沖縄県立工業学校の学徒隊 - 戦死者率95%の学徒動員

 

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 沖縄県立工業学校 : 那覇市歴史博物館

 

さて私たちは、校長や教頭が愛国に明け暮れ教育勅語御真影を護ることに必死となっているあいだに十代半ばの生徒たちが戦場に駆り出されていった実情を見てきた。 

 

 

 

沖縄県立工業学校の学徒隊の戦死者率は95%。

沖縄県立工業学校(工業鉄血勤皇隊・工業通信隊)
動員 (生徒97名 教師7名) 戦死者 (生徒88名 教師7名)

沖縄県沖縄戦継承事業21校の学徒隊」PDF から作成

 

戦死者率95%の学徒動員とは、いったいどのようなものだったのか、沖縄戦から39年後、琉球新報が取材した証言を読み直していきたい。

 

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那覇市歴史資料室収集写真/戦前/写真の校舎は1917年(大正6年)12月竣工した本館である。創立は1905年(明治35年首里区立工業徒弟学校として、木工、漆工の2科で発足。1914年(大正3年)に県立になり建築科を増設。1921年(大正10年)に県立工業学校(甲種)に昇格し、多くの中堅技術者を世に送り出した。

首里(学校)/沖縄県立工業学校 校舎 : 那覇市歴史博物館

 

琉球新報「戦禍を掘る」 出会いの十字路

(1)沖縄戦に備え学徒隊も ~ 生徒の9割が戦死 

 昭和20年 (1945年) 1月、首里県立工業学校(比嘉徳太郎校長)に球9700部隊から10人の将校、兵が訪れた。学徒隊の編成だった。緊迫する沖縄戦に備え、学生らも軍に協力、軍民一体となって勝利へ導こうという国策である。間もなく入隊のための適性検査が行われた。

 

 学徒隊には、沖縄男子、女子師範学校、一中、二中などから男女約2000人余がかり出され、半数が戦死。なかでも工業学校は戦死者が9割といわれ、最も多くの学友を失っている。結果的に検査の合格はそのまま戦死の押印となった。

 

 工業学校の所在地は首里。戦後は琉大グラウンドになった。1、2年が建築科と化学科、3年がこれに土工科を加えた3科でなっていた。

 

 昭和19年 (1944年) 6月ごろから軍の要請で、小禄飛行場の設営や真和志天久の高射砲陣地構築に生徒はかり出されており、授業は途絶えていた。生徒らの中には名護、伊江、勝連などの出身者も多く、首里に下宿して通学していたが、授業がなくなった時点で、田舎に帰る人もいたという。

 

 2年の建築科と3年生は陣地構築の測量任務についていたため、適性検査を受けたのは1年生と2年化学科それに初修科の約300人だった。検査は簡単なもので「単に強そうな者、軍に協力しそうな者を選出する程度」だったといわれる。

 

 それでも、まだ年のいかない少年たちであったから合格したのは半分に満たない107人だった。

 

 球9700部隊は第5砲兵司令部(部隊長・和田孝助中将)。県立一中(現在の首里高校)に本部を構えていた。適性検査に合格した者はすぐに司令部通信隊員として無線、有線、暗号の3班に分かれ、一中体育館で任務の教育に入った。教育期間中は全員、首里金城町周辺の民家に分宿、民家と本部を往復する生活が始まった。

 

 有線班は小杉少尉の下、架線や修理法、地名を覚えたり手旗のふり方を学んだ。無線班は窪中尉の下で、モールス信号の聞き取りを中心に、暗号班は中村中尉の下で乱数表、暗号書を使った暗号のイロハを学んだ。

 

 やがて入隊式が行われた。場所は一中グラウンド。県社会局援護課編「学徒従軍記」によると、教育中に疎開や事故にあった者もいたといわれ、正式に入隊したのは無線班42人、有線班14人、暗号班20人の計76人となっている。童顔の少年兵は緊張した面持ちで将校らのあいさつに聞き入っていた。

 

 その暗号班に長嶺勝正さん(55)=那覇市繁多川、無線班に山川宗秀さん(55)=那覇市真嘉比、新垣安栄さん(55)=那覇市首里汀良町、有線班に石川苗介さん(54)=那覇市首里池端=らの顔があった。

 

 あいさつは続いた。

 

 そちらの身は靖国にまつらる光栄を持って…。「君たちが死んだら兵隊と同じように靖国にまつられますといった意味でしょ。なぜか、そこだけは鮮明に覚えてまる」と長嶺さん。16歳の少年兵には39年経て、忘れえぬ言葉となった。

 

 入隊と同時に陸軍2等兵の階級章、軍服、軍帽、軍靴、小銃などが軍から支給され、軍服の左胸部には「特設防衛通信隊」と書かれた白布がぬいつけられた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月14日掲載

 

(2)米軍が一斉に攻撃 ~ 突然の空襲で訓練中止

  入隊式の前、軍から入隊志願書が学徒兵に配られ、保護者の承諾印をもらうため、家族の元に全員帰された。数日後、承諾印のついて願書が提出されたが、中には親の承諾をもらえなかった者もいた。

 

 「学徒従軍記」によると、保護者の押印がされてない書類は窪中尉の命令で、無線班の一学生が一括してはんこ屋で印鑑を作らせ、強制的に押印、提出させられたとある。

 

 また、入隊式に前後して、学徒全員に、万一の場合の遺品として頭髪とつめの提出が伝えられた。長嶺さんは語る。「遺書も書きましたよ。内容は忘れましたが、『国のために立派に働きます』と書いたのでは。その遺書と髪とつめを一人ひとり封筒に入れ、名前を書き、班の班長に渡しました。これらはまとめて土中にうめられ、戦後、捜しましたが、見つけ出せませんでした」

 

 昭和20年3月22日晩、明朝の射撃訓練実施が伝えられ、弾5発が支給された。小銃が支給され、初めての訓練だった。「君たちも、いずれ戦争が始まれば使わなければいけないので」との伝言。その後、全員銃の手入れをした。明くる23日朝、弁当を持ち、大道の射撃場に出かけようとした。その時だった。

 

 地軸を揺るがす響き、爆音とともに空襲が始まった。予期せぬ大空襲に、訓練計画は吹っとんだ。近くの虎頭山に避難した。山から那覇の港が一望できた。沖の日本の駆逐艦めがけ、米軍機が一斉に攻撃する。日本軍も天久の高射砲陣地から反撃する。蛇行しながら逃げまどう艦船が、はっきり見えた、と長嶺さん。「やがて船が沈むと、首里の司令部あたりから悲しいラッパの音が聞こえました」

 

 空襲はそれから毎日続いた。首里の民家のほとんどが焼け、司令部はあらかじめ用意されていた壕に移った。工業学徒兵らも壕生活が始まった。

 

 司令部壕は現在の首里金城町・日本民芸館沖縄分館の後方一帯にあたり、人工壕。一方、学徒隊の壕はその近くにあった自然洞くつが利用された。しかし、その洞くつは艦砲射撃の直撃を受け、大岩が落ち使用できなくなったため、学徒隊員は司令部壕で寝起きすることになった。

 

 歩兵司令部壕には数百人の兵がいて、設備もそろっていた。壕口は2カ所、木や土で偽装してあった。

 

 工業学徒隊の本格的な活動が始まった。しかし、暗号班は教育なかばで空襲が始まったため、暗号ではなく雑務についた。無線班も、無線を送るための発電機回しが主な任務となった。有線班は前線と司令部間に電話線を敷設する。

 

 山川さんは無線機の発電機回しで前田、沢岻などで任務についた。

 

 「着弾地の観測をしたり、無線の発電機回しをしてましたが、日本と米軍の攻撃の差に驚きました。日本軍が1、2発撃つと、米軍からは数十発帰ってくるんです。夜空が真っ赤になったのを覚えています」。4月1日に米軍が上陸。戦闘は激しさを増し、特に宜野湾嘉数、浦添前田ではし烈な攻防戦が繰り広げられた。それとともに、司令部壕にも次々と負傷兵が運び込まれた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月15日掲載

 

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(3)学友が爆雷出陣 ~ 次々戦死、発狂者も

 激しく降る雨が何日も続いた。砲兵司令部壕には負傷兵が後から後から運ばれてきた。うめき声と人いきれで壕はひしめいた。

 

 雨の中を無線班の新垣少年は南部の砲座近くに待機、戦線から送られてくる無線指令を砲座まで運んでいた。「前線からくる暗号電文を解読して文章化し、砲座まで内ポケットに入れて運ぶのですが、電文指令に昼夜はない。真っ昼間、外に出てグラマン機に追いかけられたことも何度か。5分ほどしたら、仲間がやってくるんです。助けにはではなく、もし伝令が倒れていたら伝文をポケットからぬきとって砲座まで運ぶためです」

 

 「私たちも大変でした」と有線班員だった石川さん。浦添の激戦地と司令部壕との間に電話線をひく仕事だった。「弾が飛び交う中を線をひいていくんですが、やっとひき終えたと思ったら、通じなくて、また線をたどりながら、点検に行くことも、修理も度々ありました」

 

 そうしたなか、学友の何人かは爆雷を抱え出撃した。爆雷とは板箱の中に火薬を詰め、信管を入れただけの爆弾。それをランドセルのように担ぎ、そのまま敵戦車の腹の下に潜り込み、爆雷から出ているひもを引くと、自分もろとも戦車がふっとぶことになる。

 

 爆雷出陣が始まると、学友の中から次々戦死者が出た。恐怖のあまり気が狂った学生も出た。「壕内でわめいたり、銃弾が飛び交う中で、踊ったり。かと思うと壕内のすみでじっと身を伏せていました」と長嶺さん、小川さんは語る。

 

 米軍の猛攻により、軍司令部は首里での戦闘を断念、摩文仁への撤退を開始した。砲兵司令部も同様に首里撤退を始めた。5月末のことだった。

 

 撤退時には、壕が米軍に使用されるのを防ぐため、壕の入り口を爆破する。しかし、司令部壕には発狂した学友が閉じ込もり、決して出てこようとはしなかった。仲間がかついで外に出しても、暴れてすぐに壕に戻ったため、仕方なく、生きた学友を壕に残したまま、壕は爆破されたという。

 

 撤退は首里から識名―一日橋―長堂―与座―米須―摩文仁の経路だった。長嶺少年は、爆雷や食糧の運搬で首里摩文仁を何度も往復した。最初、訪れた摩文仁は緑がおい茂り、首里の戦場から来た長嶺少年には、まるで別世界に感じられた。しかし、それもつかの間、2度、3度と往復するうちに、緑は消え、火薬と血の臭いがする戦場と化した。なかでも、途中の道端で見た光景が忘れられないという。

 

 「集中攻撃を受けたばかりの所を通過した時のことです。まだ、辺りには火薬の臭いが立ち込め、燃えている物もある。その一カ所に一家族数人が折り重なるように死んでいました。その中に、日本の軍用車両の後輪に背をもたれている女性がいて、背には赤ちゃんが帯から頭をダラッと落として死んでいる。お母さんらしい、その女性だけが生きているのですが、足をやられており、足から白い骨が出ている。その骨を握って『ウーウー』とうなってました」。

 

 周囲には肉片、内臓が飛び散っていた。「地獄とはこんなものだと、その時思いました」

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月19日掲載

 

(4)わが身に何が…艦砲直撃で9人即死

 糸満市摩文仁の各県慰霊塔から少し離れた所に「沖縄工業健児之塔」がある。沖縄戦で亡くなった職員や生徒124柱がまつってある。その敷地内にもう一つ小さな碑があり、こう刻まれている。

 

 昭和二十年乙酉六月四日午前七時 字摩文仁百六番地 徳村氏の屋敷内に於いて艦砲直撃にあい同級生九人即死、沖縄県工業学校進級二年生―

 

 9人とはいずれも暗号班で、碑文の末尾には、このうち名前の判明した4人の名が刻まれている。碑は戦死した学生の遺族が建てたものだった。

 

 その艦砲の直撃を受けた民家で生き延びたのが2人いた。長嶺さんと山川さんだった。

 

 民家はかやぶき、壁は石と土で造られ、床の板ははぎとられていた。長嶺さんは言う。

 

 「最後の爆雷首里から運んできた夜、その民家に入ったのです。体はくたくたに疲れている。家には兵や仲間らが20人ほどいました。私は親友の上原清義さんと一緒に台所の真ん中にあった柱に寄りかかって眠ってました。ほかの人も壁などにもたれ、それこそ死んだように眠ってました」

 

 翌朝、弾の音で長嶺さんは目を覚ました。隣の民家が集中攻撃を受けているのがすぐ分かった。悲鳴。鳴き声、弾の音。「あ、やられている」と思ったところに、隣から小さな女の子が台所に入って来た。その瞬間―。

 

 何分たったのか。長嶺さんが気がつくと、辺りは真っ暗。台所のすすが覆っていた。すすが消えたころ、わが身に何が起きたのかを知った。艦砲の直撃だった。屋根に穴があいていた。

 

 そばで寝ていた上原君を見た。血まみれで頭ガイ骨が二つに割れ、死んでいた。長嶺さんも足を2カ所やられていた。

 

 散乱するかやと石、土をどけ、夢中で摩文仁の山へと向かった。山の中に入って、初めて足から血が流れているのを知ったという。

 

 直撃を受けた後の民家に新垣さんも訪れていた。「あの民家は炊事する所で、私は炊事の用で行ったと思います」。散乱する死体の中に師範の学生を見た。「胴体に頭がなかったんですよ、ふっとんで」

 

   ○   ○   ○

 長嶺さんは足の傷が軽かったこともあり、摩文仁の山の中腹にあった亀甲墓で、重傷兵の看病にあたっていた。近くのため池に水を汲みに行くが、池には死体が浮き、水は青のりがべっとりとついて臭気がひどかった。もどしそうになるのを我慢して、鼻をつまんでのんだ。「あの時は、どうせ死ぬなら一度でいいから銀めしと冷たくてきれいな水を腹いっぱい飲みたい、そうみんな思ってました」

 

 やがて、米兵が墓を攻撃したため、山の頂上付近にあった砲兵司令部陣地壕に移動した。岩の割れ目を利用した簡単な陣地だった。そこに石川さんもいた。

 

 そのころ、山川さんや新垣さんら無線班は現在の工業健児之塔裏手の自然壕にいた。

 

 敵は目の前まで迫っていた。6月23日未明、生き残った兵や学徒隊全員に切り込みの命令が下った。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月20日掲載

 

(5)「散って祖国を守れ」無線班壕で中尉が訓示

 長嶺さんらの話をまとめると、切り込みは砲兵司令部壕と無線班壕の2カ所で、ほぼ同時刻ごろ行われている。最後の食事があり、隊長訓話があった。

 

 「母国のために散って鬼となって祖国を守れ。三途の川でまた会おう」。無線班壕では、窪中尉がこう訓示した。おし殺した声が、低く響き、異様に緊張した空気が壕内を包んだ。「正直言って、そのころは、みんな相当衰弱しきってました」と司令部壕にいた石川さん。手りゅう弾が二つ配られた。攻撃用だが、もし捕虜として捕らわれた時の自決用でもあった。

 

 はち巻きをしている者、軍刀をかざす者、30人ほどが、照明弾で真昼のような道をほ腹前進した。照明弾が切れると、辺りは暗やみとなる。途中で仲間とはぐれる者もいた。

 

 長嶺さんもその一人。「壕に戻ると、残っていた兵が出るところだったので、今度はこの兵たちについて出て行きました」。その壕から、石川さんも出た。「私たちが最後のほう。和田部隊長も一緒に出たが、途中ではぐれてしまいました」と言う。

 

 目と鼻の先ほどの敵陣地近くに着いたのは、朝だった。長嶺さんが話を続ける。

 

 「大きな岩穴に集結しました。英語が聞こえるほど近かった。私は『いよいよだな』と思って気構えていたのですが、1人の兵が衛生伍長に何か告げた途端、ピストルを自分のこめかみに向け発射、自決。その音で穴は米軍の集中攻撃を浴びました」

 

 穴の中は大混乱。「天皇陛下万歳」と叫ぶ人や、自決する人が出て騒然となった。生き残った者は海岸へと向かった。崖を夢中で下り、岩陰に身をひそめた。6人いた。

 

 しばらくすると、敵陣地から「センソウハオワッタ」とのアナウンスが流れた。23日夜、残った者で北部に突破しようと海岸沿いを進んだ。与座の壕で8月までいたという。

 

 一方、山川さんと新垣さんも、兵隊とともに敵陣に向かったが、陣地付近に張りめぐらされたピアノ線のようなものに一人が触れ、一斉攻撃を浴びた。そのため、渡辺軍曹が「おれについてこい」と線を一つひとつ確認しながら前進、兵、学生の順でゆっくり前に進んだ。

 

 「もう線がないと思ったのでしょうね」と新垣さん。急に渡辺軍曹が立ち上がり、日本刀をふりかざし、「突っ込めー」の号令。数歩進んだとたん、地雷が爆発、先を歩いた兵らが吹っ飛んだ。

 

 辺りが静まるのを待って、ゆっくり後退、やぶの中で待機した。生き残ったのが7人ほどいたという。気がつくと回りを米兵が取り囲んでいた。

 

 手りゅう弾を持っていた学友の照屋君が無数の銃弾を浴びた。「それを投げようとしたためでは」。その後すぐに、ほかの日本兵にも一斉攻撃。蜂の巣のような攻撃で、生き残ったのは山川さんと新垣さんの2人だけだった。

 

戦死は切り込み

 

 工業学徒隊が9割の戦死者を出した理由について、長嶺さんらはまっ先に、切り込みを挙げた。

 

 「通信隊という特殊な任務だったことや学徒解散がなかったなど、理由はいくつかありますが、何といっても切り込みです。目の前で次々、学友が倒れ、なお死に向かって、突っ込んでいく。死ぬためにだけ、突っ込んでいく。戦争とはこんなものです」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月21日掲載

 

 日本軍は、最も危険な戦闘地での伝令をこのような少年兵に走らせていただけではない。最期には斬り込み隊として手榴弾をもって走らせた。それが日本の戦争のやり方だった。

 

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1945年6月23日 『第32軍の終焉』 - 〜シリーズ沖縄戦〜