「ある一家の沖縄戦」クチグヮーガマからガラビ壕へ ~ 琉球新報 戦禍を掘る

 

「ある一家の沖縄戦」(琉球新報 戦禍を掘る)

沖縄戦から39年後の証言、「ある一家の沖縄戦」(琉球新報 戦禍を掘る) を読む。

 

浦添 - クチグヮーガマ

「ウフクチガマ」「クチグヮーガマ」「仲間6班の壕」

 

 

④クチグヮーガマ(仲間の住民避難壕群)

当時、浦添の人口は9,217人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は、4,112人で、実に44.6パーセントの住民が戦争の犠牲者となりました。この壕は入口が口を開いた形に似ているためクチグヮーガマとよばれています。主に仲間区6班の住民が避難していました。ところが戦闘が激しくなると班外の人も入っていました。

うらそえナビ

 

壕の入り口は日本兵に占拠され、住民は奥の方に押し込められた。

当時13歳の玻名城初江さんが逃げ込んでいた、浦添城跡の壕「クチグヮーガマ」。アメリカ軍が前田高地に陣取る日本軍を攻撃するなか、壕の入り口付近に兵士たちが潜んでいたため、クチグヮーガマも攻撃を受けます。飢えに苦しむ中、死を覚悟しながら水を飲むため家族とともに外へ出ます。「出てみたら遺体が真っ黒けにふくれ上がって。1人2人じゃないんですよ。激戦地だから兵隊もいるでしょうし、一般住民、子どもや大人、ほんとうに地獄みたいでしたね」。

すでに前田高地の戦いは終わっていて、玻名城さんはアメリカ軍の捕虜になります。「夢や希望に燃えていた小さい子どもから、若者、大人までね、みんなその夢や希望も打ち砕かれて、この戦争に奪われてしまった。絶対に二度と戦争を起こしてはいけないと強く思います」。 

浦添市 クチグヮーガマ 【戦跡を歩く】|戦争|NHKアーカイブス

 

壕の真上から攻撃 ~ 100人ぐらいが生き埋めに

 浦添市仲間は去る沖縄戦で、天王山ともいうべき日米攻防戦が繰り広げられたところ、日本兵ばかりか住民も戦渦に巻き込まれ、多くの犠牲者が出た。

 

 当時、その集落に住んでいた宮城(旧姓玉城)トミ子さん(53)=浦添市屋富祖=の一家も例外ではない。トミ子さんが語ってくれた沖縄戦は、生と死がいかに紙一重であるかを痛感させるものだった。

 

 両親と姉を沖縄戦で失ったトミ子さん。このうち、最初に亡くなったのが母・ナヘさん=当時(44)=で、仲間地区の避難していた壕で息を引き取った。米軍の馬のりにあって壕が落盤、奇跡的に脱出したが、壕を出たところで衰弱死したという。

 

 トミ子さんの記憶によると、米軍に馬のりされたのは米軍が上陸して間もない昭和20年4月6日ごろのこと。ガマの二つの入り口から「地雷のようなものがゴロゴロと流れ入ってきた」のを目撃した。次の瞬間、入り口付近を中心に爆発音が続き、ガマは各所で崩れ落ちた。口が大きいことから「ウフグチガマ」の呼び名がついた壕だったが、入り口が完全に閉じてしまったのである。

 

 この壕(ガマ)は、艦砲射撃が激しくなってきた3月末ごろから民間人が避難。4月に入ると、島尻方面から第一線の応援に球部隊や石部隊の人がやって来た。常時5、60人の日本兵が壕を出入りし、夜になると敵陣めがけて斬り込みに行った、という。その多くは二度と帰ることがなかった。

 

 馬のりされた日、壕にいた日本兵は約50人ほど。そして、壕の奥ではトミ子さんの家族ら民間人約100人が肩を寄せ合っていた。

 

 「アッという間の出来事でした。爆発物の投入で落盤が相次ぎ、目の前で多くの人が大きな岩に押しつぶされていくのです。100人くらいは生き埋めになったはずです」

 

 ひと息つく間もなく、今度はトミ子さんたちがいた壕の奥の方でも落盤が始まった。入り口から数十メートル入った奥には、50坪ほどの広い場所があったが、そこも安全なところではなかった。米軍が壕の真上から攻撃を始めたからだ。

 

 「私たちのいるちょうど真上にダイナマイトを仕掛けたらしく、爆音とともに4、5メートルほどの頭上から一かさ一かさ岩が崩れ落ちてくるのです。指が壁に触れただけでも天井にヒビが入りそうで、怖くて怖くて…」

 

 やっと落盤がやんだのは数時間もあっってからだろうか。気がつくと、生き埋めから免れたのはほんの30人ばかり。が、あたりはどこもふさがって出口がない。15歳のトミ子さんは、父母や姉と顔を見合わせ「窒息して死んでしまう」と青ざめた。

 

1984年4月18日掲載

 

“火が消えないぞ” ~ 一人が通れる穴見つかる

 「班長殿、助けて下さい」などという声が、やがて聞こえなくなった。大きな岩に押しつぶされて息絶えたか、あるいは観念したのか―。壕は静まり返った。薄暗やみには女や子どもなどが30人ばかり。閉じ込められて逃げ出すすべを知らない。トミ子さんも「せっかく落盤から免れたというのに、結局死んでしまうんだ」と思った。

 

 ふと、民間人に混じって3人の日本兵がいるのに気付いた。その中の1人が肩にかけていたカバンからマッチを取り出し、火をつけてみた。

 

 「やった、火が消えないぞ」と若い将校。「これはどこかに穴が空いていて酸素が入ってくる証拠だ。みんな、脱出できるかもしれない。安心しろ」と励ましの声が壕に響いた。

 

 壕は暗かったが、30人の顔は輝いたに違いない。将校は腰から日本刀を抜き、まわりの壁をつつき始めた。トミ子さんらはかたずをのんで見守った、という。そして、ついに人間1人がやっと抜け出せるほどの小さな穴を見つけた。

 

 トミ子さんは振り返る。「窒息か飢え死にを覚悟していただけに、感謝でいっぱいでした。その人たちが穴を探してくれなければ、と思うと今でもゾッとします」

 

 将校らに続いて、トミ子さんたちの家族も1人ずつ壕をはい出すことになった。

 

 いよいよ脱出しようという時、トミ子さんたちを呼び止める声が後方から聞こえた。振り向き、近づいて見ると、落盤で下半身が埋もれた人がいる。上半身は地上に出ていたから、口はきけた。

 

 「私は師範学校を卒業した沖縄の初年兵です。玉城村奥武島に親がいます。私がこの壕で死んだことを伝えてくれませんか。その島には馬車引きの家は一軒しかないし、すぐ分かりますから」

 

 初年兵は、こう言ってトミ子さんの父・嘉目さん=当時(46)=に印鑑と腕時計を託した。

 

 「その人は助けをこう言葉は口にしませんでした。あきらめていたんでしょうか。『残していかないでくれ』とか、『いっそ殺してくれ』などと言いそうなものを。それだけに、助けてやりたくても岩をどけてやれないのがつらかったですね」

 

 トミ子さんは、この人の顔を今でもはっきり覚えているという。「真っ暗な中に生きたまま取り残してきたことを思うと胸が張り裂ける思いが…」と声を詰まらせる。

 

 遺品を託された父親は、のちに南部戦線で戦死してしまった。このため、印鑑と腕時計の行方は分からずじまい。戦後ずっと、このことを気にかけていたトミ子さんは「遺品はなくてもその人の最期だけでも遺族に伝えよう」と思い立ち、本土復帰した昭和47年に奥武島を訪ねた。

 

 「両親は既にこの世になく、兄夫婦らしき人たちがいました。けれども『弟は島尻の壕で戦死したことになっている。そこから魂も拾ってきた。今さら生き埋めになったなどと言われても困る』と取り合ってくれません。せめて線香をあげさせてほしいと頼み込み、手を合わせに仏壇に向かいました」

 

 トミ子さんは目の前の遺影を見て、がく然とした。「あの日、壕で見た顔…」と絶句。そこには、20歳そこら、当時のままの福々しい笑顔があった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月19日掲載

 

 

 

子を逃がし母死ぬ 再会を誓い合ったが…

 落盤で埋もれて身動きのとれない人を壕に残し、脱出が始まった。壕の外へ続いていると思われる小さな穴は、直径わずか70センチほど。歩いて抜け出せるどころか、はいつくばって進むのもやっと。脱出はひと苦労だった。

 

 「父は家族に手を貸してやるのに必死。まだ10代半ばの私を見て、とても1人では壕から抜け出せないと判断、腰につけていたロープの先を私の手首に結びつけてくれたのです。そして『お父さんが先に行くから、そのままついて来なさい』と指示。私は足を使わず、手だけで泳ぐようなスタイルで狭い穴をくぐり抜けました」

 

 トミ子さんは、父・嘉目さんにロープで引きずられるような格好で脱出に成功した。「穴が本当に長く感じられました。7、80メートルもあったような…」と思い出しては、信じられない行動だったという表情をした。

 

 続いてトミ子さんの姉で長女のカマドさん=当時(22)=が自力で脱出。2人の娘の無事を見届けたあと、嘉目さんは妻・ナヘさんを助け出すため壕に戻った。

 

 やがて、家族は壕の外に出そろった。トミ子さんの記憶によると、翌日の夜明け前になっていた。「父に連れられて最期に出てきた母は、病後のためかなり衰弱していました。酸欠状態の壕内に長い時間いたので体調が狂ったんでしょうねえ」

 

 脱出した30人は出口付近の岩かげで、息を殺して潜んでいた。その中に、16歳の男の子を頭に4人の子を連れた女性がいたが、手りゅう弾が飛んできてやられるのをトミ子さんは見た。

 

 「30人が隠れるにはあまりにも小さな岩でしたから、岩陰からはみ出ていたのでしょう。1発目ので男の子が手りゅう弾で『目をやられたあ』と叫んだら、その叫び声を目がけて2発目が飛来、その女性と3人の娘が即死しました」

 

 そんな光景に、嘉目さんは「ここにいては危険」と悟り、逃げ出すことに決めた。が、ナヘさんは逃げる体力も気力もない。死が近いことが目に見えた。トミ子さんは「お父さん、逃げよう」と嘉目さんにせがんだ。

 

 「私があまりに泣き叫ぶものだから母がとても気にして」と振り返るトミ子さん。「トミ子は絶対死なせないから。母さんはもうだめだから、父さんと逃げて」と息も絶えだえに言ってくれたという。

 

 「私には、まだ戦火が激しくならないころに学童疎開の話があったけれど、父が断ったのです。だから、母には、『疎開させていれば娘をこんな目にあわさなくても済んだのに』という思いが常にあったようです」

 

 幼いトミ子さんには気をつかったナヘさんだったが、長女のカマドさんには、「自分が死ぬまでそばにいてほしい」と、哀願した。トミ子さんは、「姉の着物のすそをつかんで離さなかった母の姿をよく覚えている」とのこと。

 

 結局、年かさだったこともあって長女は母親と残る決心をした。父親は身を切られるような思いだったことだろう。「母と姉を残して逃げるのはつらいし、私からは逃げることをせがまれるし…」

 

 再会を誓い合って、一家は別れ別れになった。トミ子さんを連れた嘉目さんが、ウフグチガマを遠ざかってしまったあと、ナヘさんは息を引き取った。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月20日掲載

 

母の死見取り脱出 ~ 落盤の壕、今も遺骨が

 トミ子さんの話を聞いたあと、落盤したままと思われるウフグチガマを訪ねた。

 

 現場は、浦添小学校の北側、浦添城址公園内にあった。案内してくれたのは、トミ子さんの母・ナヘさんの弟、比嘉秀雄さん(78)。比嘉さんは終戦直後にナヘさんの遺骨を拾いに来たので、場所を記憶していたという。

 

 伊波普猷の顕彰碑を抜けて、トミ子さんと3人でガマにたどり着いた。シーマ山と呼ばれる一帯はうっそうと草木が茂り、まるで森のよう。トミ子さんは「戦争が終わってしばらくは草も生えなかったのに」とつぶやき、あたり一面ガイ骨だらけだったと説明した。

 

 ガマの口は、奇跡の脱出を果たした時のままだった。「掘り起こした様子はないし、遺骨は今でも埋もれていると思いますよ。収骨した話はさっぱり聞かないし」とトミ子さん。

 

 比嘉さんの話では、ナヘさんの骨を拾ったのは昭和20年の暮れ。岩陰で4人の子とともに手りゅう弾でやられた母親がいたが、このうち目をやられた男の子が生き延びていた。その子が岩陰、つまりガマの出口に当たる場所を覚えていて、比嘉さんに教えたとのことだった。トミ子さんの姉・カマドさんは、母の死を見取ったあと、捕虜になった。

 

 トミ子さんは、当時を思い出すのが恐ろしくて、戦後一度も壕入り口までは近づかなかった。「今思うと、日本兵が民間人を奥へ押しこめたことが、命拾いにつながりました。あのころは日本軍のやり方に腹を立てましたが、そのために落盤を免れ、助かったのですから」と苦笑いした。

 

 父親ら数人でガマを離れたトミ子さんは、終戦まで各地を転々、逃げ回った。浦添前田高地と茶山の間の谷で、一緒に逃げていた仲間が続々と機関銃でやられ、即死した。「後ろで叫び声がしても助けに行くどころか、振り向く余裕させなかったです。浦添は日米の兵隊が入り乱れ、もう何が何だか分からなかったですからね。死体が水たまりにぶくぶく浮いて、まるで天ぷらのようでした」

 

 やっとのことで首里儀保に着いた時、トミ子さんは父親と2人きりになっていた。「夜の10時ごろでしたかねえ。大きなお月様が照っていました。お月様は、地球上でこんな恐ろしい戦いが繰り広げられていることも知らないだろうなあ、と考えていると、なぜか涙があふれてきました」

 

 2人は、ひと息ついたあと、トミ子さんの姉(二女)ツル子さんが勤務しているはずの東風平にある野戦病院を目指して再び歩き始めた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月23日掲載

 

 

八重瀬町 - ヌヌマチガマ

第24師団第一野戦病院新城分院

 

八重瀬町新城「ガラピ壕」或いは「ヌヌマチガマ」

 

マチガマとガラビ壕は一つの鍾乳洞です。西側の入口をヌヌマチガマ,東側の入口をガラビガマと言いました。元々は,港川港に米軍が上陸するのでは,という予想の元に陸軍が派遣されましたが,地上戦の激化により第24師団第1野戦病院・新城分院として利用されるようになり,白梅学徒も派遣されました。

沖縄戦の記憶(地下壕):ヌヌマチガマ・ガラビガマ

 

父と別れた最後の地 ~ 「ガラビ壕は墓場のにおい」

 トミ子さんは父親と2人で、具志頭村新城のガラビ壕にたどり着いた。そこは当時、野戦病院の分院になっていて、トミ子さんのすぐ上の姉・ツル子さんが正規の看護婦として勤務していた。

 

 ツル子さんは、民間病院に勤めていたのを召集されて軍の病院を転々、この壕では手術場で忙しく動き回っていた。女子看護婦の生徒たちに看護方法の手ほどきもしてやった。

 

 親子3人は壕入り口で顔を合わせた。「姉に浦添で母が死んだことを告げると、ショックでしばらく黙っていました。やがて気を持ち直し『壕に置いてもらえるよう頼んでみるから』と2人を軍医のところへ連れていってくれました」

 

 当時46歳で、わずかに防衛隊召集から免れていた父親は、軍医から「働き盛りのくせに何で逃げ回っていたか。これからでも遅くないから炊事をしろ」と言われた。15歳のトミ子さんも看護隊の人たちと一緒に手伝わされることになった。

 

 「それでもあのころは軍に協力できるということで喜びましたよ」と振り返るトミ子さん。が、壕生活は尋常でない。あごの取れた負傷兵には、のどからゴムを通し、注射器を胃におかゆを流し込む。「尿やうみ取りなどはいい方で、ウジをかき出す包帯交換は嫌でした」

 

 壕は、1000人余りの負傷兵で足の踏み場もないほど。あまりの忙しさに、同じ壕にいながら親子3人はなかなか顔を合わす機会がなかった。

 

 「梅雨入りして1カ月くらいたったころ」と言うから6月の初めごろか―。父親が壕を追い出されることになった。食糧が底をつき、「おかゆを炊く米がない。君は炊事をする必要がなくなったし、もう役に立たない」というのが軍の説明だった。

 

 親子3人は抱き合って泣いた。父親は米須にいる友達のところに行くとのことで、トミ子さんらに「君たちはいずれ、そこに来なさい」と言って別れを告げた。

 

 「私は姉と2人でワーワー泣きじゃくりました。壕を離れた父は何度も振り返り、姿が見えなくなるまで手を振り続けていました」。トミ子さんが父親の顔を見た最後である。

 

 数日後、ガラビ壕の野戦病院分院に解散命令が出た。動けない患者は青酸カリなどで薬殺、そのほかの人たちは、いったん東風平の富盛の壕に集まった。そこで「これからは自由行動を取るように」と言われた。

 

 「姉は、泣き出す女生徒たちの面倒を見ること―、100人くらい引率しました。一番年下の私は先頭、姉はしんがり。2人ずつ手をつないで歩きました」

 

 八重瀬岳近くまで来たころ、夜にもかかわらず突然、砲撃があった。「綱引きのドラのような音を立て、あたり一面ハチの巣。真っ暗な上、雨が降っていました」。100にんはバラバラに散ってしまった。以後、二女・ツル子さんの消息を聞いたものはいない。

 

 6月下旬、摩文仁の32軍司令部壕を出たところを米軍に捕らえられたトミ子さん。収容先で、父親と米須の壕で一緒だったという女学生に偶然出会い、父親が戦死したことを聞いた。

 

 「散髪屋をしていた父は、腕を見込まれ、切り込みに行く兵隊の髪を切っていたようです。昼寝をしている時、爆風でやられたとか。彼女に『私の娘が来るはずだから、よろしく頼みますよ』と話していたそうです」

 

 戦渦に巻き込まれ、犠牲になった住民は多い。宮城トミ子さんも逃げ回りながら、次々と家族を失っていった。数奇な運命を語ってくれたあと、トミ子さんは「壕のにおいは墓場のにおい。生きているのが信じられません」とつぶやいた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月24日掲載

 

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