琉球新報 戦禍を掘る「ある少年の沖縄戦」 ~ にんじんにされる

 

琉球新報 戦禍を掘る「ある少年の沖縄戦

生き埋めの体験も ~ 13人いた家族が2人に

 10歳にも満たない少年の記憶が、なぜこれほど鮮明なのだろうか。戦後39年を経て、なお細部にわたる証言をする。確かな記憶がかえって悲しく忘れられない、と言う。沖縄戦で最も攻防の激しかった首里、西原、南風原の境界を家族らとともに逃げまどい、13人いた家族のうち、11人が死んでいった。

 

 名幸芳生さん(48)=那覇市首里汀良町、当時9歳。戦前から汀良に住んでいた。首里第一国民学校に通う。2年に上がるころには、戦の足音も一層高くなり、学校も戦時色を強めていた。「教室の前にわら人形が二つあって、それを竹やりで突くんです。確か『ルーズベルト支那蒋介石、何とか―』って叫んでました。それから授業を受けるんです」

 

 名幸さんの家には、祖父や父母、妹、弟、叔父夫婦ら13人が暮らしていた。うち父は防衛隊員として名護で製材の仕事をしていたが、昭和19年秋には戻って、家の近くの森に避難壕を掘り始めた。家族が多いため、屋敷内につくった壕だけでは足りず、3カ所に壕を確保していた。

 

 叔父の妻は体が弱く、当時、那覇の西町にあった病院に入院していた。昭和19年10月9日、「明日には退院できる」と医者に言われた。

 

 明けて10日。名幸さんはこの日、いつものように学校に行った。「朝行く時には何ともなかったんですよ。学校を終え、家に帰る途中だからお昼あとです。大人たちがビンジル森に行くので、おもしろがってついて行きました」

 

 眼下に広がる那覇の街は真っ赤に燃え、夕やけを見るようだった、と言う。何機ものグラマン機が編隊を組み、低空飛行で爆撃を繰り返していた。「その森は日本兵の陣地があって、グラマンを見て日本兵が銃を撃つんですが、今考えると、大笑いですよ。当たるはずありませんから」

 

 この那覇10・10空襲で、病院は焼失、退院を喜んでいた叔父夫婦は帰らぬ人となった。そしてそれ以後、空襲、艦砲は日増しに激しくなっていった。

 

 「近くのクンジャン山には友軍の通信隊がいて、何十もの無線塔が立っていたんですが、それが爆撃で倒されるんです。その音は壕の中でも聞こえるほど。『ドドッ、ズシーン』とにぶい大きな音をたてて」。ここにいたら危ない、と一家は汀良から山を下った西原町池田に移った。池田は運玉森と刻時森の谷間にある。小さな川が流れる両側はいくつもの壕が掘られ、汀良の近所の人たちもそこに避難していた。

 

 名幸さん一家は人数が多いため、ここでも壕を二つ確保した。下流の方に名幸さんと父母、上流の壕には3人を除く家族が入った。そこで、名幸さんは生き埋めの体験をする。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月25日掲載

 

墓を壕がわりに ~ 生まれて初めて米兵見る

 9歳の記憶をたどり、西原町池田の壕を名幸さんは探した。うっそうと草がおい茂り、樹木が倒され、幾本も横たわる谷間を歩いた。「ここです」と指さした所は、既に入り口がふさがれ、壕の姿はない。ところが、小川を挟み、真正面に掘られた壕は、当時の姿、そのままに残っていた。「儀間さんの家族がいた所」と言うその壕は入り口が1メートル正方、奥行き150センチほどの穴。壁に位はいを置くための小さな穴もあり、思わず息をのむような姿だった。

 

 父母とともに池田の壕で生活していたある日、名幸さんは上空をトンボと呼ばれる偵察機が飛ぶのを見る。トンボが飛行すると、幾分か後には爆撃を受ける。案の定、しばらくすると雨のような攻撃を受けた。その後である。土が地響きをたて、なだれのように崩れ落ち、壕の入り口をふさいでしまった。

 

 「私はもう怖くて、両手で目と耳、鼻を押さえ、かがえ込んでいました」。正気に返ると、辺りは真っ暗。壕内に常時置いていたショベルと小型のつるはしを使い、父・芳英さんがふさがった入り口を掘り始めた。名幸さんも一緒になって手伝った。まさしく生きるか死ぬかの作業だった。やがて、小さな穴があき、光が入った。「土が普通の硬い土でなく、砂状のニービだったので助かったと思います」と名幸さん。命からがら逃げ出し、もう一つの上流の壕に合流した。

 

 その壕は入り口が上下二つに分かれ、中は通路でつながる、いわゆる2階建て壕。名幸さんらは下の壕に、上には西原のある一家6~7人が入った。

 

 「それが、ある日迫撃砲を受けて、私と父母が同じように右足をやられました。母は特に重傷でした。傷口から血はあまり出ませんが、緑色にはれ、しばらくするとウジがわきはじめました。においもきつく、かゆくて、痛くて、大変でした」。これがその時受けた傷の跡です、と名幸さんはズボンをめくった。「父が豚の脂と塩を交ぜたものを傷口に塗ってくれました。薬の代用だったのでしょう」

 

 そのころになると、米軍はもう近くまできていた。「日付は全く覚えていません。でも、記憶だけははっきりしています」。ある夕方、一瞬の出来事だった。1階と2階、同時に2発ずつ手りゅう弾が投げ込まれた。「ドサッ」という音とともに2階にいた家族が通路から1階にころげ落ちてきた。

 

 「西原の家族は全員やられたと思います。みんなは死んでいませんでした。うめき声も聞こえました。でも、私たちも生死の瀬戸際、ころげ落ちた人が入り口をふさいだ格好なため、踏みながら外に出ました」

 

 池田を出た名幸さん一家は再び首里に向かった。途中、空いた墓二つを壕がわりに利用した。今の那覇市清掃工場近くだった。やはり、名幸さんと父母は一緒に空き墓に入った。「その墓は床があり、床下には泥水がたまっていました」。その墓で名幸さんは生まれて初めて米兵を見る。「アメリカーに捕まったら、にんじんやごぼうにされる、と父や祖父から聞かされてましたので、恐ろしかった」。捕まると手足を切りとられ、耳をそがれ、まるでにんじんのようにされる、という意味だった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月26日掲載

 

米兵に助けられ ~ 見るものすべてが別世界

 空き墓での生活が始まった。食べ物がない。名幸少年は辺りを捜し回り、空き壕から食べた後の魚の缶詰を見つけた。汁がかどに少し残っていた。持ち帰り、墓の天井から、ポツリと落ちる雨水を缶にため、指でかきまぜ、飲んだ。「これまでに味わったことのないほどおいしかった。忘れられない味」だった。

 

 墓の前は、急な下り傾斜。木々は燃え、見わたす限り焼け野原。ある日の夕方、墓の前でたたずんでいた名幸少年は、これまで見たこともなかった人間たちを見た。坂を登ってくる。「すぐ、アメリカーって分かった。で、父に言われていた『にんじんにされる』を思い出し、あわてて墓の中に入り、父に敵兵がきたのを伝えた」

 

 中で息を殺していると、外で「何とか、かんとか」と分からぬ言葉で何か叫ぶ声が聞こえた。その直後、手りゅう弾が投げ込まれた。一瞬にして天と地がひっくり返った。「でも、運よく父も私も助かった。母は生きてはいたが、重傷で動けない。それで父は母を残したまま私の手を引っ張り、墓の外へ」。傾斜面を一気に下った。

 

 闇の中を逃げた。辺りはキビ畑の焼跡。そのうち照明弾が上がった。真昼のように照らされた中で、逃げる親子がくっきり浮かび上がり、銃の的になった。弾は名幸少年の左わき腹から背中にかん通、その場に倒れた。燃えるような熱さが体を襲い、父に水を頼むと、「今、持ってくるから、待っとけ」と告げ、どこかに行った。「恐らく、父はその後、残った兄弟がいる別の墓に行ったのでは」と名幸さん。父と子は再び出会うことはなかった。終戦後、知人から父は百名の収容所で6月20日に死んだ、と聞かされた。妹や弟ら他の家族とも空き墓で別れたのが最後になった。

 

 キビ畑に残された名幸少年はそのまま、気を失っていたが、顔がむしょうに熱くなったため、目をさました。水がほしい。辺りを見回しても何もなく、体も動きがとれなかった。

 

 「ならば、小便でも飲もう」と思い、倒れたまま、かかとで土にくぼみをつくり、そこに用をたした。「チョロチョロと赤い小便が出ました」。わずかにたまった“水”を飲もうとゆっくり起き上がった。顔を近づけると、もう“水”はなかった。土中にしみこんだのだ。再び気絶した。

 

 次に気がつくと、米兵がつま先で自分をけっていた。「怖くて死んだふりをしていた」が、手を触れられ、ぬくもりがあったのだろう、たんかで運ばれた。

 

 着いた所は近くの米兵陣地。「驚きました。上半身裸の米兵がひげをそっているわ、コーヒーを飲んでいる者はいるわ、まるで別世界。トイレットペーパーまであった。子供ながらに、友軍と敵軍の開きの大きさにあきれました」

 

 その後、名幸さんは病院に運ばれ、終戦を迎える。奇しくも生き残ったのは、墓に置き去りにされた母と名幸さんだけ。11人が戦死したが収骨さえままならなかった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月27日掲載

 

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