「米須・慰霊塔」琉球新報 戦禍を掘る (1984年5月17日)

 

戦禍を掘る「米須・慰霊塔」

泣く子に銃剣かざす ~ 壕にひしめく住民、兵士

 糸満市米須の「忠霊之塔」。米須出身で一家全滅の159人はじめ、塔の建つ場所にあった避難壕で亡くなった無数の民間人や日本兵の遺骨を祭っている。戦後、収骨作業を手伝い、全滅した一家の名簿を作ったという久保田清さん(68)、自身もまた、防衛隊員として沖縄戦に参加、一方では両親、妻、子を失った遺族でもある。住民・日本兵同居の壕内生活も体験した。

 

 久保田さんが防衛隊員として召集されたのは昭和19年11月だった。

 

 「最初は兼城小学校のグラウンドに集められました。100人ほどいましたかね。私は名城にいた部隊に配属されました」。その部隊は体当たり部隊と呼ばれ、いわゆる人間魚雷の部隊だった。長さ7~8メートル、幅2メートルほどもあるえんぴつ型艦艇に兵1人が乗り込み、後方に火薬をつめこみ、そのまま敵艦に体当たりする。

糸満市真栄里アミヤ原の特攻艇秘匿壕のことか?

 

 「火薬はドラム缶大ですから、それを詰めるのもひと仕事。舟は10隻はあったと思います。昼は砂を掘って、そこに埋め、上から草をかけて隠し、夜になり命令が出ると何十人もの防衛隊員で海まで運んだものです」

 

 何度か出陣して行ったが、いずれもしばらくすると戻ってきた。理由は定かではないが、久保田さんは「敵艦を見失ったのでは」と言う。そんなある日、船を隠す前に、夜が明けてしまい、敵機に発見され、残らず爆破されてしまった。

 

 20年2月、久保田さんは運玉森の球部隊に配属された。炊事を中心に雑用に追われた。

 

 戦火が激しくなり、防衛隊員に解散命令が出た。自由に下がれ、と言う。久保田さんは米須に戻った。自宅近くの壕に両親がいると聞いた。

 

 その壕は入り口を入ると大広間になっており、岩はだを隠すため、板が敷かれ、100人ほどの日本兵が陣取っていた。そこから、背を丸め、細長い通路を行くと、さらにたて長の広場に出た。そこに住民がいた。天井から落ちる水滴。わずかな明かりの中で人いきれのする壕内。「壕には父と子供2人がいました」。横たわることも出来ないほど、せまい壕内には数えきれない住民がいた。父親は子供2人を守るように小さくうずくまっていた。

 

 母が水をくみに壕を出たまま、帰ってこないと聞いて久保田さんは外へ出た。壕と井戸の途中で、腰をおとし座り込んでいる母を見て、声をかけた。「返事がないんです。それで、髪を引くと、ひたいの上がぽっかりあいたんです。既に死んでました」。悲しむわずかの間も、砲弾はやむことなかった。「親と一緒なら死んでも」と考えていたと言う。近くに母の遺体を仮埋葬して、壕に戻った。

 

 「壕の中は、何とも言えない不気味さで、日本兵が銃剣ふりかざし、わめきちらしてました。私の2人の子供のうち、1人が泣き出したんです。すると、泣きやまないと殺すとさわいで、今にも切りかかりそうだった。私も若かったので、血気盛ん、口ごたえして父と子供2人を連れ、壕を出ました」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月17日掲載

 

米須の壕

 

「逃げて生きのびろ」海岸で捕虜 妻や子は戦死

 「子供を泣きやませよ」とおどす日本兵に反発、壕を出た久保田さんらは海岸に向かった。途中で父親が砲弾に倒れた。「足をやられました。『私はもういいから、おまえらだけでも逃げて生き延びろ』と父に言われ、子供2人を連れ海岸に向かいました」

 

 「結局、海岸で捕虜になり、私と子供2人は助かったのですが、妻や妻と一緒の子は戦死しました。その遺体を埋葬した人も亡くなり、どこに埋めたのか分からずじまい。父の遺体も捜せなかった。私の手で収骨、弔うことのできたのは母だけです」

 

 「壕の中には何人いたでしょうか。暗くてはっきりは覚えていません。住民がいた所からさらに奥に道もあったようですし―」と久保田さん。

 

 戦後、疎開していた人が次々帰ってきて、一家全滅した家の親せきを中心に収骨作業が行われた。「終戦直後の物資不足で日本兵がいた所に敷いてあった板を持ち出した人が何人もいたと言うことで、遺骨はバラバラ。兵、住民の判別もつかない状態でした。私は壕の外で、遺骨の確認と戦没者、特に一家全滅者の名簿をつくってました」

 

 「私が調べた時は20世帯ほどでした。セメントに墨で書いたんですが、その後、数が増え、確か最終的には35世帯だったと思います」

 

 壕のあった地に慰霊碑が建てられ、久保田さんの作成した名簿を基に、一家全滅した者159人の名前が碑に刻まれた。もちろん、壕で亡くなったのはこの数にとどまらない。無数の遺骨だった、と言う。

 

 久保田さんは、収骨の際、100人ほどいた日本兵の遺骨は収骨したのかどうか気にかけていた。「もしかしたらあのままではないかと思って。私が立ち会った時には、兵の遺骨を見なかったし、それ以後、収骨したという話も聞いてない」。しかし、壕の中の遺骨はすべて収骨した、と証言する人もいた。

 

 「忠霊之塔」近くに建つ「鎮魂之塔」。ここにも71人の名前が刻まれている。やはり一家全滅者だった。訪れる人もいないのか、入り口を隠すように雑草が生い茂っていた。「この後ろに壕の入り口があった」と久保田さんは塔の後方を指さした。この壕は入り口がたてに細長く、人間一人が綱をつたってやっと下りられるものだったという。下りると横に広がり、湧き水が地面を流れていたため、飲み水には不足しなかった。久保田さんは、私も聞いた話と前置きして、「米兵が油に火をつけ、壕に投げ込んだそうです。ほとんどがちっ息死」と語った。刻まれた名前を、「この家族は私の親せきです」と指さした。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月18日掲載

 

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