宜野座にあった収容所の埋葬墓地

琉球新報 戦禍を掘る 出会いの十字路

[18 宜野座の埋葬墓地]

急がれる収骨作業 風化で現場確認もやっと

 宜野座村には遺骨が埋まっていると思われる場所が確認されているだけでも3カ所ある。その一つが先に収骨作業が行われた米軍野戦病院戦没者埋葬現場そば。161柱の収骨を終えた場所は今、ブルドーザーが整地作業に入っており、やがてそこに村立体育館が建設される。が、そのそばの松林には、まだ「100柱以上が眠っている」という。

 

 もう一つは前にこの欄で報告した字松田の長門原墓地。当時、古知屋(松田)にあった収容所で亡くなった人を埋めた墓地で第1、第2と2カ所あった。第1墓地に埋葬された遺骨はすべて収骨されたというが、第2墓地は身元不明者が多かったため、かなりの未収骨がある、と推測される。広大な第2墓地は現在軍用地内に入っており、「立入禁止」の立て札があるが、出入りは自由にできるようで、ゲートを入ると捨てられているゴミ袋がそれを物語っている。

 

 小さいころ、父とよく墓地に行ったという比嘉ヨシ子さん(52)の案内で赤土を歩いた。「この辺だと思います」と比嘉さんが最初に案内した所は違っていた。地形の変化で14歳の記憶が戸惑ってしまったのだ。当時からこの近くに住む墓地に詳しい人の説明を聞き、5メートル幅の赤土の道を進んで行く。「こんなに奥だったかしら」と首をかしげながら、300メートルほど歩いただろうか、やっと目的地にたどり着く。

 

「この辺だと言うけど…」とつぶやく。しかし、そこも少し違っていた。

 

 翌日、当時この辺を4トン車で何度も往来したという嘉手納良春さん(63)の案内で三度、現場付近を歩く。「ここです。間違いありません」と2、3カ所あたりを確認しながら嘉手納さんは明言した。原野だった所は草木がうっそうと伸び、車が通った道は雑草が茂る小道に変わっていた。

 

 嘉手納さんが案内するまま草や木をかきわけ中に入ると土が盛り上がった所が一つ、二つ…あった。「この下に埋められてます。土の色が違うでしょう、掘りかえしたからです」と指さす。確かに盛り上がった土は赤土ではなかった。

 

 三つ目は字漢那にある赤崎原共同墓地。松田小学校の仲本吉昌教頭の案内で現場に行く。ここも長門原墓地と同様、最初の共同墓地で足りなくなったため、第2墓地として埋葬された。現場は草が伸びた原野と松林の境。県に提出した報告書には推定柱数「10~20」と記されている。仲本さんは松林の地主であるが、当時地元にいなかったため、埋められているかどうか、分からないと言う。だが、「埋まっているなら、一日でも早く収容してほしい」と訴える。

 

 漢那は現在人口1000人に満たない。それが終戦当時は3万人に膨らんでいた。実に30倍の人口だ。宜野座村議会の仲本銀得議員(55)はそのころの様子を「いたる所に家があり、人がいた」と説明し、「あっちにも、こっちにも家が並んでいた」と畑や原野を指さすが、想像し難かった。川に魚が泳ぐ静かなたたずまいの中では、戦禍がウソのように感じられた。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月8日掲載