大度で捕虜になる ~ 琉球新報「戦禍を掘る ~ フンドシ姿 」
琉球新報「戦禍を掘る ~ フンドシ姿 」
本島南部で捕虜に ~ 安谷屋さん8キロの道のり歩かされる
「両手を挙げて投降するフンドシ一枚の日本兵」の写真が掲載された5月23日付の本紙夕刊を携えて翌24日、安谷屋盛吉さん(56)=那覇市壷川=が、琉球新報社を訪れた。
写真に写っている日本兵は自分のような気がする、という。「私は昭和20年の6月末、本島南部で捕虜になりました。投降したのではなく、米兵に捕まってしまったのです。この写真のように、砂利道を歩かされた記憶があります」。
写真が鮮明でなく、安谷屋さんかどうか確認できないが、フンドシ姿で収容所までの長い道のりを歩かされた体験を持つ人は多くないのではないか。戦後40年近くたっても忘れることのできない「死を覚悟した」貴重な体験を語ってもらった。
安谷屋さんの記憶では、捕虜になったのは6月26日の午後5時過ぎ。糸満の大度集落の裏、現在の米須小学校の北東に位置する小高い森で捕まったという。
森にあった人工壕に同級生の大城常雄さんと2人きりでいた安谷屋さん。その壕から水を求めて出た直後、入り口付近で4人の米兵に取り囲まれた。米兵の1人が銃の先でつつき、別の1人が手を挙げろというようなしぐさをした。
「一瞬、がく然としましたが、やがて観念。米兵の言う通りに従いました」と安谷屋さん。米兵の取り調べは荒々しかった。「身体検査で私が手りゅう弾を持っていることを知ると、着ているものを引きちぎりました。上着なんかはボタンもはずさずにですよ」
日本兵は、捕まった時、短剣やピストルを所持していると着ている者を脱がされた。だから、軍服を脱いで民間人の服に着替えた日本兵も多かった、という。
「ところが私が捕まったのは突然だったもので、そんな余裕はなかったです。私は軍服姿に鉄帽をかぶっていました。おまけに、通信兵だったことからベルトには自殺用98式手りゅう弾を携帯。ああ、もう殺されてしまう、と思いました」
しかし、そんなに恐怖感はなかった、と安谷屋さんは当時の心境を振り返る。「水くみで出歩いているうちに、いつかは銃で撃たれて死ぬと思っていたから覚悟はしていました。こんな捕まり方をするとは考えていませんでしたが…」。
手りゅう弾を持っていたため、フンドシ一枚にされた安谷屋さんは、壕から収容所まで約8キロの道のりを歩かされた。その間、米兵は後ろから銃を突きつけ、挙げた両手を下ろすことを一度も許さなかった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月4日掲載
水さえ飲めれば…「死んでもいい」
安谷屋さんの戦争体験を聞いた2日後の5月26日、安谷屋さんの案内で、捕虜になったという糸満の壕を訪ねた。
那覇から豊見城を抜けて県道7号を南下、糸満の真壁地区に入った。さらに車を進め、米須小学校少し手前のカーブにさしかかったところで車を止めた。
「確か、あの森ですよ」と車から降りた安谷屋さんが指さした。捕虜になったという現場は、大度地区の北方。畑の細い道や背丈ほどもあるサトウキビの中をくぐりながら進んだ。
一帯は、うっそうと草木が生い茂り、その壕は埋没していた。壕の入り口だったと思われる場所で安谷屋さんが両手を挙げた。
「捕まった時は、このように両手を挙げ、手りゅう弾という武器を持っていたためにフンドシ一枚にされました。その時は、壕の中に死んだ日本兵が転がっていて異臭が鼻をついたのを覚えています。もう何カ月も食事らしいものはない。ただ、水だけを求めて壕から出ては、近くの民家へ行き、古井戸の中をのぞき込んだものです。砲弾が飛び交う命がけの水探しでしたが、水さえ飲めれば死んでもいいと思っていましたから…」
一緒に捕まった大城さんは、豊見城第二国民学校の同級生。安谷屋さんがある日、水を求めて真壁まで来た時に、ブタ小屋でしょんぼりしている大城さんを見かけた。「爆風で吹っ飛ばされた母親がブタ小屋に横たわっていました。死後、数日たっていたでしょうか。大城君を慰め、壕に連れ戻しましたが、捕まった時、大城君は民間人ということで別れてしまいました。終戦後に栄養失調で亡くなったそうです」
亡き友を振り返ったあと、安谷屋さんは、あたり一面のキビ畑を見渡して話を続けた。
当時は、キビ畑を隠れみのにして民間人が多く潜んでいた。キビの水分でのどをうるおした。折ったら、パラパラという音がして敵に感づかれる。だから、そのままキビをかじった。それでも夕方になると、敵のセスナ機が飛来、ガソリンをまいてキビ畑に火をつけたことがあった、という。
安谷屋さんは昭和20年2月7日ごろ、山部隊に入隊、通信兵に編入された。5月になると、前線の一日橋へ。戦況を観察、米軍の使っている武器や人数をつぶさに本部に報告するのが任務だった。
「日本は旧式の鉄砲。敵は自動小銃。抵抗するのがバカらしかったです。それに強力なアンプの通信機を所持しているらしく、私の通信機は雑音ばかり入るようになり、応答がなくなってしまいました。通信機を大里の山道で捨て、自殺用手りゅう弾だけを持って真壁までやってきました」
そして、この大度地区裏の森で米兵に捕まった。
さらに、安谷屋さんの案内で、捕まってから収容所まで歩かされた道のりをたどることにした。この日は夕方から私用があって時間をあまり取れない、と話していた安谷屋さんだったが、40年近くも前の生々しい体験が次々と思い起こされるのか、時間のことなどすっかり忘れ、当時の足どりをたどるのに夢中になった。
捕まった安谷屋さんは、いったん大度地区の南側、現在の国道331号に連れられてきた。そこに集められた捕虜は日本兵3人、民間人10人。フンドシ一枚の格好をしていたのは安谷屋さん一人だけだった。
両手を挙げて安谷屋さんは、そこから米須、伊原、真壁、国吉を抜けて、現在の糸満ロータリーまで歩き続けたという。一息つき、再び潮平にあった収容所へ向かった。2里の道のりで一度も手を下ろさせてくれなかった。到着した時はすでに日が暮れていた。
フンドシ姿で歩き続けた安谷屋さんの胸中は、どうだっただろうか。
「ちっとも恥ずかしいとは思いませんでした。考えていたことといえば、殺す前にせめて腹いっぱい水を飲ませてくれないだろうか、ということだけでした」。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月5日掲載
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