ハワイの捕虜収容所に送られたウチナーンチュ
1945年の6月から7月にかけて、米軍は沖縄出身捕虜の中から三千人余をハワイ島ヒロ島とオアフ島ホノルルの収容所に送った。さらに一部はハワイから米本国や、グアム・サイパン・テニアン島の南洋へ移送された。捕虜送りだしの真意は不明で、ハワイでは米軍の耕作業に従事して日当をもらい、帰郷の日を待ちわびた。1946年10月から12月にかけてほぼ全員が帰還した。
《『沖縄 戦後50年の歩み 激動の写真記録』》
『金武町史』によると、1945年6月から7月にかけてハワイへ送られる者が戦闘員・非戦闘員から選別され、3回の移送が行われた。人数に関しては括弧で付すが、その概要は、
第1回目、6月10日頃・嘉手納収容所から(180人)
第2回目、6月27日頃・屋嘉収容所(現金武町)から沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)
第3回目、7月3日頃・沖縄人捕虜と朝鮮人捕虜(約1,500人)である。
こうした3回のハワイまでの移送航路は、いずれもサイパン島やテニアン島を経由し、2週間から20日間程の行程であったと考えられている。
《秋山かおり「縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所史――ホノウリウリからサンドアイランドへ」》
沖縄戦で米軍の捕虜となり、ハワイに移送された沖縄県出身者らとみられる名簿が県公文書館(南風原町)に保管されていることが21日までに分かった。同館が1997年に米国立公文書館から収集した資料の一部で、2002年から「憲兵隊長文書」として公開されていたもので、総合研究大学院大学でハワイ日系人の強制収容を研究する秋山かおりさんが2月に確認した。
名簿には氏名や生年月日、捕虜番号、近親者(留守家族)、住所または本籍地が英字で記載されており、1945年8月~11月にかけての日付が確認できる。秋山さんによると約3600人分が確認できるというが「沖縄以外から移送されてきた人が含まれている可能性もあり、今後精査する必要がある」と述べた。また、片仮名で記載された別の資料も同館に所蔵されていることも確認した。
元ハワイ捕虜を巡っては、現地収容所で亡くなった12人の慰霊祭が6月に初めて開かれた。捕虜経験者で同慰霊祭実行委員会共同代表を務めた渡口彦信さん(90)の名前も名簿にあった。渡口さんらは12人の遺骨と捕虜名簿の収集・返還を国に求めるよう、14日に県へ要請していた。
琉球新報シリーズ『忘ららん~ハワイ捕虜・72年後の鎮魂』
渡口彦信さん 12名の遺骨、故郷に帰したい
2017年5月29日 16:00
沖縄戦で3千人余の県出身者が捕虜となり、ハワイへ連行された。大半が帰国できたが、12人が現地で無念の死を遂げた。6月4日に現地で初めて開催される慰霊祭を前に、元捕虜や遺族の思いを聞いた。
遺骨、故郷に帰したい
黄色みがかった英字の書類。1982年2月、嘉手納町で開かれた会合で、米ハワイに抑留された元捕虜、渡口彦信さん(90)=読谷村=がテーブルの上に複数枚差し出した。書類には沖縄戦で米軍の捕虜となった後、移送先のハワイで命を落とし、沖縄に帰ることがなかった捕虜の仲間12人の名が記されていた。米軍当局が作成した死亡診断書だった。渡口さんの呼び掛けで集まった遺族たちが、待ち焦がれた家族を見つけたかのように名前をなぞった。
ハワイへの移送船が出港した嘉手納町兼久付近の海岸に立ち、当時の様子を振り返る渡口彦信さん
41年12月、真珠湾攻撃を口火として、アジア太平洋戦争は始まった。米軍は45年3月末に沖縄に進攻し、焦土に変えた。
県史などによると、ハワイへ送られた県人捕虜は3千人余とみられるが、移送の理由は明らかになっていない。
抑留期間は長い人で1年半に及んだ。渡口さんもその1人で、沖縄に帰還したのは47年だった。「せっかく戦争を生き延びたのに…」。病気やけがで無念の死を遂げ、ハワイでさまよい続ける仲間の魂。その遺族の思いを考えると胸が締め付けられる。
転機は81年だった。仲間が眠るハワイの墓地を訪ねたが、埋葬地が改修され、遺骨が不明になっていることを知った。帰国後、どうにか捜し出そうとハワイの県系人の協力を得て調査を進める中で、死亡診断書を入手した。沖縄の遺族一人一人に連絡を入れ、82年2月、嘉手納町で集まった。調査はそこで終わるはずだった。
死亡した捕虜の1人、上間松栄さんの母ゴゼイさんの、すがるような言葉が忘れられない。「遺骨の行方を調べられないか。遺骨でもいい、息子を抱きしめたい」。ゴゼイさんは90歳を超えていた。「調査を続け、遺骨を沖縄に帰そう」。渡口さんは心に決めた。
1946年に城間次郎牧師が米陸軍施設スコフィールド・バラックで撮影した県出身者の氏名が刻まれた墓標=米ハワイ
遺族に誓った使命 せめて慰霊祭を
バケツは捕虜の排せつ物でいっぱいだった。こぼれないように注意を払う。渡口彦信さん(90)ははしごを上り、薄暗い船倉から甲板に出た。あらゆる体毛を刈り取られ、下着1枚さえ着けていない体に日差しが降り注ぐ。1945年7月、沖縄戦で捕虜になった渡口さんは太平洋上にいた。行き先はハワイ・オアフ島の収容所だった。
同じ境遇の捕虜数百人が20日間近く、船倉に押し込められていた。体臭、排せつ物の臭いが充満していた。「ああ、なんて空気がうまいんだ」。排せつ物の運搬係をすることで、その価値を実感できた。複数あった移送船のうち、渡口さんらが乗った船の環境は特に劣悪で、後に「地獄船」「裸船」と称された。
オアフ島ではホノウリウリ、サンドアイランドの収容所に入った。日米の開戦を告げる真珠湾攻撃があったハワイに、捕虜として上陸することになるとは夢にも思わなかった。沖縄から連行された3千人余は、終戦を敵国の領土で知ることになった。
米軍の命令で軍施設や公園などの清掃、工事現場の雑役に従事させられた。1年半の抑留生活の間、ハワイで暮らす県系人は捕虜を慰問し、物心両面で支援した。戦争が終わったからか、米軍は捕虜と県系人の接触を阻むことはしなかった。
46年12月、渡口さんは解放され、ハワイを離れる船に乗った。大勢の県系人が見送っていた。
沖縄に戻った渡口さんだったが、後ろ髪を引かれる思いは依然残ったままだ。現地で亡くなった仲間の魂がいまだにハワイでさまよっているのではないか。そう思うと、胸が痛んだ。
遺族の要望を受け、機会あるごとに厚生省(当時)や県に働き掛けた。新聞などを通して情報などを呼び掛けた。だが、決定的な手がかりがないまま、月日は無情に流れた。
今年90歳を迎え、35年前に「遺骨を見つけ出してほしい」と懇願された上間ゴゼイさんと同じ年代になった。「せめて、慰霊祭だけでも開催したい」。帰還した元捕虜の使命として、また遺族らの思いに対する責任から、そう強く思うようになった。
現地時間の6月4日、沖縄とハワイの関係者の協力を得て、初の慰霊祭を開催することが決まった。
「72年も待たせて申し訳ない。皆で会いに行くので、もう少しだけ待っててください」 ゆっくりと、思いをかみ締めるように渡口さんはつぶやいた。
(当銘千絵、島袋貞治)
古堅実吉さん 食事、家畜のように
2017年5月30日 16:00
食事、家畜のように 戦の教訓、後世に継承へ
学徒兵だった古堅実吉(さねよし)さん(87)=那覇市=がベルを鳴らし、起床時間を告げた。1946年、ハワイ・オアフ島の捕虜収容所。毎朝、繰り返されていた光景だ。
捕虜移送船が出航した嘉手納町兼久海岸で、ハワイの収容所体験を語る古堅実吉さん=17日
沖縄戦で捕虜となった県人3千人余が45年、ハワイに移送された。捕虜の年齢層は幅広く、親子以上の差があった。沖縄師範鉄血勤皇隊員だった古堅さんら学徒兵が最も若く、起床係などの雑役を担わされた。
古堅さんが米軍の移送船に乗せられ、沖縄を離れたのは45年7月3日ごろ。5日が16歳の誕生日だった。
数ある移送船のうち、古堅さんたちを乗せた船は環境が最も劣悪な「地獄船」だった。到着までの約20日間、蒸し暑い船倉に押し込められた。バケツに入った食事は1日2回。手のひらを食器代わりにした。白米を先に載せ、その上に主菜を盛り付けると汁気がこぼれずにすんだ。顔をうずめ、家畜のように食べた。
「これから奴隷として、こき使われるのか」。屈辱的な体験に、捕虜たちは絶望感を募らせていった。
同年8月15日、収容所で終戦を知った。「殺される心配はなくなった」。安堵(あんど)感はあるものの、敗戦の悔しさはなかった。沖縄に帰る日が待ち遠しかった。結局、収容所生活は1年4カ月余り続いた。
沖縄戦から72年が経過した。ハワイで亡くなった捕虜12人を弔う初の慰霊祭が6月4日、現地で開催される。当初は年齢を考え、迷いもあった。「最初で最後の機会かもしれない」。妻・芳子さん(86)の言葉が背中を押した。今回参加する元捕虜は古堅さんと、慰霊祭実行委共同代表の渡口彦信さん(90)の2人だけとなっている。
戦後、古堅さんは衆院議員などを歴任した。政界を退いた今も、名護市辺野古の新基地建設現場に足を運び、一貫して平和運動に取り組む。むごたらしい沖縄戦や屈辱的な捕虜体験が原動力となり、自らを奮い立たせる。
捕虜12人の遺骨は今も沖縄に帰っていない。「あの戦争の最大の犠牲者だ」。そう語る古堅さんの中で、日本が軍国主義の道を歩み、本土の砦(とりで)として沖縄の要塞化を進めた72年前と現代の情勢が重なる。
「基地建設が強行されているが、同じ過ちを繰り返してはいけない。一人一人の命は尊い。戦争を体験して痛感した自らの教訓を、沖縄とハワイの人々に伝えなければ」。そう心に決めている。
渡久山盛吉さん ハワイ県系人は「命の恩人」
元捕虜 渡久山盛吉さん(89)
2017年5月31日 16:00
現地県系人「命の恩人」 収容所へたばこや弁当
「ハワイ沖縄県系人の優しさに随分救われた」。収容所生活について語る渡久山盛吉さん=9日、浦添市の渡久山さん宅
浦添市経塚の渡久山盛吉さん(89)は、所属していた陣地構築部隊で唯一戦渦をくぐり抜け、捕虜となった。今も、人権やプライバシーもない屈辱的なハワイ移送船での体験と、現地で触れた県系人の優しさが表裏一体の記憶として脳裏に焼き付いている。
1945年6月、日米間の戦闘が一層、激しくなる中、転がる死体を避けるように歩を進め、塹壕(ざんごう)に身を潜めるなどして必死にわが身を守った。だが、一日橋辺りで米軍に拘束された。当時18歳だった。
約1カ月間、旧金武村の屋嘉収容所で過ごした後、全身の毛をそられ一糸まとわぬ姿のまま「地獄船」でハワイへと連行された。生きて捕虜となるのは恥だとされた時代だった。だが「あの時の選択は間違っていなかった」と断言する。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつける7月のある日、船は約20日間の航海を終えハワイ・オアフ島に到着した。渡久山さんの目に映ったのは、焦土と化した郷里とは比較にならないほど活気があり、物資に恵まれた敵国の領土だった。
収容所に入ってからは、主に真珠湾(しんじゅわん)周辺や軍施設外の清掃に当たった。清掃業務は大変だったが、収容所には捕虜となった同郷の身を案じた県系人が訪れ、弁当やたばこを差し入れしてくれた。中には傷ついた心を音楽で癒やしてもらいたいと、三線を届ける者もいた。
特に現地でホテルを経営する「安慶名シュウイチさん」という県系男性は、渡久山さんにとって思い出深い。ある日、いつものように捕虜仲間10人とトラックに乗せられ作業場へ向かっていると、安慶名さんが突如道路に現れ、トラックを止めた。安慶名さんは運転席の米兵に金銭を手渡し、夕方まで捕虜を任せてほしいと交渉。そして、渡久山さんたちに豚肉料理など古里の味をたらふく振る舞った。
「県系人は皆、とにかく優しかった」。彼らは「命の恩人」であり、敵国に連行され、不安を募らせていた渡久山さんたちの心の支えでもあった。一方で、県系人らも渡久山さんら捕虜に会うたびに沖縄戦の状況や、故郷に残してきた親族の安否について熱心に聞いてきた。「苦境にあってもお互いを思いやる、ウチナーンチュの優しさを見た」と振り返った。
「3千余の県人が異国の地で抑留され、県系人に助けられた事実を風化させてはいけない」との思いから、渡久山さんは帰国後、収容所での生活や当時の思いをつづった歌「PWあわりなむ」を作った。
今でも時折、当時を思い出す。6月にハワイで開かれる捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭へは体力的な負担を危惧し、参加を断念した。渡久山さんは無念さをにじませながら「あと5年開催が早ければ…」とつぶやいた。
異国で無念の死を遂げた同胞の冥福を、渡久山さんは沖縄から静かに祈る。
(当銘千絵)
戦没者 石川苗得さん 弔問者証言で事実知る
2017年6月1日 16:00
弔問者証言で事実知る 孫・英樹さん 足跡たどり慰霊祭へ
2015年の盆、杖をついた高齢の男性が突然、那覇市の石川英樹さん(39)宅を訪ねてきた。「あなたの祖父、石川苗得(びょうとく)さんの仏壇に手を合わせたいのですが」。訪問者は1945年の沖縄戦で米軍の捕虜になり、ハワイに移送された安里祥徳さん(87)=北中城村=だった。英樹さんはこの日、祖父がハワイ捕虜だった事実を初めて知った。安里さんは祖父の教え子だった。
祖父・苗得さんの遺影を手にする石川英樹さん。慰霊祭には父・満雄さんと祖母・純子さんの遺影も持参し「祖父と対面させたい」と語る=30日、那覇市首里の石川さん宅
1940年代初め、安里さんは首里第二国民学校に通っていた。4~6年時の担任が苗得さんだった。安里さんの目には苗得さんは屈強で、運動神経が抜群と映っていた。
国民学校を卒業する頃、太平洋戦争は激しくなっていった。45年3月、当時15歳だった安里さんも学徒兵として動員されたが、6月、現在の糸満市摩文仁で捕虜となった。
送られた屋嘉収容所(現金武町)は憔悴(しょうすい)し切った捕虜であふれていた。その中に、ひときわ顔色が悪く、栄養失調なのか頬がこけた恩師の姿を見掛けたが、監視している米軍を恐れ、声を掛けられなかった。これが苗得さんを見た最後だった。
安里さんはハワイへ移送され、1カ月抑留された後、米本土に送られた。帰還したのは同年10月下旬だった。一方、苗得さんもハワイに移送されたが、現地で病死、33歳だった。遺骨は行方不明で、古里にいる遺族の元に帰ってこれないままだ。恩師がハワイに連行され、亡くなったことを安里さんが知ったのは戦後数十年がたってからだった。
「戦争は誰も得しない、ただただ人を不幸にするだけだ」と説く安里祥徳さん=23日、北中城村の安里さん宅
戦後70年の節目を迎えた2015年、85歳になった安里さんは、苗得さん宅など沖縄戦当時のゆかりの場所、人々を訪ねた。
仏壇に飾られた恩師の遺影は穏やかな表情に見えた。学生時代の光景が目に浮かぶ中、そっと胸元で手を合わせた。「石川先生、つらかったでしょう、苦しかったでしょう。どうか安らかにお眠りください」。何度も何度も、そう繰り返す安里さんを、英樹さんは静かに見守っていた。
英樹さんには祖母も父も、苗得さんが捕虜となり、ハワイで亡くなった話に触れようとしなかったように見えた。ただ、1988年ごろ、祖父の夢を見たという祖母が突如、ハワイへ出掛けた。そして遺骨代わりにと石を持ち帰り、墓を建てたことを覚えている。
祖父を語れる人はもう、ほとんどいない。そう思っていただけに「安里さんの気持ちが、うれしかった」と静かに語る。安里さんの訪問をきっかけに、英樹さんは祖父の最期に強い関心を抱くようになった。4日、ハワイで開催される県出身戦没者慰霊祭に参加することを決めた。
「戦争は誰も得しない、ただただ人を不幸にするだけだ」。そう語る安里さんは高齢のため、今回の慰霊祭参加を断念した。英樹さんは安里さんの思いも受け止め、亡き祖父の足跡をたどるつもりだ。
(当銘千絵)
遺族 金城弘昌さん 決裁文書に祖父の名が
2017年6月2日 16:00
決裁文書に祖父の名 慰霊の思い、父の分も
若かりし頃の祖父・永保さんの写真を手にする金城さん。慰霊祭には祖父と父両方の遺影を持って参加する
今年1月中旬、県庁の居室でいつものように決裁文書をめくっていた県子ども生活福祉部長の金城さん(57)は思いがけない事実を知った。ハワイ捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭への協力を求める文書に、祖父・永保さん(享年43)の名が記されていた。「息が止まるほど驚いた」と金城さんは振り返る。
文書には沖縄戦で捕虜となり、移送先のハワイで亡くなった12人の名が記されており、永保さんもその一人だった。5年前に亡くなった父・甚永さんから南風原町津嘉山出身の祖父がハワイで亡くなったことは聞いていた。しかし、沖縄戦で捕虜となり、ハワイに連行されたことは知らなかった。
金城家の長男だった甚永さんは戦中、単身で熊本に疎開した。沖縄に残った祖母ときょうだい7人全員は45年5月25日、南部の防空壕(ごう)入り口で米軍の爆撃を受け、犠牲となった。甚永さんは一人残され、孤児となった。
「記憶を呼び起こすには、あまりにもつらい体験だったと思う」。祖父母やきょうだいのことを一切語ろうとしなかった父の心境を、金城さんは察する。
渡口彦信さんがハワイ州保健局から入手した金城永保さんの死亡診断書。1946年7月18日、ハワイの基地内病院で原因不明の出血により死亡、との内容が書かれている
4月に入り、ハワイでの慰霊祭開催を計画する渡口彦信さん(90)と面会した。その時、渡口さんから差し出された1982年の新聞記事で、60年ごろ甚永さんの元に当時の厚生省から永保さんの死亡通告書と、髪と爪が入った小さな木箱が送られていたことを知った。祖父は原因不明の出血死でこの世を去っていた。
金城さんは半世紀近く前の父の姿を思い出す。「このころから、父はハワイに行きたいと言い出していたはずだ」
金城さんは今、凄惨(せいさん)な戦争の歴史を刻む平和推進事業を手掛ける業務に携わっている。「この職に就いていなければ、祖父の最期を知ることはなかったと思う」。引き寄せられる運命の巡り合わせは「父からのメッセージに違いない」。
4日の慰霊祭には公務ではなく私人として、家族4人で出席する。祖父の供養をできぬまま他界した父の思いも重ね、金城さんは3千人余の県人の汗と涙が染み込んだ「虹島」の大地を踏みしめる。
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