沖縄積徳高等女学校とふじ学徒隊
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院、大典寺の住職、菅深明により、1918年に、沖縄家政実科女学校として開校。1943年に積徳高等女学校と改称された。戦前の沖縄県で唯一の私立高等女学校であったが、沖縄戦で焼失。戦後はそのまま廃校となる。
沖縄戦では1945年3月頃か4年生55名全員が看護教育を受け、第2野戦病院壕で実習訓練を受ける。卒業式もないまま、豊見城城跡の第24師団第二野戦病院本部壕に25名が入隊。戦況悪化に伴い5月27日に南下、ウッカーガマ (糸洲壕) で6月27日に解散を迎える。
私立の高等女学校で、1918年(大正7年)、「沖縄家政女学校」として設立され、1930年(昭和5年)、「沖縄家政実科高等女学校」となり、1943年(昭和18年)に、「沖縄積徳高等女学校」と名称が変わりました。翌年の10月の空襲で、学校も寄宿舎も焼失。沖縄戦では、県立二高女の「白梅学徒隊」とともに陸軍第24師団の野戦病院に配属されました。動員された生徒と先生合わせて25人のうち、4人が犠牲になりました。
野村岳也監督 短編ドキュメンタリー『ふじ学徒隊』予告編 (2004年)
国家と軍隊に様々な犠牲を強いられ、多くの住民が死に追いやられた沖縄戦。ふじ学徒隊は特殊なケースとして知られています。
特殊だという理由のひとつは、個人の意思が尊重されたこと。ふじ学徒隊を編成するにあたって、第二野戦病院の責任者、小池勇助軍医は対象となる積徳高等女学校4年生56人全員に入隊の意思を確認し、意思が確認された25名だけを看護を任務とする学徒隊として迎え入れたました。もう一つは多くの学徒が生き延びたこと。従軍中に直接命を落とした学徒隊員がわずか2名だっということです(のちに1人が従軍時の体験が元で自死しました)。
ふじ学徒隊の生存率は92%。白梅(県立首里高等女学校)の52%、瑞泉学徒隊(県立第二高等女学校)の46%、ひめゆり学徒隊(県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部)の45%に比べると圧倒的です。
琉球新報 証言記録「戦禍を掘る」
以下は沖縄戦から39年目の、1984年の琉球新報「戦禍を掘る」連載からの証言記録である。
49人が無念の最期 ~ 同窓生らが念願の慰霊祭
6月下旬―。沖縄地方は梅雨が明けてから炎暑の日が続いている。夏の観光シーズンを迎え、街は学生と思われる若い観光ギャルでいっぱいだ。また、セーラー服を着た地元の女子高校生らが数人、横に広がってにぎやかに歩いている光景も見える。ラッキョウが転がっても笑い出すという年ごろである。そんな彼女たちが陽気に青春を満喫しているころ、那覇市内の寺の境内では、戦争によって楽しかったはずの青春時代を奪われた婦人たちが、青春どころかその後の人生までも味わえなかった亡き友の霊を慰めていた。
「慰霊の日」の23日、那覇市松山の大典寺で慰霊祭を行ったのは、旧積徳高等女学校の同窓生たち。沖縄戦で無念の最期を遂げた同校の生徒49人、職員5人の供養のため、同窓生や遺族ら約150人が参列、焼香してめい福を祈った。
「思えば大きな希望と誇りを胸いっぱい抱き、入学しました。私たちは戦時体制下にあって女学生としての美しい夢は薄れ、勉学中途にして看護隊となって従軍、第2次大戦に引きずり込まれました。あの忌まわしい戦争さえなければ、今ごろともに楽しく立派な家庭を築いていたことと思うと…」
生存者を代表して追悼の言葉を述べた伊礼千代さん(昭和20年3月卒)は、生きていたころの旧友のことが思い出されたのか、声もとぎれがちだった。
積徳高女の女生徒たちは、沖縄戦で第24師団第2野戦病院(通称・山3487)に入隊、豊見城城址内に掘られた人工の病院壕に配属された。のちに、米軍の侵攻とともに本島南部の糸満・糸洲地区にある自然壕へ撤退したが、壕が米軍の馬のり攻撃に遭い、言葉では言い表せないほどの体験をしている。
ところが、組織的にしっかりした県立の女学校とは異なり私立の同校は糸満市に慰霊塔を持たない。県立校と同様に南部戦線で従軍しながら、看護隊の生き残りの人たちがあまり体験を語らなかったため、その存在すら知る人は少ないようだ。
積徳高女の生存者で組織する美栄同窓会によって、大典寺に慰霊碑が建立されたのは昭和32年11月。以来、慰霊祭が行われている。
戦時中の「積徳部隊」の足取りを紹介する前に、同校の沿革に触れよう。同校は、同窓会誌などの発刊がなく、一般に歴史を知られていないのはもとより、同窓生の名簿すら正確なものがない。そこで、同窓会の会長を務め、近年組織充実に尽力している久貝喜代さん(17年3月卒)に話を聞いた。
「積徳部隊」の母校、積徳高等女学校は大正7年5月、大典寺住職によって子女に和裁と家政の技芸を教える私塾「家政女学校」として設立された。昭和7年美栄橋に校舎を新築して移転。県の認可を受け「私立家政女学校」に。11年に「私立家政高等女学校」、そして、18年3月に財団法人と組織を変更、「沖縄積徳高等女学校」の名称になった。
19年10月10日の那覇大空襲後、普通の授業はほとんど停止され、全校あげて垣花、天久、識名などの高射砲陣地構築や国場での戦車壕掘り作業に従事した。
翌20年2月、4年生55人(全員)が看護教育を施され、東風平国民学校にあった第2野戦病院壕で実習訓練を受けた。そして3月半ば、不穏な空気の中で実習打ち切り、31日夜、生徒たちは看護隊として豊見城城址にあった病院壕に正式に配属された。卒業式は中止になっている。
先日、豊見城城址公園にあるこの病院壕を生き残りの3人の案内で訪ねた。そして、10代後半に味わった「生理がなくなった」というほどの異常な体験を耳にした。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月27日掲載
命懸けの包帯洗い ~ 負傷兵のうめき今も耳に
豊見城城址内の病院壕に配属されて間もない20年4月上旬、家族との面会が許され、約30人の生徒が帰宅した。が、その後、戦闘が激しくなって帰隊できず、壕に戻ったのは若干名だったという。
結局、学徒看護隊は最上級生(4年)の25人になった。南部へ避難する5月27日までの約2カ月間、この壕で負傷兵の看護に当たった。
壕内は首里、浦添、西原方面の激戦地から運び込まれてくる負傷兵で足の踏み場もないほど。常時、収容能力をはるかに超える600人余の負傷兵がいて、昼夜を問わず治療が行われた。
暗い壕内は、ロウソクの明かりだけ。淡い炎があたりの負傷兵を照らし出し不気味だった。むし暑くじっとしても汗がしたたり落ちてくる。
「アイターヨー、アンマーヨー」とあちらこちらで苦しみ悶(もだ)える声が今でも頭を離れないというのは、伝染病棟で勤務した名城文子さん(58)=旧姓座間味、宜野湾市愛知。2段ベッドの下でうなる初年兵を上にいた斉藤軍曹が「おい、だまれ」と怒鳴っていた。
その軍曹もやがて破傷風にかかり、あごが硬直して開かなくなった。名指しで呼ばれた文子さんが無理やり食事を流し込んだという。
脳症患者も多かった。両手を失い、そのまま歩き回っている者や「電信柱が高いのもみんな私が悪いのよ」などとブツブツ繰り返す者―。
さらに腸チフス患者が「なんでおもゆを飲ます」と怒って碗(わん)をぶつける。「水を持ってこい」とけ飛ばされたり、中には「既に上陸したアメリカと沖縄の女は一緒になっていると言うではないか。君たちも出て行け」とののしる日本兵も―。文子さんは「私たちは何でこの人たちのために頑張っているんだろうと思ったこともあった」と振り返る。
また、連日、汗と泥にまみれて戦い続けた負傷兵は多くの“小動物”を共に壕に持ち込んだ。代表的なのが「シラミ」。「立ち止まればモンペのすそにはい上がってきて、払いのけるのがひと苦労だった」と言う上原利子さん(57)=旧姓志伊良、与那原町与那原。
「包帯交換を待ち続ける患者の傷にはウジがいっぱい。包帯の上からチラチラ頭をのぞかせているので、つまんで捨てる。ほどくと、さらに深い傷口に無数のウジ。消毒液を落とすと素早く内に引っ込むもの、はい出してポロポロこぼれるもの。ピンセットで一匹ずつつまみ出す時間が惜しくて、ガーゼでこすり落としたものです」
毎日使用される包帯とガーゼは腐臭を放ち、ウジがわき、「一晩のうちにバケツ4、5杯分もたまった」と語る小波津照子さん(58)=旧姓津波古、宜野湾市大謝名。
そのガーゼ洗いは、早朝と夕刻に近くの川や井戸でやった。敵機に発見され、空中から射撃を受けることも度々で、命がけの仕事。死体を埋葬した地点に砲弾が落ち、肉片が周辺の木の枝にぶらさがる異様な光景の中、乙女たちは野に咲く一輪の白ユリの花を見つけ、そっと手折って病床に飾ってやった。
患者たちは、しばらく痛みも忘れ、花の香りをかいでいたという。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月28日掲載
重傷者は置き去り ~ 出発のシーン今も脳裏に
積徳高女が看護隊として配属された第2野戦病院壕は、豊見城城址公園の北側、国場川に臨む崖(がけ)の下にある。南北に伸び、全長約300メートル。奥行き約30メートルの出入り口が数カ所にあったが、長い年月でふさがれてしまった。
この壕の近くに慰霊碑を建立しようという話が持ち上がったのは、昭和55年のこと。当時の軍医中尉だった島尾二さんが石川県から来沖、「今でもこの壕で亡くなった人たちのことが頭から離れない。慰霊碑を建立して供養してあげたい」と、真喜志善子さん(57)=沖縄市室川=ら学徒看護隊の生存者に持ち掛けたのがきっかけだ。
以来、真喜志さんのほか今回壕を案内してくれた小波津さんら3人を含めた4人が、慰霊碑建立のため奔走。豊見城村長、議員をはじめ、公園を管理する琉球国際観光に積極的に働きかけた。
彼女たちの熱心さに公園側がついに協力を約束、島尾さんから費用振り込みもあって57年8月15日に起工式。同月23日、同期生(20年3月卒)が参列して除幕式が行われた。真喜志さんは完成の報告に金沢へ。喜んでいたという島尾さんは、昨年息を引き取った。
慰霊碑建立と並行して壕の復元作業も実施された。正面入り口から見て右側の病室があった方の壕は復元されたが、手術室などのあった左側は崖崩れで復元が不可能だった。壕内は、丸太の支柱を地盤の弱い所に部分的に使用していたという。
沖縄戦当時をほうふつさせる壕がよみがえったのは58年8月の暑い盛り。復元区域は、より安全に壕内を見学できるよう鉄骨を取り付け、補強している。
外の暑さとは対照的に壕の中はひんやりしていた。各所に蛍光灯が取り付けられているが、薄暗い。時折、天井から滴が背中に落ちる。
この壕には常時600人余の傷病兵が収容されていた。小池勇助隊長(当時少佐)以下、軍医、看護兵、学徒看護兵の総勢170人が治療や看護に当たっていた。
今回の壕復元に際して、生存者の中の数人が同公園に手記を寄せている。
「治療部は昼夜、負傷兵の悲痛な叫び声。軍医の怒鳴る声。私たちは何一つ不平を言わずに頑張りました」(仲里ハルさん)
「亡くなる寸前に『お母さん苦しい、お母さん』と叫ぶ兵隊さんの手を握り、最後の息を引き取らせたこと。静かにしている兵隊さんに『気分はいかがですか』と話しかけたら、既に亡くなられていたこと。今考えると身が凍る思いです」(大仲キクさん)
「生き延びて第二第三の国民の養育に尽くしてくれと言って自決した隊長の言葉が脳裏を離れません。今、妻となり母となった私は生命の尊さをしみじみありがたく思っています」(宮城トヨ子さん)
5月下旬、病院に南部撤退の命令が下った。歩ける患者には杖(つえ)を与えて退院させ、重傷者には水や乾パンを枕元に残し、置き去りにした。
「その晩は雨がしとしと降っていました。置いていかれる重傷患者たちは、自分たちの運命がどうなるかよく分かっていました。すべてをあきらめ、寂しそうに寝たまま何も言わずに見送ってくれました。できるなら一緒にいてあげたい。切ない気持ちになったが命令にはそむけませんから…」
小波津さんは、出発のシーンを振り返って目頭を熱くした。後ろ髪を引かれながら闇夜を歩き出すと、壕に残してきた重傷患者の顔が浮かんで涙が流れてきたという。
地下足袋の足を何度もぬかるみに取られながら、摩文仁に向かったのは5月28日の未明だった。
(「戦禍を掘る」取材班)
1984年6月29日掲載
下痢、発熱相次ぐ ~ 水虫に悩まされた壕生活
深夜、豊見城の野戦病院を脱出した一行は摩文仁に向かった。看護隊も綿のように疲れ果てていたが、患者に付き添いながら砲弾の中を進み、波平、座波、高嶺、真壁と抜けて目的地・糸洲の壕に到着した。わずか一晩で強行した移動だった。
この移動は、多くの重傷兵を途中で置き去りにしてきたということで、看護隊にとっては忘れられない体験となった。
上原さんは「看護婦さーん、頭の出血どうして止めたらいいですか、と声を張り上げていた日本兵のことを今でも思い出す」という。
「声に振り向くとつらくなるから前を向いたまま。三角きんでしっかり巻いてちょうだい、としか言ってやれませんでした。後ろ髪を引かれる思いというのはこういうのを言うんでしょうね」
しかし、当時は悲しむ間もなく次の生活を考えなければならなかった。糸洲の壕は天然の洞穴で、「轟壕」と呼ばれていた。
愛媛大学探検隊が作成した地図からも分かるように、この壕の奥は伊敷地区まで続いており、かなりの深さだ。当初は南側のウッカーガマ、ウンジャーガマなどに人々が集まっていた。
小波津さんによると、壕内はかなり広かったが、上から鍾乳石がいっぱい垂れ下がり、下には深さが太ももまでも水がたまっていた。
「移動してきて最初の仕事は、近くの集落に出かけて空き家から戸板を運んでくることでした。水ぎわの泥の上にその板を敷き、かろうじて負傷兵の看護が出来るようにしました。この壕にやってきてからも負傷兵はひっきりなし。湿気の多い壕生活で体の抵抗力も弱まり、下痢が止まらない者や発熱する者が相次いだものです」
看護隊はまた、水虫に悩まされた。四六時中、地下足袋をはいたままなのが原因で足の裏の皮がすっかりなくなってしまった。
「真っ赤にはれてしまってかゆいというより痛くてしようがなかったです」と、小波津さん、上原さん、名城さんの3人は口をそろえる。
一枕の戸板に10人もの患者がいたという。
数人の県立二高女生が「壕に入れて下さい」とやってきたことがあった。負傷している人もいたので小波津さんらが班長に頼んだら、「食糧事情のこともある。他の部隊のことはかまってやれない」との返事だった。
名城さんは、壕にいた同郷の初年兵のことが忘れられない。「その人はコザの小学校時代の1期先輩で浜比嘉さんという人。これから第一線に切り込みに行くと言うのでおにぎりをこしらえて見送ったのです。この次に会う時は越来小学校のウスキの木の下で会おうねと約束したのに。それっきりになってしまって…」と声を詰まらせる。
名城さんら3人の話を聞きながら、豊見城城址公園から糸満の糸洲地区へ、当時の彼女たちの足取りをたどった。糸洲の「轟壕」に案内され、3人からさらに詳しい話を聞いた。
やがて南部一帯にも戦火が迫り、6月中旬、この壕もついに米軍によって馬のり攻撃が始まった。壕の上部のポッカリ空いていた個所から毒ガスや爆雷を次々と投入され、壕内は騒然となった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月2日掲載
ガス弾1日3回も ~ 壕内脱出後も学友ら戦死
6月17日の朝、轟壕にガス弾や手りゅう弾が投げ込まれ、近くにいた約100人の患者がやられ息絶えた。
「投降せよ。もし応じないと壕にガソリンを流し込んで燃やすぞ」 米軍は、生き残っている人たちに投降勧告を続けた。
「米軍の馬のり攻撃にあって以来、私たちはさらに壕の奥深く移動せざるをえませんでした」と上原さん。「衛生兵の『ガスー』と叫ぶ声が壕内に響きわたると、目の前を流れている川の水に布きれを浸して口にあてたのです」
小波津さんは「直接顔を水に突っ込んで命拾いした人も多かった」と言う。
名城さんが続ける。「1日1回だったガス投入が、やがて1日に3回も投入されるようになりました。ガスが水と一緒に流れていってしまうのに約20分もかかり、息苦しかったです。投入口はいつも火炎放射が見られました」
壕内は死体が放つ異臭で息が詰まりそう。食糧もしだいに乏しくなり、10日もすると3合の玄米と2袋の乾パンだけになってしまった。運命が見えてきたことを看護隊も感づいていた。「最期を立派に飾りたい」とだけ願うようになってきた。
最初にガス弾が投入されてから10日ほどたったある日、看護隊に集合の命令が下った。そして、隊長の小池少佐が訓示した。
「長いこと軍とともに行動してくれて本島にご苦労であった。兵隊は最期まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉学途上にある生徒であり、しかも、将来の国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。死ぬことだけが国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子どもがあるが、皆さんを見ていると自分の子どものように思えて、一緒に死地に連れていくのは忍びない。皆さんは他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生き延びて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」
看護隊員一人ひとりの手を握りながら、小池少佐は涙をこらえきれなかった。
ついに、小波津さんら看護隊は2、3人ずつ組んで何分かおきに壕を脱出した。小波津さんらの記憶によると、6月27日の晩から28日の早朝にかけての行動だった。小池少佐は自決した。
積徳高女の生徒たちは沖縄戦で49人が亡くなっている。第2野戦病院には25人が配属されたが、このうち国吉キヨさんと安村佳子さんの2人が戦死した。
国吉さんは糸洲の壕の近くで直撃弾にやられた。バレー部員で体格のいい彼女は、気だてのやさしいことでも評判だった。「キヨさんはいつもモンペと真っ白な運動着をきれいにたたんでありました。『いつか訪れる勝利の日に着るんだ』と話していましたよ」。懐かしそうに小波津さんが語った。
安村さんは壕脱出後、真玉橋あたりで息を引き取った。上原さんは「苦しいはずなのにいつも笑い声が絶えず、周りを明るい雰囲気にしていた」という彼女のことを覚えている。
短い生涯を閉じた2人の旧友を語ったあと、小波津さんら3人は改めて戦争という異常な体験に身震いした。
戦後、後遺症でずっとゼンソクぎみだったという小波津さんは「一番犠牲になったのは末端の人たちです。犠牲の二文字は亡くなった彼女たちのためにある気がします」と語気を強くする。上原さんも「生き延びているのが信じられないくらい。戦争は世界のどこででも起こってもらいたくないのですが…」と続けた。
名城さんは、当時の話を語った日、一晩中寝つかれなかったという。戦時中のことはもちろん、家族8人を戦争で失って“戦災孤児”になってしまった戦後の苦労が次々と頭をよぎっていった。
(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月3日掲載
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