「遺骨収集と沖縄戦」 ~ 与座の山3476(歩兵89連隊) 琉球新報 戦禍を掘る (1984年5月15日)

 

「遺骨収集と沖縄戦琉球新報 戦禍を掘る

5カ年で189柱収骨 ~ 今なお放置された遺骨も

 春が間近に迫って来ると具志頭村与座には、毎年、北海道から私費で遺骨収集にやって来るグループがいる。北海道足寄郡に住む南義雄さん(61)ら山3476(歩兵89連隊)の生き残りの人たちだ。

 

 54年から始まった遺骨収集。キビの刈り入れに忙しい時期だが、毎年地元からも参加している婦人らがいる。安里とよさん(65)=具志頭村与座=と、安里ハルさん(63)=同=の2人。お互いに嫁同士だ。沖縄戦の前年、中頭から移駐して来た南さんら山部隊との交流が遺骨収集を通じて再開されている。

 

 「この近くのヤブの中にはまだまだ遺骨が残っている。その気になってやれば100や200の遺骨はすぐに出てくる」と2人は口をそろえた。39年前、そこは住民も将兵も入り乱れて、砲火の中を逃げ回った。目の前で死んでいく者も何人も見てきた2人。歳月を経て触れる遺骨には、その時のなまなましい模様が、重なって2人に伝わってくる。

 

 「遺骨収集はやったと言っても見えるところだけしかされていない。終戦後は死体が悪臭を放っていたので上から石をかぶせて覆っていた。足の踏み場もないほどだった。それを収集するには民間の力では限界がある。国、県の力でないと…」

 

 木の根がしっかりと胴体にからんだ遺骨、ソテツの実が鼻のくぼみに入り込んだ頭ガイ骨―「39年」は放置された遺骨を、さらに無残な姿へと変えている。54年以来、189柱も収骨したが、「何年やっても不十分」と言う。

 

   ◇   ◇

 安里さんらの沖縄戦は山部隊が入って来たころから始まる。ゆっくりと動き出した安里さんらの“戦争”だったが、終局に見せられたのは、あまりにも悲しくみじめな人間の姿だった。以下、2人の体験した沖縄戦だ。

 

 山部隊が与座に移駐してきたのは19年の10・10空襲後。集落東側にあるメーヤマのすそ野に幾棟もの兵舎が建ち並んだ。近くの山から松の木を切り倒して建てられた兵舎だった。

 

 部隊の移駐は区民の生活も変えた。畑を行くにも許可がいるようになった。部隊の中を通らなければならなかったからだ。野菜の供出も命じられた。「もともと与座は野菜はあまり作ってない。仕方がないからカンダバー(イモの葉)を採っていたら、『これはヤギのエサではないか』としかられた」こともある。

 

 「将校は魚やもち米のご飯など食事はぜいたくに見えた。でも兵隊たちはイモ入りのご飯。かわいそうだった」と2人は言う。

 

 ざん壕掘りも男女1組でほとんど毎日動員された。戦車の遮へい物づくりも区民の手でやった。「高さ2メートルぐらいの石を積んで、きつい作業だったが、いざアメリカの戦車が来て見ると何の役にも立たなかった」とハルさんは苦笑する。

 

 空襲が激しくなってからは、壕内で生活する毎日だった。「家に帰ろうとすれば兵隊に止められた。2、3家族ずつ壕や墓の中で暮らした」。

 

 戻ることを許されなかったわが家が焼けたのは米軍上陸後の4月になってからだ。メーヤマから焼ける模様を眺めていたとよさんは「ほんの1、2時間。集落の東側が燃えたかと思うと全集落を火がなめ尽くした」と話す。

 

 「それでもまだ戦争というものはこんなに楽かと思っていた。働かなくていいし、逃げてきた牛や馬を捕らえて食料はあるし…」と、とよさん。そんなとよさんをハワイ帰りの人が諭した。「戦争というのは生き残れる人もいるが、大勢の人間が死んでいくんだ」。そのことを実感するのは間もなくだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月15日掲載

 

岩陰で泣く幼い兄弟 ~ 艦砲の雨 母の死知らず

 安里さんらが斬り込みに向かう師範の学徒に会ったのは、与座部落南側の通称ウワブリにある壕に移ってからだ。

 

 ギーザ川で水をくんで帰る途中に出会ったその学生は「水をくれ」と2人を呼びとめた。見ると弾薬を背負っている。「顔が細くて那覇市天久のサチヒジャー(崎樋川)の人と言っていた。斬り込みに出されて前川方面まで来ている敵のところに、まっすぐ行ったが…。あの時、『弾薬は降ろして一緒に逃げよう』と言いかけたが、結局口にできなかった。きっと助からなかったと思う」

 

 安里さんらは、とよさんが3人の子、ハルさんが1人の子を抱え、さらに年寄り4人の10人での壕生活。ウワブリの壕では軍の通信隊と“同居”した。「私たちが入っている壕に来て、『私たちはそばに片づきますから迷惑はかけません」と頼み込んできた。よく軍隊に壕を追われたという話を聞くが、私たちが見たのはまったく逆で低姿勢だった」とハルさん。

 

 その通信隊が急迫した声で「軍交換」「軍交換」と呼び出していた言葉が2人の頭にまだ強く残っている。容しゃなく米軍の砲弾は、その通信網もずたずたに切りさいた。とよさんは「そのたびに何人かが壕を出て電線をつなぎに行っていた。どこまで行ったのか知らないが、大変な任務だったのでしょう」と話す。

 

 その壕も6月中旬ごろには移らなければならなかった。上江城の方を見ると火炎に包まれている。「すぐにこの壕にやって来る」。移ったのは現在南部水源地の下の方にある海岸だ。大きな岩が前を覆い、目の前の米軍の艦船からは隠れることができた。また滝のように落ちて来る水もあった。

 

 「舟艇が近くまで来てさかんに『出て来なさい』と呼びかけていたが、出たら殺されると思っていたからネ。初めて米兵見た時はびっくりした。ランニングシャツで艦砲をドンドン撃っているんだから」とハルさん。

 

 6月20日ごろと2人は記憶している。崖から降りて来た兵隊が安里さんら一家に感情を押し殺すような表情で言葉を投げかけて通っていった。「オイ、お前らどうせ死ぬんだったら、上にいる子らも一緒に死ねよ」と。

 

 翌晩2人が崖を上っていくと、岩陰に泣きじゃくる3人の兄弟の姿があった。そこは避難民の通行が激しい所。だが、だれもその兄弟にかむものはない。自分の身一つ守るだけでみんな精いっぱいだった。

 

 安里さんらがセーラー服を着ている女の子に尋ねると、首里の人だと言う。母親が荷物を取りに行ったまま帰って来ない。「お母さん、お母さん」と泣く男の子は7歳。「眠りたい」と泣きじゃくる男の子は4歳だった。姉は10歳で小学校の3年生。

 

 2人で近くを捜してみると、あお向けに倒れている婦人の姿があった。「ちゃんとした身なりで、町方(都市)の人だと言うことはすぐに分かった」と2人。近くの畑から2人とも抱えられるだけのキビを取り、子どもらに渡した。「これで10日間は大丈夫だから、ここから動くんじゃないよ」―家族を抱えながらの2人には、それだけで精いっぱいだった。

 

 「死んだ母親には悲しい気持ちも起こらなかったが残された子どもらがかわいそうで…」とハルさん。2人はギーザ川周辺にるいるいと横たわる遺体を見、蘇鉄や岩の陰に焼かれて死んだ遺体も見たが、その兄弟の姿が悲惨さを一番物語っていると言う。

 

 その2、3日後の23日、食糧の尽きた安里さんら一家は捕虜になった。収容される途中で見た岩陰には兄弟の姿はなかった。とよさんは「生きているのかどうか今でも気になる」と悲しげな表情になった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月16日掲載

 

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