沖縄戦と昭和天皇 - 二転三転の沖縄戦 - 昭和天皇の「御宸念 (天子の意向・考え) 」がどう日本軍の戦略に影響を及ぼしたのか

さて、天皇皇后が来沖した。

 

在特会系極右団体チーム沖縄メンバーのツイートから

 

なぜこの時期なんだろう、この沖縄に、と感じている県民も多いなか、そんな沖縄県民の気持ちは、さっぱり推し量られることもない一方で、

 

たとえば、社説:天皇陛下の沖縄訪問 寄せ続けた深いお気持ち - 毎日新聞などと、天皇の「深いお気持ち」を「推し量ろう」とするメディアが続出している。

 

しかし不安クラブは、天皇が決して語らないかもしれない「ご宸念」を、せっせと推し量ろうとすること自体には全く関心がない。

 

むしろ、本土の各メディアがどのようにこの天皇来沖を伝えるのか、この時期の天皇来沖にどのような政治的な意味が付与され、メディアがそれをどういった「記号」として伝えていくのか、そのことにこそ、注目していきたい。

 

uyouyomuseum.hatenadiary.jp

 

なぜならば、73年前の沖縄戦でもまた、この天皇「多大ノ御宸念」(多大なる天子の意志・考え) によって、沖縄戦の戦略は二転三転と転換をしいられ、そのたびに膨大な命が失われたからである。

 

Twitter で nos 氏が非常に解りやすく説明をしておられたので、不安クラブが、勝手ながらおマトメさせていただいた。

 

つまり、沖縄戦の司令において、昭和天皇の「御宸念 (天子の意向・考え) 」はどのような具体的な力を持っていたのか、ということだ。

 

 

 

 

(沖縄戦再録:1)米軍の猛爆撃、参謀が浮かべた微笑 - 沖縄

朝日新聞デジタル

 朝日新聞の元那覇総局長で、現在論説委員の谷津憲郎記者が3月末から連日ツイッターで発信している【沖縄戦】を朝日新聞デジタルで再構成しました。1945年3~6月、米軍の上陸前後から「終結」まで1日ごとに何があったのかを、様々な資料から振り返ります。沖縄戦当時の写真やキャプションは、沖縄県公文書館の提供・許可をいただき、使用しています。各回の末尾には沖縄戦をより深く知るためのキーワードをつけました。

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1945年

3月29日@首里

 鉄血勤皇隊となった沖縄一中の約220人に、新品の軍服や軍靴などが支給された。当時3年生だった石川栄喜さんは「嬉(うれ)しさのあまり、用もないのに池端、当蔵通りを歩き回った。それだけでは物足りなくて、那覇の焼け跡まで足をのばした」

 

3月30日@越来

 上陸にそなえて米軍は猛烈な艦砲射撃を加えていた。移民先のペルーから引き揚げてきた比嘉カマドさんはこの日、避難を決意。食料探しに行った家の裏手で悲惨な光景にぶつかった。「直撃弾に当たったのでしょう(略)誰かの足が木の枝にぶらさがっていました」

 

3月31日@豊見城

 船舶工兵の連隊本部と中隊を結ぶ電話線が米軍の砲撃で切れた。野村正起・一等兵は夜、補修を命ぜられて高台へのぼった。北西の方角を見渡す。「はるかな海上には、こうこうと電灯に輝くアメリカ艦がひしめいて、さながら大都市の灯をのぞむようであった」。上陸前夜。

 

4月1日@首里

 続々と押し寄せてくる米軍を、第32軍幹部は双眼鏡を手に観望していた。本土決戦を一日でも遅らせるための持久作戦。ほぼ無防備の海岸へ、そうとは知らずにありとあらゆる爆撃を加える米軍の姿に、八原博通高級参謀は「こんな痛快至極な眺めがあろうか」。微笑を浮かべた。

 

4月2日@読谷

 約140人が潜んでいたチビチリガマという壕(ごう)に米兵が来た。観念した住民の手で集団自決が始まる。「お母さんの手で殺して」と懇願する娘。長男にまたがり包丁を振り下ろす母。「みんなどんどん死んでいく様子が真っ暗な中でもわかるのです」。約80人が亡くなった。

 

4月3日@中城

 米兵に銃口を向けられ、元教師だった喜納昌盛さんは死も覚悟しながら「ユー、アメリカ、ゼントルマン」と呼びかけた。すると別の米兵が「ああ、喜納先生!」。かつての教え子だった。地元の学校を出てハワイへ。そして開戦。奇跡的な出会いが多くの命を救った。

 

4月4日@本島中部

 占領地域を広げる米軍に問題が持ち上がった。次々と投降してくる民間人の取り扱いだ。この日までに保護した住民は6335人。ニューヨーク・タイムズはこう伝える。「沖縄人は、彼らを劣等民族として扱っていた日本人とはほとんど異質である」

 

4月5日@読谷

 米軍政府が開設され、慶良間・本島上陸時に引き続き、南西諸島を本土から分離し占領することが宣言された。いわゆるニミッツ布告である。「米国軍占領下の南西諸島及其近海居住民に告ぐ(略)日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止す」。ヤマト世からアメリカ世へ。

 

4月6日@宜野湾

 2週間近く壕で過ごした宮城真英さんが捕虜になった。外へ出てみれば、いたるところ米兵だらけ。軍用車の音を聞いては首をはねる兵器だと目をつぶり、口笛の合図を聞けば銃殺かと観念した。「今私の頭上に爆弾が落ちて米兵もろとも吹きとばしてくれるよう」に祈った。

 

4月7日@坊ノ岬沖

 沖縄特攻の命令を受けた戦艦大和が爆沈。昭和天皇後にこう語る。「陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢(すてばち)の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった(略)私は之が最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦(また)已(や)むを得ぬと思った」(つづく)

 

 ⇩ ここから nos 氏の連ツイまとめ、させていただきました。

 

第一回の最後、4月7日の大和爆沈のところに、昭和天皇の言葉が引用されている。これだけ読むとちょっと誤解するんじゃないかな。4月前半の沖縄戦の裏で天皇と日本軍上層部が何をしていたのか、少々紹介してみようか。https://t.co/LURrxZjzaC
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

沖縄戦当時、大本営陸軍部の中枢、作戦部長だった宮崎周一中将の日誌がある。陸軍トップの参謀総長とも近かった宮崎は、天皇が何を語ったか、それにより大本営がどう動いたかを詳細にメモしている。米軍の本島上陸の二日目、4月2日には、天皇は「敵上陸ニ対シ防御ハナキヤ」などと失望を表明した。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

4月4日 5日の日誌にも総長は上奏の際に天皇「多大ノ御宸念」を示され、この戦いが不利となれば軍は国民の信頼を失い今後の戦局を憂う、「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」などと発言したとある。天皇の「御宸念」はただちに各部隊に伝えられた。その結果、何が起きたか。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

大本営からの発破を受けた台湾軍は、組織上はその下に位置する沖縄軍に対し「グズグズ云ワズ総攻撃ヲ命シ 決行ヲ八日夜ト命ス」る事態となった。昭和天皇は戦争をやめる「聖断」以外は直接戦争に関わっていないなどと誤解する向きがあるが、これなどは天皇の意思が沖縄の軍に影響した例ではないか。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

沖縄の現地軍にムチャな攻撃を命じた原因は天皇にあるのか。戦後、旧軍幹部が執筆した『戦史叢書』はいわば軍の”正史”にあたるわけだが、その『沖縄方面陸軍作戦』巻には、各方面からの要望を受け沖縄の司令部は<4月3日>に攻撃すべきか否かの会議を開いたと記述されている。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

4月3日に沖縄軍が攻勢を検討したのであれば、4月4日の天皇の「御宸念」は時系列的には影響していないことになる(実際は3日にも天皇の意思が示された可能性が高い、後述)。ところが、沖縄軍の参謀・八原博通『沖縄決戦』では、攻勢についての会議が開かれたのは<4月5日の夕刻>とある。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

そこに、天皇の責任を回避する日付の操作があったのかどうか?残念ながらこのことを深く突っ込んだ研究を知らない。だが、刊行された『宮崎周一中将日記』では抜けているのだが、4月3日にも総長は上奏し、その後、総長は宮崎に沖縄軍に攻勢の指導を行うよう指示した旨の記録がある。つまりー、
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

4月3日〜5日にかけて、天皇により、沖縄に米軍が上陸したことの強い懸念が示され、それを受けた大本営が働きかけたことにより、沖縄の軍に米軍への攻勢が命じられた、こう考える方が自然なのである。命令された8日の攻撃は米軍の動きにより12日に延期されたが、多数の犠牲を出して失敗した。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

有名な戦艦大和についても触れておこう。大和が沖縄に特攻し沈んだのが4月7日。この結果に至るまでの海軍上層部のやりとりは有名だが、はたして天皇はまったく無関係なのだろうか。私は、3月29日の海軍トップ及川古志郎大将の上奏にひとつのヒントが隠されているのではないかと思う。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

本島に先んじて3月26日には米軍は慶良間諸島に上陸を開始。軍令部総長及川古志郎がそれら戦況を天皇に報告したのが29日天皇はこの戦いが帝国の存亡を決すると憂慮。及川が航空特攻を強化すると答えると、「海軍にはもう艦がないのか」と問い質される。及川はあせり海軍に緊急電文を発した。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

宮崎周一中将日誌には、4月5日夕方、台湾総軍が沖縄に攻撃を命じたとしたすぐ直後、「尚之ヨリ先GFハ右ノ球ノ総攻撃ノ決意ヲ知リ之ヲ徹底スル為第二艦隊ニ対シ沖縄突撃ヲ令シ」とある。つまり、天皇の意思を忖度した陸軍、その陸軍に呼応して海軍も突撃を命じたというのだ。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

1945年4月初旬の沖縄戦をめぐる軍上層部の動きは、沖縄現地軍に攻勢を強めさせ、また海軍の海上特攻を煽るものだった。そしてその見えにくい中心に、昭和天皇の姿が見え隠れする。こうした裏の動きを知っておかないと、現場で幾多の死傷者を出した、その歴史の意味がよくわからなくなる。
— nos (@unspiritualized) 2016年6月21日

 

不安クラブでは、3月23日から毎日、今日の沖縄戦シリーズを投稿している。

 

注意してみていただきたいのは、沖縄戦前半の二転三転する日本軍の戦略転換、あるいはブレ

 

それらは決してまったく戦局にいい結果をもたらさなかったどころか、アグレッシヴな戦術に転換したことで、また途方もない犠牲を生みだしたのだが、

 

その背後には、昭和天皇の「多大なる御宸念 (天子の意向・考え) 」があったということだ。

 

そのことを忘れて沖縄戦を理解することはできない。

 

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