琉球新報『戦禍を掘る』 ヌヌマチガマ ~ 白梅学徒看護隊

 

琉球新報『戦禍を掘る』ヌヌマチガマ

 

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ヌヌマチガマの入壕(予約)について | 八重瀬町

 

傷病兵800人が自決 ~ 落盤で埋もれた遺骨

 具志頭村新城。戦時中、この集落には通称「ヌヌマチガマ」と呼ばれていた軍の野戦病院壕があった。一般には「ガラビ壕」として知られ、調査団や大学の探検隊などがよく訪れるらしいが、病院壕の入り口はガラビ壕ではなく、反対側の「ヌヌマチガマ」の方である。

 

 東風平町富盛の八重瀬岳中腹にあった第22師団第1野戦病院の新城分院というのが正しい名称。終戦間際、この自然洞くつ内では約800人の傷病兵が手りゅう弾や薬品で自決を遂げ、息のあるものは衛生兵によって銃殺されている。

 

 生い茂る草をかき分けながた壕の入り口を、すべらないように一歩一歩しっかりと足元を踏みしめて下りる壕の玄関口といおうか、割と広い、平らな場所にたどり着いた。振り仰ぐとバショウの葉からこぼれ日が差し込む。地上より数メートル低くなった所だろうか。

 

 案内してくれた座嘉比ヨシさん(53)も足を止め、手を合わせて祈った。目を閉じると、38年前のことが鮮烈に思い起こされたらしく、たまらないといった表情を見せる。妻の形見らしい髪の束を持って泣き出す人。直前に迫った死を悟り、包帯の巻かれた手でもう一方の手にはめていた腕時計をはずし、「世話になったお礼に」と差し出した北海道出身の浜松さんなどが次々と頭をよぎった。

 

 「まくら元におにぎりを置いたら、じっと見つめるんですよ。衰弱しきって食べる力もないようで、それを見ていた横の人が取って食べたんだけど、どうしてやることもできなくて、かわそうだったねえ」

 

 このガマは、愛媛大学探検隊が作成した図からも分かるように入り口から左右に分かれている。右の方はガラビ壕へ続いているが、すぐ手前に六つほどのカマド跡が懐中電灯に照らされて九人できた。炊事係として傷病兵の食事を作っていたヨシさんの仕事場である。1000人近い人たちの面倒を見なければならないから大変で、夜になると、砲撃の中をくぐり抜けて畑に野菜を取りに行った。はじめのうちは形ばかりのみそ汁もあったが、やがておにぎりだけで精いっぱいという食糧事情がやってくる。

 

 おにぎりを配って回ったり、水を運んだりして大忙しだった当時を振り返るヨシさん。ふと、カマドの近くにバケツにあふれんばかり集められた遺骨が目に入った。調査団の人たちがまとめていったものだろうか。何体かはバケツからこぼれ落ち、また土の中に半ば埋もれてしまっている。

 

 食料倉庫になっていたという穴の奥深くにも収骨されていない遺骨が見られた。確か、この壕は収骨済みにされているはずなのに。県によって一応、表面上の収骨がなされている有名なガラビ壕でさえもいまだに残存遺骨の断片が発見されるのである。

 

 戦跡見学の人を案内したり、また資料収集のため何十回とこの壕に入ったことがあるという県史料編集所員・大城将保さんに話を聞いてみた。

 

 「落盤した岩の間から遺骨が出てきたことは度々あった。そのつど、県援護課に連絡して収骨してもらっているが、逆に落盤で岩の間に埋もれてしまったのもあるだろうし、まだ地下には多くの遺骨が埋没している可能性はありますね」

 

 大城さんは手術用のピンセット、注射器、のこぎりなども拾ったという。その遺品が扱われたであろう手術室のある左側の壕へ入ってみることにした。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月28日掲載

 

民間人の虐殺も ~ 米兵接近、患者に自殺強要

 手術室があった壕内へ、座嘉比ヨシさんの案内で入った。雨靴が泥の中に深くめり込むのでなかなか前へ進めない。大雨で流れ込んだ土砂が長年の間にたい積し、当時よりもさらに壕内が狭くなっているらしい。地下水のしずくを避けるため、天井は壁はテントが張り巡らされていたという。

 

 懐中電灯であたりを見回していたヨシさんの手が止まった。「確か、ここが手術室です」というヨシさんの声に振り向く。左手の方のやや広くなった所だ。泥に半ば埋もれた軍靴の底が足元で照らし出されたが、手術に使われた遺品は発見できない。

 

 壕の生き残りで、手術の手伝いをさせられた白梅学徒看護隊(県立第二高女)の一人、仲地(旧姓・崎間)政子さんは語っている。

 

 「傷口からばい菌が入ると腐って紫色に膨れ上がるんです。私たちが手足を押さえ、軍医がのこぎりで次々と切断していったけれど、怖くて貧血を起こしたことも度々でした」と、昼夜を問わず続けられた手術のもようを再現する。仮眠の日が何日も続き、仲地さんたちは疲労の極地だった。ろうそくの火で手術室が次第に暖かくなり、看護隊の人たちを睡魔が襲う。

 

 「うとうとし、ろうそくを持つ手が揺れると『ろうそく踊りが始まった』とメスを持つ軍医らに笑われました」。不気味だった手術室は鮮烈に頭に残っている。

 

 ヨシさんとさらに壕を進んだ。右側の穴をのぞくとゲジの大群が壁中に張り付いている。ここにも傷病兵がゴロゴロしていたに違いない。暗やみの中からうめき声が聞こえてきそうで、背すじに寒気が走った。

 

 壕の奥は行き止まりになっている。集団自決があった時、奥に逃げ込んで死んだ者がいることから遺骨が残っていると推測されるため、確認しようと思ったが、落盤の多い危険地帯ということで断念せざるをえなかった。

 

 ヨシさんは以前、この壕に入った後、3日間熱を出して寝こんだという。「傷病兵は私の手を握って涙を流していたから、遺骨になっても魂が残っている気がして、うなされたんです」とつぶやき、先へ進むのをやめた。

 

 沖縄戦では、スパイ容疑による住民虐殺事件が数多く発生しているが、この壕でも悲劇があった。南部へ避難する途中の桑江という名の民間人が怪しまれ、日本刀で殺された。「容疑をかけた以上は意地でもスパイにしなければならなかったようです。かばうとお前も殺すぞと脅かされた」とヨシさん。処刑される前に預かった印鑑を、戦後、家族に届けている。

 

 やがて戦火は広がり、遺体を埋める穴掘り作業が、一日に何十人と出る死者の数に追いつけなくなった。壕に運び込む前、助かる見込みのない者は入り口で注射を打たれ、そのまま転がされた。

 

 6月3日、梅雨の真っ盛り。米兵が近づいてきたという情報が入ったため、歩ける者は島尻方面へ逃げることになった。動けない傷病兵は、口封じのたまに自決が命じられた。脱出の際、佐藤少尉とカネヤス軍曹、ヨシさんの3人は、山部隊の金と出身地を書いた隊員名簿を壕の前に埋めた。

 

 佐藤少尉はヨシさんに「戦争が終わって元気だったら、金は使っていいから、名簿を見て家族に手紙を出してやれ」と話したが、ヨシさんが終戦後、取りに行った時は水浸しでダメになっていた。

 

 自宅の庭が広かったため軍の炊事小屋が建てられ、それを手伝っていた15歳の少女は、壕まで行動を共にしなければならない運命をたどった。ヨシさんは毎日、泣きながら働いていたという。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月31日掲載

 

静かに毒薬あおる ~「一足先に靖国に行くぜ」

 負傷者のうめき声。「こら! 看護婦、おれは1週間も包帯交換をしていないぞ。おまえたちは何をしているのだ」と怒鳴り散らす将校患者。汗、膿汁の悪臭の中、看護婦たちは睡眠不足と衰弱しきった体に精神だけは、しゃんとして駆けずり回っていた。

 

 「一日中、足を伸ばして休んだことがなく、自分で適当に、その場その場で2、3分まどろむのが関の山でした。時には、寝ている患者がうらやましくなり、自分もどこかけがをして休んでみたいと正気で考えたものです」と、仲地政子さんはじめじめと梅雨の降り続いていたころを思い出す。

 

 このガマの入り口には「白梅学徒看護隊の壕」と刻まれた碑が立っている。昭和20年4月末から1月半ほど、仲地さんら数人の県立第二高女の女生徒が壕で働いていたのだ。生き残りの親泊正子さんが「大きな石が横たわっていた傷病兵の上に落ちて即死したけれど、だれも石をよける気力もなかった」というと、「わけの分からないことを怒鳴り散らしていた脳傷の人が、岩の間に足を踏みはずして落ち、中でわめいていたけれど、だれも助けることができなかったよねえ」と大嶺智子さんが口をそろえた。

 

 彼女たちがめまぐるしく動き回っていたころ、情勢はさらに悪化し、遂に病院に解散命令が出されて動けない者は自決させることになった。この時のもようは終戦後、4、5年たってから仲地さんが残した手記に詳しい。

 

 「解散の前夜、S軍曹ら二、三人の人たちが青酸カリの粉にブドウ糖の粉を混合したものを一服ずつこしらえた。皆黙って手だけを機械的に動かしつつ、これからどうなるとか、どうするとか少しも気にせず、無神経に黙々と恐ろしい毒薬を包んでいる。突然、K軍曹が皆の気持ちを引き立てるように、からからと、うつろな笑い方をした」

 

 翌朝、居残る重傷患者に自決剤が配られた。米軍の捕虜となった場合、傷病兵の口から日本軍の作戦行動が漏れるのを防ぐための口封じである。壕の外はたたきつけるような雨。やがて“安楽死”という名の悲劇が始まった。

 

 「死を控えた人たちの態度は、何ら取り乱したところもなく、あきらめたように実に平静である。しかし、心のうちではどんなに嘆き苦しんでいることだろう。故郷や肉親のことなど―。これらの人たちの気持ちを思うと、いたたまらなくなった。『おおい、看護婦さん、一足先に靖国に行くぜ。おれたちの分も、しっかりやってくれよ』という言葉は、どことなく明るさを感じられるほどだった」

 

 やがて一人ずつ、薬を飲ませ、飲めないものには注射がうたれた。死にきれないものは軍曹が一人ひとり刺し殺していったという。手記は続ける。

 

 「上野から九段まで…。小さかった歌声が次第に高くなる。私は外へ飛び出して、声を上げて泣いてしまった。『万才』という叫び声。『パン』と銃声一発、将校が自決したのだろう。しばらくして再び病室に足を入れると、既に呼吸困難を始めている人、目をうつろに天井に向けている人、刻一刻と迫る死を、こんなにも静かに待っている人たち。神に近い崇高さが漂っている。ああ、私たちはこんなにもたくさんの人を置き去りにして―」

 

 このような壕の歴史は語り継がれなければいけない。大城将保さんは言う。「壕跡は戦争遺跡として保存しておく必要がある。それなのに、厚生省や県援護課は収骨も不十分ながら、それに伴う戦時中の資料収集には手を着けていない。手術器具類などがひと山をなして、岩の間に半ば埋もれているのが確認されたりするのに」

(「戦禍を掘る」取材班)1983年11月2日掲載

 

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