「西原町小波津」~ 琉球新報 戦禍を掘る (1983年)

 

西原町小波津」琉球新報 戦禍を掘る (1983年)

壕内で祖母が死亡 日本軍、砲撃に“雨宿り”

 小波津団地西側の小山は沖縄戦当時、砲弾の“雨宿り”をする日本軍、民間人の姿が多くひしめいた所である。「祖母の當間カマド(当時74歳)が壕内で死亡したと聞いているがいまだに収骨されていないようだ」という當間朝栄さん(46)=那覇署勤務=の案内で現場を訪ねてみた。

 「あそこです」と當間さんが指差したのは、道路沿いにいくつか並んでいる墓の一つの上方だった。見上げたところは地面から3、4メートルはあろうか。が、その小高い山の斜面には壕など見えない。當間さんがよじ上って生い茂るススキやシダ類の草木をかき分けると、確かに小さな穴が現れてくるではないか。

 「いやぁ、これでは収骨されていない可能性は大いにありますね」というと、當間さんは「だれにも気付かれることなく遺骨が眠ったままだと思います」とつぶやく。砲撃で陥没したのか、自然の土砂崩れがあったのか、とにかく入り口は30センチも開いていない。6畳もなかったというが中は暗くてどうなっているのか分からない。とにかく、とても人間が入れる状態ではないのだ。

 當間さんがこの壕を知ったのは、去る52年にカマドさんの三十三回忌法要が行われた時。カマドさんの娘・ウシさんに案内されたという。今は亡きウシさんの話によれば、戦火が激しくなったので島尻へ逃げようということになったが、年老いて体力も気力も衰えたカマドさんは「おまえは逃げて生き延びろ。自分は壕に残るが、運があったら再会しよう」といったので、残り少ない食料を半分ずつ分けて涙の生き別れになってしまった。

 ウシさんが壕を出たのは昭和20年4月中旬のこと。2、3日分の食料しかなかったことから、カマドさんは間もなく壕内で飢え死にしたと思われ、位はいには「4月20日没」と記されている。その数日前の明け方、至近弾が落ちて、壕前にいたカマドさんの6男・朝睦さんが爆風で吹き飛ばされ即死した。「ここで自分も死のう」とカマドさんは決めた。

 ツキンタマグスクと呼ばれていたこの山一帯には数カ所に壕があり、当時、那覇や与那原から多数の避難民がやってきた。現在の与那原署近くにあったカマドさんの実家を間借りし、カマドさんや壕のことを知っているという与那原朝英さんに話を聞いてみた。「そうですか。収骨されていないんだったら金を費やしても何とかしてやりたいですね。あんなに心のやさしいおばあさんがだれにもみとられることなく餓死したかと思うとたまりません」

 厚生省は去る2月、近くの埋没した陣地壕など3カ所を発掘している。昨年から収骨作業に尽力してきた西原町役場福祉課の野国昌徳さんに尋ねると、當間さんが言う壕の情報はないとのこと。「区長をしている小波津善一さんなら何か知っているかも」と教えられた。小波津さんは「確か、終戦直後に区民総出で入れる壕は収骨したはずです。でも、それはあの辺が中心でしたからね」と違う方向をさした。

 當間さんは語る。「埋没しているので私の力ではどうすることもできない。援護課の力を借りたい。祖母は歯が1本もなかったから骨さえあれば確認できるのに」

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年11月30日掲載