戦禍を掘る 出会いの十字路
[16]ギンネムの林の中でひっそり眠る遺骨
肉親救出の間もなく逃避
また一つ戦時中の遺骨が発見された。沖縄戦の激戦地の一つ、糸満市の喜屋武岬近くのやぶの中だ。近くに釣りに来た那覇市小禄の I さん(35)がエサになるヤドカリを探している際に偶然発見したもので、8月下旬に収骨され、9月上旬には摩文仁にある沖縄戦没者墓苑に納められる予定。
発見された場所は、きび畑が一面に広がっている所で、さらに海岸に向かって奥に入ったギンネムの生い茂る中。時々聞こえてくる鳥の声や波の音以外は何も聞こえない静かな場所。そこに遺骨は眠っていた。頭の骨には痛々しい銃弾の跡があり、そのわきには朽ち果てた軍靴。体の骨は大部分土に帰っていて、40年近い歳月を感じさせるとともに、現実にあった戦争が生々しくそこに映し出される。昭和20年6月糸満市喜屋武付近は第62師団管下部隊が摩文仁の第32軍司令部向けて進攻を続ける米軍に対して最後の迎撃を続けていた。❶ しかし6月20日には、矢尽き刀折れて壊滅状態となった。玉砕だ。
❶ 沖縄南部 6月17日
『沖縄戦史ブログ』より
1945年6月17日
1 西部戦線国吉台地の戦闘において、米軍が日本軍主陣地を突破、第24師団左翼戦線は壊滅した。
2 東部戦線の独立混成44旅団はほぼ戦力を失い、代わりに第62師団が第一線に進出するが、有効な機動力も戦力もなく、組織的戦闘はついに破綻する。
地元からも約100人が防衛隊として戦闘に協力していたが、うち半数以上は戦死した。さらに本島中部以南から避難して来た避難民も多数米軍の銃弾に倒れた。当時の状況はあたり一面、見渡す限り死体で埋めつくされ、銃弾から逃げ惑う人々は肉親が銃弾に倒れても逃げるのに夢中で助け起こす余裕はなかったという。
また、この地域にも日本兵による住民虐殺の事実があった。当時防衛隊員だった久保玉井倖さん(78)と青年学校教官だった久米敬吉さん(71)は証言する。「喜屋武岬付近には安全な自然壕がたくさんあり、住民はあちこちの自然壕に避難して安全を保っていました。そこへ銃を持った日本兵がやって来て銃を突きつけ、中にいる住民を追い出したんです。追い出された住民は惨めなものでした。守ってくれると信じていた日本兵にうらぎられたんですから―。壕を追われた住民は必死に逃げ惑いましたが、ほとんどが雨のように飛びかう米軍の銃弾にやられてしまいました」
戦後、昭和27年10月、地元・喜屋武の人たちは総出で、一帯に放置されていた住民や避難民、兵隊の遺骨を集め、海岸にある通称ジルーメー近くに塔を建てて、「平和の塔」と名付け、そこに祭った。その数は1000柱以上もあったという。国吉次子さん(44)は「終戦直後、海岸の岩場には無数の遺骨がありました。海岸沿いのギンネムの林の中にもたくさんあって、ギンネムをかき分けて中に入って行くと、知らずに遺骨を踏みつけてしまうことが度々ありました。それほど多かったんです。そのころはまだ子供でしたが、かしわ袋に骨を拾い集めて平和の塔へ納めたのを覚えています」と当時を振り返った。
玉城嘉貞喜屋武区長(44)の話によると、この近辺の遺骨は約90%収骨済みだという。残りの遺骨はほとんどが発見されにくい場所にあり、収骨が難しいという。しかし現実にまだ発見されていない遺骨は多い。今度伊良部さんが遺骨を発見した海岸沿いのギンネム林の中にもまだ残された遺骨が人知れず眠っていることだろう。それを思うと胸が痛む。
きびの葉がサラサラと風にゆれる。美しい小鳥の鳴き声と波の音が平和な時を思わせる。静寂の中、忘れられた彼らの魂の叫び声が聞こえてくるような気がした。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月6日掲載