識名壕 (第62師団野戦病院識名分院) ~ 琉球新報「戦禍を掘る・石部隊従軍看護婦」

 

識名壕 (第62師団野戦病院識名分院)

沖縄戦の記憶(地下壕):石部隊野戦病院分院の壕

 

 

戦禍を掘る・石部隊従軍看護婦

傷兵のうめき今も ~ 後退また後退の野戦病院

 真っ暗な壕の中、かつての従軍看護婦3人がロウソクの弱々しい光を頼りに39年前の悪夢の場所に足を踏み入れた。

 

 那覇市識名の光明寺横にある鍾乳洞の自然壕。ここは石部隊62師団野戦病院分院のあった所だ。沖縄県医師会付属看護婦養成所第2期生は昭和20年2月に石部隊野戦病院に軍属として配置された。同期生は45人。最初、南風原町新川の野戦病院本部に配属され、それから第一線の分院に分散された。そのうち比嘉(旧姓又吉)千代さん(56)=浦添市牧港=と仲地(旧姓島袋)豊子さん=宜野湾市宇地泊、それに比嘉マサ子さん(戦死)、外間秀子さん(戦死)の4人が識名の分院に配属された。

 

 石部隊野戦病院の分院となった壕には20年5月に配属。それまでは一般住民の避難場所だったが、野戦病院にするということで住民はよそへ追い払われたという。

 

 壕の入り口は那覇の街並みと東支那海が眼下に見下ろせる高台に面している。約100メートルもの長い壕で途中、二つか三つの大広場があり、負傷兵が所狭しと並んでいたという。その壕は今、見つけ出すのも難しい。雑木林だった一帯は住宅地となり、入り口から見渡せたはずの那覇の街もコンクリート住宅に視界をさえぎられている。壕の入り口へもわずか数十センチの通路を身を横にして歩かなければならないほどだ。入り口の壕の真上にも住宅が建っている。壕の出口も住宅建築のためふさがれた。

 

 39年ぶりに現場を訪ねた比嘉さんと仲地さん、それに同期生で一時この壕にいた吉野(旧姓真栄城)和子さん(56)=佐敷町新開=は、当時を振り返った。「壕の中に充満していた人いきれと傷のにおいは今思い出してもムッとくる感じです」。

 

 ひんやりとした壕の中、しずくがポタッポタッと落ちる音が壕内に響いている。比嘉さんら4人は、ここで前線から送られてくる傷病兵を看護する毎日だった。

 

 「民家の戸板を担架代わりに、次から次へと運ばれてくる負傷兵、それに毎日何人かが死んでいき、正確に何人の負傷兵がいたのかははっきりしない。ちょうど梅雨の時期で壕内の通気は悪く、傷口にウジがわいている人もいた。夜となく昼となく痛みを訴えるうなり声だけが耳に残っている。ガーゼや包帯は使い古しを何度も洗って使っていた。せっけんもないから水洗いだけ。暗くなると、すぐ下の井戸まで駆けて行って血の付いたガーゼや包帯を洗うのが日課だった」

 

 その井戸もまだあった。壕から下へ降りて道路を隔てたすぐそこに、2カ所の井戸がある。井戸といっても傾斜地のわき水をためた池で、今も澄みきった清水がチョロチョロと流れ出ていた。

 

 「覚えています。バケツに水をくんでガーゼや包帯を洗うんです。バケツの水が真っ赤になっているのが夜でも分かるんですよ。洗うのはいいのだが、またあの傷のにおいが充満した壕へ帰らなければならないのかと思うといやでした」。

 

 仲地さんは壕の中で昼間仮眠している間に鍾乳石が落ちて右足にケガをした。2、3日包帯を巻いていたが、そのうち包帯の上にウジがわいているのを見てゾッとしたという。この壕には約1カ月いた。米軍がジリジリと迫ってきており、6月初め、「後退!」の命令で南部へ南部へと追い詰められていった。歩ける負傷兵は看護婦2人につき1人の割り当てで撤退を始めた。自分で動けない負傷兵は、そのまま壕に残された。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月25日掲載

 

25人中10人が戦死 ~ 「生きているのが不思議」

 識名の壕を後にした比嘉さんたちは、ジリジリと押し寄せてくる米軍の掃討作戦に追い詰められ南部へ南部へと撤退していく。糸満市武富、阿波根、米須、伊原と、壕から壕へ夜目をぬって逃げまどった。識名の壕を後にしたのは6月初めだった。4月1日の米軍本島上陸以来、日本軍は一歩も前進することはできず、後退、後退をよぎなくされた。負け戦であったことは明らかだったが、従軍看護婦だった比嘉さんたちは、それを口にすることは許されなかった。識名の壕を出てからは看護婦としての仕事はほとんどやっていない。

 

 「今考えてみるとわずか1カ月ほどの壕生活だったが、何年もいたような気がする」と言う。18歳の乙女が体験した人間の修羅場はそれほどに強烈な印象として焼きついて離れない。「生きていられたのが不思議なくらいだ」と今でも胸をなでおろす。

 

 一緒の隊に配属されていた比嘉マサ子さんは識名の壕を出る時までは分かるが、途中、行方が分からなくなった。戦後も消息を聞かない。また、外間秀子さんは伊原の壕で艦砲射撃を受けた際、鍾乳石が落ちて頭にあたり、そのまま死んだ。外間さんは姉の新川文子さんと、ずっと一緒だった。妹の最期を目のあたりにした文子さんは戦後早い時期に遺骨を収集している。

 

 比嘉さんと仲地さんは、6月の19日か20日、伊原の壕前で捕虜になった。壕の入り口から外をのぞくと、兵隊が1カ所に集まって音楽をかけながら踊っている。最初、友軍と思ったが、どうも様子が違う。そのうち、米兵たちが、「カモン」と言いながら壕から出てくるよう手招きした。恐る恐る壕から出ていくと、米兵は水筒の水を差し出した。しかし、「毒が入っているに違いない」と思って飲まずにいると、米兵が自分で水を飲んでみせた。比嘉さんたちも水を飲み、そして捕虜となった。

 

 比嘉さんたち、県医師会付属看護婦養成所の第2期生45人のうち、従軍看護婦として野戦病院で働いていたのは25人。そのうち10人が戦死した。今年6月5日から南風原町新川の野戦病院近くで道路工事中に55柱の遺骨が発見されたのを機会に、戦後、会うことのなかった生き残り11人が集まった。戦後も看護婦として働いてきた人がほとんどだ。

 

 みつかった55柱の遺骨は、比嘉さんら従軍看護婦が最初に配属された石部隊野戦病院本部の近く。新聞報道を読んで、いち早く現場に駆けつけた吉野和子さんが、もう1カ所、死体を捨てた場所を告げ、証言の通り、新たな遺骨もみつかった。

 

 「その当時のことは思い出したくもないが、生き残った私たちがいつまでも黙っているわけにはいかない」と生き残ったかつての仲間を集めた。6月14日、遺骨が発見された現場で慰霊祭が行われた。遺族らとともに、39年前の激戦地で香をたき、手を合わす元従軍看護婦の目に涙があふれた。遺族の中には父や姉の最期の様子を聞こうと吉野さんたちに話しかけてくる人もいた。吉野さんたちは思いだせる限りの様子を語り継いだ。

 

 慰霊祭が行われた野戦病院近くは戦後原野のままだった。近くの住民の話では、時々、本土からの観光客らしき男の人が来て野戦病院跡に手を合わせる姿を見かけるという。元従軍看護婦らは「きっと当時の上官の生き残りでしょう」と話している。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月26日掲載

 

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