琉球新報「戦果を掘る」シリーズ
新垣の壕
➅ 浄魂之塔
米軍の本島上陸以来、第24師団は各地で戦闘を続けて来たが、同師団歩兵第89連隊、工兵第24連隊の残存部隊は新垣の壕を最後の拠点として米軍を迎撃したが、昭和20年6月17日、この地で全滅した。塔は昭和32年3月、新垣地区の有志によって建立され、将兵や戦闘に協力した住民の遺骨を納めた。昭和42年3月には、南方同胞援護会の助成で改修している。
戦後も避難生活 ~ 少女保護した日本兵は?
戦禍がやんで40年近く経た現在、緑がよみがえったとはいえ、かつての戦場に肉親の面影を追い求める人が絶えない沖縄本島南部。遺族や関係者をたまらない思いにかりたてるのは、戦時中、確かにこの地が肉親の最期の場所とはっきりしていても、あまりにおびただしい屍の山に埋もれ、ついに兄弟や父母の亡き遺骨を確認できないという現実が厳しく存在することによる。
当然、沖縄戦で死んだという以外、最後の地がどこでどのような最期だったかさえつかめない者も数多い。唯一の国内の戦場でありながら、である。
金城輝進さん(56)=糸満市新垣、会社代表=には忘れられない、一つの思い出がある。昭和20年9月中旬、砲火はすでにやんでいたが、終戦を知らない金城さんの家族5人を含む住民10人は、新垣の裏手の森にある壕に潜み、人気が絶えた廃きょの村や畑から粗末な食糧を調達して飢えをしのいでいた。
その日は死体の続く集落を出て食糧を探しに行く途中だった。1人の日本兵に出会った。久しぶりの友軍。当時19歳の金城さんには懐かしくいろいろなことを聞き、しばらく立ち話したが今記憶にあるのは、彼が近くの壕に住んでいることと親兄弟にはぐれた地元の少女が一緒であるということぐらい。
翌日、早速、弟と2人で日本兵の壕を訪ねた。与座岳が見える新垣の東はずれで、住民が「ナナチューガマ」と呼んでいる深さ4~5メートルの竪穴に2人は住んでいた。少女は10歳ぐらい。髪は伸び放題、情けない程にやせていたが弟は新垣の子供であることをすぐ見抜いた。
少女は「金城えみ子」という名前だった。帰り際、日本兵に「私の字の子供なので、私どもの壕で預かりたい。食糧難なのであなたのためにもその方がいい」と言うと、日本兵は「いや私も1人では寂しいので、この子は私が育てる」といって頑張った。えみ子さん引き取りはあきらめて「時々、遊びにこよう」とナナチューガマを出た。
金城さんの壕ではその直後、米軍宣ぶ班が訪れて壕を出ることを説得。2、3日置きのやりとりが続き捕虜になることで全員合意した。ほぼ2週間ぶりに日本兵の壕を訪ねると、えみ子さんが1人でぼんやりすわっている。日本兵はと問うと、「兄さんたちが来た日から帰ってこない」という返事。えみ子さんは、飢えのギリギリのところで金城さんたちに救出され、一緒に捕虜となった。
「えみ子さんはその後、ハワイに渡ったそうです。日本兵は当時24、5歳ぐらいで階級や部隊、名前も覚えていません。えみ子さんの親類から私は命の恩人扱いされたが、あの日本兵がその後どうなったのか」と金城さん。
沖縄戦終了後も日本兵9000人近くが米軍に投降せずに殺害され、今なお続く新たな遺骨発見が金城さんの心を重くする。
「えみ子さんなら、その日本兵の名前ぐらい知っているかもしれない。私もその後彼女に会っていませんので…」。結局、日本兵の手がかりは海の向こうに住む、今は初老のえみ子さんの記憶に頼るしかないという。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月29日掲載
部隊崩壊で逃避行 ~ 合言葉知らねばざん殺も
糸満市字新垣(旧真壁村字新垣)にある壕の数は正確にはわかっていない。同所で、最後に壕を出た土建会社社長、金城輝進さん(56)によると、日本軍が陣地として利用した壕が5カ所、民間のものは金城さんが餓死寸前の少女を見つけた「ナナチューガマ」、新垣住民が最も多く避難した「ミンケーハブグヮー」のほか家族単位で避難した壕がかなりあるという。
金城さんは昭和19年暮れに、防衛隊員として徴用され球部隊船舶特攻隊(糸満市名城)や山部隊(西原町・運玉森)で伝令を務め、翌20年5月下旬、米軍の猛攻撃で南部へ追われ、八重瀬岳付近で部隊が崩壊して散り散りとなった。「自分の部落のすぐ近くなので、敵兵の50メートル前をはって進むという危険を冒して家族のいる壕にたどり着いた。幸い私は無キズでした」。
金城さんの壕には弟1人、妹2人、祖母と親類の2家族合計10人が避難した。すぐ隣は「ミンケーハブグヮー」で、新垣の住民を中心とする避難民約200人が壕生活を送っていた。
昼間、米軍の砲撃はすさまじくとても外出できるおうな状態ではなかった。6月に入って、金城さんは夜間、砲弾のやんだわずかのすきをぬって壕を出、無人の集落を通って最初の所属部隊の拠点である名城の海岸に向かった。多くの人影があり、間もなく金城さんは名城行きが不可能であることを知り、引き返す。
「人影はたいてい無言で動いているが、避難民に混じって、多くの敗走兵が抜刀して歩いていて、“山”“川”の合言葉で相手を確かめている。とても険悪な状態で、合言葉を知らなかったりすれば即斬(ざん)殺されかねない空気。民間人の犠牲は容易に想像できました」。防衛隊員だったことが、金城さんの命を救う結果になったと当時を振り返る。
壕生活は、常に食糧難がつきまとった。「死ぬことをだれも怖いと思わなかったが、飢えだけは今でも忘れられない。何でも口にした。デンプンを水で薄めて飲んだり、ハンゴウにわずかの米と水、食べられそうな草を入れごった煮を何日も…。米軍の攻撃を免れた壕で祖母はついに栄養失調で死んでしまった」。
食糧事情の悪さが、金城さん兄弟を新垣の各壕へ足を運ばせた。隣の「ミンケーハブグヮー」は、嵐のような砲声が一段落した6月下旬に訪ねた。住民の死体だらけで足の踏み場もなかった。「焼かれたり、爆破されたりという死体ではなかった。毒ガスかなにかで一度に全滅したような死体が多かった」。食糧は残っていなかった。
陣地壕にも行った。現在の浄魂之塔東側の壕と集落裏の水源地横の壕は、特に兵隊の死体が多かった。暗いので足で踏みつけてから、ああ、ここにも兵隊さんがいると気づくことが多かった。奥に行くに従って水につかった死体も多くぬるりとすべったが、当時は兵隊の非常食探しに必死だったので、気にならなかったという。
「戦後間もなく畑にイモを植えたが、場所によって葉がよく茂りソフトボールのような大きなイモができる所があり、念入りに掘ってみると、必ず埋葬遺体がありましたね。私も部落東の畑で数体見つけたが、うち2体は避難民のようでした」。金城さんと同じ経験を新垣住民の多くが持つ。場所は限られるが新垣での遺骨発見は今も続いている。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月30日掲載
まだ残る40~50柱 ~ 何度も収骨作業したが…
新垣一帯の戦闘が止んで1週間後、沖縄戦は終結する。戦前、600人(120戸)いた新垣の人口は250人まで減り、屋敷や畑、道路、壕といたるところに戦死者が横たわっていた。住民総出の収骨作業が何度となく繰り返された。昭和32年の浄魂之塔建立までに集められた遺骨は約1万柱。新垣周辺の戦死者はこれで、すべて集められ納骨されたとはとても言い切れない。
「そのころの遺骨収集は、弔いよりは集落の生活環境を良くするという復興作業のひとつだった。まず屋敷内外、道路、畑という具合に、生活や食料生産、通行に支障のある遺体の撤去を急がねばならなかった」と、当時、遺骨収集にたずさわった糸満市教育長の前田正敏さん(62)。
数多くある壕は、家族や親類が死んでいることがはっきりしている民間壕以外、畑や道路などに接している入り口付近の遺骨が集められたにすぎないという。新垣最大の民間壕ミンケーハブグヮーには、新垣以外の避難民、敗残兵がまだ多数眠っているという。「新垣の住民の遺体は、親類たちがひとつびとつ捜して運び出したがあとはそのまま。収骨はまだ完全に行われておらず、4~50柱は残っているはずだ」と前田さん。
新垣さんには戦後、「壕サグイ(探り)」という言葉がはやった。物資の困窮時代、住居建築や改修の資材調達のため、住民の多くが石油入りの「水筒ランプ」を片手に壕に入った。壕サグイは、陣地壕でよく行われた。新垣には「白」「山」「球」「石」の各部隊壕のほか、中小部隊の拠点になった壕がかなり残っていた。
現在の浄魂之塔東側に位置する白部隊壕は、新垣最大の陣地壕だった。前田さんにも戦後、壕内深く入った経験がある。
「しばらく中へ進むと、さらに地下があり、トロッコのレールが敷設されていた。ベッドのようなものがあり、注射器入れが散乱していたので病院跡かも知れない。板材や丸太もかなりあった。遺骨は少なくみても100柱は下らないでしょう」と前田さんは証言する。
新垣の壕の多くは、壕サグイの必要がなくなったのと壕内の落盤のおそれ、手りゅう弾など不発弾が多いため住民も永く近寄らなくなっている。そしてナナチューガマなど農地整備のため、やがて消えゆく運命の壕も少なくない。
昭和22年の冬、集落東側の東原(あがりばる)で住民総出の収骨作業の際、遺骨掘りをしていた婦人のスコップが手りゅう弾に触れて爆発、1人死亡、数人が重軽傷を負った。激戦地跡の遺骨収集がいかに危険なものであるか、住民は思い知らされた。
54年12月6日、新垣の後原、並里門中墓近くのくぼ地でほぼ完全な1柱の遺骨を発見。「左手に手りゅう弾、長靴をはいていた。ざん壕で撃たれ、そのままになったのだ」と、立ち会った糸満市役所職員。
さる8月4日、区長の大城秀雄さん(48)が、ウフンニモーというモクマオウ林で拾った遺骨周辺にも手りゅう弾、防毒マスク用の酸素びん、万年筆爆弾が散乱。9月16日、取材で訪ねた浄魂之塔には赤いポリ容器いっぱいの手や足の骨がそっと届けられていた。
(「戦禍を掘る」取材班)
1983年10月3日掲載
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