琉球新報『戦禍を掘る』 探し当てた戦死場所 ~ 山形歩兵32連隊第2大隊第5中隊

 

琉球新報『戦禍を掘る』 探し当てた戦死場所

今は小学校の校庭 ~ 小銃と軍刀で米軍に攻撃

 浦添市仲間の浦添小学校―。子どもたちが元気に駆け回り、屈託のない笑い声がこだまするこの校庭に、沖縄戦当時の激戦地だったおもかげはない。校舎の裏山には浦添城跡がそびえ、かいわいは近年、市街地化が著しい。そんな土地へ先月末、東北地方から父の戦死場所を訪ねて、桜の苗木を携えた人がやって来た。

 

 終戦から39年。やっと探し当てた場所で、父の供養をすることができたのは大場博夫さん(50)=山形県山形市。大場さんは去る1月30日、妻の良子さんとともに来沖。父・庄太郎さんの戦死場所を知っているという宜野湾市に住む嘉数盛助さんの案内で、空港から浦添小へ直行した。その日はあいにく、どしゃ降りだったが、いっときも早く父が眠るところへ行きたい大場さんは、雨など少しも気にならない様子だった。

 

 午後1時すぎ、浦添小に到着した大場さんを、嘉数さんの連絡で事情を知った同校の嘉手苅喜朝校長が出迎えた。通された校長室で大場さんは、父の最期のもようを嘉数さんに尋ねた。嘉数さんは「もう、だいぶ昔のことだから日時などは詳しく覚えていませんが」と前置きして話を始めた。

 

 「大場大尉は向こうに見えるヤシの木の近くで戦死したんですよ。私が実際に目撃したわけではなく、負傷して近くの壕で休んでいた私のところへ、砲弾をくぐり抜けて駆け込んできた井上軍曹から聞いた話で、大尉がやられたというのです。目と鼻の先に米軍の機関銃陣地があったので、おそらく機関銃でやられたんでしょう。目撃した井上軍曹から聞いたので戦死場所は間違いありません」

 

 米軍が、仲間、前田、幸地一帯に第2次総攻撃を開始したのは昭和20年4月27日のこと。大場庄太郎さんが中隊長を務める山形歩兵32連隊第2大隊の第5中隊は、2日後の29日夕方、戦う元気のある11人で米軍に攻撃をかけるため壕を出た。

 

 嘉数さんはその時、腕や足、背中など、体中に小銃弾の破片が突き刺さり、壕でぐったりしていたという。壕内には佐藤1等兵という人がいたが、彼は間もなく破傷風で息を引きとった。既に、嘉数さんのいた中隊は壊滅状態になっていたころだ。

 

 嘉数さんは言う。「3日分の食料を持って大場大尉らは出て行ったが、武器は小銃と軍刀だけでしたからね。辛うじて生き延びてきた井上軍曹の話では、中隊はひとたまりもなくアッという間にやられたとのことでした」。庄太郎さんは、息子・博夫さんの現在の年よりもはるかに若い42歳で戦死した。

 

 戦後、復員して北海道に帰った井上さんは既にこの世にいない。庄太郎さんの最期を知っているのは、嘉数さんだけだったのである。「父は戦車でやられて吹っ飛んだといううわさも聞かされていたので、真相が分かりホッとした気持ちです。今日まで父がどこで、どう戦死したのか知らなかったが、これで胸のつかえが下りました」と大場さん。何度も嘉数さんに頭を下げ、校長室から出て“現場”へ足を運んだ。

 

 戦死場所はヤシの木のほとり。大場さん夫妻と嘉数さんは、花束をささげ、山形名物の漬物などを供えて、父の“霊前”でめい福を祈った。13年前に戦死地を求めて来沖した際は、結局分からずじまいで、全く関係のない場所で祈りをささげたという大場さん。折からの大雨で庄太郎さんの写真が雨粒にぬれていたが、妻の良子さんが読み上げるお経にじっと目を閉じ、手を合わせる大場さんの心には、「父にようやく会えた」という晴れた思いがあったにちがいない。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月7日掲載

 

貧しく職業軍人に ~ 糸満の山城で守備につく

 大場博夫さんの父・庄太郎さんは、20歳で現役兵として入隊した。「私たち山形の村は貧しいところで、食べるものにも不自由していたらしいです。それで父は、兵隊になった飯を食おうと職業軍人を志願したんですよ」と大場さんは語る。

 

 庄太郎さんは入隊後、満州に渡り、一時的に北海道へ帰ったこともあったが、再び満州へ行ってしまった。そして、昭和19年8月に沖縄へ。約400人の部下とともに、、本島南部・山城(糸満市)で守備にあたった。嘉数さんの話では、山城に第2大隊の本部があったという。日増しに米軍の攻撃は激しくなるばかりで、ついに、前線の浦添が危ないとの情報が入った。そこで大場大尉を隊長とする第5中隊が応援に向かうが、浦添城跡に来てまもなく、米軍のすさまじい戦車攻撃があり、中隊はあっけなく壊滅した。

 

 「とにかく何が何だか分からない状態で、味方にもやられるし、ほんとうにみじめでしたよ」と、嘉数さんは当時のもようを再現する。

 

 熱心に父の最期の話に聞き入る大場さん。彼が嘉数さんの存在を知ったのは昨年暮れのこと。同中隊の生き残りで北海道に住む高松保一さんが沖縄に来た際、出会った嘉数さんから偶然にも中隊長の最期の話を聞いた。高松さんは、この話を山形沖縄県人会長の尾形菊太郎さんに伝え、かねてから尾形さんに父親捜しの依頼をしていた大場さんへ知らせが届いたのである。

 

 大場さんには、たった一つだけ父親の思い出がある。昭和17年、8つの時だった。「満州から北海道へ帰ってきた父が2日間だけ山形に立ち寄りました。父は軍服を脱いだ着物姿で、小学校2年の私を映画に連れていってくれたのです。その帰りに軍人とすれ違い、私が『おとうちゃんと同じだ』と叫ぶと、父が静かにするようにしかったのです。いちいち敬礼するのが面倒だったようです」と大場さん。かたわらで夫の話を聞いていた良子さんが「子どもと過ごす短いひと時だけでも、軍人であることを忘れたかったのでしょうか」とつぶやいた。

 

 父の供養を済ませた大場さん。翌31日は、糸満市山城の第2大隊本部があったという壕を訪ねた。この日も嘉数さんが一緒に付いてくれた。「そこには遺骨がいくつか見られましたよ。いまだに収骨されていないんですね。それを見るにつけ、私ども本土の犠牲になった沖縄の人たちが大変かわいそうに思えました」と、大場さんは申しわけなさそうな表情をした。

 

 沖縄に滞在した3日間、大場さん夫妻は、出来る限り沖縄戦の足跡をたどった。喜屋武岬では、次々と海に飛び込んで死んでいった人たちの話を嘉数さんから聞かされて絶句。山形の塔に行った際は、ろうそくを持って壕内に入り、線香をあげた。

 

 「私はラッキーでした。嘉数さんの話では、父が戦死した付近の遺骨は終戦直後に集められ、浦和の塔に納骨してあるというし、安心です。その塔の前で、手も合わせました。しかし、私のほかにも亡くなった家族の最期を知りたがっている人は多いでしょうねえ」

 

 大場さんはこう話し、今なお家族の消息を知らない人たちを気遣った。そして、滞在中、不思議な思いがつきまとったことを付け加えた。「車で移動している時は晴れていたのに、壕や戦いのあった場所に着くと突然、雨に見舞われるんです」

 

 昭和20年の5月は、うっとおしい梅雨で、雨の中を行動した記憶を持つ人は多い。父の庄太郎さんや、無念の死を遂げた人々が大場さん夫妻に語りかけてきたのだろうか。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月8日掲載

 

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