コンコーダンス用の書きおこしを公開しています。誤字などが多くありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》
護郷隊
秘密任務を命じられ沖縄入りした陸軍中野学校の将校たちは、地元の子どもたちをゲリラ兵にすべく制裁を含む厳しい訓練を課し、少年兵に仕立て上げた。護郷隊の少年兵たちはまた上陸に備え橋を破壊し倒木し道路を塞ぐといった工作活動にも従事した。
Road block on road north of Yaka made from trees fallen across way--poorly done--first tank went over without trouble.【訳】屋嘉北部の道路では木を倒して作られた障害物があったが、やり方が中途半端だったので、最初の戦車は問題なくそこを乗り越えた。
撮影日: 1945年 5月
護郷隊員として (17歳 第一護郷隊)
今帰仁村越地護郷隊員 宮里 邦夫 (十七歳)
昭和十九年の十二月に、謝花小学校にあった護郷隊の教育隊に入りました。崎山から全部歩いていきました。教育隊ではちゃんと軍服も靴も帽子もありました。ちょうど一か月間教育うけてですね、ずっと訓練して、もう非常にきびしかったんです。この期間の食事は御飯に、豆腐とかいろんなもの少しずつ食べて、とてもお腹すきました。訓練終ったら軍服なんか、また、みんな返して帰りました。そして二月一日に羽地集合ですね。また私服着て、どういうふうに通っていったかーとにかく越地の自分のうちから歩いて集合しました。そのころトラックというのはありませんでしたから。本部は山の頂上です。当日は自分の洋服を少し持っていって、むこうで軍服や毛布といっさい、渡ったんです。
兵舎はカヤで全部作ってですね、そこに新入隊者の服なんかもそろえてあった。十七歳というとまだ子供ですから軍服もダブダブで靴も大きくてですね。自分は体も大きかったからいいんですよ。年下の方は小さかったんで非常にかわいそうでありました。きかんとすぐ、やられますからね(なぐるまね)。やはり古い兵隊はすごくたたいたり、軍ってこわかったですね。タニウ岳では菅江隊に入隊してですね。そっちでは全部壕掘りですよ。上陸しない前はしょっちゅうです。謝花では小銃の取り扱いやいろいろの訓練していますので、山ではただ壕掘りですね。
前の厚生局長山川先生は、ぼくらの小隊長だったんです。それから保健所の瀬良垣さん、今は名護病院の事務長をされていますが、あの方は分隊長でありました。自分らの部落から三名いって、二名は戦死しています。米軍が上陸してから、又、タニウ岳の下の稲飯という部落がありますがそこで激戦してですね。ぼくも間違いないと思ったんですが、ようやく生きたんですがー。
崎山に隠れる
上陸してからは食種は乾麵包です。一日一袋なくて、ひもじくてですね。それからどんどん上陸して来て、食糧がないわけです。そのために自分らは管江隊から本部に廻されたわけです。それでも食糧ないもんですから、一応家に帰って食糧とって来なさいという命令を受けまして、すぐ夜十名ぐらい隊を組んで、アメリカーがいるところをずっとかくれかくれして夜村へ渡って来たんです。部落へ来ますと喜んで供出ですね。一応持って兼次の山から伊豆味にいこうとしたり、敵に発見されて発砲されて全然いけないわけですよ。
しかし、いつももう完勝の日は近い近い、勝つ日は近い、するもんですから、その教育、受けておりますので、何とかして隊へ帰ろうとしたんですが、それでもアメリカーがしょっちゅう発砲するわけですから、そのまま引き返したわけです。それでそのままま自分らはシマに残ったわけです。もういきませんでした。しかしシマにはアメリカーが多いもんですから崎山部落に避難していたんです。自分のイトコがおりましたから。昼は草の中にかくれて、晩はイトコの家で眠って、昼はしょっちゅう、浜のアダンの中にかくれてーそれが二十年の六月頃ですか。そして久志の大浦崎に避難。家族と別々でしたが、むこうで一緒になってですね。自分はからだは大きかったし、タニウ岳で色も白くなっているから、区長さんたちがアメリカーの作業に出さないでといって、とうとう出なかったんです。そしてみんなと一緒に帰って来ました。
諸田善蔵さんは一緒でした。あの日は、はじめは一諸にいたんですが、こっちは危いと思ってわたしは、大城清栄さんと、もうこっちではお互いが出来ないから(一諸に隠れるのがむづかしいから)むこうにかくれようといって、100メートルぐらいはなれていました。別れて一時間ぐらいしてからやられているんです。それは久志にいく前でした。崎山の宇佐バンタの左側の墓の下の大きな岩の下にかくれていたんですよ。そのとき宜野湾の大山の方もそこでやられました。
久志での生活ははじめは全部テントを張って集団ですね。はじめはちゃんと米を配給して、はじめはおにぎりであったんですが、飯場からもってきてそれ食べていたんですが、そのあとは、分散して個人個人で、二小隊ずつで家をつくってですね。茅刈って来て、それで生活しておりました。
崎山の米軍拠点
タニウ岳から食糧とりに帰ったときの道順は今でも覚えていますが、今の五八号線道路の北部工業高校入口がありますね。その上の山から、ずっとおりてきて、工業高校へいく橋があるんです。その川に一旦おりて、それからビーマタ通って伊豆味の方に廻って、乙羽に来て崎山に来たわけです。そのときは普蔵君も一緒でした。夜で道もみえないところですが、ちょうど雨降りで、稲光りがします。すると兵隊たちは車と思ったりして逃げたりしてですね。自分らが帰ったのは本部だったから最後のほうでした。別の隊はもう自然に解散の意味で自分らよりずっと先に帰りよったんです。二十年の五月のおわりか六月のはじめにかけて、タニウ岳で相当やられて、壕の中で、衛生兵が治療やっておりましたが、非常にわめきよったんです。痛むといってですね。自分はケガはありませんでした。擲弾筒持たされていましたが、あまり使わなかったですね。
久志から帰って来てからは普通の生活をしたわけです。その場合、隊からの連絡は何もなかったです。
少年と兵隊の間 (17歳 第一護郷隊)
今帰仁村崎山 護郷隊員 金城林昌(十七歳)
軍隊と同じ、厳しすぎる訓練
今帰仁小学校に日本の軍がいた。そこで最初に医者の健康診断を受けて、それから通知来て、教育にいったわけです。青年学校からです。
青年学校は十八歳、十九歳のかたが、ほとんどです。十九歳になると一応現役の召集がありましたからね。十八歳の人が多いですね。いったん護郷隊にはいったけど、とちゅうで現役の年に来て、またすぐ現役に入った人もあります。だから護郷隊にいた連中も自分らより一つ年上のものは全部現役にそのまま入隊したわけです。
検査のとき、からだが悪くて、肋膜とか、医者にお願いして、検査通らなかったといってよろこんで残った連中も、あとで防衛隊に召集されてひどい目にあったのもいました。ずっと中・南部にいって、地形もわからんで、そのまま帰らないのが多いですよ。あのころは片っ端から令状がきたもんですよ。武器も護郷隊の場合は普通は小銃だが、防衛隊の場合は竹柏とか手りゅう弾とかですしね。「自分らは謝花校で一か月間、教育うけて。自分は軽機(軽機関銃)班、からだも小さいので、軽機もって訓練するにも、重くて、ひじをすりむいたり、シャツもつけられないくらいでした。長い袖の軍服はないもんですから側側のときなんか。ズボンは正式の軍服ですが、上は半袖です。
謝花では小学校の板の間に、ござなんか敷いて寝たわけです。校合はそのころ全部木造で床は板張りです。どざしいて、毛布は一人に三枚ぐらいだった。食事は腹一パイはなかったです。それでもタニウよりはよかった。タニウは玄米だけ。
厳しいゲリラ戦の訓練
教育期間中は外出なし。昼は訓練だけ。昼は疲れて、夜はグッスリ。それに軍人勅諭を覚えなければ、週番下士官が全然寝かさんものですから。もう覚えるまではー。訓練はきびしかった。ほんとうにゲリラ戦の訓練だけですね。分隊長の悪い人は、備瀬の浜で、廻れ右をしないで、胸までつかるまで海に向って歩かせる分隊長もいたですよ。教育期間中は宮城義雄という人が一番悪かったです。その後みたとともないですよ。山川文雄さんや瀬良垣さんなんかみますがね。もうあれは、戦闘配備ついたら鉄砲でやってやろうとまで、みんなで話しあっていましたがね。また、戦闘配備ついてからはおとなしくなってよ。十七、八城の子どもでしたが、宮城義雄、あんな人が世の中にいるかと思うぐらいでした。
教育隊は軍隊と同じでした。護郷隊は名護にもいました。あっちこっち分けて教育受けたわけ。この辺は本部、今帰仁と一緒に謝花小学校、羽地あたりは名護、三中は鉄血勤皇隊といった。米軍が上陸してからは宇土部隊の配下に、護郷隊の生徒も入れまじって、各小隊毎に配位です。分隊に設郷隊何名、生徒何名といって。
タニウ岳にいってからは、自分らの場合は軽機だったもんですからね。ごはんだけは多目だったですね。おにぎりとか、量は多かったです。最初のうちは玄米を木のウスでついて、ヌカをとっていました。戦闘配備についてからは玄米だけ。まずかったです。味噌、しょう油はあったが。
タニウ岳入隊当時は、食糧はこっちから馬車借りて、嘉手納から運搬したことがあります。隊には車もないし、タニウ岳から部落へ帰ってきて、馬と馬車お願いしてもっていって、そんなにして各中隊で集めて、嘉手納までいって、夜どおし歩いて、それから羽地小学校までもって来て、そこからまた夜のうちに山までかついであげるんです。
馬とか馬車は隊員に、おうちにいって、借りられる可能性のあるものは借りてこいといって。またみんな帰りたいものですから、借りに帰って、そのたびに食糧なんかもっていって。タニウ岳の場合食糧はよく蓄えてあったのですよ。あとで本部半島の軍隊が全部寄り集ったので不足したんでしょう。唯機は九九式のものでした。教育隊のときは十一年式で重かった。
教育期間中に一回は、謝花から伊豆味を通ってタニウ岳へ食糧運搬したこともある。家まで友だちと二人で馬車借りにきて、謝花まで馬車もっていって。タニウのとき家の馬車で嘉手納の食糧運搬にいったときは、比謝橋の下流に港があって舟艇が着いていた。十台位の馬車を迎ねていきました。帰ってから、家まで馬車返しにくるとき、照明弾がボンボン打ちあげられていました。それから間もないころ米軍が上陸しました。
海軍特殊潜航艇隊・蛟龍隊の渡辺大尉と今帰仁へ
アメリカーがあがってきて、だんだん追いこまれて、食糧がなくなったし、ずっと東の源河の山まで、グループつくってです。源河の山にハシウスイ、昔の恥をおおうという名前の部落があるんです。家は十軒ぐらいあるんですが、向うにいって、食べ物はないし山羊がいたもんだから、その山羊を売ってくれといって、あるだけの金を集めて、みんなでもっているだけの集めて、山羊買って、薬も買ってですね、薬もくれないですからね。この山で山羊焼いてですよ。ちょうど自分らがやっているのを運天港から引き揚げて来た特攻隊の方だったんですが、あれらを一緒にしてくれというもんだから、一緒になって食べたんだが、一緒に行動してもいいですよといったら喜んでですね、今帰仁にくるまで一緒だったんです。
源河ではタニウから帰って来たのがその当時の協力隊として、名護の三中の生徒が協力に来て、食糧がないもんだから、同じ村の同じ部落でもあるし、もう自分らは帰るが、あんたがたはどうするかといったらですね、自分らを一緒に是非連れていきなさいというもんだから、そのとき下りて来たのが七、八名くらいですね。旧の二十二、三日に帰ってきた。渡辺大尉が地図を持っていたものですからね。あの山の中から地図みて、稜線をおりて来たんです。
特攻隊の人たちは渡辺という大尉だったんですがね、こっちおりて、もう一ぺん、ひとわたり運天港の自分の基地を見たいからということもあって、今帰仁まで一緒です。別れたのは湧川の最初の部落です。我部井ですか。一応着いてですね。一晩寝て、向うで解散したんですが。自分らと一緒に来たのは渡辺隊長一人だったと思います。そのとき、あれらの日本刀も自分らが持ったりして、山羊の生肉をあまり食べすぎたもんだから、下痢したもんだから。渡辺大尉はそのあとで渡喜仁の謝花喜睦さんなんかを斬り殺しています。
みんなと別れてから、諸志の康二さん、あれは一番豪傑ですね、意地があったですよ。帰って来てから、米軍の駐屯している兼次校あたり全部斬り込みしてよ。そのために、自分らこっちにいてもアメリカ軍が全部荒らしてですよ。彼索されて。
村上隊、護郷隊は、その後、今日からは解散ということはなかった。自然に食糧が切れたものだから。それでもまだ負けていないという気持ちはあったんですがね、お家来ても。だから、羽地の呉我の上までは、相当食糧を運搬したんです。私服に着替えて、食糧集めて分隊長のところにいきよったです。分隊長は呉我の玉城秀一という方です。あのかたは典我の山まで来ていたもんですから、食糧はこっちから相当運搬したんだが、もうだめだと思って持っていかなくなった。いつからか、日は覚えていませんが。
それからは毎日、弁当持ちで、海岸の方に朝から日が暮れるまでいました。アダンの中にかくれて葬してですよ。そんなころに、宮城康二さんなんかの切り込みがあって、米軍の捜索がきびしくなって。
上里善蔵さんがやられたのもその頃です。上里さんは、戦前上里、戦後すぐ諾田、今また上里になっています。彼は一人っ子でした。
自分ら日が暮れるまで、一緒にかくれてやったんですがね。少し離れていたので助かったんです。家に帰るまで気がつかなかった。日が群れて帰ってから、気がついてそれからさがしに夜歩いたんですがね。帰っていない人をさがすといって。上里さんは海岸のアダンの山の中で、うしろからやられて、三十メートルぐらいのガケから、まっすぐ落ちたんですよ。もう一人は宜野湾のかただったですがね。鹿を貫通してつかまえられたわけです。アメリカ軍の病院にかつぎ込んで、退院してから、避難先の久志でみました。今元気ですがね。じっとしていたのは助かって、逃げたのはやられたわけ。崎山の売店している平良幸二郎という人は元気で帰って来ています。その日は旧の五月十四日、月夜でした。上里韓蔵さんは気の毒なことでした。タニウから折角生き残って帰ったのにー。
三中兵
今帰仁村字崎山三中 池原善治(十六歳)
三中の場合は、春休み中でしたが、三月二十二日の十時頃、召集の通知が来たんです。すぐ家を出て、名設まで歩いて、ついたのは遅あとだったと思います。それで夕方六時ごろみんな集められて二つに分けられて、一方は八代活の土部隊、一方はタニウ岳にある村上隊ということになりました。すぐ、六時から配屈されました。護郷隊の歌は、その当時三中の生徒もよく歌っていました。護郷隊が列を組んで、隊歌をうたって通るのをよくみました。その隊は郷土を守る隊ということしか教えられていませんでした。
最初は真部山におったんですよ。兵部山で百名ですね、全部一緒になって、むこうで、追われて、三田生もほとんどタニウ岳まで。運天に行った白石部隊と、うちらは一緒だったです逃げるのは。白石部隊は運天にいたのが八国岳に来ていました。米軍が四月の六日に上陸しましたね。今帰仁に上陸というときに、はや八重岳に来ていました。真部山では二十二名なくなっています。四月の十六日です。最後、寄り集まったのはタニウですよ。
その時分までタニウに食糧は相当あったんですよ。真部山から始津宇のふもと逝って、名変の今の大北区ですね。柳原通って大北区通って、そこにダムがありますね、そのダムのそばから名設岳つっきって、それからタニウに人っていったんです。農林生徒もほとんど最後にはタニウに来ておった。タニウから大浦崎ですね。今のキャンプハンセン、二見通って、あれから久志岳に登ったんです。
戦闘はハンチチというところ、四月の上陸の翌日です。配属将校が陣頭指揮で足を痛めて、この人は広島の人でした。自分の中隊長もタニウでやられています。
わたしらは久志岳でおわって解放したもんだから、生徒はそのまま帰ったんですよね。源河山のふもとで、一応源河の人と一緒になったもんですから、また、自分らの先城がおってですね。
村に帰ってからはずっと家にいたんです。うちらはまだ二年生だから、三年になるかならないかですね。帰ってからはどうもなかった。久志の収容所へはみんなと一緒にいった。タニウは、負けて逃げてからでも、相当食糧はあった。あとで取りにいった人もある。ボクら、久志に収容されてから友達といったととがあるが、相当あった。
あの頃、中学生はみんな軍隊にとられることになっていたんですよ。いわゆる中学三年のはじまりでしょう。三年、四年、五年の人は銃の訓練やるでしょう。生徒は着剣したら自分のせいより銃の方が高いのもいたが、身体検査は、徴兵検査と同じように精密にやっていました。
護鄉隊員
今帰仁村字兼次設郷隊員諸喜田林光(二六歳)
自分はそれまでは、軍属で読谷飛行場にいました。そこで通信関係の仕事、飛行機の発着でしたが短波の傍受もやっていました。インドとかサンフランシスコとかの放送聞いてもう沖縄もだめだなと感じていたんですが。
ちょうど休みでシマに帰ったら、村の兵事係をしていた玉城鎮夫さんが、護郷隊の分隊長がいないから来るようにと来ていました。もう制空権もとられて、どうせ飛行機も望みないし、まあ護郷隊といったら、郷土を守るということだし、羽地の山なら家も近いからと、入隊することにしました。久郷隊に入るために読谷はやめたのです。
護郷隊に来てから、通信がとだえて、通信機の電池がなくなって、共同通信の傍受も出来なくなって、それから機材をとりに首里までいってきたんです。タニウ岳ではルーズベルトの死亡、沖縄への激励のことば、南大将のあれなんか傍受したあとです。
タニウ岳から久志に出て、久志の浜からサバニで平安座の間を通って浜比嘉でって、それから島尻の知念岬まで漕いでです。首里は包囲されて、南部へ撤退する直前です。
行きはサバニを三ソウ出して、着いたのは自分たちだけ、また帰りには二ソウ出してやはり自分だけでした。
行きがけに、浜比嘉では人情厚くて、昼にアメリカーが舟艇で上陸して来よったんですが、部落の婦人会からかくまってもらって、御飯も食べさせてもらいました。結局二泊して夜出ました。自分いれて七名。中城湾はアメリカーの軍艦やら輸送船団で一パイでしょう。これはもう生きて帰れないと思いました。
浜比嘉からサバニでまっすぐつっきって、夜ちょうどいく途中、やがて津堅との間で潜水艦にみつけられて、照明弾パンナイあげられてー。自分は泳げないが、あとはみんな海ンチュ述れていったんですがね。自分は軍服脱がないが、あれたちは変装させていた。みんな本部の青年たちでしたが。
船団の沖側を大まわりして沿いで、ようやく無事知念岬ついて、着く直前にも、津堅と久高の間になりますかね、照明弾あげられたので、四発目の照明弾が消えると同時に、すぐリーフからあがってですよ。やがて海の中でやられよったです。
知念岬ついてからは、友軍は全くかくれているんですから、敵か味方かわからんで。そこからちょっと上に部隊があって、海軍関係だったんですが、中城湾の船団を撃沈する任務だったんです。それで、漕いでくるときに状況みていたので自分らが船の配Dなんか書いたりして、是非船舶団にいってくれといって、むこうの少尉だったが―隊長は大尉だったんですがねーあの人に船舶団に連れていって、団長は大木という中佐だったんですがね、あの人はよくがんばったといって、お酒飲みなさいとくれてですよ、煙草も全然なくて困っているときに、両手一パイずつ分けて、雑ノウにお土産にもらいましたがね。
船舶団のすぐ隣りは軍司令部だったから、タニウの現況報告なんかやって、帰りは命令、布告敵に一滴の水も与えるなとか―自分らは資材の受領にいったんだが、何もなくて、述絡だけになりました。それで連絡はついて、牛島中将にも会って報告して、牛島中将なんか、あれから南下されたんですよ。「帰りも、知念からまた同じように帰ったです。そのときは岡軍曹といって、この人も首里まで来て帰れなくなっていたんですが、軍司令部から一緒になって、自分たち帰るといったら一緒に帰るといってーあれたちはやられました。出るときは二ソウ、途中でアメリカーの掃海艇か何かに撃たれてやられたんですがね。久志に潤いで戻って、久志からタニウ岳に帰りました。
浜比嘉ではあのとき歓待されたので、後に二、三回いったことがありますが、あの当時の区長は、自分らがあがった晩、アメリカーに密告されてカンパンにぶちこまれたということです。あとからいって、おわびしたんですが、申訳なくて困ったんです。
タニウ岳では食糧がなくなって、羽地の出身者なんか近い人はうちからもって来たりしましたが、自分らは今帰仁、本部方面の八十名連れて来たんですがね。今帰仁の隊具なんかまだ十九歳ぐらいしかならんですから、正式な兵隊でもないし、もう家に帰ったら、親がやらんわけですよね。それでもう、最後には二人になって、突破してタニウ岳へいくつもりでしたが、途中で熱発して、帰って来てからはもう本隊もわからず、隊員の家にもいけずに、責任上もう隊長にー。今帰仁から連絡も出来ないし。隊員には三回位集まるように連絡するんですが集まらないで、玉城清光と二人になったんですよ。背嚢に鰹節なんか一パイつめて、平城の山を通っていったがー。キジルといって名護のグムがあるが、アメリカーの機銃陣地がありましたが、こっちまで二回来たんですよ。この道を遮断されて機銃掃射でやられてみんな逃げて、掌握できなくて、清光と二人だけになって、背蓑は伊豆味の山にかくして、それからアーグという山にいったこともあります。銀次の学校にアメリカーがいて、むこうからまる見えでしたがね。この山で休んで木に登ったりしたから発見されて、砲撃されてひどい目にあった。
久志の収容所に収容されたときは、もう家にいました。それでみんなと一緒にいきました。あのとき、山にいったんですが、兵隊であることを見つけられてですよ。ショウズイさんと二人です。二人とも山に連れていかれて。そして何とか少尉と山にいたんです。あの日本軍も一緒に山おりたほうがいいよとすすめたんですが、それでおりた人もおったんです。あとからCICからいろいろ聞かれたんですよ。兵隊と知ってなんともなかった。あとから、じゃ君たち兵隊おろしなさいといって、あれから缶詰もっていったりした。あの当時、捕虜になるのはこわかった。
久志でみつかってからは、山の中の人たちを誘って、おろす役目をしました。久志から帰るときは、村のみんなと一緒でした。二十六歳でした。
戦争の悲惨というのはー。またと戦争なんかー。自分がタニウ岳から隊員たち迅れて帰ってから、三人に手榴弾わたしてあったんですが、それで二名なくなっている。一人は家に帰って、かくれていてアメリカーに。一人はジープ攻撃に手榴弾が点火しなかったんでしょうね。途中でやられて。家でなくなったのは船山の諸田善蔵さん、ウサバンタのところで。あれがうちの部隊でした。二人とも死んで、自分も一時は苦しんだ。
終戦なって、久志から帰ってきてじき、タキンチジでは、たくさんの戦死者の骨を埋めたんです。足の骨が出ていたりして、ちょっと見苦しいからといって。兼次の青年と一緒に。埋葬されていたのが何かに掘り返されていたのです。
護郷隊員
今村字諸志 宮城康ニ(十七歳)
謝花小学校で教育受けたのは一か月か五十日か、よく覚えていません。そこで護郷隊の訓練を受けたのです。キビシかったです。もう軍隊の新兵と全く同じでした。
それから家に帰って、しばらくして召集令状みたいな赤い紙がきて。その日わたしは畑仕事で、カズラを植えて帰ってきたら、召集令状きてるといって、うちの親父は男になったんだからと喜んで送られたんだが。入隊のときの着るものもないものだから、オジサンの上衣借りてズボンは自分のもので、それにスコップとクワをもって役所に集合しました。役所からはすぐタニウ岳へいきました。謝花で教育受けたときの人たちが分隊長とか小隊長とかになっているので少し安心でした。むこうへいってから小銃がわたりました。
解散後に蛟龍隊の渡辺大尉と合流し少年たちは一緒に行動するようになる。
入隊してからは第二中隊で、中隊長は菅江少尉―この方は米軍が上陸してすこしして戦死しました。上陸してから四日ぐらいしてからーアメリカーは夜になったら戦闘しなかったですが、それで夕方になって下りていったら、むこうの合言葉にかかって、すぐパッとやられてー。小隊長は宮城義雄という方でした。それから、ここではできないからといってタニウ岳へいってから、うちらは全部、糧秣もっていったら、タニウ岳にはもう設郷隊の陣地というより食糧おいてあるんだが、宇土部隊、警備隊から全部引き揚げてきて、糧秣全部食べられたもんだから、護郷隊は食糧がないから、各自の村に帰るように、解散といったから、それから源河山にいってから、渡辺大尉というのとあって、それから渡辺大尉と行動するようになったのです。
護郷隊では。
最初の頃は山にかくれて、三人組といって弾薬もって、夜になると私物(私服のこと=筆者)搾てタオルに十キロ爆雷包んでいって家や橋や、米軍の近くなんかに仕掛けてくるんです。その頃、呉我橋も破壊されました。あれは玉城秀一という分隊長が部下連れて、その中に友達の荻堂盛福もおりましたから、五00キロの不発弾の爆薬を使ったといっていました。戦闘といったら、三人組で各小隊から三名、ススキが人より高いでしょう、その中にみせていくのを、むこうからパンパン撃ってくる。目をあけようがないですよ。土がはねてきて。はじめ艦砲で撃ってから、ビービー飛行機が一回旋回したらすぐ艦砲、正確で十メートルとはなれない。それで土をかぶるのはどうもないが、破片がこわかった。何ともいいようのない気味の悪い音。三中兵といって、三中の生徒もいました。菅江隊にも入れて、兵隊なんかやられて、その中には上陸したときやられたのがいる。与那俄ヒロシといって三中の五年生で体も大きかったが、小銃はなかったので、竹槍の先に十五センチか二十センチ位の刃をつけて。
タニウ岳にいて戦闘したのは真喜屋攻撃ぐらいのものでした。あのとき越地の大城幸が昼間戦死しています。タニウ岳では、五食ぐらい食べなかったこともあります。乾麵包二日一袋とか、にぎりめし一日に二つとか、腹がへってたまりませんでした。だから山の中を移動するとき、弾丸が飛んできても、野イチゴがあったら両手で頬張りました。ヘタなんかとるヒマもないで。一週間か二週間、そんな状態でしたが、真喜屋攻撃の前の日は飯盒いっぱいのジューシー、腹一ぱい食べきれなかった。戦闘のときこんなに食べれるんなら毎日戦闘でもいいと思いました。それの翌日が真喜屋攻撃、それまでは仲尾次山に中隊があったもんだからー。真醤屋攻撃のあと、良くしないでアメリカーがやってきました。真喜屋攻撃の前に、中隊長の前に坐らされて、お前らも戦闘にいくからといって、御飯も飯盒に一パイずつ、三名にくれて、あの時まで中隊長は元気だった。真宮攻撃の四、五目あとか、二、口あとか、とにかくあれが終ってからタニウ岳にいった。タニウ品にのぼって一回しか戦闘しないから。あれの前に一回は攻撃された。宮城義雄小隊長は軍刀抜いて前へ前へと号令ばかりかけるが自分はうしろにしかいないから誰も進む人がいなくて、宮城兵長が軽機をうばってバラバラバラとしてやったら全部前へ進むようになった。全部前へ進むとアメリカーはずっと退がっていくわけ。退ったかと思うとすぐ、山砲、迫撃砲がサーラナイで。
その戦闘で、むこうから来ているのがわからなくて、うちらその下のガケのくぼちにかくれていたり、その症、自分らの真上で継機すえてむこうげちよった。来たら手榴弾でやるつもりでいた。
それでも、戦欧らしい戦闘は共原攻撃ぐらいのもので、あとは個人的に三人組でいって、爆薬るっていって爆破したのが一回ぐらい。あれは真屋攻撃の前の晩、民間の家を焼きなさいと命令で焼いた。爆薬は直径十センチぐらいの円筒型、設郷隊にいて戦闘といって大してなかった。むしろずうっとあとで海軍と一緒になってからのほうが大きかった。全体としてはアメリカーに追われることのほうが多かった。
護郷隊とは異なる海軍の渡辺大尉と合流。十代半ばの少年たちをアメと鞭で懐柔し、食糧確保や鉄砲玉として使った敗残兵。
タニウ岳で解散してから、みんなで国頭へいこうと今帰仁村出身の友達八名と源河山へいった中村岡久(運天)、小那覇安敬(渡曹仁)、荻堂盛福(呉我山)、上問政信(平敷)、仲里茂直(平坂)、与那謡ミツオ、金城林昌(﨑山)。源河山へいったら、つるが隊という海軍の渡辺大尉というのがきた。
運天の海軍部隊の将校で中村喜久が知り合いなので一緒になった。渡辺大尉は「戦闘にいっても君達は年も若いし正式の兵隊じゃないんだから死んではいけない、捕虜とられてもすきを見て逃げてこい、絶対に死んではいけない」といった。しかし渡辺大尉は海軍で自分らとは関係ない人です。
自分ら八名は川の水のそばで休もうといっているとき、彼らが来たわけ、そのとき喜久が知っているというもんだから一緒に行動やろうということで、民家にいって何かさがそうとしたら山羊がおった。五十斤か六十斤くらいの大きい雄山羊。そこの人は絶対売らないという。平敗の政信は口がうまいからね。あれが、この人は中隊長だが、この上にもっとえらい人がいるので命令されて買いに来たと。だから日本刀を抜きはしないと。家の人はこの山羊は息子のものだから駄目といって。五十円あるがそれでも売らないという。売らなければ徴発してこいといわれているぞといったら、相手も合点して売ってくれたわけ。それは殺して、渡辺大尉には焼肉にしてあげたが、翌日は下痢して、火傷したという兵曹長にも肉あげたらよけい発散した(悪くなった)。夕飯はこの山羊の御馳走で満腹した。あれはもうこりて食べないので。
あれからまた二、三日して、念はあったが別の家から、家の人がいないとき小さい山羊をとってきて料理しようとしたら主がきて返せという。金払うつもりだったのが、人がいないので先にやろうとしたんで決して盗むつもりではなかった。まだ腹をあけただけだった。そばで近所のオッサンがいて、その人は支那事変に四、五年いたとのことだったが、民家のものをとったといって怒っていた。こちらは軍服着ているので人を何とも思わなかった。なぜ死ぬのか、何時死ぬのか判らない状態だったから人を恐いとは思わなかったんだが、そのオッサンにさんざん怒られて、標準語でいっているから趣うございましたと頭ペコペコやってるんだがー。そしたらむこうで渡辺大尉が聞いているわけ。それでそのオッサンに来い、何か、お前叩き殺すといって軍刀に手をかけている。山羊の主がペコペコ何回も頭をさげて、刀を抜こうとするところをつかまえてー。自分らは何とも思わない。散々に怒られているから、自分らが悪いことしているのにー。殺すといっても何とも思わなかった。とうとう斬ることはやめて、帰ってきて、また人の話掘ろうとしたら、おばあさんに怒られて、八十過ぎるおばあさん。そのままやめて、とうとう、ここではできないから今帰仁に渡ろうといって、あれから渡ってきたです。源河山におるときは松仁おじさんなんかみました。あの人は防衛隊にとられていた。
今帰仁に引き揚げるときは、自分らは後に亡くなった小那浦安敬と二人で斥候みたいにいって、五百メートルぐらい先になって部落の状況みて、大丈夫だったら呼んで逃れてきて、そうして仲尾次の部落を突破して、それから仲尾の部落は隠れるところがないから五十メートルぐらいはなれて。呉我の場合はみんなは仲尾の隅っこに待って、自分らはずっと呉我橋のところまでいってきて何でもないよとまた呼びにきてあれでまた、今のスバルマリーナのところから山に入った。少しでも大きい道、車の通る道はよけようとした。どこで米軍に会うかもわからないから。
逃げようとしたこともある。収容所の家族のもとに行くと、日本兵の食糧調達や虐殺に協力している護郷隊なので家族に危険がおよぶとして追い出されてしまう。
自分はもう小那覇安敬と二人で、もうこんな難儀するより、二人で出ようか(逃げようか)といったこともあるですよ。県我までいって交替しようといっても誰も交替しようという人がいない。彼らは待っておいてソテツのところに隠れたりして何もでないようにして、本当にアホらしいからあれからほっておいて二人だけ逃げようかといって。自分らの隊長ならだけど、何も知らない、喜久だけが知っているだけで海軍であろうが陸軍であろうが、他人だからといって。
山に入って嵐山か呉我山のあたりまできて、もう今帰仁に帰ったので、また明日会おうといって別れた。それで自分は二、三日いかなかったら中村喜久が呼びに来た。
うちの場合は姉が四名もいるから、毎日のようにアメリカの憲兵がきていた。一番上の姉(のちに亡くなった)は英語が少し判ったし、親戚にスペインから帰ったオバサンがいた。それに憲兵がスペイン人だということで、よけいに親しくなって、だから、自分が帰ったら大変であるわけ。山に隠れてばかりいるから色も白いでしょう。それで、うちにおるなと。ユーは軍隊にいったんだからどこで死んでも、ユーは名誉の戦死である。うちに帰ったら、うちが大変だから。ユー一人のためにうちの家族全部が大変なったら危いから、ユーは山にいきなさいと、おやじにも迫っぱらわれて、あれからもう全然うちにこなかったですよ。シマの隣りの兄さんとはとても親しかったので、夜はあっちの家で御飯たべて、すぐに山に逃げてうちには絶対こなかった。あの方は護郷隊はのがれたが、あとで防衛隊にいって亡くなりました。
再び渡辺大尉のもとに。
中村富久が呼びに来たのでまた山へいったのです。渡辺大尉とは伊豆味の、嘉津宇岳のすぐ下の部落で出会いました。友軍の飛行機が山にぶっつけて不時着したのをみにいきました。民間人もたくさんみに来ていた。
渡辺大尉たちがいる部落には運天の海軍部隊の兵隊たちがいました。運天からは、トキねえさんとカズねえさんとマサ子という人と三人ついて来ていて、あの方たちがいたから自分もながくいることができたんです。あの姉さんたちは、兵隊たちとは運天からずっと知り合いで友だちみたいになっていて、民間であれされるよりは友達と一緒に殺されてもいいというぐらいに。年も若いし気持があの当時の女子青年だから、自分らよりか年上ではあるが、自分を子供か弟のように着物のつくろいをしてくれたり、兵隊と起居を共にしていたが、自分は兵隊と姉さんとの中にはさまれて寝るというぐらいで、自分がいなければ、ねえさんたちも絶対あれらと一緒におれないと、御飯もトキねえさんたちが炊いてくれるという生活が続きました。それでも五月まではいなかったと思います。
ある日この部落の人がアメリカーに連絡したのです。自分らが運天いって食糧持ってきて、一人の人は百斤ぐらいの豚もってきて、昼食には脂や骨のところで我慢して、夕食はスキ焼しようと楽しみにしていた。その日に米軍がパンパンやって来たのです。部落の上から、このとき隊長はいたかな。何とか兵西長(安長兵曹長?)が拳銃もって、米軍みるといって立ち上ったところを概から撃たれて死にました。みんなは米軍二、三名だからこっち来たら迎え撃つっもりで両方に分かれて小銃構えて待っていたが、やられたといってもうめいめい逃げ勝負―。自分は三堤で戦死したという海軍の中島中尉の軍刀あずかっていたのでそれと飯盒もって逃げてー。軍刀は長いものでそりのある立派なものだったが、あとで壕の中に食瓶と一緒にかくしておいたのを、一週間も壕にいかなかったら、食種も日本刀も全部荒らされて、あの日本刀は値打るのだったろう。とても立派なものだった。多分移動する日本兵がもっていったんだろう。
海軍部隊は自分がいなければ困るわけ。食糧運んでいくし、言葉も年寄りとは通じないでしょう。それで煙草でキゲンとったりなんかして、自分は何のためにいたか判らなかったがー。
謝花喜睦の虐殺。白石隊。
このころのある晩ーといっても夜明けがた、海軍の山田兵曹(上等下士官だったと思う)が部下四、五名つれて、軍服に血いっぱいつけて帰ったことがあります。返り血というんですか。渡喜仁の警防団長 (謝花喜睦) を斬った話をしていました。引っぱり出すところから斬り方まで、動作をつけて説明していました。小那覇安敬の親戚(オジサン)になっている人だから、キミはこんなことすると大変だから、帰りなさいといって帰したんだが、渡辺大尉はワンマンで、自分ではやらないが、今帰仁のえらい方を三名殺させているのです。
渡辺に部下として使われる。住民を脅し、「逃げるのは撃ち殺すぞ」と、食糧の徴発をする17歳の少年兵。
自分が二、三日いなかったといって、ひどく怒られたことがあった。うちに帰ったら戦闘やる気持がなくなったのかといって、自分ら同じ分隊でも何でもないから、そんな海軍のいうことなんか聞かなくてもいいという気持でいたし、ほかの背年たちはいかないのに、自分はいったら怒られて、シャクにさわっていた。本当いえば自分がこの連中つれて来てやったのに、上官や部下たちに紹介するのにはオレが連れてきたとか一緒に行動しているとか、子分みたいに。面白くないから、もう飯一つあればどこでも食えるんだからということで日本刀一つもって逃げようとするときに、また同じ兵隊に会ったわけ。どこにいくかと―逃げるというわけにもいかんしどうせ逃げても一緒だし、会ったからまた仕方なく一緒にいて、これからアーグに一か月いました。
アーグでは五名ずつわかれて、全部で二十名ぐらいだったか、そこには精宮校長(玉城)、ひろし(玉城)先生、上間政春先生、光正(吉田)先生なんか四、五名一緒に別の小屋にいました。アーグというのはタキンチデの下の方。二か月ぐらいそこにいて少しは戦争なんかしました。攻撃で軽機ももっていたが薬莢がかかって出ないで引き揚げたんだが。でも大体は、初の星(暁の明星のこと)が出るころ朝御飯たべて、にぎり飯でも藷でも炊いて、すぐ山にのぼって十二時頃までグッスリ寝て、日がかくれる頃また人家の方にくるというのが日課でした。
昼頃からパンパンしてアメリカーが上ってくるから、それまで山にかくれていて、六時頃、くらくなったらあれらおりていくからー。帰って来たらまた御飯の準備、各分隊毎にやって、女も三人の人たちは炊事をやって、自分ら藷なんかとってきて、一度は夜にアメリカー来ないからと堂々とやったりした。また一度はウフドウの部落では、家に入ったらコラッといわれ、コンバンワといったらすぐ逃げるわけ。コラッといったのは村の青年連用がドロボーの見張りであったわけ。連中が逃げるので、誰か、逃げるのは撃ち殺すぞと標準語でいったらすぐ引返したので、訳をきいたら、昼間あんまり荒らされるから夜は見張りしているということでした。またほかの家の裏座敷をあけたら、五十位のおばさんが髪をといて押入の中に寝ていたのが、開けるとパッと起きて何もいわない、オシでもない。他の兵隊さんが標準語でいっても、自分がゥチナーグチでいっても一言いわないでー。
山にいる兵隊たちの食糧は自分がいつも世話をした。こちらが、あれらの面倒みているようなもんだから。
邦夫や林昌らは源河から今帰仁に帰るまでは一緒だったが、呉我山で解散してからは何も行動していないはずです。行動したのは自分と呉我山の荻堂盛福の二人だけです。
あるとき、うちへ帰ったら誰もいない。満月の晩で山羊の鳴き声が聞えるだけ。あくる朝、山にのぼるとき大城哲夫さんの親戚の人に、みんな久志にいったというのを聞かされました。そのときは各部落の山の入口には全部アメリカーのテント張っている。兵隊三名ぐらいつれて兼次バンタからおりてきたわけです。あそこにはアメリカーいない計算で。そしたらアメリカーはタンクのところにテント張っているわけ。ところが中にはいないで、土手のところに寝ていたのです。あの当時は各個攻撃とかいうのがあることを知っているから、外にいたわけ。二人いるのがわかった。こっちははだしだがむこうは靴カパカパしている。ハローとかなんとかいってすぐパンパン撃たれたわけ。ちゃんとねらったら当ったはずだが、接近して五メートルか十メートルぐらい、土手から引っくり返って撃ったらしい。自分はすぐ走って逃げたんだが兵隊の一人もあがって来たが、あと一人はあがって来ないから、また引き返してみたら、むこうからホフク前進みたいにして来よった。恐しくて、これではもう家にはいくなといって、自分一人はどうしてもいかねばといって、ガツコージの幸米おじさんところの門から出られないで、モリサンャーといって田んぼの口のところからうちに帰ったんです。帰ったら誰もいない。シーンとしている。大豆とかいろんなものもちゃんとしまってあるから、羽地や迅人みたいなことはされないで、砂糖でも立派に保管してあるから、いつかは帰ってくるだろうと思って、隣りに砂糖と大豆もっていって燃て、あの時は帰った。羽地や運天というのは、運天の人たちが引っ張られていった(羽地強制収容のこと)あとをみているからです。あのときは運天にいったら、庭にムシロ敷いてお茶やお茶子も山して、豆腐ひくといって半分はひいてあるが半分はそのままバケッに、洗溜はタライに入っているが二、三枚は干してあるというありさま、そのまま引っばられたことが判りよったですね。子なんかちょっと偽りかけていたが、ほかのものは何ともないぐらいのときだから、その次の日ぐらいだったかー。
兼次のキャンプ攻撃にもいきました。あれやったからといって、そのあとうちの方はアメリカーの警戒で大変だった。自分はボロの着物着て康子(内間政氏の長女)をおんぶして親泊までいった。親泊にはアメリカーの病院や部隊があるといって、様子みにいかされよった。それで御城は内間で食べて、小さい子おんぶしてアメリカーの前を堂々と様子みにいった。それで夜、燃薬持っていくわけ。これ攻撃したときは二晩寝ずに。伊豆味の方、暗くなってから出られないもんだから明るいうちにむこう出て、でまた晩に歩いて帰って、すぐまた自分が兵隊たちの先頭になって道案内にきて、暗いのにアメリカー来やせんかねえといって、何とか少尉というのは三番目に歩いているのだが、大きい道に出る前には必らず銃出しているんだが、そのくらいに上になっている人というのは戦闘になった時には駄目ですね。渡辺大尉という人なんか、もう戦闘あと百メートル、二百メートルというころになったら腹痛むといって下士官に抱かれて、何もできない。仮小屋に休むといって、戦闘やりなさいやりなさいと口ではいうんだが、いざ戦闘、二百メートルぐらいになったら急に腹痛くなって、うちらだけやらすわけ。それで自分はよけいアホらしくなったんだが、もう帰るところはないし、また日本のためだからと、死んでも仕方ない。親父に追っぱらわれたんだからどこで死んでも、ためになればいいんだからという考えもあってやったんです。
(渡辺大尉と護郷隊の少年兵たちのゲリラ攻撃は米軍の基地や地元の住民をも標的にしており、親子の関係すらを分断するものだった。)
山にいて、山とシマと往復していたが玉砕(日本の敗戦のこと=筆者)を聞いたのは八月の下旬だったと思う。それで玉砕もしたから、自分らここで全部死んでもいいし、シマの人がいる大浦崎へ帰ってから自分らもう捕虜されるから自殺するか、どっちかを選んでやれ、自分が今までやったことは何だからと、全部整列して、御苦労だったということで敬礼されて、日本刀もなくしたからといって、海軍の短剣をユーにゆずるからといって。これ持っていたのだが、自分がシマに帰ってくるときに、親父がアメリカーと米の袋四使と換えてきているわけ。今は記念にあってもよかったと思うのだが、あの当時食糧が不自由だったし、自分がいないときにやったんだから。あのときには親父は自分を何とも思わないで、自分がいてもやれと命令するぐらいだったからー。
シマへ帰ったときはみんなもう、大浦崎へいっているから、食糧もっていった。もう日本も玉砕しているから、大浦崎へいっても親父ももう喜んでくれた。食糧運んでいったんだが、年齢十六歳以上は訳問あるからといって、区長さんが命令で行きなさい、すぐ逃げなさいといわれて、またすぐシマに食糧とりに来て。やっとむこうへついて疲れているのに訊問があるといって、すぐその晩に帰って来よったですよ。自分がいなかったら家のものは食いもの困るし、兵隊の年頃でもあるし、バレて留置場に入れられたら区長さんも困るというので、そうしたのですよ。だからもうずっとシマ行ったり来たりして自分がいるためにうちの人は食事は三回。二回はおカユ、昼間は一回イモ御飯で問くして食べるとかして、普通のうちよりはよかったと思う。大浦からみんな引き揚げてからはもう、何もなかった。
《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》
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