沖縄陸軍病院 ~ 琉球新報「戦禍を掘る ~ ある第1外科看護婦」(1984年5月21日)

 

琉球新報「戦禍を掘る ~ ある第1外科看護婦」

兄の戦死地に行ける ~ 自ら進んで“従軍”

 沖縄陸軍病院が昭和19年6月に開設された時、奥松文子さん(59)=沖縄市上地=は、何の不安もなく勤める決意をした。それは、すすんで軍に協力することを時代が求めていることも一つの理由だ。

 

 しかし、奥松さんには「兄の戦死した地に行けるかもしれない」との期待の方が強かった。昭和13年、南京攻略で戦死した長兄。「陸軍看護婦になれば、従軍して中支まで行ける」―戦況は悪化していたが、そう思った。

 

 もっとも勤めていた県の西郷衛生課長にしかられた。「まだ若いのだから―」と説得された。のちに体験を語り尽くせないほどの任務を負っていることなど知るはずもない奥松さんは県庁にとどまる気などみじんもなかった。

 

 沖縄陸軍病院は、19年5月、熊本陸軍病院で編成され、広池文吉軍医中佐を病院長に中城湾要塞病院を吸収して開設された。開設当初は開南中学に本部、内科、伝染病科。済生会病院に外科。兵舎が県立二中にあった。

 

 奥松さんは「8人ぐらいの看護婦が採用されたように覚えている」と言う。済生会病院の外科勤務で手術場担当。手術場の婦長が上原君子さんで、病棟は長田則子婦長だった。

 

 「そのころ陸軍病院の機材を乗せた船が大島沖でやられたとかで、薬品などは県立病院や浜松病院などから借りて間に合わせていた。外科の手術と言っても盲腸や痔(じ)ぐらいのもの」

 

 それが一変するのはやはり10・10空襲後だ。その日は前夜から5人の盲腸手術を終えたばかりだった。泉崎にある済生会病院から本部近くの宿舎へ、くたくたになって引き揚げた。ひとふろ浴びて休もうかとしていると、爆音が激しい。

 

 宿舎の近くを通る兵隊もゆっくりと歩いている。「あれは何でしょうか」「演習でしょう」―そんな調子だった。それが「敵機来襲」「敵機来襲」とせわしげな動きに変わった。

 

 宿舎から済生会病院まで15分もかからなかった。病院は負傷兵の治療に追われた。それまでは陸軍病院といっても民間の病院とそう変わるわけでもなく、ただ軍隊の厳しさだけで、それらしさを感じとるだけだった。この時は違った。病院は野戦病院のようになっていった。

 

 患者も移動させなければならなかった。患者は容体によって三つに分けられた。軽い順に独歩患者、護送患者、担送患者だ。「独歩患者、護送患者は一人で歩かせたし、手術したばかりの患者までも『腹を押さえて』と言って無理させた」と言う。午前8時ごろから始まった26人の患者の移送は夕方までかかった。

 

 陸軍病院の移転先は南風原小学校南風原村は奥松さんにとっては思い出の場所でもある。この村の第一号の駐在保健婦が奥松さんだ。濱松病院看護婦のころ、保健婦資格を取得、その時、西郷課長が病院に頼みこんで保健婦になった。その時、半年間の駐在保健婦の体験が南風原村。

 

 自転車をけって村内を回り、保健について説き歩いた場所だ。1年少しほどしかたってなかったが、日本に向かって来る米軍の前進基地は、沖縄にかなり近づいてきていた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月21日掲載

 

麻酔なしで手術 ~ 平時には考えられぬ力

 南風原小学校にある陸軍病院3月になると、に移らなければならなかった。「壕はまだ完成してなく手術室の壕は逃げ場もなかった」と奥松文子さんは振り返る。

 

 「3月23日に大きな空襲があってそれから急に忙しくなった」。1日に70~100人の患者が来る。医師2人、看護婦2人に衛生兵が2人の手術室は休む暇もなかった。そのころには各科とも外科に変わっていたが、奥松さんは「人間の心が弱くなっているときに内科も伝染病も出てくる。気が張っていると人間の体は意外な強さを持っていることがわかる」と言う。

 

 奥松さんは2人の患者のことをいまだに忘れない。

 

 やっとの思いでたどりついたというふうなある患者は、付き添いもなく一人で病院までやって来た。「よく見ると足の骨が砕けていてブラブラしている。どうして一人で歩けたのだろうと不思議でしようがない。平時では考えられないが、一たん緊急のときは痛みも感じず、ただ目的地に行こうという一心だけが動く」と言う。

 

 首里の戦線で腹部をやられた兵隊は、はみ出した腸を自分で詰め込み、上衣を覆って、しっかりとベルトを締め、南風原まで歩いてきた。すぐに手術が始まった。麻酔の不自由なころだ。「生きたいのか死にたいのか」「はい、生きてお国のために働きたいです」。これだけの会話。麻酔の代わりを務める衛生兵2人が、しっかりと体を押さえた。

 

 ランプの明かりだけで2時間の手術が続いた。「医者だって不十分な器材で、あれだけのことをよくやれたと思う。手が目になっていたんでしょう」。その患者は「慶良間出身の仲村渠」と名のった。

 

 手術場勤務の奥松さんは病棟の患者たちと接する機会は少なかった。それでも傷口にウジが群がっている病棟の光景は忘れない。「ウジがわいて不潔と思ったが、ある医師からは“ウジ治療”という言葉も聞かされた。ウジが傷口の毒素まで食べてしまうって―」

 

 陸軍病院5月末になると南風原を撤退した。やっとの思いで伊原までたどりついた奥松さんだったが、1週間ほどたってから本部に呼ばれた。「ノブタケ兵長、小橋川上等兵と、看護婦は長田(則子)婦長と国場さん」の5人だった。広池文吉(軍医中佐)病院長は、ノブタケ兵長らに、南風原にいる残置隊への撤退命令を伝えることを命じた。撤退の際、必要な医療機材を運ぶのが奥松さんらの任務だ。

 

 日ごろ奥松さんらが教えられたことは「医療機器は兵の銃に等しい。衛生材料は弾に等しい」だった。

 

 撤退した時より状況が悪くなっていることは、だれの目にも分かる。奥松さんが、そのことを上原君子婦長に告げると、「マッちゃん(奥松さんの愛称)、行くと生きて帰れないヨ。死んでしまう」と、さかんに止めたが、命令に服従するしか道はなかった。

 

 高嶺工場近くの三差路にさしかかった時、奥松さんは驚いた。陸軍病院に残した足のない患者3人、両手だけではって来ている。手術場でも、極限状態の人間が思わぬ力を出すことを知ったが、目の前にまた意外な行動を見た。

 

 奥松さんらが南風原に行くことを聞くと、今度はその患者らが驚いた。「無謀だ。今から行くんだったら死にに行くようなもの」の言葉で、既婚の国場看護婦だけは引き返させた。しかし、奥松さんが再び伊原の壕に生還した時、国場看護婦は水くみの途中に艦砲で死亡していた。奥松さんは「戦争とはそんなもの。運、不運だけ」と思っている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月22日掲載

 

生死は紙一重の差 ~ 耳に残る死にゆく兵士の声

 南風原陸軍病院に向かう奥松文子さんら4人が、照屋の近くまでさしかかった時、暗やみの中から馬車の音がする。「来るぞ!」―奥松さんは緊張した。これまでも経験していたことだが、物音がすると、しばらくあとには確実に米軍の砲弾が落ちて来る。

 

 しかし、立ち止まるわけにはいかず4人は進んだ。そのうち小橋川上等兵が遅れたので、奥松さんはしばらく待っていた。その時だ。先を歩いていた2人に至近弾が落ち、ノブタケ兵長は腕、長田婦長は足をやられた。「2人と私たちは丘の表側と裏側」。奥松さんは「死ぬか生きるかは紙一重の行動」と言う。

 

 長田婦長を背負い、陸軍病院壕にたどりつくと“ザンガレ部隊”(残置隊)の医師の手で、すぐにノブタケ兵長の手術が行われた。医療機材もないから、負傷した腕を切るしかなかったという。

 

 だが翌朝には死亡。奥松さんの耳には「隊長どの、自分の任務は終わりました」に続いて、「お母さん、自分の任務を全うしました」という言葉が今でも残っている。「お母さん」―その言葉は、その後も虫の息になった人の口から幾度も聞いた。

 

 悲しむ間もなく伊原に出発だ。奥松さんの体には包帯で通した持てるだけの医療機材を巻きつけていた。「一度座ると立てなかった」と言う。長田婦長の同意もあったから、道案内は自分がやるものだと思い、肩にくい込む重さに耐えて急いで歩いた。

 

 高嶺工場で小休止をとった時、“ザンガレ隊”の宮城隊長がやってきて、「奥松、君のやっていることはいいと思うか」と、いきなりビンタを張られた。しゃがみ込んだ奥松さんは、その時、しらずに石を両手で握っていた。「ここで殴ったら重営倉だ」。親の顔が浮かぶと肩から力がぬけていき、両手の石が離れた。

 

 怒りを残したまま歩いた奥松さんは、泥水のたまった艦砲の穴に落ちてしまった。荷物が重くてはい上がれない。その時、引き上げてくれたのが宮城隊長だ。怒りがたちまち消え、そのやさしさに涙が流れ出して止まらなかった。

 

 戦後、宮城隊長は「あの時は部下の手前、ああするよりほかになかった」と言い、奥松さんに「戦世になりば夫ん持ちはんち 石ん持ちゅしがる夫ん持ちゅさ」の歌を贈った。

 

 伊原に再び戻った時、奥松さんを見て驚いたのは上原君子婦長だった。「あんたの戦死公報も出ていたのよ」と抱きながら「こんな機材なんか取るために戻ったの。こんなのいらないよ」と吐き捨てた。奥松さんが苦労して持って来た医療機器は、その後、第1外科が使うことはなかった。

 

 奥松さんの運の強さはその後も続く。6月中旬、壕の中が息苦しく、外に出た途端、入り口に直撃弾を受け、それまで隣にいた長田婦長が戦死した。「親が呼び出すような気がした」という。

 

 米軍が壕の間近まで迫った6月19日、陸軍病院は解散した。このころ奥松さんは、南風原に引き返した時、雨に打たれたため急性肺炎で、もう動く気もしなかった。発熱、そしてうわごとをいう状態だ。

 

 「ここで死ぬから置いていってくれ」と言う奥松さんを、おぶって脱出してくれたのは真栄平豊子看護婦だった。

 

 だが、逃げる途中に夜明けを迎え、米軍の砲撃も始まり、近くに落ちた。「そのまま吹っ飛ばされ意識不明。気がついたらだれもいなかった。戦後も真栄平さんを捜したが…。残っていれば死んだかもしれない。もし、家族が分かればお会いもしたい」と奥松さんは言う。

 

 奥松さんが収容されたのは、それから3カ月もたった9月12日だ。そのころでも、まだ疑心暗鬼だったが、宣ぶ班の言葉に警戒心をゆるめた。「『軍人のくせに痛いのか』と陸軍病院で気合を入れられて、命が助かりました。今度は私が助ける番です」。

 

 収容所では人の多さに驚いた。「アリも通らないほどの砲弾を撃ち込まれて、よくもこれだけの人間が…」と感心した。しかし、奥松さんの周囲の多くの人が死んでいった。「軍の規律に従って万全の看護をした」と陸軍病院の戦時体験を語る奥松さんは、「あのころ赤十字法さえ知っていれば患者の犠牲は少なくてすんだ」と悔やむ。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月23日掲載

 

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