昭和高等女学校 梯梧学徒隊

 

昭和高等女学校 梯梧学徒隊

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那覇市泊にあった私立の昭和高等女学校は、設立が1932年(昭和7年)と、当時あった女学校の中ではもっとも新しい学校で、商業教育を柱としていました。「梯梧学徒隊」として、17人が陸軍第62師団野戦病院に動員され、9人が亡くなりました

消えた女学校 女子学徒たちの沖縄戦|特集|NHK 戦争証言アーカイブス

 

校長 八巻太一(山梨県出身)校長

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1908年(明治41年)30歳の若さで山梨県師範学校附属池田尋常小学校(現甲府市立池田小学校)の第十代校長に任じられた八巻太一。1911年(明治44年沖縄県読谷村尋常高等小学校の校長として沖縄に赴任。以後、1917年(大正6年)名護尋常高等小学校校長、1920年大正9年沖縄県立第一高等女学校・女子師範学校教諭として転任、1929年(昭和4年)定年退職した後、私財を投入し、1930年(昭和5年)私立沖縄昭和女学校を創立。後に昭和高等女学校は1945年(昭和20年)の沖縄戦で消滅した。

教育考古学会『八巻太一に学ぶ―山梨から沖縄に渡った沖縄女子教育の先達』

 

琉球新報『戦禍を掘る』 昭和高等女学校

野戦病院で看護隊 卒業証書もらえずじまい

 昭和10年代後半―。その当時の17、8歳といえば女性は新陳代謝が最も活発で髪の毛一本一本にツヤがあり、ほおもほんのりと赤味がさして素顔が美しい時期だった。いろいろな夢や希望を抱いていたに違いない。

 

 戦争中女子学徒隊のほとんどの人が栄養不良とショックで生理が止まったと聞く。中には捕虜になった途端に出始めたという人もいる。戦争は命を奪うだけでは飽き足らず生きている少女たちの生理的機能をも狂わせた。

 

 昭和56年6月23日「慰霊の日」―。糸満市伊原にある昭和高女の戦没者を祭った梯梧之塔で23人の学友を失った4人の婦人がひっそりと写真撮影をしていた。彼女らはこの日つぼみのまま枯れ、咲くことを許されなかった亡き旧友たちの魂を慰めた。塔には花がたむけられささやかな果物が供えられた。周囲にはほのかな線香の香りが立ちこめていた。

 

 4人の婦人は、高見(旧姓小嶺)幸子さん(58)=那覇市楚辺=と稲福(旧姓浜元)マサさん(56)=浦添市宮城、それに諸見川(旧姓潮平)美枝さん(58)=伊是名村諸見=らで私立沖縄昭和高等女学校の12期生。

 

 「戦後、ひめゆり部隊を描いた映画を見ました。実際の戦争はそんな生やさしいものではありません。どんなに優れた作家や映画監督でも描けません。その恐ろしさは体験した者でないとわかりませんよ」と諸見川さんは強調した。

 

 終戦後の昭和23年6月、他の女子学徒隊に先がけて羽地国民学校で同窓生20人、遺族20人、八巻太一校長、職員らが参加して慰霊祭が行われた。その後も数回慰霊祭が行われたが、その存在はあまり知られていない。

 

 昭和高女は昭和5年3月に八巻太一(山梨県出身)校長によって那覇市崇元寺町(現泊)の西南に設立された。商店・会社・銀行の事務員養成を主目的としてそろばん、簿記、英文・和文タイプなどが主要科目の商業校であった。昭和15年の沖縄県統計書によると職員12人、在学生177人、入学生91人、卒業生57人となっている。

 

 昭和高女12期生31人は昭和20年3月6日第62師団(石部隊)野戦病院、通称石5325部隊に看護隊として配属された。学校のあった崇元寺の美しい梯梧並木と梯梧の花をあしらった校章から後に「梯梧隊」と呼ばれるようになった。彼女らの母校は沖縄戦で消滅、遂に卒業証書を手にすることができなかった。

 

 梯梧之塔は昭和高女の慰霊の塔で最初八巻校長らによって崇元寺町の校庭跡に建立され、その後同窓生らによって糸満市伊原に移された。最初に建てられた塔は崇元寺近くにまだ残っている。

 

 梯梧之塔には石部隊と共に南部の激戦地伊原まで移動した7班と8班の梯梧学徒隊の戦没者8人と沖縄戦で戦死した他の生徒、職員ら54人が合祀(ごうし)されている。

 

 7班に途中まで所属、行動を共にした照喜納(旧姓屋富祖)節子さん(57)=南風原町宮平=は沖縄戦で父親と幼い妹を失った。照喜納さんは「戦争は二度と起こってはならない。何年たっても同期で亡くなった人たちが忘れられません」と嗚咽(おえつ)をもらした。「戦争で亡くなった旧友は私たちの礎です。線香の煙を絶やしてはいけません」と言う照喜納さんの声はズッシリと重たい。

 

 昭和19年の10・10空襲前のまだ平穏なころ、昭和高女12期生31人は崇元寺の校舎で石部隊野戦病院の軍医、下士官4、5人から内科や外科に関する救急措置の理論を学んだ。看護講習を終えて、20年3月6日に彼女らは首里赤田町の石部隊病院壕へ入隊。山城という民間の家に宿泊しながら実習を学んだ。

 

 実習の全課程を終えないうちに予定が早まり、実習生たちは南風原町新川のナゲーラの壕に移動した。米軍が慶良間にまだ上陸しないころだった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月7日掲載

 

生きて腐る負傷兵 死と隣り合わせの看護

 12期生の稲福マサさん、諸見川美枝さん、それに途中まで7班と行動をともにした吉川(旧姓嘉味田)初子さん(55)=那覇市松尾=らの証言をもとに7班と8班、「梯梧隊」の足跡をたどってみよう。

 

 諸見川さんら12期生(当時4年生)17人が看護実習の予定を繰り上げ、首里赤田町の石部隊病院壕から南風原町新川のナゲーラの壕に移動したのは3月26日に米軍が慶良間に上陸する少し前だった。

 

 ナゲーラの壕で7班と8班に編成された。7班は諸見川さん、吉川さん、照喜納節子さんをはじめ、我喜屋(旧姓)道子さん、糸数(旧姓)ヨシ子さん、照屋玉子さん(戦死)、島袋文さん(戦死)、大山昌子さん(戦死)の8人だった。このうち照屋玉子さんはナゲーラの壕で戦死した。

 

 8班は稲福さん、高見幸子さん、山川マツさん、田港文子さん(戦死)、饒波八重さん(戦死)、大城清子さん(戦死)、金城初枝さん(戦死)、仲栄間米さん(戦死)の9人だった。8班にはナゲーラでの戦死者はいない。

 

 4月1日、米軍は北谷、嘉手納、読谷から上陸したが日本軍は棚原戦で随分抵抗した。ナゲーラの壕も4月初めまでは野戦病院の自隊患者だけだったので盲腸などのちょっとした手術が行われる程度だった。

 

 ところが戦争が激しくなり、現在の首里南風原町に行く三差路、崎山町の前線から患者がたくさん護送されるようになった。

 

 4月17日、戦況は悪化し壕内に患者を収容することができなくなった。本壕だけでは対応できなくなり稲福さんら8班は識名の自然壕へ向かった。

 

 「それから壕内は患者を収容できなのに増える一方で地隙(ちげき)にまで全部患者を並べました。足の踏み場もないほど患者がギッシリ詰まっていたので私たちも看護婦もその上をまたいで歩き、踏みつけるようにして包帯を交換しました」と当時を思い起こす諸見川さん。

 

 非常につらそうに話を続ける。

 

 「どうしてあんなにウジがわいたのでしょうか。人間が生きていて腐っているのです。三角巾をほどいたらサーッと1升ぐらいのウジがあふれ、ほうきで掃き集められるほどでした」。傷口は全部ウジで詰まっていたという。

 

 傷口から脱脂綿を丸めた棒でウジをかき出し仲のウミを取り除き消毒し、リバノールのガーゼを詰める。しかし、2、3日に1回しか治療できないのでその間にまた無数のウジがわく。それの繰り返しだった。

 

 そして「一番困ったのが毎月の生理だった」と諸見川さん。包帯や脱脂綿など用品には困らなかったが「場所」に困った。トイレといってもカマス(米の袋)で囲って穴を掘っただけのもので「いつ敵軍にやられるかわからない状態」だった。そして移動の時はなおさらつらかった。

 

 昭和高女の最初の犠牲者照屋玉子さんが死んだのは4月29日の天長節の夜。初めて壕が米軍の攻撃を受けた日だった。

 

 この日は経理部の兵隊4、5人が壕を広くするために作業をしていた。吉川さんら数人の生徒は勤務を終えても中に入れず、小さな壕の入り口でおしゃべりをしながら歌を歌っていた。

 

 するといきなり「バーンバンバン」と耳をつんざく音が地をとどろかせた。迫撃砲の集中攻撃だった。入り口にいた生徒たちはうつ伏せになった。攻撃の音がやむや否や高見さんの耳にだれかしきりに「…さん…さん」と友人の名を呼ぶ苦しげな声が聞こえた。

 

 明かりをつけてみると照屋さんが血だらけで倒れていた。「ホースから水が出るように心臓から血が吹き出していました」と吉川さん。石川班長が照屋さんの胸にさらしの1反をぐるぐる巻いた処置室に運んだが5分もたたずに息絶えた。乳房に食い込んでいた玉の破片が照屋さんの命を奪った。

 

 首里高女からも1人、町田ヨシ子さんという犠牲者が出た。諸見川さんと首里高女の安里フキ子さん、萩原注意の3人は壕の外に兵隊と大きな穴を掘り2人を埋葬し、焼香した。「照屋さんは小柄で色が黒く目のパッチリした明るい性格でした」と照喜納さんが寂しそうにつぶやいた。

 

 5月27日。期待していた日本軍の「神風」は吹かなかった。ナゲーラの壕も毎日米軍の攻撃を受けるようになった。野戦病院は「とてももたない」ことが分かり南部への移動が始まった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月8日掲載

 

弾雨の中、涙の埋葬 「家に帰り…」と級友息絶える

 那覇市識名―。光明寺横に鍾乳洞の自然壕がある。稲福さんら8班の生徒がナゲーラの壕から石部隊野戦病院のこの壕にトラックで移動したのは4月17日だった。

 

 本紙の6月25日と26日付の「石部隊従軍看護婦」の記事を手がかりに戦後39年ぶりに、この壕に看護婦として従軍していた彼女らと連絡をとれたと言う稲福さんとこの壕を訪れてみた。

 

 付近の住民に教えられた高台への坂道を登ると住宅が軒を連ねていた。こんな所にまさか長い壕があるとは思えない。住宅と住宅の間にある階段を下りると壕の入り口が見えた。腰を折って中に入ると真っ暗で真夏だというのに空気がヒンヤリと冷たい。ろうそくのほのかな明かりが鍾乳洞でゴツゴツした壕内を照らし出した。

 

 「あの時ここにはたたみ30畳が敷かれ、私たち女学生や看護婦、兵隊はこの場所で食事をとり眠りました」と記憶をたどる稲福さん。

 

 「同級生で同郷の前川清子さんと饒波八重さんがここで戦死したのは、5月13日でした」。

 

 4月17日。その日は月がとても美しい晩で久しぶりに外気を吸った稲福さんらは「本当に生きている」という実感がわいた。壕の上から読谷辺りの米軍の艦船が見え、時々上がる火柱に「敵兵がやられた」と手をたたいて喜んだ。しかし、それもつかの間、前線から患者が運ばれ看護に忙しくなった。

 

 5月13日深夜。勤務を終えた稲福さんはその日に限って目がさえ、裁縫道具を持って壕の中間にある炊事場へ行った。いつもなら壕入り口の大広場で前川さんと饒波さんの間に眠っていたはずだ。

 

 この日、前川さんのモンペの上着を稲福さんが着て、モンペは前川さんがはいていた。

 

 炊事場に1人の兵隊が血相を変えてやってきた。「入り口がやられたらしい」と言うのを聞きつけ、稲福さんはろうそくも持たず入り口に急いだ。

 

 外でさく裂した爆弾の破片が入り口の上から入り、付近にあった手投げ弾に触れ爆発し、広場はメチャクチャにやられていた。

 

 前川さんが内臓露出でほぼ即死の状態だった。饒波さんはまだ息はあったが、目から左半分の顔が無残にはぎ取られており、腕と足の4、5カ所を骨折していた。

 

 饒波さんは国頭村の羽地出身で、両親に大切に育てられた2人きょうだいのお嬢さん。駆けつけた稲福さんに絞り出すような声で「国頭に帰ったらねー」と言いつつ息を引き取った。

 

 稲福さんは大宜味、前川さんは羽地、饒波さんが半地出身で3人とも国頭郡の同郷だった。「もし自分だけが生き残って故郷に帰れた時ウチの子はどうしたのね、ときかれるに決まっている。その時のためにも自分の命をかけても2人の埋葬をしたかった」と稲福さん。

 

 激しい弾がちょっとやんだ時を見計らって埋葬に行った防衛隊員の後を必死で追いかけた。壕の上の方に一日橋に下る小道があり、大きな松の木があった。木の近くに穴を掘り、遺骨収集の時に2人の判別ができるように、1人は頭を北に、1人は南に向けて遺体を毛布にくるんで埋葬した。

 

 昭和21年7月稲刈りのころ―。饒波さんの両親とともに稲福さんは識名を訪れた。壕はメチャクチャにひっくり返されていた。松の木は無かったが切り株だけが辛うじて残っていた。

 

 石をひっくり返してみたものの埋葬をした時が夜だったのでだれを北に、だれを南に向けたのか稲福さんには定かでない。毛布の切れ端も髪の毛もみんな朽ちて2人の判別ができないのでは親に遺骨も渡せないと心配し、きれいに土をよけた。遺骨だけあらわにしたら、足の骨からモンペの切れ端が出てきた。それは稲福さんが上着を科してもらった前川さんのモンペだった。

 

 モンペの切れ端が手がかりとなり前川さんと饒波さんの両親は娘の遺骨をしっかり抱くことができた。

 

 「いまだに、2人の両親から『あんたを見ているといつも八重ちゃんを見ているようにあるよ』『清ちゃんを見ているようにあるよ』と言われるんです。私があの時、命の危険を感じて埋葬に立ち会わなかったら、2人の魂は永遠に浮かばれなかったでしょう」と稲福さんは声を詰まらせあふれる涙をそっとぬぐった。

 

 稲福さんと一緒に松の木を探してみたが、そこは住宅のガレージになっており、コンクリートで塗り固められていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月9日掲載

 

「死体に涙が出ない」人間を悪魔にした戦場

 ナゲーラの壕から稲福さんら8班は4月17日に識名へ。諸見川さんら7班は約1カ月後に兼城村武富へと別行動をとった。稲福さんは6月に米須の本部壕で諸見川さんと合流するまで、さらに3人の同級生を失う。

 

 5月29日。苦しみの始まりだった。米軍の攻撃が一段と激しくなり、稲福さんらがいた識名の石部隊野戦病院も撤退を余儀なくされ、班別の移動を始めた。

 

 歩ける患者は一人で歩き、歩けない患者は護送、もしくは担架で担ぐ。識名から武富、米須、伊原、阿波根と夜間強行の移動だった。

 

 雨がずっと降りしきっていた。疲労で身体は鉛のように重たい。それでも“あられ”のように飛んでくる弾をよけようと必死の思いで一歩また一歩と進む。時折、道のぬかるみに足をすくわれころんだ。当時を振り返り「足は棒のように感覚がなかった。一度すべったら服も泥だらけになるし、起き上がるのが大変でした」と稲福さん。

 

 やっとの思いで阿波根まで移動したが「敵が近づいている」とうわさが流れ、今来た道を伊原に引き返す。伊原の壕はサンゴの岩かげに手を加えたもので「弾が当たったらすぐ崩れそうなほどもろかった」。

 

 ある日、壕でシラミ取りをしていると爆弾が落ち、壕が落盤した。一緒にいた首里高女の生徒の足に大きな岩が落ちた。一人の看護婦が自分の命を顧みず助けにかけつけたが、続けざまに落とされた爆弾で2人とも即死。

 

 さらに流散弾の攻撃を受け、機能の低下していた野戦病院は一応解散の形となる。稲福さんらが伊原の集落までたどりつくや否や軍艦からの機関砲攻撃。「赤い火の玉が何百も耳をかすった」。

 

 仕方なくまた壕まで引き返すが、途中、金城初枝さんと田港文さんがはぐれた。稲福さんは「いまだに2人の戦死場所がわからない」というが、資料によると2人とも伊原で戦死したらしい。

 

 塗炭の苦しみは一挙に稲福さんを襲ってきた。それからは一夜が明けるごとに学友を失う日が続いた。

 

 迫撃砲の集中攻撃でまた壕はメチャクチャに破壊された。壕の中にいた大城清子さん、仲栄間米さん、山川マツさんの3人が生き埋めになった。それでも中から「…助けて…」という悲痛なうめき声に一人の兵隊が気づき、無我夢中で石や岩を掘り起こした。兵隊のつめに血がにじんだ。

 

 兵隊は石や岩の中から服がボロボロになった山川さんを見つけた。まだかすかな息があり、急いで人工呼吸を施すと奇跡的に山川さんは息を吹き返した。しかし「ショックのあまり目の焦点が合わずほとんど放心状態だった」と稲福さん。

 

 「30発の迫撃砲が、これでもか、と続けざまにさく裂したのは夜でした」と言葉を続ける。

 

 伊藤という日本兵が胸部貫通。台湾の軍属が内臓露出で即死。首里高女の生徒が無残におしりをえぐり取られ死んだ。

 

 もがき苦しむ伊藤兵に頼まれ、稲福さんは伊藤兵がこの日のために準備していたモルヒネを注射した。注射器を持つ手がブルブルと震えた。「その人は苦痛から解放され眠るように死んでいきました。あの時はそうすることが当然だったのです」と稲福さんは苦しげに話す。

 

 偶然合流していた7班の島袋文さんも足を「グチャグチャ」にやられた。「彼女は足の骨や肉をあんなにやられていたのに2、3メートル走ってきて止血するように頼みました。どうやって走ってきたのか今でも不思議です」。

 

 モルヒネはもう無かった。しかし島袋さんは「伊藤さんに打ったのにどうして私には打たないの。私を苦しませないで、私にもモモ(モルヒネ)を打ってちょうだい」と何度も頼んだ。苦しみもがき死んでいく友を稲福さんはただ見守るしかなかった。稲福さんの目に涙がにじんだ。

 

 …21日。彼女らの長かった苦しみに終止符が打たれる。摩文仁の排水溝で捕虜になった。「ただ悔しい思いでいっぱいでした」と稲福さん。

 

 「旧友が戦死して来年で40年です。一つの区切りとして慰霊祭には力を入れます」と稲福さんは強調する。

 

 「戦場は埋葬できないほどのたくさんの死体でいっぱいでした。ギンバエがたかり青膨れでとても人間とは思えなかった。だけどもっと怖かったのは自分。死体を見ても涙も出ない、悪魔のようになってたんです。冷たい人間になっているのを感じました」とポツリとつぶやいた稲福さんの言葉は重かった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年8月10日掲載

 

 

梯梧学徒隊(昭和高等女学校) - YouTube

第62師団野戦病院配属者の行動状況について(昭和高等女学校)

 

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