ」っていう感じでしょう。だからそういうこともあったような気がしますよ。今でこそ、あんた、今、子ども、小さい子どももみんな日本語ですよ。方言なんか分かりませんよ。もう我々完全に同化されてるんです。もうすっかりこの、日本人なってます。

 

わたしは「化外の民」と言うんですか、そういうものはちょっと入れないですね。別に天皇制に対して、天皇に対してこうしろああしろという意味じゃないですよ。戦争責任もわたしは天皇にあると思うよ。思うけど、みんながないということにしたんだから。戦争のとき、向こうの兵隊は傷をおって死ぬ間際に、みんな傷をおって死ぬ間際は、向こうの兵隊は「お母さん」ですよ。こちらの人間、沖縄の人間は「アンマー、アンマー」ですよ。誰よりも、アンマーとかお母さんですよ。天皇陛下万歳なんて言う人、僕聞いてなかったですけどね。そうしたら古兵が、小銃で口の中に小銃を突っ込んで「天皇陛下万歳って言え」なんていうことで、バチって。そういう場面をわたしは見ましたよ。

 

沖縄の兵隊でも向こうの兵隊でも、年はどうでもいいんですけどね、瀕死の状態にいるときに、銃口を口の中に入れて「天皇陛下万歳」って、「お母」とか「アンマー」すると、天皇陛下万歳って言え」って言ってバチッってやるのを見ましたよ。だから我々は当時はみんな天皇陛下のためにですからね。そういう教育しか受けていませんので。だから天皇の戦争責任というのは当然あるんであって、ま、いろいろ歴史というのは我々がとやかく言ったってどうにもならないとろこがありますんでね。

 

摩文仁

僕ら、友だちのアラカワ君というのがおりまして、僕とアラカワとは行動がいつも一緒だったんですよ。それで摩文仁に下がったときに、まだ緑があったんですよ。鳥は鳴いているしね。遠くで遠雷ですよ、ボーンボーンって聞こえるのは、大砲の音が聞こえますよ。聞こえるけど摩文仁は緑いっぱいで鳥がいるしね。それで僕は母屋に入ろうと思ったら、母屋にはもう兵隊がいっぱい入っているんですよ。しょうがないから2人、田舎のヤギ小屋があるんですが、ヤギ小屋っていうのは石で囲んで小さな囲まれた、そこで2人、2日間ぐらいいたかな。そうしたらあっと言う間ですよ。砲撃をくらいましてね、あっという間に全部吹っ飛んじゃったんですよ。母屋から何から。すごかったですよ。母屋に入っている連中はみんなやられてね。僕ら小さなヤギ小屋に入っているものと二人は助かりましたけどね。それからうしろの、摩文仁の壕に入ったんですけど、そこはなんか今でも行って調べてみますと、32軍の砲兵司令部の壕なんていうのは誰も分からないんですよ。ただ軍司令部の壕、それから島田知事(島田叡沖縄県知事沖縄戦で戦死)が入っていた壕はわかるんですけど、あとの我々みたいな生き残りした連中の壕というのは、どこだかあまりよくわからないで、大城眞順(元参議院議員)というのがいますよね、参議院衆議院やっていた。あれは同級生なんですが、あいつは砲兵司令部だったんですけど、あれと一緒に調べに行ったら、あれはここだよと言うんだけど、僕はもっと右のほうだよと言ったんだけど、あいつが、いや、大きな墓があってその右横にあったと言うもんだから、わたしこのあいだ一緒に行ったでしょう。あそこにお線香をあげに行っていますけど、あれはアラカワ君がそこで最後に僕と別れたところなんですよ。

 

極限のなかでの壕の生活

衛生状態なんてないよ。平気だ。毎日われわれ、二等兵でいちばん下っ端だから、水くみ。水くみも水筒で汲むと時間がかかるでしょう。ちょうど17~18日ごろ、15~16日から天気になったんですよ。ですから昔、部落には牛や馬あるいは芋なんかを洗うちょっとした池がありましてね、そこで水をくみに行くわけですけどね、昼間行けないし、夜ですよ。水くんでこいっていって。水筒なんか持って行きません、時間がかかるから。飯ごうで5個ずつ。で、水くみに行くでしょう。池には兵隊が浮いているんですよ。脂がギタギタ光って月の光でギタギタ見えるんですよ。それでさっと水をくんで逃げるでしょう。そうしたら壕の中に帰るときは水は半分しか残っていませんよ。それをまわし飲みするわけですよ。そうしたら、人間のウジ、あれも一緒。あれを平気で飲んでいましたよ。ちょっとおかしいなってプッと出したら、糸をひいた大きなウジ虫。だから衛生状態なんていうのはないよ。そんなもの関係ない。壕の中で死んでいる兵隊なんかあるでしょう。それを枕にして、ちょっとした食い物があったときは食っているんですが、頭をボーンとうつと、口からグーってウジが出てくる。臭くもないし、恐くもないし、汚くもないんです。そんなもんですよ。ウーって頭をボーンとやると、口からブーッてうじが出てくるんですよ。それでも臭いともなんとも思わなかったですよ。平気で腐った水を飲んでいたんですからね。垂れ流しですよ。下痢しているでしょう。人間じゃないですよ、もう。

 

捕虜

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最後の斬(き)り込みのときに、6月21日ですかね、僕は21日だと記憶が・・もう日付も定かじゃないんです。そのときに初めて、最後だと言うんで腹いっぱい食えって言って食わされたんですよ。そうしたら手りゅう弾を2つもらったと思うんだけど、2つ取ってね、手りゅう弾ですよ。それ以外何もないのよ。手りゅう弾2つ持って突っ込んで行けと言うんでしょう。壕を登って、真昼間みたいになるんですよ、敵の照明弾で。だからみんな登っていって、そうしたら明け方、いっぱい死んだ兵隊から、我々みたいに出された兵隊。だけど誰も「突撃」って言う人はいないんですよ。目の前にはアメちゃん(米軍)いるんですよ。鉄帽をひっくり返して水で顔を洗っているんですよ。目の前にいるんですよ。それでも誰も「突撃」なんて言う人がいないんで、じっとしていたんです。そうしたらアメちゃんの若い兵隊が、軍帽じゃない冬のちょっとした帽子ですよ、その帽子をかぶった若い17~18の兵隊が、トンプソンという機関銃があるんです、小さな。あれ、死んだやつをもう1回バラバラバラってやるでしょう。わたしもパリパリっと来たの。不思議なことに僕に当たらない。顔すれすれに体が浮くぐらいやられるんですけど、当たらなかったんですよ。そうしたらもう、それが終わった途端に戦車が来て、火焔放射器で焼かれたんですよ。ボーっていって。火炎放射器は地面に当たってから、また跳ねて松の木なんかに飛んでいくんです。びゃーって目の前を。そうしたら生きているやつはイナゴみたいに逃げるんですよ。そのときに僕やられたんですよ。やられたんだけど、真っ直ぐ逃げているつもりが右に行くんですよ、どうしても。平衡感覚が狂って走れないんです。走ったつもりでいても、まっすぐ走っているつもりが、右にこう。それでも僕は助かりましたよ。そこにちょっとした壕があったんですよ、崖(がけ)のくぼ地に。そこで一晩中またやられました。米軍は親切でしたよ。僕は襟首つかまれてね。

 

夜中、日本軍がわたしを踏みつぶして出ていくのが分かるんです。そのときにああ、生きているんだなと思いましたよ。食べたものが、這っているときに、いっぱい食わされたものがバーッと出てくるんです。便。身動きできませんよ。今は恥ずかしいけど。

 

身動きできませんよ。でもアメちゃんは親切でした。襟首をつかまえて僕を出して、傷口を見たら穴があいて、肺が見えるんですよ。肺がゴーゴー音をたてている。

 

Q:そこは、火炎放射器で焼かれて、みんなでばっと逃げるときに撃たれたんですか。

 

そのとき、消そうと思って両手で、背中でしたんで、火、両手でパタパタっとやったら、今度は火が手につくわけですよ。それでこれはいかんなと思いまして、ひっくり返って地面にこすりつけたら消えたんですよ。それで立って逃げようとするときにやられたんです。

 

Q:肺が見えてたんですか。

 

肺が見えたんですね。自分の肺を見ていました。そうしたら肺がゴーッゴーッって音をたてるんですけどね、あのとき痛くもないですよ。棍棒で殴られて息がウンと、そんな感じだったんですけどね。だけど翌日から、ものすごく痛かったです。後で痛かったです。それを米軍がね、襟がみをつかまえて僕を引きずり出されて、なんか黄色い粉みたいな薬だったですが、あれを振りかけてちゃんと治療をしてくれましたよ。米軍はあの当時、やっぱり連中は宗教心、キリスト教徒だと思う。それがみんな身に染みているもんだから、弱い者に対してはけして殺したりなんかしなかったですよ。日本軍にはないですよ、ああいうのは。

 

Q:日本軍は投降を許さない感じだったんですよね。

 

許さないですよ。許すどころじゃないですよ。逃げようとすると逆に撃ち殺すんだもん。

 

Q:背中からですか。

 

とにかく日本軍というのはそんなもんですよ。6月の斬り込みに出た日ですから、23日か24ですかね、定かじゃないんだけど、捕まってトラックへ乗せられて石川に連れて行かれた。石川じゃない、屋嘉だ。屋嘉は捕虜を集めた収容所みたいのがあったんですよ。施設ったって金網で、フェンスで囲っているだけで。暑くてね。みんな集められて、日本人、沖縄人、琉球人、朝鮮人って3つに分かれているキャンプだったんです。分かれてフェンスで囲ってあった。そうしたら朝鮮人と日本人が毎日ケンカですよ。ケンカって言ったって、朝鮮人がぶん殴っているんですよ、日本人を。(朝鮮人軍夫は日本軍に) やられたでしょう、朝鮮人生き残り。もう日本軍の上司を探してもうパチパチやっているんですよ。我々は負傷しているもんだから、琉球人はキャンプ、そこからすぐ船に乗せられてハワイに行かされたんですよ。

 

親友を失う 

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山田さん「 総代、優等生、賞状をもらったのは辰夫。我々は卒業と同時に軍服を支給されて、すぐ兵隊にされた。」

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 17歳の沖縄戦 ~父の記憶~ – QAB NEWS Headline

 

今でもわたしはなんかつらいときとか、なんかあったときは辰夫のところへ行っていますよね。1週間に3回も4回も行くときがあるし。どんな思いで辰夫が死んだかなと思うとやりきれないですよ。あんな状況の中で。つらいですよ、あれを思い出すとね。と言って壕の中に連れて帰るわけにはいかないのも事実ですけど、それも書いてはありませんよ。わたしたちが出るときに壕の中ではね、自決する人がボンボンあるんですよ。ドーンドーンとやるんです。うっかり歩けないぐらい。とばっちりをくって、うっかり歩けなかったんですよ。そういう状況の中。それから負傷した奴は青酸カリですか、あれを渡されていたんですよ。だから、辰夫を連れて帰るわけにもいかないし、だけどそんなのは書けませんよ。なんか僕は卑怯なまねをしているようで。またあのときは、僕は別にこれは当たり前であって、今日64年経って、年月を経るにつれだんだん重くなってくるんですよ。あのとき、辰夫の言うとおり、あいつを連れて帰ったら、降伏したらあいつ助かっていたかななんか思いますよ。しかし相当、もう血も出なかったんですよ、あれ。もう尾てい骨がきしむような音を立てて、ギーギー鳴るんですよ、引きずると。だから、生きていたかな、あるいは生きていたかも、出血はないんですもん。血が出ないんです。ウジだけはいっぱいありましたけどね。だから、あんなときはでもね、降伏することもあまり考えていなかったことも事実なんですよ。あそこ、摩文仁は民間人、敗残兵からなんから渦を巻いているんですよ。港川から逃げて来た連中、喜屋武あたりから来た連中、どこへ行っていいかみんな分からないわけですよ。それでボンボンボンボン、頭上では榴弾砲がパチパチって飛んでくるんですよ。そういう中で、あのときに辰夫が言うように降伏したらどうだったかというのは今のわたしの気持ちであって、あのころはそんなの考えてなかったと思います。一瞬あいつに言われたときにどうしようかなと思いましたけどね。ただ、ああいう状況の中にいると、どうせ死ぬんだからいいんじゃないかという気持ちになっていましたしね。それは事実です。

 

 

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もうみんな一緒ですよ。みんな一緒よ。だってもうなにもないんだもん。ただ一緒に座っていて、みんな自分のことを考えてどうしたらいいかって誰も分かりませんよ。そのときに僕は、その前にね、戦車砲に吹っ飛ばされたんですよ。戦車砲に吹っ飛ばされて、片目見えないんですよ、僕は、右の目は。これ戦争で吹っ飛ばされて顔中腫れていましたけどね。真っ赤になって、真っ黒になって意識不明です。そしたら、しばらくしたら、どのぐらい置かれたか分からない、いつのまにか戸板に寝かされていたんです、壕の中の。それで、ああ、俺まだ生きているんだと思ってね。そのあと辰夫を連れていったのはその後だったのかと思いますけどね。辰夫を連れていった後かよく分かりませんが、だいたいそんなときですよ。

 

Q:戦車砲で吹っ飛ばされたのはなんの作業中だったんですか。

 

日本軍の兵器

作業じゃないですよ。バカな兵隊が、軽迫 (ブログ註・口径75mmの軽迫撃砲) 迫撃砲。こんな小さい迫撃砲、あれで戦車にボンとやるわけですよ。1発2発、わたしはそのそばで弾を運んでいたのがひっくり返されたんですよ。2発ぐらい、1発撃ったのかな。お返しですよ、バーンっていって真っ黒になって真っ赤になって、意味が分からなくなって吹っ飛んじゃったんですよ。あんな小さな軽迫で戦車を狙ったって、当たったって跳ね返ってきますよ。

 

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戦後70年遠ざかる記憶近づく足音 95歳元日本兵が伝えたい思い – QAB NEWS Headline

 

日本軍の兵器なんて貧弱なもんでね。だって僕らが持っていた小銃は明治38年の小銃銃ですよ、三八銃って言って。あれを天皇陛下のマークが入っているからってね、もう首里にいるころからさび付いて動かないわけですよ。僕の銃剣なんか真っ赤な錆ですよ。もう抜こうとしても抜けないよ。あれは兵器じゃないですよ。飾りですよ、もう。小銃なんかさびで動かないですよ。僕は首里から逃げるときは、僕はもう弾倉から、弾の入った弾倉から小銃から全部ほったらかして来た。あれ昔だったら大変ですよ、あれ。天皇陛下の菊の御紋章が入っているからっていって大変なもんですよ。もう負け戦なんでそんなもんどうでもいいんですよ。捨てたってどうってことない。僕は軍司令官の、司令部の砲兵司令官の和田中将というのがいて、この人のニワトリ、あの人が食べるニワトリ、首里から持たされた。僕らは飯の食っていないのに、どうせあの人のもんですよ。ニワトリとあの人の小さなカバンを持たされて、お前先に行けといって行かされた。首里の坂道、今の識名園のところ、識名、あそこへ行ったらもう道が崩れて、兵隊がいっぱい死んでいますよね。登るどころじゃないですよ、泥んこで。もう全部ほったらかし、捨てて逃げたんですよ。持てないんだもん。

 

変な仕事って、仕事じゃないな。バカみたいなことばっかしやらせるよ。

 

飯も食わさんし、特に僕ら指揮班でしょう。食い物がないわけですよ。眞順なんかは、大城君なんかは炊事班ですからね、適当に食っているんですよ。僕ら食い物ないんだもん。毎日肉団子ぐらいの大きさの米粒、こんな小さいの、それを1個ずつですよ。摩文仁へ来てからはまったくなんにもない。タツムリもない。あれ噛むと水がピシャッと出てくるんだけど、あれもいない。ツワブキも取って食ったけど、ない。何も口に入れるものはないわけですよ。

 

戦後の出来事

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あれはね、実はね、昭和25年か24年です。行ったときに、僕は友だちのところを探していたんだが、よく分からないわけです。しょうがないから新宿の地下街、当時負傷兵がいまして、包帯を巻いて目の見えない、今の物ごいみたいなもんで、歌を歌いながらハーモニカを吹いたりなんかしてお金をもらって生活している。この連中と僕2日間いたんですよ。行く場所がないから。でもとっても親切だったですよ。寒いでしょう。新聞紙をクルクル巻いて寝ていましたけど、2日間。そのときに、確かどこそこだったなと思って探しに行ったら、今の豪徳寺というところかな、あの辺だったと僕は思う。はっきりしませんけど。そうしたら、玉砂利の敷かれた道なんですよ、きれいな。松の木が横から大きな塀のあるところから松がのぞいているでしょう。そこの屋敷からピアノの音が聞こえるんですよ。あのときは僕はエリーゼのためになんて知らなかったんですよ。聞いたことないし。タンタン…って鳴るでしょう。そうしたら僕は一瞬立ち止まりましたよ。玉砂利の敷かれた立派なところですよ。

 

いったい誰が戦争したんだと。俺がこんなみじめなかっこして、あんなみじめな思いして、振り返ってみて。僕が1週間前に出てきた石川は、ネズミ、シラミの生活で、みんな虫みたいにうごめいた生活をさせられているんですよ。やぶけた天幕の中で。ああいうことをさせられている沖縄の人間。いったいここで、こういうピアノを弾いている。いったい誰が戦争をしたんだと。悔しいやらなんやらで、一瞬立ち止まっていましたよ。それから、わたしは当時はやまとぐち、日本語があまり話せない、話せないっておかしいけど、受け答えぐらいしか。だって家庭で日本語で話するところないですから。そうしたら、そこにまた差別というのがあったんですよ。僕は知らなかったの。差別というのがあって、お前、琉球人かなんて言われたら、あれっと思ったんですよ。なんだろうと思った。そういうのが重なって、僕はそのピアノの音を聞いたとき一瞬立ち止まって、「いったいどうなっているんだ、この国は。誰が戦争して、なんのために僕はこんなみじめな格好してここに立ちすくんでいるんだ」って。悔しいやらなんやらもう複雑な気持ちだったですね。

 

誰のために、誰が戦争して、誰のために俺はこんなになったんだって。それから当時、大学の掲示板には、一流企業あるいはどこそこの企業からいっぱい求人募集がありますよね。第三国人と書いてあるんですよ。カッコして琉球人を含むと書いてあるんですよ。お断りしますと書いてある。そんなだったですよ、そのころ。だけど今日、あそこの総長は僕の後輩なんですよ、外間君(外間寛中央大学学長、総長・沖縄県出身)。不思議なもんですね。今はこういう世の中になりまして、平和になって。いま沖縄人だって言って威張って、東京でもどこでも沖縄だって言って平気ですけど、あのころはね、偉くなるために沖縄の籍を隠して偉くなろうとした人がたくさんいるんですよね。隠さなきゃ偉くさせてくれなかったそうですよ。今そんなバカなこと言うひとはいませんけども。むしろ今は沖縄と言ったら、ああいいところですねとしか言いませんよ。

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戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 17歳の沖縄戦 ~父の記憶~ – QAB NEWS Headline

 

親友との別れの場所

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もうまったく違う。ここにいっぱい兵隊がいましたよ。ここ全部、あの辺に負傷した人がいましてね、沖縄の人ですよ。僕は知っていた、商業生だったんじゃないかな。まったく地形が変わりました。

 

Q:大渡の浜で戦車に取り囲まれるようなかたちになって引き返してきて。

 

ここまで引きずって来たんです。ここまで。ここから来たと思うよ。

 

Q:辰夫さんを引きずって。

 

ここで、木はもう全然ないよね。

 

Q:ここで1回、投降しようという話を辰夫さんはしたんですか。

 

そう、あれはずっと首里から持っていたと思う。信管を外してね、信管を外しているもんだから、信管を外すと寝返りをうってボンと死んだ奴がいるんですよ。

 

Q:その手りゅう弾を・・辰夫さんは自分で歩けたんですか、そのとき。

 

歩けない。杖をついて、こう。歩けないよ。杖を持っていたけど、引きずって歩いていた。

 

そこに壕があるみたいね。でもあったにしても、ここはもう壕へ入れない。兵隊がいっぱいいたもん。負傷兵からなんかがね。こないだ見つけた。ほらここに壕があるさ。ね、小さな壕。あそこもあるかも知れないね。壕と言うかな。

 

つらいとき、ここへよく来る。なんとなくここへ来ると気分転換できる気がして。なんなんだろうね。

 

なんでしょうね。あのころと今の気持ちとはまったく違うよ。あのころは、どうせあとさき俺もいくんだからという気持ちしかなかったしね。いま生き長らえて、生かされてきたもんだから、いろいろな思いが湧いてくるんであってね。このあいだ、あそこで「辰夫」って言ったら「はい」って言うんだよ。そういうのあるのかね。振り返ったら誰もいないのに、「辰夫」と言ったら「はい」というもんだからうれしくてね。そういうことあるのかね。帰りましょうよ。

 

 

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時の流れは、知らず知らずのうちにそういう風になっていく、戦争と言うものはそういうもの。一人一人が止めないと、大変なことになるということだけわかればいい。

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