田原の壕 火炎放射器で焼かれた

琉球新報『戦禍を掘る』出会いの十字路

[17 田原の壕]一瞬のうちに爆発

「テルコ」と叫び手投げ弾

 那覇大橋に向け、田原の坂を下って行く。「そこを左に」の案内で車がガソリンスタンドそばの道に入ると、サトウキビ畑の後ろにギンネムがうっそうと茂ったなだらかな丘が見えた。「ここがそうです。そこに間違いなく3人は眠っています」と上原代志子さん(52)と高良カマドさん(67)は語った。

 

 「トゥムイヌセーラ」と呼ばれる丘のすそに奥行き5メートルの壕口が三つあり、中で一つになっていた、と説明する。ギンネムをかきわけ、壕口を探すが、とうとう見つからなかった。

 

 昭和20年6月。米兵が投げ込んだ手りゅう弾で壕内は地獄と化した。「20日ごろだったと思います。お昼でした。壕の外で米兵が上半身裸のまま日光浴している、など話したのを覚えています」と代志子さん。壕には代志子さんの家族が父を除いて8人、それにカマドさんら16人が入っていた。

 

 「壕の外で米兵が『テルコ』と叫んだんです。照子という名前の女性は壕にはいないし、おかしいな、と思った瞬間『来たよ』の叫び声と同時に、手りゅう弾が投げ込まれました。後で思ったんですが、『テルコ』というのは、恐らく英語で何か忠告でもしていたんじゃないか」

 

 手りゅう弾をのがれて生き残った者は壕内にあった“ポケット”に隠れ忍んだ。そこに米兵が入ってきて髪の長い者を引っ張り、壕の外へ連れ出し、短い者は男、兵隊とみなして火炎放射器で焼き殺した。

 

 淡々と当時のもようを語る代志子さん。その言葉の端々から戦争への怒りと悲しみが伝わってくる。「泣く子もいなかったですよ、一瞬ですから」「2歳になる弟の姿が見えなかった。飛び散ったんでしょうね」「壕で死んだ人は骨が残っているでしょうから幸せですよ。でも40年も苦しいでしょうね」

 

 代志子さんの兄弟で健在なのは妹の澄さんだけ。昭和18年に写したという家族の記念写真を見ながら「朝五郎と朝八郎は壕の中で、次郎は胡屋の病院で、太郎と美津子は壕の外で…」と1人ひとり指さしながら説明した。

 

 壕で眠っている残り1柱は上原亀さん=当時41歳。息子の弘新さん(42)は言う。「当時、私は山原に疎開していたので分かりませんが、代志子さんやカマドさんから話を聞きました。母ももう亡くなりましたが、死ぬ前に『お前が生きている間に遺骨は収骨しなさいよ』と言われました」。壕の近辺は一昨年まで軍用地になっており、金網が張られていた。「でも今なら車も入れますし、発掘作業はそれほど難しいことではないと思います」と弘新さん。一日でも一時間でも早く収骨してほしい、と訴えた。

 

 代志子さんは言う、「戦争は二度と味わいたくない。慰霊の日もない方がいい。その度に思い出すなんて、自分の身内が亡くなった方はだれでもそう思うんじゃないでしょうか」

1983年9月7日掲載

 

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