琉球新報「戦禍を掘る」~ アラレーガマ

 

琉球新報 戦禍を掘る シリーズ

 

“妹が眠っている” ~ 収骨作業2度も断念

 「すぐそこです。その畑を突っ切ればそこなんですよ。すぐそこ!」―案内をする真志喜朝順さん=糸満市糸満=の足取りは70歳とは思えないほど速い。岩盤の間の細い道、雑草が生い茂る空き地。台風10号の残した水たまりもところどころにあったが、目に入らない様子だ。38年前の過去だけしか頭にないように足は壕に向かって一直線。

 案内されたのは、県立南部病院の南側にある壕。付近は、野菜類が栽培される畑地が広がる。そこのくぼ地に隠れるようにしてあるのが“アラレーガマ”。数カ所の壕が点在するが、真志喜さんが足を止めたのは、「西のガマ」と呼ばれているところだ。

 真志喜さんは「ここに妹の千代が眠っているんです。私らの力ではどうにもならん。何とか機械力を使ってやってもらわんと…。自分らで戦後やってみたが、駄目だったんですよ」と言う。

 「この壕に30人から40人。いや人によっては50人、60人と言うのもいる」。

 大阪の軍需工場で働いていた真志喜さんは、戦後引き揚げてきて妹の千代さんの戦死を知ってから、この壕はずっと頭から離れない。昭和27年、8年ごろ、隣近所の人を50人近く集めて、収骨作業を2度試みているが、壕の入り口を岩が埋め尽くして断念している。

 あきらめきれない真志喜さんは生存者を訪ねてみた。付近の人からこの壕について聞き回った。「付近にある壕は全部つながっているらしいですよ。壕の下の方は水が流れていて、これが川のようにつながっている。全長2、3キロあるんではないかと言ってます。私も木や草に覆われて入り口が一目では分からない壕の一つに行ったことがあるが、石を投げてみるとしばらくしてポチャーンと水の音がした」。

 名城区の区長、新垣進一さん(58)=糸満市名城=の父親もまたこの壕で亡くなった。「この壕の近くには東の壕、カージョーガマといくつかの壕がある。戦時中はどの壕にも住民が入っていたはずだが、収骨されたかどうかは分からない」と言う。

 昭和22、3年ごろ、新垣さんは壕の中に入ったことがある。わずかばかりの入り口からロープをつたって降りて見たが、米軍の野戦用懐中電灯の明かりでは弱く、広い壕内を探すには不十分だった。「そこにある石を拾って魂招きをしましたよ。壕は入り口から中に傾斜していて、奥は水たまり。ここは川のようになっているというから、大雨のあと遺骨もそのまま流されたんではないかとも思っているんです」。

 収骨作業を待ちわびる真志喜さんは、この壕の収骨作業がいつごろになるのか質問してきた。現在、県が掌握、厚生省に報告しただけでも四十数カ所の壕がある。年に2、3カ所の今のペースでは、これだけでも10年以上を要す。アラレーガマはその報告には入っていない壕。「うまくいけば2、3年後にはやれるのではないか」と答えると、「2、3年! この春からでもすぐにやってもらわないと…。そんなに私は待てませんよ」と声を落とした。遺族にとってあまりにも長すぎる遺骨収集への歳月だ。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月5日掲載

 

“ここは軍が使う” ~ 日本兵に追い出される

 米軍の攻撃で日本軍が南の方に追い詰められると、南部の壕はもはや住民の生命を守る壕ではなかった。日本兵がやって来ると、最低その人数の分だけ住民が追い出された。新垣進一さんの母親、ウシさん(88)も、日本兵にアラレーガマから追い出された。

 

 壕の中に6人の家族。激しい艦砲の中で、命を守ってくれたアラレーガマだったが、日本兵がやって来て一変した。「軍が使うから出て行け」の一言で、壕での避難生活を断念しなければならない。

 

 負傷している22歳の二女は歩けず、介護のための夫を残してアラレーガマを去った。外では砲弾が次々と降って来る。母子4人は身を伏せながら、やっとたどりついたのが伊敷の壕だ。

 

 翌朝には捕虜となり生命を失うことはなかった。だが、アラレーガマに残った2人とは、その後再会できぬままだ。2人のことを聞き回って分かったことは、二女はアラレーガマで捕虜になり、直後に病死したという。だが、夫が壕から出たという証言者はいない。

 

 「二女がやられたのは迫撃砲。奥にいれば助かっていたのに…」とウシさんは悔やむ。入り口付近にいた娘にウシさんは何度も奥に入るように勧めた。奥はたんぼのように泥んこだったが安全な場所。だが、娘は「そこは汚いから」と入り口付近から動かなかった。「畳で囲ってあったが、役に立たなかった。貫通して娘の足を指の上からもぎとった」。出血は止まらなかった。看護要員の娘は薬品を持っていたが、途中で会った日本軍に「使って下さい」と差し出してしまったことを後悔した。

 

 「消毒さえやっていれば助かったかもしれない」と進一さんは言う。米軍の捕虜になって直後に破傷風で死んだ。「豊見城の畑の中に今でも眠っている。掘れば見つかるかもしれないが…」。

 

 アラレーガマに最後までいたのは当時22歳の清元菊枝さん=那覇市国場=の一族だ。4世帯24人が、捕虜になった6月18日までの約2週間をその壕で生活している。

 

 具志頭村大屯に嫁いで1年ほどの清元さんは、3月下旬、彼岸で実家の旧高嶺村豊原の実家に帰ったが、戦闘が激しくなり、戻ることはできなかった。大屯の嫁ぎ先は現地召集され夫も含め家族は全滅している。

 

 6月に入るまでは屋敷内の壕にいたが、やがて南の方に移動しなければならなかった。祖父と親せきのともに80近い老人には無理だったから、水と食料を残して「壕を見つけたら連れに来る」と約束して別れたが、その後2人は行方が分からないままだ。

 

 墓まで日本兵が入り込んでいて壕探しも容易ではなかったが、やっと入ることができたのがアラレーガマだ。「私たちのあとにも中部方面やって、艦砲を受けた時には100人ぐらいがギッシリとつまっていた」と当時のもようを話す清元さんだが、死臭の漂った壕の中での生活を話しはじめると顔がゆがんできた。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月7日掲載

 

入り口は死人の山 ~ 生々しく残る貫通の傷跡

 壕の奥の方はたんぼのようなドロ沼。「2、3尺は足が埋まるような所だから、みんな入り口の岩陰付近で体を寄せて座っていた」と清元菊枝さんは当時を話す。

 

 その日の朝、日本兵14、5人が、壕にやって来た。ボロボロの服、どの顔も敗走に次ぐ敗走で疲れ切っている。背のうを担いだまますぐに寝ころんでしまった。

 

 日本兵が来てから30分ぐらいだっただろうか。「突然、艦砲が壕に命中した。私は最初の1発で気絶してそのあとのことは分からない。日本兵が入って来るのを米軍側に見られたんでしょう」。

 

 清元さんが気がつくと住民は奥の湿地の方へと入り込んでいる。慌ててその方向に歩き出したが、モンペがずり落ちてくるのに気づいた。ヒモが切れている。さらに良く見ると自分の左腰の方から左の腹にかけて破片が貫通していた。「痛さは感じなかった」と言う。腰に1センチ、腹に4センチの傷は今でも当時を忘れさせないように生々しく残っていると言う。

 

 奥の方から入り口を見ると死人の山だ。“ツル”と呼ばれていた真志喜朝順さんの妹、千代さんが動いているのが見えた。「ツルさんはただ立ったり座ったりしていた。顔をやられて何も言わず…。義姉にかわいそうだから何か持って行ったらと言うと、ウムクジと砂糖水を持って行ったが口をつけなかった」と清元さんは話し、一呼吸置いて「あくる朝は死んでいました」と小さな声でつないだ。

 

 アラレーガマに避難した清元さんの親せき4家族24人のうち2人が、この時亡くなった。親せきの1人は結婚後10年も子ができず、やっと前の年に男の子が生まれたばかり。腹をやられて内臓がはみ出していたが、「マサカズ(子どもの名)、マサカズは大丈夫か?」と叫び息を引き取ったという。

 

 「死人は30~40人ぐらい。弟は50人以上はいたと言っている。初めはモッコで運び出して近くの畑に埋めたが、米軍の飛行機の飛ぶのが激しくなって、ほとんどがそのまま壕の中に放置した」

 

 死体の山は日がたつにつれ悪臭を放つ。1カ所に集めて土をかぶせていたが、死臭を断つには不十分だった。やがて死臭には慣れたが、次に悩まされたのが山のようにわいてきたウジだ。

 

 避難する時に持って来た米で1日に1回、子どものこぶしぐらいのおにぎりがあった。壕の入り口付近で炊いたが、かまが熱くなるまでは、上がって来るウジを払い落とすのに大変だったという。湿地には戸板を敷いて生活したが、そこにもわたって来るようになった。そして上からたれ落ちる水も毛布を濡らし、不快感を増幅した。

 

 艦砲のあと他の人たちは壕を去って行き、清元さんら親せきだけが残っていた。6月18日、米軍の捕虜となったが、清元さんの懐には、手りゅう弾2個がしまわれていた。1個は米兵に投げるため、1個は米兵に辱めを受けずに自決するためのもの。実家近くにいた兵隊から教えられ、もらったものだ。

 

 新垣ウシさんは「ナー、ガマヌ中ア、ナランドー。水ヌ中暮ラチ、ヤーサン(もう壕は嫌だ。水の中でひもじい思いをしてー)」と言う。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月12日掲載