琉球新報『戦禍を掘る』大城森壕

 

琉球新報『戦禍を掘る』大城森壕

壕で毎日病死が…動けぬ負傷兵に青酸カリ

 沖縄戦で山形歩兵第32連隊(山3475部隊)の陣地壕として使われた糸満市大里後原の大城森壕。300とも400ともいわれる遺体をのみ込んだまま、56年に行われた厚生省の大がかりな収骨作業でさえその口を開かず、いまだに1柱も収骨されていない。

 

 横山清一さん(65)=山形県寒河江市=の弟・清治さんもこの地に眠っている。清一さんがそのことを知ったのは今年の9月だった。

 

 当時、大城森壕の残置隊長をしていた平尾正男さん=山形市=から、清治さんが激戦で右腕に傷を負い、この壕で切断の手術を受けた、との話や状況を聞いた。しかし、清治さんの最期を見た者はいない。何百人もの傷病者がうごめく阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵である。平尾さんが清治さんを知ったのも同郷の山形なまりからで、偶然の出会いだった。その話から「弟はそこで死んだ」と清一さんは確信した。

 

 翌10月、清一さんは4度目の来沖をした。そして、弟の最期の地・大城森壕に立ち、手を合わせた。19年に山形で別れて以来44年ぶりで土中深く眠る弟に、声をかけた。

 

 遺影と花束が飾られ、山形から持参したリンゴ、米、清酒が地に供えられた。焼香をすますと、カセットテープがかけられ、友人や妹の声、校歌などが静かに流れた。「清治君、遠い南の沖縄で、どんなにさびしいでしょう」「兄さんがよく登った月山や蔵王は、あの時と変わりません」。テープから亡き清治さんに呼びかける声がさびしかった。「何とか収骨できないでしょうか」。清一さんはそう言って、その場で拾った小石を遺骨代わりに持ち帰った。

 

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 南部一円の防衛を担当した歩兵32連帯(連隊長・北郷格郎大佐)は、その地勢から、大城森を最適地とし、「わが死所を得たり」と死にものぐるいで陣地の構築を開始した、という。やがて、完成した壕は自家発電や水道まで完備され、延べ1・3キロに及ぶ地下壕となった。

 

 20年4月、5月と続いた米軍の総攻撃で、壕の中は、那覇首里から運び込まれる負傷兵、避難民でいっぱいとなり、さながら野戦病院と化していた。軍医1人、看護婦5~6人が中心となって何百人もの傷病兵をみる。仕事は分担。1人が血を止め、1人がヨーチンをぬる。数人で包帯を巻く。薬といえばヨーチンしかなく、やけども何もすべてヨーチンをぬるだけだった、という。当時のもようを平尾さんが語る。「10人中4、5人が破傷風にかかってました。それにかかると、胸から腹にかけて、異様に膨れ、もがき苦しむんです。口が開かなくなるため、水さえも満足に飲めない。布ぎれに水をひたして、それを口にあてがって飲ませました。毎日数人が死んでいきました」。

 

 さらに6月に入り、米軍が壕に馬乗り攻撃するにいたり、「近代戦にたえ得る堅陣」と32軍首脳らからおすみつきをもらった壕も手放し、1・7キロ離れた国吉壕に移動した。その時、壕内には遺体があふれ、動けない重傷兵には青酸カリが配られた。

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月8日掲載

 

壕崩れ収骨を断念 ~ 生存者“あの状況伝えられぬ”

 厚生省による大城森壕の収骨作業は昭和56年2月から4月にかけて行われた。延べ50日近くにわたった発掘作業は、大型重機を投入しての大がかりなものであったにもかかわらず、1柱も収骨できなかった。

 

 厚生省、県、糸満市の職員や、大里区民、地主、戦友らが見守るなか、連日作業は続けられた。しかし、掘れども掘れども土ばかり。「壕自体が森そのものの一部となった」と新聞は報じた。

 

 作業が難航し始めると、「畑がつぶれるぐらいなんでもない。中に眠っている人のことを考えれば…」、サトウキビ畑への重機乗り入れに協力する地元民も出た。土砂崩れがひどいために、ヒューム管を土砂に押し込み、その中に人が入り、人力による作業もなされた。しかし、3カ月にわたった作業で出てきた物は、防毒具やなべ、さびた靴底―そんなものばかりだった。

 

 当時、県援護課の職員で作業に立ち会った玉城順一さん(県社会老人課)は、こう述懐する。

 

 「坑口らしきものを探し当てた、と掘ったら泥が流れ出してきたり、小さな穴を見つけた、と思ったら先には泥がつまっていたり、そんな状態でした。真上から真下にも掘りましたが、だめでした。戦友の方を見ているとかわいそうで。厚生省としても非常に残念だったと思います。一度断念したのを、再度やったほどですから。極端な話ですが、森を根こそぎ掘り返さないと無理な気もします。ただ、あの森は聖地で、地元から『くずすな』との声もありました」

 

 その時の作業を静かに見守っていた人の一人に、前田政一さん(58)=那覇市首里=がいた。前田さんは、部隊が壕を脱出した跡、20年6月から終戦後の21年4月ごろまでの10カ月余、広い壕の中でただ一人モグラ生活をしていた、いわば、壕の内部を最後に見た人である。

 

 6月18日夜、戦友4人とともに壕内に入った前田さんが見たものは、無数の死体とおびただしい重傷患者だった。残っていた軍医も「この患者らは注射と薬を与えてあるから、10分ほどしたら静かになる。後はよろしく」と告げると、部隊を追って壕を出た。前田さんは言う。「10分なんてとんでもない。みんなしばらく生きていましたよ。『国がある以上は必ずここから出すから』と言ったら、『あー』とか『うー』とか返事してました…」

 

 やがて、戦友2人は破傷風で死に、あとの2人は米軍に捕らわれ、前田さん一人だけになった。前田さんは壕内の偵察を始めた。私物置場には、いくつもの柳ごおりが積まれ、その内7個ほどを開けてみる。写真、刀、軍服、いろんな物が入っていた。夜になると外に出て、米軍の食料品や物資をいただいた。遠くは摩文仁までいった。戦果はコーヒーやたばこまであったというから驚く。

 

 壕の中は死体だらけ、腐乱、ウジがわく。それでも前田さんは何のにおいも感じなかったという。その中で生活を続けた。何度か兄の武太さんも壕にやって来て投降を促したが、きかなかった。

 

 やっと4月、壕から出た時には髪の毛が腰まで伸び、その姿を見て黒人兵が驚いた。というが、その黒人兵を見て、前田さんは「同じ人間か」と驚いた。

 

 前田さんは戦争についてこう語った。

 「戦争を知らない人にはどんなに話しても、あの状況を伝えられない。どちらが勝とうと負けようと同じこと。軍人はまだいい。民間人がかわいそうだ」

(「戦禍を掘る」取材班)1983年11月9日掲載