日本軍にとって「スパイ」とは誰だったのか
日本軍は、住民を資力として徴発しながら、一方で恣意的にスパイ容疑をかけた。日本軍は時として「処刑」と称した虐殺を続けた。
いったいどれだけの沖縄人が日本軍に「虐殺」されたのか、その実数を正確に計上することは不可能である。沖縄人に対してむき出しにされた偏見と憎悪はまさに植民地主義と差別を背景とした粛清となり、戦況が劣悪なものになるにつれ、悪意や敵意の矛先は沖縄人に向けられた。
1944年11月18日 - 「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」
第32軍はスパイ防止策として1944年11月、「極秘 報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を 作成。「軍民共生共死の一体化を具現化するため県民の思想動向を調査し、米軍のスパイ活動を封殺する」ことに重点を置いてきた。 同要綱に基づき、住民の情報を収集するため、軍は たえず各部隊、憲兵隊や県と密接に連絡して、「行動不審者の発見」「防諜違反 者の取締」を強化してきた。
1945年3月12日 - 特務機関「国士隊」結成
軍は住民を監視するため、3月12日、特務機関 「国士隊」をひそかに結成した。隊員は医師、教員、 県会議員、元市町村長、大政翼賛会支部長ら30人余。いずれも国頭郡翼賛壮年団員で地域の有力者だ。 国士隊は名護町に本部を置き、恩納、大宜味、羽地、今帰仁、本部、 久志、 金武などに支部を設置。隊員は各地で住民を監視し、 軍や行政に不満を持つ者、 対米協力容疑者などを発見して守備軍に通告、逮捕させる任務に就いている。 特に外国からの帰還者、二世、三世は危険分子として監視対象になっている。
1945年4月9日 - 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜
第32軍は軍人軍属を問わず日本語以外の言語の使用を禁止、沖縄語で談話するものはスパイ (間諜) として「処分」すると各部隊に通知。「処分」とは殺すことである。
1945年4月9日に第32軍(通称・球部隊)司令部は、諸事連絡通知「球軍会報」に次の方針を載せた。
爾後軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ
沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(引用注・スパイ)トミナシ処分ス
沖縄の住民に対する疑心暗鬼が表れている。これまで陣地造りや砲弾運びなどに住民を大量動員のあげく、日本軍の情報を敵に漏らしてはしないかと、軍は神経を尖らせた。沖縄の言葉を理解できないもどかしさと、英語などの外国語を使える移民経験者が多くいることも、疑いを深める要因になった。もとより戦陣訓は軍隊の基本において、「軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り」と教導した。(103-104頁)
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 103-104頁より》
沖縄語をしゃべるだけで「スパイ」
沖縄戦における民間人の戦死者数は10万人から15万人と言われているが、そのうちどれだけの住民が日本兵によって殺されたのか、その数は決して少なくはないはずである。日本軍の武器はしばしば住民に向けられ、住民を粛清するための剣としての「スパイ」という言葉は、虐殺を含め、どんな住民への日本軍の横暴も可能にした。
沖縄初年兵が救えなかった沖縄の老人
沖縄人である、沖縄語をしゃべる、というだけで疑われる。それが70歳の老人でも、である。沖縄の初年兵は怖くてなにもできなかった。南城市玉城喜良原、4月頃。老人をスパイとして捕らえ虐殺、とうていスパイではありえない沖縄の老人を容赦なく惨殺、こうした事例がいくつかの証言にみられる。
◎ スパイ容疑で銃殺
中頭の人(当時七十歳くらい)が第一中隊の陣地前に来て、壕を覗き回っていた。そこへ普段から根性の悪い田盛兵長が便所から出て来るところを、そのオジーと出会い、すぐ、スパイとして捕まえてしまった。小隊長に申し出て「これはスパイだ、何故民間人がこんなところを覗き見するのか」ということでこのオジーは洞窟の入り口の木に縛られていた。
私は気の毒に思っていた。このオジーは共通語を話せなかったので、兵長の言うことが分からなかったようである。兵長の言うのに返事もできなければ、説明もできずに兵長の言われるままになって縛られていた。私は便所に行きながら「オジー・ヌーンチ・ウマンカイ・メンソーチャガ」(叔父ー・なんでここに来たの)と尋ねたら、オジーさんは「ニーサンヤ・ウチナーンチュルヤルイ」(お兄さんは沖縄の人かね)と言っていた。
オジーの話では、「私は中頭にもいられないから、島尻に行こうといって、家族全部で与那原まで一緒に来たが、砲弾で皆散りじりになり、行く先は玉城方面と聞いたが、こちら辺りにいるのではないかと、壕のありったけを探していたんだ、…… 兄さん、自分は方言しか話せないから、兄さんが訳を話してくれないかと頼んでいた。しかし、日ごろからこの兵長は、性の悪い人間だったので、初年兵の私には怖くて、オジーの頼みも請うことができず、今でも心残りのする出来事だった。
そのオジーは、三日くらい水ばかり飲まされ、そのまま縛り付けられていた。後で聞いたが銃殺されていたとのことだった。
前田高地から南部まで、奇跡的に生きのびた外間守善の証言。
住民はもっと可哀想だった。子どもをつれた女や老人が、艦砲が落ちる戦場をさまよっていました。壕には日本兵が一杯で、追い出されていたのです。沖縄の人は方言しか語せない人もいて、何人かの住民がスパイとみなされて殺された。
南部では、沖縄の女性がスパイだと捕まってきたのを、私が通訳して助けてあげたことがある。中部では、やはりスパイといわれて引きずられてきた老人も助けました。
沖縄人だというだけで「スパイ」
那覇市天久の壕でのこと。大城さんが壕の入り口の1つを開けると「誰だ!」と中から日本兵の声。「避難民です」と言うと「何、避難民か。動いたら撃つぞ」と言われ、出てきた日本兵たちが大城さんの上半身を裸にして電話線でうしろ手に縛った。日本兵は「貴様、スパイだな」と言うばかりで、違うと言っても信じてもらえなかった。どうにもできずにいると、3日前別の壕で話をした日本兵がきて「この人のことは私が保証する」と口添えしてくれて、ようやく解放された。直後、同様にスパイの疑いがかけられた沖縄の青年が日本兵に連れられ壕から出るのを見た。
10メートルも行かないうちに銃声がし、振り向くと沖縄の青年は死んでいた。大城さん『スパイ容疑をかけられて生きている人はごく少ない。私は幸い生きているし、同じ容疑で人が捕まって殺されるのを目撃しているから話せる。前も後ろも敵だったが、途中からは日本兵の方が怖かった。戦争になったら人間が人間じゃなくなる』
笑っただけで「スパイ」
ある日、少し走っては隠れ、また走り出す陸軍将校のようすが、あまり憶病に見えたのか、高笑いして見ていた。それが「スパイだ」と疑われ、あやうく殺されかけたこともある。
逆らったら「スパイ」
少しでも逆らったら「スパイ」として殺される。
その人は、恩納村出身の防衛隊員で、日本兵にスパイ容疑で追われているということでした。米軍も山狩りをしているが、まだここから離れた位置にいると説明してくれました。しかし、敗残兵となった日本兵は、山中で避難民の食糧を略奪したり、従軍看護婦を手込めにするなどひどいことをしており、それを咎めた彼は日本軍の将校に軍刀で殺されかかったというのです。彼は、とっさに自殺用に残しておいた手榴弾を握り、「死ぬなら一緒だ」と叫び、相手がひるんだ隙に逃げてきたそうです。
読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録
海外からの帰還者というだけで「スパイ」
国策として進められた事業で南洋諸島や南米に行き、疎開命令などで帰ってきたというだけでスパイだと疑われる。
ある日隣に住む親戚を頼って一人の少年が来ました。この少年は知念村の出身で父親はペルー帰りで外語が話せるというので漢那の収容所の班長を命ぜられ避難民の配給や住居の世話をしていた。それを知った日本兵が山の麓に呼び出しスパイだといって日本刀で斬ったということでした。それからは日本兵が恐くなり彼等の行動を信じなくなりました。
白い服を着ていただけでスパイ
白い布は投降するための白旗になると主張、白い服を着ただけでスパイ疑惑。
何かあるとスパイ嫌凝をかける時代で、内心こわくなりながらも意地になっていた。… あの当時、校長は自いシャツを着けていただけで、 スパイ嫌凝をかけられ、大変困っていた。
天久先生は、白は清純だというお考えから、御真影を運ぶとき白い風呂敷で包んだそうですね。処が、その事も、軍がスパイよばわりする要因だったんだそうですよ。白は不吉だということで。
食糧の供出を拒んだだけで「スパイ」
結局、最終的にはこれに行きつく。
日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食糧徴発にやってきました。あと一週間したら (本土から) 連合艦隊がやってくるから隠してある食糧は軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手榴弾をふりかざしたりして乏しい食糧を奪っていくのがいました。私の家もやられましたが、床下から天井までさがしてもっていくわけですが、とくに米軍陣地から命がけで盗んできたカンヅメを途中で待ち受けてっていくのもいました。お前はスパイだろう、敵に通じているだろうと脅かして強盗を働くわけです。
これは後で捕虜になってからですが、避難小屋に蒲団を取りに行く途中、日本兵の小屋の前を通りかかったんですが、そこは住民の小屋より四、五倍も大きいもので、二段式の寝台まで付いて十二、三名の敗残兵が住んでいるようでした。その小屋の後にアメリカのカンヅメが山のように積まれているのを見て憤慨したのを覚えています。私らがカンヅメを持っているのがみつかるとすぐスパイ扱いにされたのに、彼らはそれを取りあげてたらふく食っていたわけです。実際にカンヅメを持っているというだけでスパイ扱いされて処刑されたという話もありました。
どれだけ軍に貢献していても、都合が悪ければスパイとして殺した。
その一人、当時60歳の男性は日本軍に薪や竹、さらに当時貴重だった饅頭を納入していた。これらの代金が未払いとなっていて、日本軍に請求したところ、逆に日本軍にスパイ呼ばわりされ捕まった。米軍上陸直前で緊迫している日本軍の機嫌を損ねたのだろうというのが周辺住民の見方である。
女性というだけで「スパイ」
軍から民間へと女性スパイ陰謀論が拡散し横行。戦局が悪化するにつれて、軍の女性蔑視と女性憎悪 (ミソジニー) は醜悪なかたちをむきだしにし、女性たちを標的にした。
スパイは沖縄出身の妙齢の婦人で、彼らは赤いハンカチと、小型の手鏡をもっていて、陰毛をそり落としているのが特徴である、という情報がまことしやかに流れて、私たちもそれを信じていた。激しい戦闘がおわった28日の夕ぐれどきのことだった。雨が小降りになって硝煙がたれこめたわが頂上陣地の中ほどで、突然、自動小銃音が、パパパパンと鳴りわたった。「スワ敵襲」とばかり、南側の稜線陣地にいた私たちが、おっとり銃で駈けつけたところ、すでに惨劇はおわっていた。スパイをしたという住民の密告で住民の60歳くらいの老人が、狂暴化した兵隊に処刑されたのである。ついに味方が味方を殺す修羅場が現出しはじめた。
この陰謀論は、スパイかどうかを確認する手段として陰部を確かめるという愚劣な口実まで内包する暴力的なものであった。
そのころ、「赤いハンカチと手鏡を持ち、陰毛をそった女性があれば通報すること」との伝達があった。それはスパイだと言う。まじめな顔で、そんなことが将校の口から出るようになっていた。
女性は慰安婦かスパイ、という構図に落とし込められる沖縄の女性たち。
4日間飲まず食わずで負傷兵を搬送した … が、日本兵からかけられたのはねぎらいの言葉ではなく、スパイの疑いだった。
「『何を言うか、貴様はどこからきたのか』と言うの。泊まるところもないからね、『日中は歩けないからもう避難しにきました』と言ったら、(日本兵が)『手を出しなさい』と言うの。日光にもあたってないから、陣地生活だから年頃でもあるし色白いでしょ。私がてを出したら『この手をもって君たちは戦闘協力者と言えるのか』と言うの。『君たちはね、慰安所でなければ、スパイと認めろ』と言うの、私に」
こうした疑いは、軍令で戦場に送り込まれ、看護要員として軍に懸命に尽くした挙句、壕を追い出された女子学徒にも容赦なく向けられた。実際に女子学徒が殺された例もあった。
沖縄女子師範学校17歳
6月27日、 摩文仁海岸から海岸伝いに具志頭を敵中突破し、辿り着いたのが西原城跡です。 1人で歩いていたら、スパイに間違えられてしまいました。「名前は。 どこの者か。 いや、スパイだろう。 島尻は女スパイがいるという情報がある。お前はスパイだろう」と行動を監視しています。 潜伏も兵隊が見える所でしろと言います。 あげくの果ては、 姉ちゃん炊事してくれとあれこれいいつけます。言われる通りしました。
ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブック (2004) 124頁
多くの女性がスパイ容疑をかけられ、小ぎれいな服を着ているというだけでスパイとされて処刑された例も伝えられている。
米国海兵隊: Civilian woman with child on back and one walking. Taken d plus l at l plus 5【訳】子供を背負う女性。上陸6日目。1945年 4月 2日
精神疾患や突発的戦闘疲労症でも「スパイ」
また司令部壕で処刑された女性を含め、多くの精神疾患や突発的シェルショックの症状から「スパイ」とみなされ処刑される例は戦争初期から既にみられた。
兵隊たちが、ぼろを着た数人の男と三人の女を、繁多川の洞窟(那覇警察署警備隊本部)に連行してきた。「こいつらは、波之上の陣地周辺を徘徊していた怪しい者で、スパイの疑いがあるので引っ張ってきた。厳重に取り調べ、処刑してほしい!」と、その中の下士官が署長に言った。これを聞くと、署員は苦笑いを禁じ得なかった。一見して彼らが精神を病んでいる者だとはだれの目にも明らかだった。
山川泰邦.「秘録 沖縄戦記」 おきなわ文庫
下記は与那原の事例だが、例えば摩文仁などでも当時シェルショックと呼ばれた心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状で、弾雨のただなかを徘徊するなどの行動がみられる人々が多かったことが証言からわかる。
最も憐れに思ったのは、与那原から連行されてきたAさんである。… 4月中旬ごろ、独立混成第44旅団の兵隊によって連行されてきた。彼を見て我々は驚いた。精神に異常をきたしている人だな、と直感したが、取り調べに当たった将校は、…『君は確かに運玉森付近で敵に発火信号を送ったのか』.しかし、彼はとりとめのないことをいいながら、肯定するような態度をとっていた。側で見ていた当間軍曹は『ほんとうにやったのか、嘘だろう。正気になってほんとのことを述べなさい』と必死になって諭しているのに、ただ虚ろな眼差しをして、いわれるままに肯定しているような態度を取っていた。ああ-、いかんせん、彼は正気に戻らずそのままスパイとされた。スパイ容疑者のほとんどは、戦争恐怖症からきた精神異常者であり、なかには、尋問された場合、オドオドしてまともな返事ができないばかりにスパイにされた。首里記念運動場の地下には、数人の人々がスパイとして処刑されたようだ。」
子どもや幼児でも「スパイ」
「私は、四歳で『スパイ』として処刑された」。沖縄県読谷村(よみたんそん)出身の仲本政子さん(74)=大阪市=は、悲しげに笑う。日本兵が住民を虐殺した「渡野喜屋(とのきや)事件」で生き残った。
針金で縛り、袈裟がけに切り、火をつけて燃やす。こうした処刑の犠牲者の中には生後数か月の赤ん坊すら含まれた。
鹿山隊は10歳、7歳、5歳、2歳、生後数か月の赤ん坊を含む谷川一家7人の惨殺事件をおこす。
「あんなに小さい子も、ジリジリと焼かれて…。本当にかわいそうだった」と声を詰まらせる。
実際には、本当のスパイは陸軍中野学校のような特務機関で訓練され、住民を監視するために送り込まれていたにもかかわらず、「スパイ」として殺されていったのは、もっともスパイからは程遠い弱者であった。
今も「スパイ」という言葉は、権力が住民を監視し、排外主義をあおり、見せしめを作り出し、国民を黙らせ権力に従わせるための道具として利用される。
しかし、本当の意味で、監視されている対象は、どこかの「彼ら」ではない。わたしたち「国民」であるということを忘れてはいけない。
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