琉球新報『戦禍を掘る』 ある防衛隊員の沖縄戦 ~ 18歳の弾薬運び
琉球新報『戦禍を掘る』 ある防衛隊員の沖縄戦
赤飯…実は血の水 ~ 安全な場所に居座る部隊
32軍が最後の総攻撃をする2、3日前だと言うから、5月に入って間もないころだ。運玉森南西の小高い丘に掘られた壕で、防衛隊員の永田三郎さん(57)=那覇市宇栄原=を囲んで、ささやかな祝宴が催された。当時18歳の永田さんは歩兵89連隊(山3476)小泉中隊に配属され、直接の上司は相沢勇班長だった。相沢班長の下、永田さんら7人の防衛隊員がいたが、みんなの前にこの日、戦場には珍しい“赤飯”が出た。
「相沢班長が『永田はよく働くから1等兵にしてやる』と言って始まった祝宴でしたよ」と永田さんは振り返る。“赤飯”と言いながら永田さんの顔はこわばっていた。その理由はあとの説明でうなずけた。
丘のそばを東側から流れて来る小川―永田さんはそこを指した。「当時からある川です。私たちはこの水をくみ、飲料水や炊事をしていた。いつのころかその川が赤くなっている。上流の方では次々と友軍がやられたのでしょう。負傷、戦死した兵の血が流れてるんですよ。その水で米を炊いたので赤飯になっていた」
永田さんは摩文仁青年学校から防衛隊員になった。19年10月、最初に配置されたのは糸満市名城を拠点にする海上挺身26戦隊第2中隊。「船舶操攻隊でドラム缶より少し小さい爆薬を二つ両わきに乗せて敵艦を攻撃する部隊。30人1組で舟の出し入れが主な仕事だった。「夜舟を出し夜明けからは砂浜を掘った穴に入れ、草木で隠すのが日課」「戦闘が始まったころは壕の中で待機するわれわれに毎晩のように戦果が知らされ喜んでいた」
だが、4月には舟艇が米軍の艦砲で“全滅”、永田さんら防衛隊員も“解散”となる。「その時、伝令のできるものが集められたが、まっ先に手を上げた」―そのまま運玉森に伝令として配置された。
伝令らしく感じたのは数日だけだ。周囲の道路や地形などを教えられたが、そのあと永田さんらが指示されたのは、弾薬運搬だけだった。運玉森の“一線”まで毎晩10回近い往復だった。「弾薬箱は60キロはあったのではないか」と永田さんは言う。1キロ近い距離を往復、終わってみると、肩にはロープの跡がくっきり浮かび上がるほどだった。
名城から配転された防衛隊員の中から最初の犠牲者が出たのは5月3日ごろ。夕方、弾薬運搬に向かおうと壕を出たトタン、艦砲が近くに落ちた。永田さんも破片が辺り左手が2倍ほどにふくれ上がったが、糸満出身の上原という防衛隊員は頭に破片が当たり戦死した。
永田さんは「防衛隊員7人のうち5人は死に、1人は消息が分からない。私が生き残れたのは相沢班長のおかげ」と言う。
5月末、運玉森を撤退、与座岳に向かったが、途中に見た光景は、「勝利」をあきらめさせるものばかりだった。ぬかるみで倒れた負傷兵の上を、撤退する兵が踏みつけながら続く。木切れをツエ代わりに歩む兵隊の傷口はウジがわいていた。
夜明け前、与座岳に着いた時、永田さんが見たのは住民を追い払い、安全な場所に居座る軍隊の姿だった。永田さんらも住民の避難していた亀甲墓に待機するよう命じられた。
「越来村大工廻の方と言っていたが、5、6人の家族。蓄音機も持っていて裕福な家庭だったのではないか。20歳ぐらいの女性がいて“チーコ”と呼ばれていたように記憶している」と永田さんはその家族のことが今でも気になっている。
亀甲墓を追われたその家族に「摩文仁に行けば私の家族がいるから面倒見てもらいなさい」と送ったが、摩文仁まで来たという話は聞かない。「もしかしたら艦砲で一家全滅かもしれない」と言う。もうそのころは一発の砲弾で、一家全滅ということは珍しくなかった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月12日掲載
“切り込み”命令下る ~ 家族面会許可で命びろい
与座岳に着いた2日目には永田三郎さんら防衛隊員にも“切り込み”命令が出された。「だが、相沢(勇)班長は部隊の命令を無視して、私たちに『家族と面会して来い』と言うんです。みんな周辺の出身だから家族は近くにいる。実質的な班の解散だった。おかげで私は生き延びることができた」と、永田さんは相沢班長を命の恩人と言う。
それぞれ家族の元へ去ったが、永田さんは相沢班長と、真壁出身の金城という防衛隊員3人で与座岳を後にした。何のアテもなかった。砲火を避けるようにさ迷い、摩文仁小学校付近に来た時には夜が明けていた。「学校東側の壕に他の部隊が入っていたが、頼み込んで日が暮れるまで居させてもらい、夜はまた壕を探して出て行った」。
ほとんどの壕には、すでに先客がいて、3人がたどり着いたのは米須海岸だ。木麻黄林の中には住民や兵隊らがいたが、そこへ腰を落ち着けた。木麻黄の木がうっそうと中を覆い、艦船や日中空からしつこく偵察する“トンボ”からも身を隠すことができた。だが、永田さんらは、そこが決して安全ではないことは、すぐに分かった。
頭と足も吹っ飛ばされた女性の遺体。その乳房にしっかりとしゃぶりついている乳児―「いまだに焼きついている。子どもを何とかしたかったが、いつ死ぬか分からない身では、どうすることもできなかった」と永田さん。
みんなが飢えていた。永田さんは途中、炊事をしている知人から靴下に入れた米2袋をもらい、米須の海岸で枕にして寝たが、翌朝には消えていた。
そのころには、組織としての軍隊の姿はない。与座岳にいた時、部隊の物資集積場から衛兵の目を盗んで食料や衣料を盗んだが、永田さんは「何にも怖くなかった」と言う。盗んだ衣服の中には、少尉の階級章の入った将校服があり、米須海岸で着替えた。
「軍規がない状態で大胆になったこともあるが、撤退の途中、あまりにも“軍服”が住民をいじめる。将校服を着て助けてやろうという気もあった」。だが、永田さんは18歳の少年で小柄、“ニセ少尉”はすぐに見破られた。途中で拾った軍刀でイモ掘りをしていると、准尉に「階級章を取れ」と叱られ、腰を軍刀で思い切りたたかれた。それでも永田さんは階級章をつけたままだった。
米須海岸で何の方策も見つからぬまま3人は別れる。永田さんが家族のいる摩文仁まで一緒にいくことを勧めた相沢班長は陸路を突破しようとして戦死。摩文仁まで一緒に行きながら、真壁に戻った金城という防衛隊員も戦死したという。残る防衛隊員も2人が家族とともに自決したことを戦後聞かされた。永田さんは「あのころ死ぬことはこわくなかった。しかし、誤った教育で多くの人が死んでいった。今だと考えられないが…」とため息をつきながら言う。
◇ ◇
去る6月、永田さんに案内されて父親のたどった道を歩いた相沢班長の長男・宣昭さん(43)=函館市=は、間近に“沖縄戦”に接し、「こんなところに父はいたのか」と驚いた。
当時3歳の宣昭さんに父親の印象は薄い。母親と姉、そして妹がいる。「父は妹の生まれたことを知らずに死んだ。手紙で男女一つずつの名前を送って来たが、その手紙が沖縄から唯一の手紙」。発信から1カ月以上もたっていた。家族からは壊れた眼鏡の代替と、二女誕生を知らせる手紙が送られたが、手元に届くことはなかった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月13日掲載
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