琉球新報『戦禍を掘る』山根隊医務壕

 

琉球新報 戦禍を掘る 「山根隊医務壕」

傷病兵ら40人が死亡 ~ 真上に住宅、収骨は困難

 山根部隊。沖縄戦那覇市小禄、宇栄原地区に配備された海軍の主要部隊である。山根巌少佐を隊長に礎部隊を含めた兵力は3000人。三つの中隊と隊本部とで構成されていた。一度も使用されなかった秘密飛行場建設をはじめ、主に建設を任務とする第226設営隊であることから装備の兵器は、機銃が25ミリ3丁、13ミリ25丁、7・7ミリ8丁しかなく、噴進砲2門と、海軍部隊では最も少なかった。

 

 森根哲男さん(55)=勝連町南風原=は第3中隊(最上隊長)103班の班長だった。森根さんが「ずっと気懸かりだった。これまで何度も探し回った」という壕を探すたま小禄の住宅街を歩く。それは山根部隊医務壕で、米軍の攻撃で重傷者や看護婦らがやられた。森根さんらがその遺体を一部屋に片付けたのだが、山積みされた遺体の高さから「40体ほど」と推測している。

 

 場所は住宅や商店が並ぶバス通りの裏手。背広姿の森根さんは近くで革靴を雨靴にはきかえ、手に大型懐中電燈を持ち、探し始めた。「ハブがよく出ますので気をつけて下さい」との注意の言葉は「ハブは私をかみませんよ」と笑い返された。執念のようなものが感じられた。壕は埋没し、周りは草や木で覆われていて分かりにくかったが、見つけるのは思ったほど、難しくはなかった。「ここだと思います」と森根さん。

 

 埋没壕の真ん前に住む人の話を聞いた。「ずいぶん前だけど、中学生が肝だめしのつもりか、中に入っていくのを見かけました。私たちはここに来て長いけど収骨作業は見たことないし、話さえも聞いたことない」と語った。また、別の住民は「この家が建つ前の古い家を建てる時、たくさんの遺骨が出てきまして、驚きました」と語った。この話から森根さんは壕はここに間違いないと確信した。壕口の左側に爆弾で大きな穴ができ、そこに数十体の遺体が埋められていたからだ。

 

 30年前、鏡水区の区長をしていた新崎健盛さんは「その場所は区内ではないので分かりませんが」と前置きして、「小禄近辺は壕がかなりある。鏡水の公民館を建設した時も遺骨は出てきました」と語り、壕があっても、遺骨が眠っていても不思議ではない、とする。そして「あの辺で収骨作業があったことは私は聞いてない」と言った。

 

 壕があることも、遺骨がまだ収骨されてないことも分かった。だが、収骨には大きな壁がある。壕口から奥に数十メートル、遺骨があると思われる場所の真上には家が建っており、建築中の家もある。

 

 壕のある小高い丘に立って森根さんは、広がる景色を見ながら、「向こうの丘では自決がありました」「あそこでは仲間がやられました」と指さしながら、説明した。そして「この丘で、よく夕日を見ました。死のうと思ったこともありました。戦争はごめんですね」と語った。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月25日掲載

 

投てき弾で死体の山 ~「歩くに邪魔」部屋に山積み

 医務室壕は幅3メートル、高さ3メートル、奥行き数十メートルほどあった、という。バス通りの方から、奥に入っていくと、右側に木製の“ベッド”が3階建てになっている病室があり、その隣は軍医室になっていた。左側には下士官室があった。さらに奥に進むと中央に手術台が置かれ、治療もそこで行われた。右に行くと、幾つもの通路があり、左は看護婦部屋があった。

 

 軍医は2人いた。木村栄大尉と定村中尉、2人とも20代後半ぐらいの若さだったがともに戦死した。正看護婦の4人、衛生兵ら合わせ医務隊は20人前後で構成されていた。

 

 壕は山根第3中隊壕につながっていたため、森根さんは、よくそこを出入りした。昭和20年4月ごろまでは医務室壕といっても、治療のみの軽傷者が多く、所属の壕とそこを何度か通う、いわゆる通院患者がほとんどだった。ところが、4月ごろ本部隊壕で手りゅう弾を製造中、火薬に火が付き、大爆発が起こり、にわかに壕は4~50人の重傷者でいっぱいとなった。

 

 5月末、海軍部隊はいったん、南部へ移動した。数日後、再び小禄戻ってきたが、その時は他の部隊の者や民間人も多かった。何日も降り続く雨の中を歩く。立ちながら眠り、歩きながら小水が大たい部を流れる。その温かさで生きていることを感じた、という。

 

 南部から戻ってしばらくたったある日のこと、突然、壕に「砲弾や黄リン弾、催涙弾」が投げ込まれた。壕口近くにいた者はおそらく即死だったろう。壕の前には医務壕を示す「赤十字」旗がはられていたため、民間人も「ここなら安全」とよく出入りしていた。

 

 その時のもようを森根さんは語る。「私が行った時は、やられた時でした。通路に何人も倒れていまして、もうそのころは、かわいそうとか、弔うといった状況じゃないですから、ただ歩くのにじゃまだから、1カ所に片付けたのです。4畳半ぐらいの部屋だったと思いますが、山積みになりました。そのうちふと見たら、頭と手をこちら側にした“死体”の手が動いている。『これは』と思ってあわてて引っ張り出したんです。真っ黒になり、髪の毛もない女性でした」

 

 女性は正看の一人、上里敏子さん(旧姓上江洲)だった。けがは見た目ほど深くなく、1カ月ほどでだいぶ良くなった。「しかし、ひどいけがでした」と、もう一人の正看、楠見文子さん(旧姓新里)は言う。「頭の皮が大きくベロッとはげていて、いそいで布をあてたんですが、だめだと思いました」。本人は最初は覚えてなく、気がついたら楠見さんの手当を受けていた、と言う。無意識の中で手が動き、それが生死を決めた。

 

 天井に届かんばかりに積み上げられた死体の山は、数日たつと、しだいに悪臭を放つようになってきたため、毛布で覆われた。それが、森根さんが「ずっと気にかかってた」という、医務室壕の遺骨だ。「もしかすると、あのままの状態でまだ残っているんじゃないだろうか」と語った。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月26日掲載

 

無理に押さえ注射 ~ 動けぬ者、青酸カリで薬殺

 昭和20年3月下旬、米軍の来攻で、小禄は毎日のように砲爆撃を受け始めた。チービシの神山島が米軍重砲陣地になると、首里を射程においた同陣地からも連日、砲撃が繰り返された。

 

 砲撃や本部隊の爆撃事故で大やけどを負った人が次々医務室壕に運ばれてきた。「それが怖かった」と上里さんと楠見さんは口をそろえる。

 

 患部には「チンク油」と呼ばれる白い薬が付けられた。真っ白でただれた顔に目だけが光る。それが異様で、不気味だったらしい。

 

 米軍の砲爆撃は4、5月と続けられた。そのため5月末、海軍部隊は一時、南部に移動した。医務室壕は重症患者も多く、自力で動けない者は青酸カリで薬殺された。最初は食事に混入。頭をつきあわし、もがき苦しむ患者の中で、1人が食べて死ぬと、もう、食べる人はいない。すると次は注射。栄養注射といつわって打つ。死ぬ。それを見て他の患者があばれる。数人で押さえ込んで打つ

 

 上里さんは自らの戦争体験の中で、最も恐ろしい体験を語る。「注射を打つと、あっという間です。『うーん』とうめき声を上げたと思ったら、両手が曲がり始め、このまま…」。重い口がさらに重くなる。戦後、何度もうなされた。夫が亡くなった時も、「そのせいで罰があたった」と一時期ノイローゼになったとも言う。

 

 南部から戻ってきた時のがけの壕は悪臭を放っていた。降り続く雨で死体の腐乱が早まり、じめじめとした壕の中は、ハエと悪臭で人が入ることを拒んだ。「死体の上にはしごを置き、その上を歩いた」ほど、どうしようもない光景だった。最初の仕事は死体の片付けから始まり、看護婦室に集めた。それからが、今回の「40体」に含まれている。

 

 ハエもたくさんいた。火を消すほどハエがいた。「あのころは油に芯(しん)を入れただけでの簡単な明かりでしたが、火をつけると、一瞬のうちに、数えきれないほどハエが飛んできて、その火を消すんです」。聞いているだけで、息苦しくなってくる。

 

 6月4日、米軍は鏡水の崎原岬方面から上陸を開始した。少ない兵器に加えて底をつきかける弾薬。手りゅう弾1つの斬り込み隊は戦死者を増やすばかりだった。「もっと武器があれば、あの戦は勝っていたかもしれません」と森根さんは言う。「何しろ小銃1丁と機関銃1丁、弾300発、それが私たちに与えられた武器のすべてですよ」。仲間がやられていくのを何度も目のあたりに見て、どうしようもないいらだちがあったに違いない。

 

 「でも、海軍は食糧が割とあったので、いがみ合うことは少なかった。山根部隊は隊長以下、みんないい人だった」。海軍玉砕の近い6月10日、最上中隊長は「沖縄の人は南下して、出来るだけ命を大切にするように、そして親元に帰れるようにしなさい」と伝えた。山根隊長も、事あるごとに、沖縄の人をかばっていた、と森根さんは語る。「戦争? 二度といやですよ。子供たちには絶対に味わせたくない」

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月27日掲載

 

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