沖縄戦証言 愛楽園 (1)

作成途中

 

1944年

10月10日、十月十日 空襲。軽傷者数名、建物焼失八棟。

10月20日 上原信雄、愛楽園勤務。

1945年

1月1日 空襲。

2月23日 空襲。

3月1日 空襲。犠牲者一名。

3月10日 空襲。職員事務本館と倉庫焼失。

3月23日 この日から連日空襲。

4月5日 ニミッツ布告で米海軍軍政府設置。南西諸島、日本より行政分離。

4月中旬 800キロの大型爆弾、入園者地帯に多数投下。早田園長、遂に入園者の自由行動を許可。

4月23日 米軍、運天港より上陸。米兵愛楽園に進入。らい療養所と分り職員、入園者隊より出る。

6月 泉正重愛楽園事務長、米軍の命により屋我地島長に就任。

6月23日 日本軍の組織的抵抗終る。

8月15日 日本、無条件降伏。

9月13日 占領軍の公布した地方行政緊急措位要項により、入園者にも公民与えられる。 月 泉正重事務長退職、屋我地島長に就任。 月多田武一愛楽園事務長に就任。

※ 沖縄愛楽園開園3周年記念誌』(1968年)より作成。

 

戦争の中の愛楽園

教員<M> 兼尚(三一)

自治会役員<A> 正治(三六歳)

<M> 戦争前のわれわれ入園者の苦労と戦争にどういうふうに駆り出されたかということから話しましょうね。これは、まず第一に日戸収容というのがあるんです。これは軍の収容なんです。日戸という軍医の名をとって日戸収容といっているんです。

 

<A> 旦戸という人もいるし、日束という人もいるしね。どっちが正しいかな。

 

<M> この方が、まず愛楽園のほうが今度の戦争で戦場になると、そのために沖縄のほうに日本軍が進駐すると。そのためにどうしても在野の思者を一か所に集めなくちゃいけないと、いうことで、まず愛楽園においてはそのとき四百五十名くらいだったかな、最初の定員がー。

 

<A> そのくらいだね。

 

<M> その中に九百名ぐらい収容しようという計画がなされたわけですよ。四百五十名にさらに四百五十名いれようと、その態勢を整えよという至上命令がですね、園長のほうに来たわけなんです。園長先生は早田という第二代の園長ですけれども。そのために園としても戦争も入園者としてもですね、病者であっても戦争には協力しようじゃないかというようなことからですね。まず第一に戦争に協力する段階としてですね、園長が入園者に、自分がここにやって来たということは、愛楽園が戦場になった場合に、それをどう切り抜けていくかという園長の責任を負わされているから、協力してくれということなんですね。それで協力するためには園長になって来たわけですよ。それでそのときにですね、入園者の長老格というS(慰哉)先生ですね。それからNというて元伊江島の村長をなされておった方、それからNなんというたかな。

 

<A> ああ、なんというたかな。

 

<M> Nさんというてですね、あの方は青島領事館のー。

 

<A> そうですね、青島だったかな、領事館の間諜を、書記官かなんかしておられたー。

 

<M> 立派な人格の方だったんですよ。まずこの方々を呼んでですね、沖縄はこういう現状であるんだから、ひとつ協力してくれと、いうことをやったんですよ。ところが青木先生はその当時、宗教(キリスト教)の立場から、それから中原幸吉先生という村長あがりで、年とってしまっているし、根路銘さんという方は眼が不自由でですね、到底そのようなことには自分として協力できるかどうかという、あれがあったんでしょう。それで辞退したんだったかな。

 

<A> そうでしょうねえ。

 

<M> 辞退したとかいいましたね。それで園長が次に挙げるのはTという方で、この方は非常に血の気の多い方だったから、やろうと、引き受けようということで、引き受けることを申し出たわけですよ。で、Tさんはどういうふうにするかと。それで熟査会という自治会をですね、入園者で結成したわけですよ。その自治会というのが、まず人事部、教育部、作業部、食糧部という四つの部門だけをこちらにまかしてくれたんですよ。その四つの部門をつくって、いろいろと各部長やら、役員を入園者から選んで、自治会を組織したわけですよ。ところがその自治というのは、あくまでも、園長の命令を守って、人園者を治めるということですよ。これは自治会とはいわれないわけですよ。自治会というのはみずから立ちあがって治めるのですから。

 

<A> わたしはその頃これを半自治といっていました。

 

<M> さて、自治会を組織したら、まず人事の問短なんですよ。人小というのは人附受け入れの態勢ですよね。それをみんなで準備しなくちゃいけないと、それからもうひとつは作業部をつくるということ、それから食糧部を自分の手中におさめるということですね。人事部は入園者の規制であるとか配置であるとか秩序維持であるとか、そのほか人事関係があるんですけれども、その日戸収容でさらに四百五十名収容するということであるから、まず部屋のつくりか。たですね。食堂もとは一棟(一号棟)のほうですね、四室があって、その十三畳くらいの中に八名の人がいれてあったんですよ。それから中央に食堂があって、その食堂を部屋につくりかえると。それから居間の押入れなんかはですね、八名分だけしか入らないけれども、そこにさらに倍の十何名か入れなくちゃならないから、そのために部屋をつくりかえなくちゃいけまいということ。それから一番困ったのはですね、布団だったよね。このときに布団は四百五十名分しかないでしょう。それを回収させて、作業部のほうに命令して、これをうすっぺらにするわけですよ。そういうことですね、まず布団の用意―。

 

<A> 大変だったなあ。

 

<M> 支給品がですね、今まであったチリ紙やら、石けん類もこれも半分になるわけですよ。さらに食事。あの当時麦がいくらというふうにー。これは前の時代までは、昼食は必らず代用食ということになっていてですね、、ソーメンだったか、米以外のものであったんですよ。そのように食紙品の節約をしておったのに、この先生が来てから、四百五十名で食べておった食粒を九百名で食べるんだから―半食というてやったね。

 

<A> そう、最初は、ぼくら来た頃までは、二食あったんだが、それが一匹になり、さらに半食になったんだね。

 

<M> お椀の盛りの半分ですよ。一杯の半分、これ半食というんです。一杯になったのは食棟小情が恐くなったからですが。

 

<A> 早田先生がいらしてすぐだった。

 

<M> その半食でまあ食紙を使えということ、それで入園者はひもじいですからね。元気な人は取ってきて雑炊を食べるとか、茜をいたりできるんですが、不自由な人とか年寄りであるとか子どもであるとかはそれができないわけですよ。しかしそれであっても戦争のためにわれわれはやらなくちゃいかないと、まず食瓶、支給品、住宅、布団が切りつめられるということになってですね、それでもわれわれは戦争に勝つまではということでやったんですよ。それからさらに、北九州が、尿されて、こっちもみんな壊掘りがはじまったわけですよ。最初は庭の前に地盗塚といって待避壊をつくっていたですよ。ところがそれじゃだめだ、どうしても頑丈なのを作らなくちゃいけないということで、今そこにある防空壕ですね、丘のととろにある、それを作れという命令がよ、これ入園者にやれという。

 

<A> おそらく軍の方からきただろうと思います。

 

<M> そして園から自治会の方にきた。自治会はこれをどうしてっくるかと、ところがそれがですね、大変な労働ですよ。御飯を半食たべて、それに掘るものが鍬とか、つるはしはあったかなあー。

 

<A> つるはしはあった。

 

<M> そのくらいのものですよ。残りの連中は砂をリレー式で持ち運ぶのでー。それを動員するのに、入園者はひもじいし、ブツブツいうんですよ。仕方がないから、歯長はそれを駆り出す道具として、諸半斤だったか、おカユだったか。

 

<A> 最初はおカユね。

 

<M> 最初はおカユを支給して、それを働く人に食べさせよったですよ。で、働きえない者は食べさせなかったですよ。

 

<A> 園長ははっきりね、働かざる者は食うべからずと、はっきりおっしゃったね。

 

<M> だからおカユに誘われて、みんなが作業に出たんですよ。

 

<A> 一杯のおカユ欲しさに、不自由な人たちもみんな出ました。出なければならなくなったんですね。

 

<M> そして、戦争のが、園長から自治会にきて、自治会は入園者のほうに命令して、そのために元気な人はちょっとした畑をつくって器や野菜をつくり、弱い人たちは半食で我慢しなくちゃならんというわけです。それでもうあのおカユ欲しさに傷をつくり、手にこうして、身のなくなるまで。わたしもこうして手足がないのはそのときの過労によるのです。この

 

<A> さんもあの当時の過労と栄喪失調という悪条件のもとでですね、本病というものは何でもないんですけれども、その当時の肉体的・精神的なものでこうして限がみえなくなり、わたしのように手足がもぎとられるという状に追い込まれたのはその時の過労によるものですよ。

 

<A> 長先生がいらしたのは昭和十八年の二月だったか三月だったかなあ、そして十九年には、みんなが一生懸命になって壕を掘り出したが。

 

<M> 壕を掘った当時、人員の編成称えをしたんですよ。いわば働く者と働かない者の区別をしたんです。わたしたち学園があったんですけど、学園も不自由な方々を人れてしまってですね、子ども連れをひとつのの中に入れて敦空飛宿舎ということになってしまったんです。そこでわたしたちは村カーもらうために壕堀りをやる。わたしの立場は学聞の先生していますから、子ども三十名みている。この子たちを食べさせなくちゃ、ならないでしよう。で、子どもたちを動員して壕掘りの手伝いをさせるんですよ。そしたらおカユがもらえると。

 

<A> 子どもたちも草刈りをしたりしないと、食べさせてもらえないんです。

 

<M> だからわたしは、手足がこうしていても子どもたちを連れてって食べさせなくちゃいけない。そういうことで、戦争準備を、弱い人たちが動員されて、手足がもぎとられてる人も身が不自由になってる人も、やらなくちゃいけないということになったんですよ。戦争態勢を整えること、弱い人、働ける人、年寄りなどの編成替えをした。学校もそうです。青年団も結成して、青年寮をこしらえたんです。その中にわたしも、<A> さんも入って、そのときこの方は自治会の教育部長をしていたですから。

 

<A> あの頃は三十五くらいでしたか。

 

<M> 教育部長で、わたしは学校ですから、いわば上司になるわけですよ。わたしは、青年寮ができたときに、わたしは班長で背年たちを訓練するわけですけど、わたしは指導主任として、この方たちは統監部にいて翼賛会のほうに出勤しますからね。わたしは子どもたちと青年を受けもつんですよ。だから、そのときの教育というのが日本精神を吹き込むことですよ。日本歴史を教える、それからいろんな精神訓話をして鼓舞するということ、それから働かす、すなわち弱い人が出来ない嫁を、青年団の力で掘らす。不自由者の人たちは掘れませんからね。不自由者や病棟の人たちが避難する壕ですね、青年団の人たちがやらなくちゃならん。で、わたしはそれを引率して青年団で病棟壕を掘ってあげるんです。一般の人たちは、われがちに自分たちの嫁をつくっているんですから。少年や青年たちが掘った壕があそこにいまもあります。あの事務所のうしろの方の壕の中にですね、看板が立ててあるんです。この壕は少年や青年たちが病棟―。

 

<A> そうそう。

 

<M> そうした壕をつくって、それは自分の身を守るということもそうですけれどもー。

 

<A> みんなね、あとはみんな、不平不満でしたよ。そんなことまでする必要あるかというような気持だったですよ、最初は。

 

<M> 反対した人もありますよ。

 

<A> 落盤したらどうするかとかー。

<M> そのようにして壕ができました。それから、話をもどして、日戸収容のときの話をしましょう。日戸収容がきた時にはですね、日本の軍が沖縄の方に進駐してきた、それで民宿にするから在野の思者たちはみんな収容すると。その収容がですね、非常にひどかったんですよ。抜刀して、野良にいる人をそのまま連れてくる。そして軍刀でもっておどして、着のみきのままですよ。野良にいってるのは野良着のまま、何も持たさないです。あっちに行けば布団もある。衣類も何もかもあるというふうにして、御飯も充分あるといいながら、さっき話しましたように、布団は一人の半分、支給品もそうする、食べ物は半兵、そんな強制収容してきて四百五十名というものをワァーッと入れたんですよ。人権ってないですよ。半分の人権もない。

 

<A> 全然ありませんね。

 

<M> だからムシロ一枚に二人寝ろということですよ。荷物は廊下におけと。蚊帳も何もないんだから、そのまま投ろ。だからわれわれはそこに集められて、爆弾ジされて、皆殺しされるということをみんな予想していたんじゃないかな。

 

<A> 少くとも十・十空襲がはじまるまではね、まさか沖縄にくるとは考えてなかったです。ところが十・十空襲がはじまって以後はもう、みんな死ぬ覚悟でした。

 

<M> こっちはみんな、いわば徒食のほうだから、ここらへ集めて皆殺しにするだろうという考え方だと、これは支那事変で蒋介石がやったということをみんな知っておるからね。

 

<A> ええ。

 

<M> ああ、われわれもそうだろうという覚悟で、死というものは恐れなかったですよ。わたしたちは、精神訓話の中にもとりいれて教えこむんです。それが自分の身にかかったのは十・十空襲がきたときです。そのときは、ちょうど朝礼といって日の丸の掲揚、そのときは員と入園者だったですけども。入園者の方は雑多になって統制とれんですが、結局青年寮と学園ですね、毎日国旗掲揚、ラジオ体操ー。

 

<M> 遙拝もー。遙拝して、国旗掲揚して、それから御歌というのを歌うんですよ。それからラジオ体操でもして嘲食につくという時間割が決まっておりました。その朝礼を終えたときだったんです。空襲督報がかかって、この上のほうからたくさんの飛行機がくるんですよね。ところが戦争じゃないと思うもんだから、おーたくさんの友軍がきたというんで、みんな手を叩いて喜こんでいるんですよ。それから旋回しはじめて、対岸の運天港のところに爆撃がはじまった。高射砲がなった。それでもまだ演習だと思っているんですよ。入園者のほうでは。それからまあ空襲だからみんな壊の中に入ったんです。壕はそのとき、六、七分通りのできあがりでした。そこへみんな統制で避難したですよ。わたしは例の如く子どもたち三十名を非常袋かつがして指定の壕の中に入らせたんです。で、こうしてヒョックリそのマークをみたら、これが友軍のマークじゃないんですよ。米軍のものだ、敵機だということでみんな壕の中に入ろうとしたんだけど、若い青年の逃市たちは、いや迅天港の演習だといって、あそこへいってるんですよ、兄にー。

 

<A> 敵機が上空に来るまで空襲警報も何もでないんですよ。

 

<M> こっちは滅料だといって、あすこの沖につないである大きな船の中に爆弾投下するのを喜んで見て、丘に上っているのは手を打って見てるんですよ。ところが、それが一転して、ここのほうに射撃して来たんですよ。それからは、大変だと言って防空壕に入り勝負です。わたしたちは、子どもたちのほうだから平然と入れていたんですが、爆風よけはないわけです。わたしは常に子どもたちに、先生の指示に従うようにと、もし米軍が上陸してきたときには、あんたがた殺すだけの背酸カリは持っているから、心配するなと。先生の命令に従いなさいということで、わたしは中腰になって壊の前に立っていて、爆弾が落ちるのをみて目の前百メートル位のところですか落ちたんですよ。「バクダントウカ」というと同時に爆弾ポーンとやったんですよ。それと同時にわたしは壕の中にほうり投げられたんです。そしてこわくなって、それからはもー。そして上空から爆弾投下するときに、ギーッと気持ち悪いですよね。そのために、ここの施設のおもなところ、病棟、公会堂、中央共炊(共同炊事場の略称)、それから女棟七、八棟くらい。職員寮1、三棟やられたといったな。

 

<A> そうそう。

 

<M> そして青年たち五、六名くらい、逃げ延れた連中が、風や、砂なんかでケガ人が五名出たんです。ところが共炊はみんなやられたんですよ。たたきつぶされ、御飯が炊いてあったよ。昼御飯ですね。それが、みんなガラスの割れたものや砂がまじっていたり、これを配給してですよ、ガリガリしながら食べて。それでも食べないと大事ですから。その時は一日、空襲で追われました。終って帰ってみたら焼けてるところ、残っているところもある。それからこの九百名という人たちは、また再収容する。こわくなってにげた連中もおりました。脱走して故郷に逃げた人もおったんです。十・十空襲はそんなことでしたが、食糧はもうないもんだから、結局そのときに一番助かったのは、松田先生が牛を買って来てこれやったんです。これが御馳走だったんですよ。話が少し前に戻りますが、自治会の方では食糧困難がくるということを知ってたもんですから、食概挺身隊というのを結成しました。これは入園者の中で比較的壮健なかたがたで結成したんですよ。この方々が丘や山、庭のちょっとした空地を全部開墾してそこにみなカズラ(話)を植えたんです。

 

<A> ここの森の上も全部畑でした。

 

<M> そこの丘は桑畑だったのを全部倒してを植えたんです。その諮がちょうどみのる時分だったな。それで、食糧のないときに元気な人たちはその諾を掘って食うんですよ。それでは大変だということで、統監部の方で、その頃から協賛会を戦争態勢で統監部ということにしたんですよ。その統監部のかたが、カズラ少し取ってもすぐつかまえて、小さな】とって来てもすぐわかるという厳重な監視がきたんです。この挺身隊に入って働いた人は、うねを一間ぐらいもらえました。ところが、わたしや子どもたちは働かないでしょう。ないんですよね。仕方がないから、わたしは学園突撃隊というのをこしらえたんです。何するかというと、話のこやし、例えば海岸に寄ってくる薬を拾う。朝晩草刈りをして推肥にして、増産の加勢するということで、ようやく話が少しずつもらえるようになったんです。

 

それから、教科書の話をしておきましょう。教科書がないんですよ。で、早田先生に、先生を通じて教科書を買おうといったら、今時分そんなものあるか、先生は自分で作れと、いうことで、子どもでも働かす他ないということで教育はできないんですよ。それで朝晩は草刈作業、昼のときに食堂へつれてって古い教科書を、那覇の甲辰学校から、使い古ろしたものを寄贈してもらって、それを使って教育しておったんです。だから働かす、そして教育するということで、わたしたちは教育の道からはずれなかったんですけども、この戦争がいつまで続くか判らないもんですからー。まあ十・十空襲のあとは、間けつ的にやってきて、B4が旋回して爆弾おとして逃げていくとか、そんなことでしたが、いよいよ本格的になったのは翌年の三月だな。

 

<A> 三月のね、二十三日から。

 

<M> 三月の二十三日から本格的な空襲やってきたんですよ。それで残ったうちを全部やられちゃったんです。わたしたちはみんな壊の中に避難、昼はしょっちゅう旋回でしょう。

 

<A> 三月二十三日から四月二十三日まで一か月間壊生活です。

 

<M> 塚生活は、昼中はそこにじっとしているんです。夜はでていって食事炊くわけです。食糧は職員側にあるものを、もう危いからといって、入園者の嫁の中に疎開させて、御飯だけ炊くんです。一日に握り飯一個だな。

 

<A> うーん、二個ずつ渡ったね。

 

<M> ひとつはとっておいて明日の分、ひとつはその晩食べるわけです。

 

<A> だから、そのころはむしろ握り飯二つだから、そのちょっと前よりはよくなったわけです。

 

<M> ところが、副食は何もないんですよ。御飯ばっかし。だからその腕で炊くでしょう。そして各人に二個ずつくるんです。だから寝る前に一個食べるんです。あとは明日一日中のもの。だからひもじいからもう一個食べる子もおったよな。

 

<A> ああ、ぼくらもう待てないからねーー。

 

<M> それでおかずもないで、一か月生活です。そしてまだ塚掘らないところがありますから、夜間はでていって壕堀りです。わたしたちは子どもたちで貫通壕掘らすといって、着物や道具を疎開さすといって、夜は塚掘り、食事づくり、洗濯をする。昼中はもぐら生活です。それでジメジメした中でしょう。私事にわたりますが、わたしは足も手もその頃は大丈夫です。で、子どもたちを連れて避難するときに、子どもの非常袋を家に残しているのがあるというので、これをかついで逃げるときに、盤の穴に足をつっこんで捻挫したんです。それが壕の中で、医者はいないし、いてもそんな治療はできないわけです。だからわたしは、この手は敗血症になるし、足の方も敗血症になって、それで自分は死ぬもんだと思って壕の中でじっとしておったわけです。そうしているうちに子どもたちが、ひもじいもんですから、炊事場にいって、おこげをもらってくるんですよ。それで嫁の入口にわたしが寝ている枕もとを越えるとき、このおこげを落としたんです。これどうしたのか。炊事のおじさんからもらってきました。こういうものは一人だけじゃなくて、友だちみんなひもじいんだから、みんな食べさせなさいということを話したら、はいといって、そのおこげをもらうのにみな整列してるんですよ。

わたしは助からんものと思っていたんだけれども、みんな友だちのお陰で生き延びたようなことです。ところが、その壕の中で死んでいくと、火葬もできないでしょう。そのとき、この<A> さんは教育部のほかに葬式係ですよ。ひどいことになると、もっこに入れて担いで、穴掘ってそこに埋めてくるんです。

 

<A> 最初のうちはですね、焼け残ったうちの壁板や床なんかはがして、それで棺桶は作ってましたがね。ところがだんだんそれもできなくなりまして、作る人もいないし、材料もないし、しまいにはもっこに入れて、担いでいって、穴を掘って埋めましたがね。今でも覚えていますが、大島和光園にいかれた杉田先生、ちょうどぼくが二、三人で死体を運ぶときですね、この先生にぶつかったんですよ。先生おっしゃるには、<A> さん、そりゃあんまりひどいじゃないですかと、いわれたのをまだはっきり覚えてます。でもどうにもしようがなかったんです。それ以外にー。

 

<M> 二十体余りあそこに埋めてですね。

 

<A> 二十年に入ってからはですね、一日に二、三人。それから壕生活三月二十三日からあとは四、五人。一番多いのが七人ですよ、一日。

 

<M> とれを教育部の方々がみな処理するんですよ。友だちみなみな壕の中にいて隠れているんですから、死んだといったら教育部がいって、死人を処理するんですよ。これこそ大変な仕事で、夜なんかですね、昼は自由にでられませんから、夜いく。こうしてやってー。それからわたしたちが非常に苦労したのは、塚からでてからです。それまでは食糧がだせたんですが、嫁からでてからわたしたちは食柵がなくなったんですよ。食いつぶしてしまって。子どもたちをどうして食べさせるか、子どもたちをもう分放させようと、他の人を頼るより仕方がないと。ところが引き取り手がないんです。こっち親がおってもですね、ああもう先生がたと一緒だから一緒にさせとけといってですね、かえって預けるんですよね。しようがないからわたしたちとしてはですね、もう分散して先生たち三名で、もう何名ずつでもひき受けようや、残る元気な若い連中は青年寮に入れてしまえ、もう少けない人たちだけにしようと思って、で、わたしは三名か五名かの逃中をひきつれてですよ、嫁から出たんですよ。ところが壊から出たときはもうみんな家をこしらえてなんかしてですね、自分でいいように雨をしのぐだけの小屋を作っておるけど、子どもたちは作れないですから、一般が壊から出てあとまで、わたしたちは塚に残っていたんですよ。そうしているうちに、わたしは手が敗血症になって、もう身が動かない、で、子どもたちをひもしくさせちゃいけないということでですね、まずアーサよ、この野のアーサーズズムとかいうモウアーサよ、芝のところにあるもの・ですね、これをとらすんですよ。それからこれを洗って、そしてバケッいっぱいくらいの、それほとんど水ですからね、それを一食分にするわけですよね。それからまた、雨ふりのあとはよくカタツムリがでますよね。これを集めて、その辺にいるカタツムリです、あれがまたおいしいんですよね。あのときはもうおいしかったです。それから草はですね、わたしたちは今学校あれだから、子どもたちに十字科植物はみんな食べられる、刺科植物は食べられないということでですね、それから海にあるハマヒルガオですね、あれのほうまでも食べられるといって食べさせた。それからもっとひどいのになるとね、あのパパイヤのですね、あれも食べてみた。それから男の速中はソテツ採ってきてをするとね、かすがでるんですよ。そのかすをまた食べるということですね。だからあんときの草が、まあツワブキなんか当然おいしい草の中にはいっているんですよね。あれなんかは。

 

それからぼくたちは統監部の業部の食紙係の方からもですね、まあなんとか子どもたちだけでもひもじい思いをさせないようにということであったんですけど、それでも自分たちはー。ええ、もうそのときもう海岸ばたにいったらアメリカーの残城いろいろ流れてきていたんですよ。これをまた探してきて食べさせるということもしてー。だからわたしたちは食べることについては、藻や草やら、それから食べられるものは全部やってみたんですよ。一番おいしくなかったけど、股流しょったのは、あの例のソテツのかすですよ。あのすったあとで、あれをまた乾燥させる、デンプンじゃないですよ、かすですよ。デンプンをとったあとのかすですよ。あれをですね、売っとるところから買ってくるんですよ。あれがもう腹は満っんですよね、あれは。そのかわり栄養はないんですよね。すぐひもしくなりよったんだけど、まあそういうようなことでしたけど。おとなの連中たちでは、あれでしょう。この野にいったら酷がある。蔓がある。それから野草があるということを予想しますけどね、子どもたちは何もできないんですよね。で、そういうふうにして壕のときには、ああしたことで、ポンと死んでしまうし。一番多く死んたのは壕からでてあとですね。

 

まあそれでその壕で前後して一か年ですね。統計みたら、あの開園当時のですね、一か月九名か、十名で多いくらいですよ。それが戦後がですね、三十何名か、四十何名かというふうにしてですね、二百名余りの方が亡くなっちゃったんですよ。それがですよ、おもしろいことに、早田園長が、ぼくは救ライに大きな功績を残した、何故かというと救ライということはライを撲滅させることだから、思者を一人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。だから自分はその最初の園長、第一代園長はその二か年か三か年の在任中で三、四十名しか殺さなかったけど、ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよね。それを聞いたときには、われわれには人権はないのか、ということですよね。

 

<A> 冗談だったんでしょうけども、自分たちにはどうもー。きつく響いたですね。

 

<M> 二百名殺したから自分は金鵄勲章だということですから。そういうふうな中においてわたしたちはきたえられてきたけども、それでも耐えてきたんですよね。わたしなんかに、あの人、きついこと言われて、軍法会議にまわされたんですよね。ということは、最初に手を切ったんですよ。腐って臭くてですね。こっちの左手首から切ろうじゃないか。いや切らさない。ぼくは足でさえ不自由なのに、これ切ったらどうするか。ダルマにならない、切らさない。そうか。じゃ、切らんでおけ。というととで済んだですがね。次に足の方が捻挫したもんだから、こうしてるんです。「壕から出てじきです。

 

<A> 二十年の五月だな。

 

<M> はっきり覚えてるんですがね。で、足をみせたんですよ。そしたら、この男まだ生きてるのかというんですよ。新があったら殺しておきよったんだがなあ、というのですよ。火葬する薪がないんですよ。薪がないから生かしておくんだが、薪があったら殺しておくんだったと。それで、お前生きておったのか、というんですよね。まあ、それ冗談だったんでしょうがね。だから、そのことが癪にさわるもんだから、先生、あんた救ライ園の医者じゃないか、人間、そのライを扱っている人がそんなひどいことを言うのか。もうひどいことをいうたからですね。だが、わたしなどは普通なんですよ。たいていの人だったら、あれですよ、ひもじいか、おいで、ひもじくない薬あげるから、と、そういうとと言ったです。それで爆弾にあたって怪我したというでしょう。すると、さんざん叱られるんですよ。なんで敵の弾にあたってからに、日本の薬を使うという国城がいるかというんですよ。

 

まだもっとありますね。ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落さしておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかとー。

 

<A> そのことについてはね、あの頃は総務部、自治会の総務ですよ、高嶺さんという方が総務でした。その方に、わたし相談したんですよ。グランドがちょうど、今二階延てがあるでしょう、あれの一番北あたりでしたね、相当大きなグランドがありましたから、そこに何か表示しましょうか、と。そうだな、やろう、と言うんでー石灰つくってましたね、その石炭でどうにか表示しましょう、といって。することになっていたんですがね。ところが当日は、園長先生の祝いか何か知りませんが、やめようと。表示したためにここに爆弾が落ちなくなることはいいことだけれども、しかし戦っている兵隊さんたちに対して済まないじゃないか、やめようといってやめたんですがね。

 

<M> だからそれで、もう爆弾が落ちるだけ落とせー。

 

<A> ああ、あれは園長からの命令があったのかな。

 

<M> それでそういうことで、ここに集中的にですね、落ちたんですよ。あんときは大変だったなあ。壕の中に何キロ爆弾だったか、百キロといいよったか、大きなやつが落ちて、

 

<A> あれ。八百キロー。

 

<M> 八百キロ。あれが落ちてきてからに。

 

<A> 壕じゃなくて、そのほうぼうに落ちた大きなやつよ、あれ八百キロって。

 

<M> あれが落ちてきてですね、もうそんときは、もう壊滅ですよ、園がね。ほとんどもうないんです。だからそういうふうな園長のもとできたえられたから、わたしたちはまあ、人間性があるのか、人権があるのかないのかわからんくらいに、虫けらみたいに実は耐えていたんですよ。自分ではね、もう虫けらと同じだと。ひとつには国家に対して済まないというふうな良心的なあれがあるもんですからね。そういうことに忙れていたんですよね。だからそれに対しても、わたしとしては何というか反感というものはなくてですね、もう宿命だろうと、わたしたちに課せられた宿命じゃないかという考え方に諦観するほかなかったんですよね。しかしああした戦争の中を切り抜けるために、この先生力がそれだけの毒舌でも使わなければ、みんながいたたなかったんじゃないかと、わたしたちは全員思ってですね、まあ解釈しているわけですよ。というのは、壕を造ったために犠作者が一人もでなかったこと、あの人が半食のおカユをね、師にして造らしたということ―。人留者の全部が身を守るということができたんだし、またあれだけの食紙を確保するために、厳重な監視をださせたということも園長のそうした命令が徹底してあったんだから、それでいいじゃないかということで、わたしたち、普意に解釈してですね。まあ先生のあれは!しかし、いわれた人たち個人個人では、秘してしまおうじゃないかというぐらいのところがあったんですよね。ところがこの先生はまた、こんなととも言うんですよ。朝鮮人はすぐ反抗するけどね、沖細はほんとにやさしいし、かわいいもんだというふうなことも放言するんですからね。もう朝鮮人であると、そのくらいだったらですね、もう集団で刃物を持って殺すと、殺しにくるというんですよね、職員の話によると。ところが沖縄の人はね、そのくらいのことで、かわいいもんだというんですよ。なめられたというのか、事実の話なんですよ。そんなところでわたしたちはやってきたんだけれどもー。

 

今、考えてみると、この病気は癒っているということでみんな元気で帰っていくんですが、それを見たときに、わたしたちは戦争中にそうした後遺症ですね、この方なんか目がやられてしまうということで、手足やられてその後遺症で社会復帰できないんですね。だからわたしたちは現在においては、戦争からくる犠牲者だというんだけど、誰も取りあげてくれないんですよね、こういう問題は。わたしたちは社会と一緒に苦労したんだと、また同じように戦争に力したんだとー。壕を掘る、食種を増産する。また屋根のほうですね、アダンの葉っぱを切ってですね、それを上にのせて、敵の高空からですね、偽装することも、みんなこっちがやるんですよ。だから食神にしてもですね、こっちのほうが全部確保するということで、もう自ら歯を守ったという自負心もあるわけですよね。わたしとしても、こうして手足がなくなってもですね、子どもと孫のためにというふうな、ひとつの自己満足もありますけれどもね、まあ戦争を振り返ってきてみて。しかしそれをぼくたちはそういう体験をしてですね、これから新しい園、新しい旅友たちには、ほんとにここは愛の国であるということをね、公設しようということで、現在も努力しているわけですよ。だからあれがなければ、そういう気持にはなれないんじゃないかと思うんですよね。

 

わたしは特殊な学校教師であったという立場と、その当時戦争のときの指導者であるということだったんですね。ここにいるときより、ここから出たときに死んでいった人たちが、その病棟の中にいる人たちのいうことがですね。死の間際に、看護婦に願うのはですね。カンラバージューシー(カズラの雑炊)食べてから死にたいと、油味噌食べて死にたいと、必ずぬ間際にはですね、食べ物ですよね。もう腹いっぱいあのジューシーメー食べていきたいなという人もおるしね、それからまた話を胸いっぱい食べたいとか、あのカンラバージューシーは一杯域死のあれですよね。あれを食べてから死にたいと、そして、ある人のときは病気が下痢ですよね。それからもう腎臓をやられておるのと、呼臓というのは食べ物が食べられないでしょう。だからこの人たちは水飲んでいけないというのに雨だれの水を飲むんですよね。もっとひどい話を一つやりましょう。これはわたしのともだち、わたしは、あのむこうの校舎が一番不自由な不自由舎になったんですよ。わたしは学校の教師をやめてそして松田先生にお願いしたんですよ。人間一杯最低の所にわたしは行きましょうと。そのとき、わたしは不自由舎に入ったんですよ。不自由舎といったらこの世の地獄ですよ。ということは不自由舎では不自由な男女がですね、ひとつ部屋に入れてあるんですよ。そこのほうには付添というのがついているんですよ。青年の若い方々がですね。で、その人たちがご飯を持ってきたらその人がつぐんですよ。すると男も女も、あれに実が少し多くはいった、これに少しいれたというふうな感じでみてるんですよね。そして配給できましたから取って食べなさいといったらワーッと入るんですよね。そして入っていってみんなご飯、重いのから取るんですね。そしてあれの中に実がたくさんはいっていると、みんなワーッと入ってくるんですよ。そういうところもですね、地獄ですよね。そしてほかの人たちは今いうように畑にいって艦を取るでしょう。不自由な人は食べていけないからですね、ぬすんでくるんですよ。だからどろぼうは不自由者だ、ということで人間扱いされないんですよ。人間扱いされない病者の中でさらに人間扱いされないんですよ。その中においてわたしがつくづく感じたのはですね、わたしの棟に若い青年がいたんですよ。そして絵を並べるんですよね。そしてみんなケチをつけているんですよね。そうすると、さあできました。取って下さいといったらワーッと取るんですよね。ところが目の見えない人は隣りの人にとってもらうけれども、若い子はですね、わたしに同情して、先生わたしが取ってあげましょうな。はい、そしてわたしのものを取ってあげてから自分の物をとろうとしたら、一番まずいものですよね。悪い物をとっちゃったんですよ。そうしたらその子が、ラーサヤあの人たちの物取るといってわたしは趣物があたったさ、というふうにぐちるもんだからよ、わたしはもう自分のものやってですね。諾さえもこういうふうな取りあいですよね。そして、罐詰の配給があるというのに対してですね、これは食べたいということですよ、いやこれはダシにしか出来ない食べさせないというんですよ。それから明りがないもんだから、夜がきたら、ねちまうんですよ。わたしはそれを見てですね。少しは不自由舎でも明りが欲しいんじゃないかなと思ってですね、そのころに一番換金になるものがタバコですよ。天久さんがやって来てタバコくれるんですよね。こと不自由舎に来て、何かの場合にタバコくれますよね。おじいさんおばあさんに一本ずつでもいい、ほんとにあげますよ。わたし自身タバコ吸わないからもらわないんですがね、もらったそのタバコどうするかといえば、タバコ一本とですね、お一斤と交換するんですよ。米一合とも交換するんですよ。で、わたしはもうそういうものは袋に入っているから間超はないけど、明りがほしいもんだから、友だちとタバコ一個とですね、石油一合と交換したんですよ。で、それを明りにつけたんですよ。そうした中でですね、不自由者という、最低の線の中にですね、そこからぼくは、われわれは人間性を見いだそうじゃないかということで、女と男の子とで集めて、今から食事する場合には代表して出してこいと、そして付添が配るものをみんな喜んで食べる、信頼しなさいと、付添を信頼しなさいということを指導してですね。それじゃということで、女の代表が来てですね、あんた方も同じだよ、男のほうばっかし実を入れて女のほうには悪いものいれるかということの監視ですよ。それを見てからですね、よしといって、それから順ぐりで付添に行って、手伝ってきなさい、こんなことで勝負したら大変だということで、そうした最低の生活の中に取り組んでいってー。

いくとわたしのように、手足のない、こうした者はですね、もうとっくに死んでいるんですがね。この<A> さんといういい友だちがいたるんだから、この方々がわたしのためにですねいろいろと食紙をもってきてくれたりしてですね、ようやく生きのびたんですよ。それでわたしは足を切らし、このうえ足を切らそうとしたが、鎖骨ですね、そこだけ切って上にあがっていくのをとめたんですよ。そのときにあのう、何とか化膿止めの薬があるでしょう。何とかいう化膿止めのアメリカの薬―。

 

<A> ああ何といったかな、あの白い大きなやつよ。

 

<M> あれがでてですね、化膿止めが出ていたからわたしの足も何とか治ったんですよ。それでもわたしは両足切られて、今こうしてでもですね、生きながらえてきたということは、わたしの周囲には良き友がおって、良き人たちがおったために生きながらえてきた。ところがわたしと同じような方々は、もうほとんど死んでしまったんですよ。もう二百何名の中にもはいりよったんですがね。食艦がないでしよう。栄養失調で死んで、だからわたしはさっきは言い忘れたんだけど、わたしの友だちで、小学校の友だちがひょっこり山からですね、避難してきて病気になってそこの軍の赤十字におったんですよ。三十年か四十年前の小学校の同級生だからめずらしくて、話したら、これも不自由で、T・Bを思っていたんですよ。(爆から)山から避難しながら来ていたんですよ、垣本という人がね。で、入って来たらね、この人は片足を切断して、といっていたんですよ。そしたらイチュマンヤー(魚をとる家)にいってね。この園の中にね、魚取る人たちがいるんですよ。あすとは魚と話を交換するから、食楓多いですよね、あすとに語食べにいくんですよ。

 

<A> ああ、あのセイゾウたちがイチュマンヤー。

 

<M> そうそう、ってですね、その魚を売ってー。で、この方がいてですね、ウムグァー(細い母諸)ですよ、これをくだいていきよったんですよ。それでお腹満たすんですよ。ところがT・Bでしょう。とうていあれですよね。その子が入ってきてからね、いつも喚きよったのはあの解造配給が食べたい、テンプラが食べたいといつもいうんですよね。ところがこれがもうしょっちゅうなんですからね。ダシにしか使わないからね。食べたことないんですよね。まあそのとき、食概はあまりないですから。それでこの子が夜中ですね、わたしは頭の上で見ておるもんだから、よくわかっとるるんですから、いやにガラガラするもんだからね、安眠妨害だと叱ったけどよ、翌朝になったら死んでいたんですよ。栄養失調でT・Bでしょう。ひもじくて、とうとう枕元においてあった罐から自分の小便飲んだんですよ。栄養失調って夜通し小便がよく出るもんでですね、枕元に空罐おいておくんですよ。あれは殺したようなもんですね。あの悲惨なあれが、何といいますかね、友だちとか、ほんとにあのときの食拙。それが後からですね、豊かになったときにね、ぼくたち友だち同士ね、今まで垣本くんが生きておったらねえ、これも食べさせるのに、これも食べたいというておったなあ、と言うたところです。あのとき、ないときにとうとう死んでいっちゃったんですよね。だからわたしもね、友だちに恵まれなかったらああなりよったかなあと思ったりしたんですがね。わざわざ端っこから端っこのところにいってですね、ウムグリーもらいにいきよったんですよ。あれは何かもうほんとに、捨てるもんですよね。もうほんとに、あの当時のことをいうたらね、湖から流れてきた何か知らんような、ぷくぷくしたもの、丸いようなものもね、食べてからに、やっておったときもあったんだけどね、ほんとあのときはもうー。

 

<A> 空敗というものはですね、食物が豊かになったからといって、すぐに治るものではないですよ。一~二年、二~三年続きますね。

 

<M> そうよねえ。

 

<A> わたしはいっぺん戦争後、まあかなり食撤事情がよくなってからの話ですが、あんまり腹が減るもんですからね、毎日、いっぺんでもいいから満腹感を味わいたいといったら、わたしの隣りにいた友だちがですね、いっぺん満腹してみようじゃないかというので、その頃からは諸なんか売りに出す人がいました。自分で作ってですね。よし、じゃきょうは満腹しようやというんでですね。財布の底をはたいて、話を五斤。それ以上或うお金はなかったものですから、五斤だけ話を殴って来たんですよ。で、それを炊いておいて、それから、今食べるんじゃないぞといってですね、夕食をすませてから、それからこの番二庁半ずつ分けて食べたんですよ。ところがそれでも、全然満腹感を味わえない、これはいかん、じゃおま元のもというんで、当時、黒砂糖もあったさあ。

 

<M> 黒砂糖もあったよ。

 

<A> どこからあったのかな。黒砂糖をまた一斤買って来てですね、それを半斤ずつ分けて食べたんですよ。ええ、そのすぐ後でー。それでも何ともなかったですね。あればいくらでも食べられるくらいですよ。

 

<M> わたし二斤食べたよ、諸。友だちが二斤諸持って来てあったんですけど、いっぺんに二斤食べたんですよ。

 

<A> そんなに食べても平気ですよ。

 

<M> 平気ですよね。

 

<A> 平気でした。

 

<M> 鍋いっぱい水入れて、カタツムリ人れて、そしてそれをですね、味つけるのはですよ、さっき話した砂糖と、塩ですね、少し入れたら、いい味がつくんですよ。あの旅にですね、塩そのままじゃ、にがくてだめだから、これに黒砂糖を少しいれたら、おいしいおつゆが出来るんですよね。それをしたらですね、このバケッ一杯のものですね、子供、一人は十五、六歳と一人は何臓か、三名でですね、一杯たいらげましたよ。それで満股感しないからね、水ばっかりのんでー。だからわたしが一群御馳走というのはズズムであるとか、あるいはさっきいったカタツムリであるとか、ああいうのが一部―。さっき話した黒砂糖ですね。あれはわたしたちのところでは非常食想として持っていましたからね。あれに塩よ。そのままじゃちょっとあれですからね、塩では。おつゆたいたっておいしくないから。少し砂糖いれたらですね、いい味がするんですよ。黒砂糖とは重宝なもんだなと思ってですね。

 

<A> だから今でもね、忘れられない恥かしい気持にもなるんですがねー。愛楽園にはもう爆弾が落ちなくなってからの話ですがねアメリカさんはもう上陸していました。こちらには毎日というほどですね、どこか向こうの羽地あたりからやってきたんだと思いますけどね、兵隊が毎日来ていました。アメリカさんがですね。その頃海岸を歩いていたんですよね。ぼくの前から仲宗根さんね、あれ歩いていたんですよ。そこに箱が落ちているのを、携帯食糧ですね。ちゃんと頬をかけられたですね、水のもらないやつですよ。それが落ちているのをあの人は見なかったんだなあ。そしてぼくが見つけた。ええ、目はその頃はまだ何ともなかったです。そして何だろうと思ってあけてみたらですね。角砂糖や、それから何といいました、煎餅みたいなもの。カンパンもはいってましたし。いろんなものがはいっているんですよ。ちょうど、あのう、さっきの話の領事館に勤めておられた根路銘さん。あの人だけがですね、塚から出られないで、あのとき目が悪かったんですから塚にいらしたんですよ。よし二人で食べようと思ってね。もうすぐ引き返して、喜んで行ったら、ちょうど根路銘さんが壕の入口の前の爆風よけに腰かけておられましたからね。はあ、いいのを捜してきましたよといったら、どうしたんだいというから、いろんなおいしいものがはいっていると―甘いもの、お栄子なんかが入っている、そうか、そうかというんで、二人で食べようとしとったらね、タカちゃんとセツちゃんがそこに来たんだよ。

 

<M> 学校の子どもです。生徒ー。

 

<A> わたし、みんなからおじいさん、おじいさんと呼ばれていましたから、当時。おじいさん何してるのと来たんですよね。せっかく根路銘さんと二人で食べようとしているのに、困ったやつらが来たもんだと思って。分けてやらないわけにはいかんですからね。しかたがないから。二人で食べようと思っていたのにね、四人で食べたんですがね。あのときはもう、どうも変なところに変な子どもたちが来たもんだと思ってですね、顔には出せないけれども、しゃくにさわってました。今思いだしても恥かしい気がするんですけどね。

 

<M> 根路銘さんは師範でるときにも一、二番郡で出た方ですよね。それから東京にいって、青山学院か出て、あれで苦学なさってですね、領事館の外交官試験も合格して、あのとき時局の領事館にですね、勤務中に発病して帰ってきたんですよ。そしてあとになって目が見えなくなって。あのとき米たとき、すこしは目が見えましたけどね。それでもう戦争中は見えなくなっちゃったんですよ。英語がうまいんですよ。だからここの園長先生がね、この人をアメリカーの前へ連れて行かなかったんですよ。というと、その人にいうたら何かせがまれはせんかというあれでね。それで根路銘さんのところに連れていかなかったんですよ。何か持っていたら、ギブでもらえるあれがあるんですからね。米軍と接触させなかったんですよ。だからね、とっても可哀相だったですよ。で、それが学校のですね、壕の隣りにこの人、不自由者の壕がありましたからね、で、いうように壕の外で日なたぼっこなんかしているときがあるんですよね。子どもたちはさっき話したように、業の手伝いしていますから、特配があるんですよね。特配といってもね、キビ植えているでしょう。そのキビをね、いくらかまた切って子どもたちの間食にあげるんです。あるいはまたカボチャの犬をですね、何かくれるというふうにしてあったんですよ。で、そのキビなんかのね、子どもたち、特配があって食べていると、その音聞いて、根路銘さんが、おい、何食べているか、何食べているのかといっても、誰もいわないんですよね。分けてあげるのないんですよね、キビでさえも。

 

 

 

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  1. 厚生労働省ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』第十六 沖縄・奄美地域におけるハンセン病政策