琉球新報 戦禍を掘る「違っていた戦死地」

 

琉球新報 戦禍を掘る「違っていた戦死地」

大里ではなく浦添 ~ 宮城さんの証言で一転

 玉城村奥武島に住む中本正隆さん(52)は、沖縄戦で失った兄・亀一郎さんの戦死場所をつい先日まで「大里村銭又」と信じて疑わなかった。

 

 正隆さんが、兄の戦死地を銭又だと思い込んだ出来事は、疎開先の熊本から帰ってきた昭和20年の暮れのこと。当時、奥武島の実家に亀一郎さんの“遺言”を持って一人の婦人が訪ねてきた。

 

 婦人の話では、“遺言”は米軍上陸前の同年3月末に頼まれた。亀一郎さんは銭又にあった壕で高射砲の陣地構築をしていたらしく、婦人に「敵はやがて上陸する。私はここで戦うから、私が帰ってこない場合はここで戦死したと母に伝えた下さい」と頼み込んでいる。

 

 婦人は、県立一中出身の息子が亀一郎さんと親しくしていたことから亀一郎さんとは顔なじみ。このため、知らせてくれた婦人の話に間違いはないだろうと亀一郎さんの祖父・小九さん、祖母・ウシさんは思った。弟の正隆さんもそのように信じた。そして、銭又の壕へ行き、「たぶんここら辺だろう」と推測して目印のデイゴの木も植えた。

 

 それを裏付けたのが国の戦死公報である。正隆さん宅の仏壇の壁には「陸軍上等兵仲本亀一郎 大里村銭又で戦死 戦死年月日昭和二十年六月二十四日 享年二十一歳 所属部隊野戦重砲兵第二十二連隊」などと書き印された遺影入り額が、同じく南洋方面で戦死した父・亀助さんとともに掲げられている。

 

 ところが、亀一郎さんは浦添市仲間にあったウフギチガマで米軍の馬乗り攻撃にあい、落盤死していた。それも、公報より2カ月早い4月上旬のことだ。一緒に落盤にあい、亀一郎さんを目撃したという宮城トミ子さん(53)=浦添市屋富祖=の証言で分かったもので、正隆さんら親類一同はビックリしてしまった。(亀一郎さんの最期は4月19日付「ある一家の沖縄戦(2)」掲載

 

 宮城さんは実は、数年前にも亀一郎さんの最期を報告しようと奥武島へ足を運んでいる。「摩文仁戦没者の三十三回忌を済ませた帰りとかで、兄らしき人が浦添で戦死したので最期を伝えに来たという話。今さらそんなことを言われても困ると取り合いませんでした」と振り返る正隆さん。

 

 そして57年、目印のデイゴを頼りに大里村銭又の壕を発掘した。「遺骨が70柱ほど出てきましたかねえ。かたわらに短剣や兵隊の靴下があった遺骨を兄のものと決め、摩文仁の納骨堂に納めて慰霊祭も行いました。すっかり、兄だと信じていたのに…」

 

 宮城さんが目撃した人物の特徴はあらゆる点で亀一郎さんと一致したため、正隆さんら親類もこれまでの思い込みを変えざるをえなくなった。トミ子さんによると、ウフグチガマで息絶え絶えの亀一郎さんからトミ子さんの父親が遺品を託され、身元を聞いた。「私は師範学校出身で玉城のオーンナトグヮー(奥武港川)に親がいます。私がこの壕で死んだことを伝えてくれませんか。その島には馬車引きの家は1軒しかないからすぐ分かります」と話していたと言う。

 

 去る25日午後、正隆さんら親類7人は、宮城さんの案内でウフグチガマを訪ねた。ガマ入り口に携えてきた重箱、酒などを供え、焼香。今なお収集されていないと思われる亀一郎さんのめい福を祈った。

 

 「兄さん、長い間、魂を拾ってやれなくて済みませんでした。もう安心して成仏して下さい」

 

 祈る正隆さんの胸には、三味線をひいて陽気に踊ったり、そばを食べさせてもらった兄の姿が次々と浮かび、締めつけられる思いだったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月3日掲載

 

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