1945年4月9日 神山島に斬り込みさせられた糸満の漁夫 ~ 「英雄的行為」美談の裏側

  

1945年4月9日 神山島の切り込み作戦

4月7日、巨額の国家予算が投じられた日本海軍の巨大戦艦「大和」とその艦隊が、わずか数日の判断で海上特攻を命じられ出撃、4044名の命とともに海の藻屑と消え果たその頃。

 

沖縄南部ではもう一つの名のない切り込み作戦が計画されていた。

 

その無謀で絶望的な切り込み作戦には「使役」の名で集められた糸満の漁師「うみんちゅ」が送りだされた。

 

糸満はサバニと呼ばれるくり舟をつかった漁業が盛んな場所であった。

糸満の海辺で、漁から戻った木造舟「サバニ」を囲む女性たち。

ウミンチュから魚買い、街で売るのは妻たち 糸満の海辺 - 沖縄:朝日新聞デジタル

 

1945年3月31日、米軍が神山島にカノン砲を設置

3月31日、米軍が慶伊瀬島 (神山島) に上陸、ロング・トム155ミリ砲24門を据えつけて以来、首里および那覇を昼夜の別なく撃ちまくっていた。

 

神山島、この距離から小禄那覇首里まで打ちまくる米軍のカノン砲とは ・・・

神山島に設置させた米軍の新兵器 M59 Long Tom

M59 'Long Tom' - Wikipedia

 

日本側の記録に残る神山島の切り込み

 

1945年4月8日『首里の攻防・第1線』

ところが、これに対抗できる守備軍の砲台は、長堂西側高地の15センチ加農砲2門と小禄飛行場付近の一部の海軍砲台しかなかったが、それもいざ実際に砲撃してみたら届かず処置なしの状況。たまりかねた船舶工兵第26連隊長佐藤小十郎少佐は、4月8日夜、部下の西岡健次少尉以下約50名半数は糸満の漁夫)の決死隊を9隻の刳舟に乗せ、〝斬り込み〟攻撃をかけさせた。その結果、砲3門と重機関銃2を爆破し、三日間は米軍の砲撃を沈黙させることができたが、生還者は十数名だけであった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 30頁》

沖縄戦の作戦参謀 八原高級参謀の回想: 

軍としては、まったく処置なしで泣き寝入りというところに、那覇港内にある船舶工兵第26連隊長佐藤少佐から、ぜひ選抜部隊をもって、神山島に斬り込みをさせてくれとの意見が出た。海軍側も大賛成だという。敵艦艇のうようよしている海面を突き切っての行動なので、成功が危ぶまれたが、なんとかしなければと皆焦っていた時なのでとうとうやることになった。… 4月9日夜 *1、船舶工兵連隊長は、部下西岡少尉以下約50名(半数は有名な糸満漁夫)をして刳舟を利用し、敵の警戒至厳な海上を巧みに突破して敵砲兵を急襲させた。参加予定の海軍側は、出撃当夜、発動艇故障のために、この冒険行に加わることができなかった。海上斬り込み部隊のうち、生還した者はわずか10余名で、わが方の犠牲も大きかったが、爾後三日間神山島の敵砲兵は一発も発射してこなかった。全軍大いに溜飲を下げ、心から西岡少尉らの英雄行為に感謝した。

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 177-178頁》

 

「砲3門と重機関銃2を爆破」

「西岡少尉らの英雄行為」

しかし実際はどうなのだろう。

 

 

沖縄戦で、他県としては最大の戦没者を出した北海道で、1965年から267回にわたって北海タイムスが連載した「ああ沖縄」は、住民や「スパイ」陰謀論についての記述など不正確なところがあるものの、戦争20年後の貴重な証言を記録している。

 

神山島の斬りこみ

北海タイムス「ああ沖縄」(21)

4月24日 この日から連日の降雨。米軍の進攻作戦は停滞気味。

沖縄の住民は、男女を問わず戦闘に参加し、勇敢に戦った。その戦いぶりを四月九日付け志田手記から――

 

神山島(那覇西方海上五㌔)からの長距離砲の砲撃が日本軍には痛手だ。軍司令部のある首里高台一帯が、夜昼なしに猛砲撃にさらされている。この長距離砲二十四門を破壊するため、船舶工兵第二十六連隊の奇襲攻撃が、九日夜敢行された。

と書いているが、この真相を沖縄タイムス社の調査を資料としてつづってみよう。

 

島尻の真壁村古波蔵(こはぞ)に、船舶工兵隊のゴウがあった。6日朝、ゴウにいる現地防衛隊員のなかから海に経験のある者6人が使役の名目で呼び出された。6人に毛布と2日分のカンパンが渡された。彼らは糸満漁夫だった。国吉の船舶連隊本部へ連れてゆかれ、中隊長の訓示を受けた。任務の内容はわからないが、単なる使役ではなく、なにか重大な任務を与えられようとしていることを感じた。

 

金鵄(いまのバット)を二箱もらった。氏名を記録され、大里部落(高嶺村)まで二㌔ほど歩いた。そこで下士官引率のもとにトラックに乗り北上した。小禄近くの真玉橋部落に着いたのは午後六時ごろ。海上特攻第26連隊があり、兵舎にはいった。各地の防衛隊員がたくさん集められていた。

 

長いテーブルが準備され、酒や料理が出て、会食がはじまった。恩賜のタバコを一本ずつ手渡された。一人の下士官が白はち巻きをしめ、軍刀をふるって盛んに気合いをかけている。兵隊が、防衛隊員に一人ずつ白ダスキをかけて歩き出した。全部かけ終わると、隊長の訓示が始まり、任務が、初めてわかった。

 

神山島の米軍砲兵陣地に切り込みを行なう。今晩、ただちに出発―西岡少尉指揮。クリ舟十隻。一隻にこぎ手が一人と兵三人が乗り込んだ。九時半出発の予定で、那覇港口近くの南明治橋たもとの岩かげに待機することになったが敵の艦砲が激しく、各舟とも待機場所へ進めない。そのうち、先頭の一隻に砲弾がサク裂、乗員がやられた。

 

西岡少尉は、決行不能と判断、次の指示をうけるため、真玉橋の連隊へもどった。連隊長は怒髪天をつく勢いでどなった

 

「バカどもッ!今晩中に、ただちに決行しろ。いったん出て行って、おめおめ帰ってくるやつがあるか。司令部には、もう、今夜決行と報告しておるのだぞ、帰れッ」

 

少尉が南明治橋についた時は午前五時半。ピストルを部下に渡し「撃ってくれ」といった。第二小隊長が「隊長、もう私たち隊には帰れません。今晩できなければ、あすの晩、あくまでも目的を完遂しましょう」と慰めた。

 

夜が明けると、ヤケ気味の西岡少尉は、企図の暴露も空襲もおそれず、九隻のクリ舟をならべ那覇港内を三回も往復して上陸演習を行なった。だが、この晩も、米艦船が港口にいて出られなかった。

 

三日目の午後八時。西岡少尉の鳴らすベルの音が低くひびき九隻のクリ舟が一斉に発進した。海上には障害物もなく、企図も見破られず、午前一時ごろ神山島到着。第一小隊、第二小隊と砂浜にとびおりた。

 

このとき、なにを思ったのか西岡少尉は信号弾をあげてしまった。決行前だ。三分とたたぬうちに、雨のような機関銃弾が集中した。防衛隊のこぎ手たちは死にものぐるいで舟を島から遠ざけた。島は照明灯で明るくなった。こぎ手の視線に、切り込み隊員が黒い小さなかたまりとなって敵陣へ突入して行くのが見えた。

 

島は直径三百㍍の浮州。爆発音や銃声がひとしきりひびきわたり、やがて、静かになった。こぎ手たちは、西岡少尉から、三十分後に、舟を海岸につけておけと命令されていたので、二隻だけ海岸につけた。生存者は西岡少尉以下わずか五人。

 

少尉は連隊へ戻り、つぎのように報告した。

「重砲三門、重機二丁破壊、人員殺傷多数」

 

決行前に、なぜ西岡少尉は信号弾をあげたのだろうか。そのため発見され、防衛隊員をふくむ戦死者二十二人を出してしまったのだ。

 

少尉が、部隊で命令をうけたのは、三日前である。三日たっても、神山島からの砲撃がやまない。連隊や司令部では切り込み隊の行動に疑惑を感じているだろう。事の成功、不成功よりまず、神山島に到着したことを知らせよう ― そう考えたのかもしれない。

 

なぜ西岡少尉は信号弾をあげたのか

 

記事からうかがわれるのは、ようは、・・・

 

決行不可能と判断した西岡少尉を、上官は怒づきあげて無理やり決行を命じた。もう隊には戻れない。フリークアウトした少尉は拳銃自殺まで考えた。今更、米軍艦隊だらけの海で神山島まで切り込みできるわけがない。那覇港でヤケ気味の上陸訓練をする。

 

午後8時に9隻で出撃、午前1時ごろ上陸するも、その場で西岡少尉は信号弾をぶっぱなす。当然、上陸隊は一斉に米軍の攻撃を受ける。

 

30分後、少尉に命じられていたように待機していたクリ船が30分後に接岸すると、西岡少尉以下わずか5人が船に乗りこむ。後は全員、全滅した。

 

少尉にとっては、地元から強制徴用した隊員の命を守ることや、適のカノン砲に打撃を与えることより、信号弾をぶっ放す方がなによりも重要であったことは確かだろう。その信号弾は、もちろん、「上陸した」ことを、船舶工兵第26連隊長佐藤少佐に知らせるためである。そのために上陸した隊員が標的になることなどはどうでもよかったかもしれない。

 

上陸後、「西岡少尉以下わずか5人」が、どのように30分間を敵の反撃をかわし、地点に帰還したかは不明。

 

かの「船舶工兵第26連隊」に報告させた戦果、「重砲三門、重機二丁破壊、人員殺傷多数」は、それゆえ、このコンテキストでその真偽を判断することが必要かもしれない。

 

神山島では米軍が誇る最新兵器のカノン砲が二つの大隊によって守られていた。クリ舟で30分で侵入、破壊できて生還するなどという事ができるようには思えない。

 

そもそも、慶良間諸島も、慶伊瀬島 (神山島)も、読谷も北谷も、米軍の上陸を阻んだのは、下にあるように、日本軍ではなく、島をとりかこむ珊瑚礁だった。

 

米国陸軍通信隊: A Prime Mover is pulling a Long Tom 155mm rifle along the pontoon dock toward the beach. A coral reef prevented the LCM's from coming to the shore, so a pontoon dock was used and the guns moved rapidly to the beaches. F.A. group. /

原動機がロング トム 155 mm ライフルをポンツーン・ドックに沿ってビーチに向かって引っ張っています。サンゴ礁が LCM の岸への到達を阻んだため、ポンツーンドックが使用され、大砲はすみやかに浜辺に移動しました。慶伊瀬島 1945年3月31日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

155mm M59 Long Tom | Weaponsystems.net

To this familiar overture to an amphibious operation was added one rather novel contribution, the roar of 155-mm. guns based on an offshore island. Using a technique successfully employed at Kwajalein, Tenth Army had emplaced two battalions of Long Tom guns on Keise Shima, a group of coral islets that had been secured by the 77th Division on 31 March following the Kerama Retto operation. From Keise, about eight miles southwest of Hagushi and about eight miles west of the Okinawan coastal town of Naha, the artillerymen had the job of prohibiting enemy reinforcements from moving toward the landing beaches from the south.

水陸両用作戦へのこのおなじみの序曲に、沖合の島に設置された砲口155 mm の轟音というかなり斬新な貢献が追加された。クェゼリンで成功裏にとられた技術を使用して、第 10 軍は慶良間列島作戦に続いて 、3 月 31 日に第 77 師団が確保した珊瑚の群島慶伊瀬島」に2個大隊のロングトム砲群を配置した。渡具知海岸の南西約8マイル、沖縄の海岸沿いの町那覇の西約8マイルにある慶瀬から、敵の増援が南から上陸海岸に向かって移動するのを防ぐ仕事をしいた。

Chapter 24: Crescendo on Okinawa

 

詳細にわたる米軍側の記録には、確認できたかぎり、慶伊瀬島カノン砲が三門も破壊されたという記録はない。ましてや、人員殺傷多数など。

 

「重砲三門、重機二丁破壊、人員殺傷多数」

 

帰還した将兵がかたる切り込みの「戦果」には、「切り込みを命じた側が部下から聞きたい内容」が反映されている場合が多い。できるだけ米軍側の交戦記録とすり合わせる必要があるだろう。

 

切り込みの過半は、防衛隊として強制的に徴用された糸満の漁夫だった。

 

クリ船で斬り込みさせられ、見捨てられた側の「証言」は、二度と聞くことができないのである。

 

Okinawa Victory in the Pacific

 

 

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*1:8日という記録もある