琉球新報『戦禍を掘る』~ 首里高女教員の最期 ~ ある防衛隊員の死

 

琉球新報『戦禍を掘る』~ 首里高女教員の最期

戦死場所は不明 ~ 風聞で死亡日を決める

 戦前、県立首里高等女学校で数学を教えていた照屋永繁さんは、昭和20年6月20日が死亡日になっている。しかし、その日付が正確かどうかは定かでない。戦争が終わって21年11月、疎開先の宮崎から3人の子を連れてふるさとの南風原村へ戻ってきた妻の昌子さん(72)=南風原町津嘉山=が、いろいろな人のうわさから判断、夫の戦死日を決めて役場に届けたのである。

 

 昌子さんのもとへは、遺骨はもとより、その遺品すら届いていない。いまだに夫の戦死場所も分からない。糸満市米須にある首里高女学徒看護隊の戦没者をまつる「ずゐせんの塔」では毎年、慰霊祭が行われており、昌子さんも戦後欠かすことなく参列している。しかし、生き残った教え子たちに夫の話は聞かずじまい。「本当は最期の様子を聞くのが怖かったのかもしれませんね」

 

 そんな昌子さんから昨年11月、1通の手紙が社会部に寄せられた。「主人の最期のもようを知っている方、遺品をお持ちの方いませんか。腕の傷の手当てのため教え子の病院壕にやってきた夜、その壕が直撃されたという話も聞いたような気がしますが、その壕すら知りません。首里高女の壕はどのへんにあるのでしょうか」

 

 歳月は夫を忘れさせてくれなかった。「ふと、遺族や生き残りの人たちの話は月日がたてばたつほど聞けなくなっていく気がした。夫の最期はどうしても気がかりだったし―」と話す昌子さん。このごろ、自分でも情報集めに乗り出したが、最期を知っている人はいなかったという。

 

 妻と子どもたちを疎開地の宮崎へ送り出して半年後の昭和20年3月、永繁さん(当時35歳)は首里で防衛隊として召集された。その後、東風平の世那城公民館に待機させられた防衛隊員は、兵隊の指図を受けて食糧調達や弾運びに使われる。その数、100人余り。いくつかの班に分かれて行動した。永繁さんの教え子の何人かは防衛隊として奔走する彼の姿を見かけている。

 

 戦火をくぐり抜け、生き残った首里高女看護隊の人たちに永繁さんの話を聞いた。「照屋先生の数学はとても分かりやすかった」と仲西由起子さん。「目が大きかったのが印象的。数学の先生にありがちな、とっつきにくいイメージでなくてとてもやさしかった」と真喜屋とみ子さん、大川トヨさん、中曽根菊さんの3人も口をそろえ、うなずき合う。

 

 真喜屋さんは20年6月20日ごろ、彼女たちがいた南部の伊原の壕近くで永繁さんを見かけた。「伝令の途中らしく、本部壕のある米須方面へ駆けて行くところでした。私と、一緒にいた島袋文子さんに『君たち、元気だったんだね』と声を掛けてくれたんです。明日にでもゆっくりとお話をしに行こうと思っていたけれど、それっきりになってしまって。あと2、3日したらここも火炎噴射でやられるといううわさが飛び交っていたから、確か20日ごろのことです。先生は米須あたりで戦死なさったんではないでしょうか。摩文仁の方まで行っていないような気がします」

 

 終戦直後のうわさ話から決めた永繁さんの戦死日が20日だから、真喜屋さんたちの目撃からそう長くは生きていなかったのかもしれない。

 

 宮崎にいるとき、昌子さんは永繁さんの夢を見た。「疎開先から引き揚げて懐かしいわが家に戻ったら、私を見るなり外へ逃げるように出て行ってしまった。後からついて行ったけれど、もうそこにはいない。悔しくて大声で泣いたら目が覚めた」という。この時、もう夫は生きていない予感が胸をよぎった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月3日掲載

 

防衛隊に照屋あり ~ 弱い立場の人から信頼

 沖縄戦では約1万3000人の防衛召集兵が死んだ。約2万2000人の召集があったと推定されるから、その6割が命を落とした。なかでも末期の南部戦線は凄惨をきわめ、戦闘訓練を受けていない人たちが砲弾の矢面に立たされた。抗するすべを知らずに戦場でおろおろし、いたずらに倒れていった老兵も少なくない。

 

 これらいわゆる「防衛隊」と呼ばれた人たちの召集は、昭和19年10月ごろから始まった。初めは、飛行場や陣地構築などをその任務としていたが、明けて20年は、早々から兵力補充のための根こそぎ動員が展開された。やがて戦場が悪化するにつれ、召集規則に定められた「満十七歳以上満四十五歳まで」の年齢制限は無視される。体の不自由な人や病人をはじめ、13歳から70代の年寄りまでが防衛隊として召集されたという。

 

 「そのような弱い人たちを助け、彼らから信頼されていたのが永繁さんだったんですよ」。終戦から1年余りたったある日、津嘉山にあった永繁さんの実家を訪ねた首里高女の嶺井強衛校長は、こういって昌子さんを励ました。

 

 嶺井校長の話によると、永繁さんを防衛隊にとられて学校は大変困ったという。嶺井校長は軍の司令部に行って頼み込み、いったんは隊を解除させたらしいが、永繁さんが校長のところに断りにきた。やめないでほしい、と防衛隊の人たちに引き留められていたのである。

 

 「主人は『どこにいても国のために働けるから』と嶺井校長に話していただしいです。校長先生は、私どもが『うるま新報』に出した主人の消息を尋ねる記事を見て、訪ねてきてくれたんですよ」

 

 永繁さんの人柄については、当時、彼と同じ班にいて一緒に行動していた2人の元防衛隊員が話してくれた。南風原町喜屋武に住む野原広永さん(75)は「体の小さい私の後にいつも付いてくれ、かばってもらった」と振り返る。視力が悪かった野原広次さん(85)もだいぶ世話になったという。

 

 「確か6月20日ごろだったと思いますが、その日の夕方に防衛隊は解散になりました。真壁(糸満市)の森にその時いたのは、照屋さんを含めて14、5人でしたか。結局、彼とはそこで別れてしまったのですが、友軍が近くまで来ているから元気を出してくれと言ってくれました」

 

 永繁さんは、広次さんにこう言い残して数人の仲間とその晩、姿を消した。「今後の行動計画を仲間と相談していたから、うまく逃げてくれたと思っていたのですが。なんせたばこを吸っても、その灯りを目がけて小銃弾が飛んでくるようなところでしたからね。どうなったか分かりませんよ」と広次さんは話す。

 

 首里高女の同窓生で組織している「瑞泉会」の会員の名簿をめくると、20年3月卒の生徒たちのページには「戦死」の文字が続く。しかし、職員欄に掲載されている照屋永繁さんは「死亡」と書かれている。戦死を目撃した人がいないからだろうか。

 

 永繁さんから宮崎・星山の疎開先に20年1月、妻と子どもたちを気遣う長い手紙が届いた。

 

 「エイコウクン マイニチ ガクコウニ ユキマスカ。オウチデモ ジヲカイタリ ゴホンヲヨンダリシナサイ。タイヘンサムイカ。ツヨイコハ サムイトキニモ ゲンキヨクアソビマス。オトウサンモ フネニノツテ ソレカラ キシヤニノツテ ホシヤマニ ユキタイナ」

 

 追伸にこう書かれた手紙が出されたのは、永繁さんが召集される2カ月前のことだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月6日掲載

 

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