1945年4月17日、あれだけ軍に貢献したのに・・・、国民学校 照屋忠英 校長の虐殺 ~ 日本軍「今帰仁の整理」の最初の犠牲者

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なぜ日本軍は住民を虐殺したのか「今帰仁の整理」

 

1945年4月9日、第32軍司令部は、次のような軍令を出した。

 

事後、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語をもって談話しあるものは間諜 (スパイ) とみなし処分す。

1945年4月9日『嘉数の戦い』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

日本軍に殺された、殺されかけた・・・。沖縄戦の証言をたどれば、おびただしく出てくる、軍法会議もされないスパイ容疑者の「処分」。処分は、むろん処刑の意味である。

 

戦後、戦死者とみなされている者たちのなかで、一体どれだけの数の沖縄県民がいわれのない容疑をかけられ日本軍に殺されたのか、なぜ日本軍はそこまでスパイ陰謀論に傾倒したのか。

 

1945年3月28日、運天港の特殊潜航艇基地が破壊される

  

米軍上陸前の1945年3月28日、米軍は的確な爆撃で日本海軍の今帰仁 (なきじん) 運天港 (うんてんこう) の特殊潜航艇基地を破壊した。壊滅的な被害を受けた海軍はすぐさま住民スパイ陰謀論にしがみついたが、それは途方もなく迷惑な責任転嫁だった。

 

しかし、その基地が万が一に米軍の爆撃で破壊されなかったとしても、いったい日本軍は運天港の特殊潜航艇基地を「どのように」使うつもりだったのだろうか。

 

日本軍が住民を総動員させて基地を作っても、基地は一度も住民を守ることはなかった。これが沖縄戦の最大の教訓である。

 

住民を総動員して建築した数々の拠点を、日本軍は、米軍上陸前に次々と破壊していった。「敵」が基地を標的にするのは、破壊するためだけではない。接収し基地として継続使用するためでもあるからだ。

 

敵は個々の基地を目指して徹底的に砲弾を浴びせ上陸する。しかし、日本の「守備軍」は、住民を守ることなく沈黙し、島を守るどころか、島と住民を生きた砦にした。この繰り返しが沖縄戦である。

 

今は美ら海水族館でにぎわう本部 (もとぶ) 半島。今回は、そこが舞台となった八重岳の戦いを見てみてみよう。

 

4月11日、米軍が国頭支隊主陣地への攻撃を開始した際も、宇土支隊長は重砲を一度たりとも放つことはなかった。いわゆる「一度も放たれることのなかった重砲」である。宇土部隊は待てども待てども沈黙を保ち続け、一方で米軍はますます迫り来る。

 

とうとう米軍が村に陣地を構える。住民を「収容」し、食料を与える。そしてその米軍が与える食料を狙って、夜、日本刀を振りまわし、飢えた日本兵がやってくる。米軍と日本兵沖縄戦は、なんとも矛盾に満ちたダブルバインドの恐怖に住民を落とし込んだ。

 

1945年4月17日、照屋忠英校長の虐殺

日本軍は、住民をスパイ容疑で虐殺することを「整理する」と呼んだ。一連の日本軍による「今帰仁の整理」の最初の犠牲者は、日本軍に献身的に貢献した本部国民学校の校長だった。

  

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山川泰邦著 『秘録・沖縄戦記』 (1969年)

 

本部半島の秀峰八重岳を背景として、その周辺の山岳には、宇土大佐の率いる第二歩兵隊が布陣していた。この宇土部隊は、北部の住民、とくに地元、本部町民の唯一のたのみの綱であった。

 

四月七日に、米軍が名護に上陸したとの情報が、本部町の山岳地帯の避難民に伝わり、その情報が山から山へと広がって、避難民たちはひどく動揺していた。

 

米軍は、四月九日には早くも伊豆味集落近くのウジュンバルに陣地を構築し始めた。その状況が照屋一族の避難している山から、双眼鏡ではっきり見えた。この時機を逸せず砲撃を加えれば、敵の出鼻をくじき、大きな打撃を与えることは明らかであった。

 

避難小屋で震えていた住民たちは、宇土部隊が沈黙していることを、何よりも不思議に思った。そのうちに戦闘が開始される、という情報がはいると、山の難民たちはこおどりして喜んだ。人々は、「戦闘を開始するそうだ、いましばらくの辛抱だ」と、互いに励まし合っていたが、住民の期待もむなしく、米軍の攻撃ばかりがいっそう激しくなるだけであった。

 

住民は、「宇土部隊は一体、何をしているのか、こんなことでいいのか」と、不満をもらすようになり、不信の念を抱きはじめた。

 

本部国民学校長の照屋忠英氏(五十四歳)は、宇土部隊に対する不信の声を、沈痛な面持ちで聞いていた。彼は、宇土部隊の要請で、青年学校の生徒たちを戦陣へ送っていた。米軍上陸の直前まで、特攻精神を鼓吹し、年端の行かぬ少年たちまで戦野にかり出したので、彼はじっとしていられなくなった。宇土部隊へ行って連絡してくる」と、彼はたびたび言った。

 

兄の忠助氏は「部隊が知らないはずはない。敵の仕返しを恐れてか、あるいは作戦の都合なんだから、余計なことはするな」と、再三これを止めた。

 

米軍の進攻に追われた伊豆味山の難民たちは、今帰仁山へとのがれていった。照屋一族も今帰仁山へ移動して行くことになったが、老齢の伯父が足に負傷して歩けないので、彼は伯父のためにとどまることになった。これが家族との最後の分れになった。

 

四月十三日、彼は意を決して真部山の陣地を訪れた。宇土部隊長には会えなかったが、副官に敵の布陣状況を話し、激励したうえ、戦闘開始をうながして帰った。彼はそれから今帰仁山にいる家族のもとへ急いだが、山岳地帯の地理がわからないので、処々方々をさまよっていた。

 

今帰仁山にいた妻は、すでに十四日に艦砲の破片であえない最期を遂げていた。彼は妻の死亡したことも知らずに、妻子を捜し回っていた。彼は聴覚に障害があったので、飛行機が頭上に飛来するのも気づかず、待避もしないでさまよっていた。そのことを知らない兵隊たちは、いっそう彼に疑いの目を向けた。

 

さらに兵隊たちの嫌疑を深めたのは、彼の所持する二千円余りの金であった。その金は、山に避難する少し前に、郵便貯金を引き出した金であったが、これがとんでもない誤解の種になってしまった。

 

兵隊にねらわれた彼は、四月十八日ごろ、伊豆味のカシナー山の山道で兵隊たちに囲まれて射殺され、国民服、巻き脚絆の死体は、かたわらの畑にころがったままになっていた。四月二十五日、これを知った兄の忠助氏が、死体を調べたところ、腹巻きの中に貯金通帳は残っていたが、二千円余りの現金は消えうせていた。

 

2005年に見つかった日本兵軍用手帳「スパイ殺害」記述

2005年、アメリカ公文書のなかから、一人の日本軍将校の軍用手帳が見つかった。そこには、1945年4月17-18日頃に宇土部隊に虐殺されたと思われる本部国民学校の照屋校長虐殺事件と思われる事象がしっかりと書き込まれていた。

 

1945年4月17日宇土部隊が何百という重症の兵士や学徒隊を置き去りにしたまま、本部半島から多野岳に撤退する、その日のことである。2005年の沖縄タイムスの記事を復刻し、ここに紹介したい。

 

日本兵「スパイ殺害」記述 / 沖縄戦 住民虐殺裏付け

沖縄タイムス

https://www.okinawatimes.co.jp/day/200512281300_01.html

2005年12月28日(水)朝刊 1・22・23面

軍用手帳に初の文書記録

 

 沖縄戦で戦死した日本兵の軍用手帳に、スパイを殺害したという記述があったことが分かった。手帳は本部半島の今帰仁村運天一帯に駐屯していた海軍中尉の所有。米国立公文書館に翻訳され保管されており、琉球大学保坂廣志教授が発見した。沖縄戦で、日本軍が住民にスパイ嫌疑をかけ、殺害した数々の事件は住民証言で明らかになっているが、日本軍による記録は見つかっていない。研究者は、日本軍の住民殺害を裏付ける証拠となるとみている。(謝花直美)

 

 手帳は、1945年6月18日今帰仁村呉我山で米軍との交戦で死亡した海軍の竹下ハジメ(漢字名不詳)(註・武下一) 中尉の所持品から回収された。米情報部は、軍用手帳や日記に作戦や虐殺、虐待の記録があると重視。中尉の手帳も、3月23日から6月16日までの全文が翻訳されている。

 

 スパイ殺害記述があるのは4月17日。日本軍は当日、八重岳から多野岳移動を予定し、午後六時に六百人が集合。移動命令後に、「スパイを殺害。オダさん?」との記述がある。

 

 沖縄戦で、日本軍は、防諜重視の方針で、県民を総スパイ視。地域の指導者層、島言葉を話す者、移民帰りの者にスパイ嫌疑をかけ殺害する事件が各地で多発している。

 

 手帳の記述と一日違いで本部町伊豆味で、米軍上陸を日本軍に報告しに行った国民学校の校長が殺された5月には伊豆味と今帰仁村渡喜仁の指導者らや、大宜味村渡野喜屋で中南部の避難民が集団で日本兵に殺害されている。

 

 軍用手帳に記述されている「オダさん」という人物が、加害者なのか、被害者なのかは分かっていないが、保坂教授は「日本兵が、対米軍の遊撃体制の中で、食糧強奪、住民監視する中で、向かい合ったのが民間人だった。軍が同じ軍に対して、食糧強奪やスパイ摘発はしない。スパイを殺したということは、すなわち沖縄住民を殺したということだ」と指摘。「住民殺害を記した文書の記録はこれまで出ていない。記録した側は、県民を総スパイ視した防諜作戦を遂行しており、記録を残すのがまずいという意識がなかった」と分析する。

 

 本島北部を管轄した国頭支隊の防諜作戦に関する資料をまとめた大城将保さんは「日本軍による住民殺害の事例は多いが、それを否定する動きが本土にはあった。(殺害を裏付ける)証拠となる資料だ」と指摘する。

 

※ ドキュメンタリー監督、三上智恵氏の新著『証言・沖縄スパイ戦史』(2020/2/22) では、「オダさん」は、日本兵の名前ではなく、日本兵に呼び出され殺された伊豆味の行商人「太田守徳」(殺害日時不明、4/16日以降に殺害された) のことではないかと推測している。であれば、多野岳移動の日、伊豆味では複数の民間人がスパイとして殺害されたことになる。

第96回:「スパイリストに載った少女」~その後の追跡で分かったこと~(三上智恵) | マガジン9

 

1945年4月17日、太田守徳の虐殺

四月末ごろのある夜のことであった。どしゃ降りの雨の中を、本部町伊豆味の山間の、とある一軒家に忍び寄る五つの黒い影があった。一軒家には、太田守徳氏(当時五〇歳)の家族が避難していた。黒い影がトン、トンと、雨戸をたたいて、「太田さん、太田さん!」と呼んだ。太田夫妻は、この雨の夜の訪問者に不安を感じ、だまっていた。「太田さん。○○に行く道を教えてください」――守徳氏は不安を抱きながらも、仕方なく雨戸をあけた。姿を現したのは友軍の兵隊だった。(略)しばらくすると、恐ろしい知らせが集落の人からもたらされた。彼女は気も転倒せんばかりに驚いた。守徳氏は伊豆味の内原の路傍で、死体になって横たわっていた。死体は背後から銃剣か日本刀で刺され、うつ伏せになり、朱に染まって倒れていた。これを知って村の人たちは、悲憤の涙をのんだ。そしてこんなことをささやき合った。「守徳さんはねらわれていたらしい。何しろ守徳さんは、肉や豆腐を部隊に納めるために陣地(壕)に出入りして部隊の地形に通じていたから、生かしておけぬと、殺してしまったのだ。友軍の陣地に出入りしたものは守徳さんのようにやられるぞ!」村人たちは、暗い顔でこんなことをひそひそ話し合い、恐れおののいた。

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』 (1969年) 》

 

4月17日、照屋校長殺害事件と一致する日付

 

「父のことか」遺族衝撃 「軍は住民守らない」/父失った照屋さん 死の真相垣間見る

 

 「この記述は父のことなのか」―。本部町伊豆味で日本軍によって殺害されたとされる照屋忠英本部国民学校長の長男淳久さん(80)=同町=は六十年ぶりに現れた軍用手帳に衝撃を隠せない。遺族は戦後、真実を探し求めたが、憤りと父を失った苦しみから、ほとんど事件を語ってこなかった。死の真相に一歩近づく記録に「戦争する中で人間が人間でなくなる。戦争を恨む」と、悲しみを新たにした。

 

 忠英さんは、県師範学校卒業後、将来を嘱望され上級学校へ進学を誘われたが、それを断り、古里本部で農村教育に力を尽くした。沖縄戦当時、避難小屋で見た米軍上陸の情報を日本軍に伝えに行った後、伊豆味の樫名原で斬殺遺体で見つかった。

 

 北部を守備していた国頭支隊(宇土部隊)と行動を共にした学徒隊の証言には「五、六十代の国民服姿の男性を、日本兵数人が『校長なのに…』と小突き回していた」「両腕を後ろ手に縛られて銃剣で突き刺され苦しんでいる男性がいた」などがあり、この男性が照屋校長とみられる。

 

 避難のためこの事件の数日前に忠英さんと別れた二女の与儀毬子さん(75)=那覇市=は「父が亡くなったのは十七日だと思う。樫名原で、父が私の名や水を求める叫びを聞いた人がいた」と話し、遺体発見が十八日だったため命日をその日にしたという。

 

 事件の後、地域の指導者だった忠英さんの兄忠助さん(故人)も日本軍に狙われた。「毎夜、日本兵が戸をトントンたたき、ひそひそ声だが、威嚇する調子で、『照屋忠助はいないか』と尋ねた。伯父は恐れて、家で寝ずに、朝になるまで山中で過ごした」という。

 

「父は、家族用の食糧も、日本軍にはすべて提供するほど、最大限の協力をした。だのに、なぜ軍は矛先を向けたのか」と、無念そうに話す。

 

 淳久さんは「軍隊は平時は、住民と仲良くしていても、いざ戦闘になると、軍隊の目的しか果たさない。地域の住民は守らない」とし、「これまで遺族がどれだけ忍びなかったか。遺族にとって戦後処理は六十年たっても終わらない」と話した。

 

  ■   ■   ■

 北部の住民虐殺 三十二軍司令部は「防諜には厳に注意すべし」という基本方針を持ち、北部守備を担当した国頭支隊は「本島の如く民度低く島嶼なるに於いては、軍事始め国内諸策の漏洩防止に重点を指向し」と下達。これらの方針が、本土防衛の持久戦と位置づけた北部のゲリラ戦で、戦局悪化とともに「県民総スパイ視」へとつながった。北部各地では、日本軍が住民処刑リストを作り、殺害されたり、狙われたという証言(沖縄県史、大宜味村史)が複数ある。

 

軍用手帳のメモ内容

米攻撃で艇失い移動/軍用手帳抄訳 タニヨ岳へ移動計画/18時に集合、タケトミの防空壕

 

 竹下中尉は、1944年8月から今帰仁村運天に駐屯した海軍第27魚雷艇所属。一帯には、特殊潜航艇隊も配備され、海軍秘密基地だった。しかし、米軍の攻撃で艇を失い、1945年4月以降、陸軍国頭支隊(宇土部隊)の指揮に入った。手帳記述では八重岳、多野岳、久志岳、屋我地島を移動している。

 

【手帳抄訳】

 4月17日 タニヨ岳(多野岳)へ移動を計画/18時に集合、タケトミの防空壕/600人/移動の命令/スパイを殺す 小田さん?/道路を横断/敵の地域を抜けていった/中島大佐のもとに全員集合

 6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある(中略)園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない

 

愛楽園から食糧供出
米軍管理下状態で日本兵

 

 軍用手帳には、ハンセン病患者が入園していた愛楽園に食糧を供出させていたことも記録されていた。六月時点で敗残兵となっていた日本兵は、飢餓とマラリアが広まった北部山中で住民から食糧強奪を続けていた。そのような状態で、米軍の管理下にあった園を食糧補給基地にしようとしたことが分かった。

 

 手帳には、六月三日に三石の米(約四百五十キロ)、八日に三石の米と七月までに二十五石(三・七五トン)を要求。また、「屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある」とある。

 

 また、六月一日に竹下中尉名で「兵が許可なく屋我地島に渡り留まること、個人で食糧を受け取ることは厳禁」との命令を発令している。

 

 当時の早田皓園長(故人)の論文記録では、竹下中尉らは兵二百人分、毎月米六石を要求。「凶刃を振るわれては一大事なので、泡盛を振舞ってお引きとりを願い、要求を引き受けた」とある。

 

 その後、竹下中尉が戦死、日誌に米提供のことがあったため米軍が事務長を取り調べたと記録。そのきっかけが今回発見された手帳とみられる。

 

 園の炊事係だった知花重雄さん(82)は「入所者は食糧難で一日一個の小さなにぎり飯を食べていた。白石隊は、積んでいた米の半分を要求した。むちゃなことをすると思った」と振り返る。

 

 沖縄愛楽園証言集編纂委員会の森川恭剛琉球大学助教授は「早田が書いていたことが、軍資料からも確認されたのは重要だ」と話している。

沖縄タイムス 2005年12月28日(水)

 

日本の兵士はこまめに軍人手帳にさまざまな情報を書き込んでいたので、米軍は、暗号受信や捕虜の尋問の他にも、日本兵の手帳も貴重な情報源として重視していた。むしろ、なぜ日本軍は機密保持のために兵士にメモをとるなという基本的な指示をしていなかったのかと驚くほどだったと、元米兵が証言している。

 

愛楽園と日本軍についてはまた別の時に論じたい。

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com