沖縄戦証言 本部半島 (1)

 沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

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沖縄戦の経過

 

本部の戦争体験 - 崎本部

本部町崎本部仲地文子(十七歳)

青年学校と徴用

私は一九四三年(昭和十八年)に学校を卒業しました。女学校に行きたかったけれど、すでに母は亡くなっていたし、病弱の父をかかえていたので進学どころではなかった。

 

人々の生活は戦時色で塗りつぶされ、村の婦人たちも毎月一日には約二キロも離れた部間権現へ出掛けたし、また十五日には村の拝所で遠い戦地にいる夫や息子たちの無事を祈っていた。

 

その頃私たち青年は、学校を出ると同時に青年学校に通わなくてはならなかった。そこに青年学校担当の教師が数人いて、授業は週に二度ずつ、正午過ぎから四時間ぐらい行なわれた。授業内容は、時局に関することと青年の心構えや作法などが中心をなしていた。だが、戦争が切迫してきたのでいつしか青年学校もなくなり、私たちは連日徴用に駆り立てられることとなった。

 

まず最初は伊江島へ行くようにという命令であったが、父の看病を理由に一応それは断った。するとある日、青年学校が私のような者を数人あつめて、「君たちは国賊か。みんなで頑張っているというのにいつまで家庭に引っ込んでいるつもりだ」ときつく叱られてしまった。それで悔しさのあまり徴用に応ずる決意をして、当時真部山にいた宇土部隊へ行くことになった。そこには約一〇日間いたが、作業内容は殆んどモッコ担ぎと草刈りであった。兵隊が壕を掘ると私たちがその土を運搬したのである。

 

だが、ちょうどその頃、眺部隊という船舶隊が崎本部の学校に駐屯することになったので、私たちはこんどはその部隊の作業に出ることとなった。村の近くで壕を掘ったこともあったが、安和の山の麓で兵舎にのせる茅を刈りたこともあった。このようにして、何口も何日も弁当持参で通ったものである。

 

忘れえぬ空襲の日の記憶一九四五年(昭和二十年)三月二十二日の空襲について私には忘れえぬ悲しい記憶がある。その日はたまたま、当時女子師範に行っていた友人が帰省していて、終日二人で語り過ごすはずであった。だが突然空襲は、私たちのそのささやかな期待をぶち壊し、恐怖のどん底に陥れた。

 

米軍機は海の彼方から低空で飛んで来て、丘の上にある学校付近を攻撃し始めた。ものすごい爆音をたてて頭上を旋回している米軍機を見上げながら、私たちは壕の中でただブルブル震えていた。その恐怖の中で彼女は、「十・十空機のあと、学校に戻って来るのが遅かったために、みんなの面前で先生方に国賊呼ばわりされた友人たちがいたので、私も明日は那覇に帰らなくてはならない」と心配そうに話していたが、その翌日急いで那覇に帰って行った彼女は、あれっきり二度と帰らぬ人となってしまった。

 

その日の空襲があってから、人々は急いで避難を始めた。私たちも村から三キロも離れた山奥のウッカーという所に避難することになったが、そこではじめて猛烈な艦砲射撃に見舞われた。たしか四月上旬のことであったが、その艦砲射撃で数人の村人がやられた。老人も少年も結婚したばかりの青年も、ほんの一瞬の間に死んでしまった。

 

食糧をもとめて

それからは来る日も来る日も猛攻撃が続いた。やがて米軍上陸の噂も広まり、人々は恐怖に怯えていた。だが、危険をおかして暗い夜道を食糧を求めて歩き廻わらなくてはならなかった。そんなある日、十二歳の腕白な少年が村の近くのハニクの浜から罐詰の箱を担いで来たことがあった。それを見て驚いた大人たちは、その少年に疑惑の眼を向け、きっとスパイにちがいないと怒り出す人々もいた。米軍が上陸して来たのはその翌日のことであった。すると人々は、その少年に対する疑惑をいっそう深め、「なぜアメリカーたちを連れて来たのだ」と詰め寄るなど、一時は険悪な空気につつまれたものであった。それから人々は、もうそんな危険な場所にはおれないということで、みんなちりぢりになってしまった。私たちもすぐに移動を始め、ウバサマタを経て八重岳の麓まで逃げ廻った。だが、八重岳周辺も艦砲や銃弾が激しく飛び交っていて、かえって危険だと思われたので、再びウッカーに引き返すことになった。

 

そうこうしているうちに食糧も殆んど尽きてしまった。チンラガーまで行くと食糧があるらしいと聞いていたので、まだまだ若い女では危険だからと父が止めるのを振り切って、大人たちについて行くことにした。宇土部隊の食糧倉庫の焼跡に着くと、そこには表面だけ黒こげに焼けた米俵が山のように積まれていた。そして付近一帯の避難民が城のようにそこに群がって来ていた。

 

だが、間もなく私たちは米軍の一斉射撃を浴びてしまった。あまりにも多くの避難民が集まりすぎたために発見されたのである。私たちはあわてて山の中に逃げ込んだ。そして帰る道々実にたくさんの死体が転がっているのを見た。村の人もそこでまた数人亡くなったが、そのなかには私より一つだけ年上の青年の無惨な姿もあったし、また食棍を担いだまま土手にもたれるようにして死んでいる老人もいた。

 

占領軍の蛮行

六月になると、食糧を探しに村へ下りたまま米軍に捕まってしまう者も多くなった。避難小屋の付近にも米兵が出没するようになったので、避難民の間でもいつまでも山の中に隠れているとかえって危険だから、そろそろ下山しようではないか、という声が強くなっていた。そんなある日私たちは、おりしも山に登って来た米兵らに包囲され、付近一帯の避難民とともに捕勝となってしまった。そして村からトラックに乗せられ、羽地の収容所に連行された。

 

それから数か月間、私たちは伊差川にいたが、米などの配給がいくらかあったとはいえ、それだけでは全然足りなかった。それで人々は、各自の村へ食糧を取りに通わなくてはならなかった。私もまた、村の男たちについて約二五キロの道を往復することとなった。

 

当時崎本部には焼け残った家が数軒あった。村に着いて一冊の大きな家に入ると、そこに老婆が一人でとり残されていて、さも苦しそうに呻いていた。水を飲ませてくれということだったので、一緒に来た男の人がその老婆をだき起こして水を飲ませてあげた。すると突然、はるか下の方から指笛の音にまじってヤンキー特有の喧噪が伝わって来た。

 

一緒にいた男は私に対して「気をつけるんだよ。アメリカーたちは女を探しているんだから、見つかったら大変だぞ」と教えてくれた。そして老婆をそこへ寝かせて、私たちは急いでその家の裏から逃げた。そして夕方まで焼け残った家の隅っこに身をひそめていて、あたりが暗くなってからようやく村を脱出した。その日は、どういうわけか一日中、米兵が指笛を鳴らしながら村の中を歩きまわっていた。いわゆる強姦事件が発生したのは、その晩のことである。

 

その晩、村に残っていた人々のところへ突然米兵が乱入し、男女とも車座にすわらせてその中から女性を一人ずっ引っこ抜いて乱暴をしたとのことであった。その噂は羽地でもたちまちのうちに広がったが、婦人たちは事件の顛末について涙を浮かべながら語り合っていたものである。

 

荒れはてた村に帰って羽地でも、真喜屋あたりへ食糧を探しに行く途中で、米兵に襲われた女性が何人かいた。だから、米兵の目をごまかすために、女たちはわざと顔に鍋墨を塗り、薄汚いなりをして歩いたものだった。また、深夜に突然米兵が現われると、空罐やバケツなどをガンガン叩いて追払ったものである。私は伊差川では衛生班に属していて、便所の検査について歩いたり、事務の手伝いなどをしていた。配給だけではとても食べていけなかったので、田んぼから草を採って来て食べたり、口べらしのために作業に出たりしていた。

 

羽地から崎本部に帰って来たのはたしか十月の初旬頃で、朝夕はだいぶ、肌寒くなっていた。家は殆んど焼かれてしまっていたし、田畑も戦車や軍靴で荒らされていたので、しばらくは学校にテントを張って集団で過ごさなくてはならなかったし、畑を耕すことも容易ではなかった。その頃、おりあしく恐性のマラリアが流行して、そのためにまた何人かの人々が亡くなってしまった。あれほどの戦争を生き延びて来たというのに、体力が衰弱していて病魔に抗しきれず、バタバタ倒れて行ったのであった。悪性マラリアは高熱が何日間も続き、熱がなかなか下がらなかった。殆んどの人々がそのために苦しんだが、老人や幼児だけでなく若い女性もなくなったし、私の父もついにその悪性マラリアにやられて死んでしまった。

 

徴用の勤労奉仕

本部町崎本部湧川幸子(十六歳)

私たちは学校を卒業しても家事の手伝いは殆んどできなかった。勤労奉仕と徴用の連続であったし、同級生のうち進学したのは二、三人であった。伊江島へ徴用で行った時は、最初は私は名簿からもれていたので行かなくても済むものと思っていたが、最後になって残った者だけひとまとめにして連れて行かれたのであった。

 

伊江島では、二人一組でモッコを担ぎ、飛行場へ土を運んだりした。そんな仕事が数日間続いたあと、洞穴の中に連れて行かれた。そこでは兵隊たちがあちこちにランプをつけて壕を掘っていた。私たちはそこから土を運び出す仕事についたのであった。時には兵隊たちと一緒にトロッコを押したり、モッコで土を運んだりしたものである。「徴用の期間はまともな家に住むこともできず、私たちは空墓に宿泊させられていた。あの墓もとの墓も徴用で来た人々でいっぱいしていたが、なかにはまだ閉ざされたままの墓もいくつかあったので、非常に気味が悪かった。また墓の中は空気も悪くて、とてもじっとしておれなかったので、私たちは深夜まで浜辺などで語り過ごすのがつねであったが、おかげで翌朝は起きるのがとても辛かった。

 

食事はもはやまともな芋すらなく、殆んど麦飯ばかりであった。そのために多くの者が下痢で苦しんでいた。汗と土にまみれて帰っても風呂もなかったので、作業が終ると海へ行って汗をかいたものであった。南国とはいえ、真冬の海はさすがに冷たく、とても体でと潮に入ることはできなかった。水も不足がちだったので顔もろくに洗えなかったし、いつも素足で作業をしていたものである。

 

旧暦の大晦日には、私たちも旧正のために村へ帰ってもいいということになっていた。ところがちょうどその日に猛烈な空襲に見舞われてしまった。兵隊も民間人もたくさん傷ついたし、死者も何人か出た。私たちは予定どおり村へ帰ることもできず、オニギリを一個ずつ与えられて、とうとうその晩者墓の中で過ごさなくてはならなかった。

 

翌日、村の人々と一緒に帰る準備をしていると、またもや米軍機が襲って来たが、その日は案外あっさりと飛び去って行ったので、ようやく出港することができた。そして渡久地に着いたのは十二時頃であった。十・十空襲で焼野原と化した街を通り抜けて帰路を急いだ。崎本部に着くと、ちょうど兵隊たちを慰問するための演芸会の最中であった。私たちは、伊江島でさんざん苦労をして命からがら逃げて来たばかりだったので、踊りなどに打ち興じている人々の気持を理解することができなかったし、とても不公平なことだと思った。

 

だが、それ以来空襲に追われっぱなしで、二度と伊江島へ行くことはできなかった。それで、当時崎本部に駐屯していた暁部隊(船船隊)へ勤労奉仕として出ることになった。兵隊たちと一緒に土を運搬したり、兵舎にのっける茅を刈りる作業などであったが、それは米軍が上陸する直前まで毎日続けられた。

 

米軍上陸 - 崎本部

本部町崎本部日高清考(五二歳)

はじめて米兵に会う米軍が上陸して来た時は、私たちは村から三キロも離れた山奥のウッカーという所に避難していた。宇土部隊が敗走して、真部山に食槇米をほったらかしてあったので、仲間と一緒に出掛けて行って

 

それを担いで来たこともあった。途中の山道には艦砲でやられた死体が転っていて、牛の大きさぐらいにふくらんでいた。「崎本部の人々は、安和の上のウシケーマタにも避難していたが、殆んどはウッカーにいた。そこには健堅の人々も数家族まじっていた。激しい艦砲の下で、人々はすっかりおびえきっていたが、それでも食糧を求めて山から下りて行かなくてはならなかった。そして食糧を運んで帰る途中で、米兵に見つかって射殺された者も何人かいた。

 

私が最初に米兵を見たのは、村の上の畑で家族揃って麦刈りをしていた時であった。突然数人の米兵たちが目の前に現われたので、もう逃げ隠れもできなかった。私も女たちもただガタガタ震えて立っていた。すると隊長格の者が一枚の紙を差し出しながら、さかんに「ジャパニー、ジャパニー」を連発するので、私が日本兵であるか否かを確めているのだと判断して、首を振りながら「オキナワ、オキナワ」と答えると、何もせずにその紙切れだけを渡して立ち去って行った。それを見ると、この付近の山に日本兵が隠れていないかとか、住民は早く下山せよ、などということが書かれていた。

 

村に残った老人たち私は村の人々が捕虜となって羽地にひっぱられて行ったあとも、しばらくはウッカーに残っていた。山の中に残っていたのは、私を含めて数人だけであったが、やがてそこへしばしば黒人兵たちが現われるようになった。女が欲しいから世話をしてくれ、という素振りであったが、彼らが来るとそこに居合せた老人たちがとても恐がったので、私は機会を見つけてそのことをMPに連絡した。するとMPがパトロールしている間はどこかへ消えて姿を見せず、MPがいなくなるとまた現われる、というイタチゴッコを繰り返すばかりで、老婆たちの不安はいっこうにおさまらなかった。

 

そのうちに私は、何人かの米兵と親しくなった。それで、ウッカーから村に下りて来て、焼跡にバラックを建てて住んでいると、時には私をわざわざご堅まで連れて行って、袋にいっぱいの罐詰をくれた米兵もいた。その時すでに浜崎や健堅には、米軍の兵舎や倉庫がいくつも立ち並んでいて、ドラムやトラックがたくさん並べられてあった。

 

その頃になると崎本部では、山に隠れていた老人たちが下りて来て、それぞれの屋敷にバラックを建てて住んでいたが、時には申し合わせて羽地の家族たちへ食糧を運んだこともあった。夜中に山道を通って安和に出て、そこから屋部に至り、屋部川に沿って為又に抜け、そこから伊差川へという道順であった。

 

帰って来た村人たち崎本部の家は、五月下旬の空襲でその大半が焼け、さらにみんなが羽地にひっぱられて行った頃にも、米兵たちがつけ火をして燃やしたので、焼け残っている家はほんの数軒しかなかった。だから、九月になって羽地から村に帰り着いた人々は、まず雨露を凌ぐためのテント小屋を作らなくてはならなかった。それで各戸から作業員を出してもらって、資材や茅を刈りに出掛けたものであった。数日がかりで、学校や近くの畑にたくさんのテント小屋を建て、なんとか住めるようにはなった。くじびきでそれぞれのテントを決め、数家族ずっ一緒に住むこととなったが、やっと足を伸ばして寝れるだけの広さであった。また、すぐ近くに米軍の指場があったので、村人たちは、残飯の山をかき分けて肉片やバターを探したりしていたし、しばらくすると、軍靴や砲弾などで荒らされた耕地に作付をする人々の姿も見られるようになった。

 

そのテント小屋での生活は、およそ三か月も続いた。食楓も配給だけではとても足りなくて、栄養失調で倒れたり、悪性マラリアで死ぬ者も続出した。

 

やがて人々は、山から材木を切り出し、茅を刈り集めて、焼跡に住居を建て始めた。そして十二月頃にはその新しい住居に移り、翌年正月早々から学校も始まるようになり、どうやら平和な生活に戻った。

 

子供を三人かかえて - 崎本部

本部町崎本部仲地マッ子(三八歳)

戦前、私の家族はラサ島に出稼ぎに行っていた。戦争が切迫して来たので、一九四四年(昭和十九年)の夏に引き揚げて来たが、村に帰るや否や、主人は防衛隊にとられて伊江島へ行ってしまった。私は身重の体で三人の子供らをかかえていたので、徴用は免れたけれど、あちこちの家で日雇などをして、どうやらその日その日を送っていた。

米軍が上陸して来た時は、すでに私たちは上ウッカーという所に避難していたが、食糧は殆んど専えていなかったので、そこから約一キロも離れたビーグントウなどへ、危険をおかして食植を探しに下りて行ったものだった。手ぶらで帰って来たこともあったし、そこで瀬底の婦人たちが射殺されているのを見て、一目散に逃げて帰ったこともあった。

そんなある日、食糧を頭に乗せて登って来たところを、米軍に捕まった。私たちだけではなく、付近一帯の避難民は殆んどその日に捕虜となってしまった。米兵に銃をつきつけられながらゾロゾロと山を下り、そのままトラックで羽地へ運行されたのであった。

 

娘の出産と死

やがて、羽地の田井等に着くと、すぐに金網の中のテント小屋に放り込まれて、砂の上に一泊した。翌日、私たちはそこから仲尾次に移された。

 

だが、住めるような家はなかったので、ある家の豚舎をきれいに掃除してそこに寝るよりほかしかたがなかった。どの家も軒下まで人があふれていたし、畜舎ですらも、場所の奪い合いでつい喧嘩どしになる始末であった。だが、さいわいにも私たちは、翌日には他の家の蔵に移ることができた。

 

そこで食糧難に苦しめられたために、当時三歳だった次女が栄養失調で死んでしまったが、私は娘の死を悲しむ間もなく、その月のうちに三女を出産した。軍の病院でお産をしたが、当時は一合の米さえ貯えがなく、また産衣の用意もしていなかった。それで出産後かなり長い間空腹のまま放置されていたが、とうとう耐えられずに看護婦に訴えると、ようやくおかゆを作って持って来てくれたものだった。

 

悪性マラリアで倒れる

いよいよ村に帰れるようになったので、私も衰弱した体にむち打ち、生後間もない三女を背中にくくりつけて、人々について歩いて帰ることになった。といっても、仲尾次から崎本部までは約三〇キ口もあるのだから、産後間もない私にはかなり無理であった。それでも歯をくいしばって塩川までは辿り着いたけれど、それから先は一歩も進むことができなくなった。

 

どのようにして村に到着したのか記憶にないけれど、とにかく村に帰り着いてテント小屋に住むようになった。すっかり衰弱しきった私を見て、親戚のある老人は「君はもうこれでは死ぬのを待つばかりだ。まったくひどいことになったものだ」と驚いていたが、だからといって救済の手を差しのべるだけの余裕は彼にもなかった。

 

それから間もなく、当時流行していた悪性マラリアで、私も倒れてしまった。その老人は再びやって来て「生きているのが不思議なくらいだ。君はもう子供たちを残して死んじまうにきまってるよ」と勝手なことを言って帰って行った。そう言われると私は、むしろ肝がすわり、なにくそ死んでたまるかという気になったものである。

 

すでに便所にも立てなくなっていたので、空に用を足していたが、きたないとか臭いとか言われて周囲の連中からいやがられたこと、それがまたなんとも耐えがたく辛かった。

 

夫は生きていた

間もなく村の人たちは、山から資材を切り出して来て各自の住居を建てるようになったが、もとより私にはそれも無理だった。だから、みんながテント小屋から各自の家に移り住むようになっても、私たちは親戚に頼み込んで、その家の片隅に住まわせてもらうよりほかしかたがなかった。

 

一方、伊江島に行っていた主人は、待てど暮らせど帰って来てくれず、もう死んだものとあきらめていた。そこへ、まだ壕の中に隠れて生きている人々がいるらしいという噂が伝わって来たので、早速伊江島へ尋ねて行ってみると、果して主人たちは壕の中で生きていた。一九四六年(昭和二一年)の夏のことであった。

 

米軍上陸 - 健堅

本部町健堅山里宗富(五五歳)

艦船は燃え民家も焼けて十月十日の早朝、私はいつものように丘の上で牛の草を刈りていた。すると海の方からドカンドカンというただならぬ音が聞こえて来た。海上に目をやると、おりしも瀬底と崎本部の間に停泊していた四、五艘の輸送船をめがけて、米軍機が集中攻撃を浴びせているところであった。はじめは友軍の演習だとばかり思い込んでいた私も、眼前のすさまじい光景を見て急に背すじが冷たくなり、慌てて澤に飛び込んで伏せた。

 

ひとしきり艦船に猛爆撃を加えたあと、米軍機は、浜崎海岸一帯の民家につづけざまに爆弾を落とした。海上の輸送船は火柱をふいて燃え、やがて海岸一帯の民家も炎につつまれてしまった。

 

米軍機が飛び去ると、私は大急ぎで村に駈け下りた。さいわい私の家は焼けずに残ってはいたが、間もなく家の中は海上から運ばれて来た負傷兵でいっぱいになった。傷つき血だらけになった兵隊たちが苦しそうに呻いていた。

 

その日の空襲で村人たちは一段と重苦しい空気につつまれてしまった。夕闇の中を兵隊たちがあわただしく往来し、避難の準備を急ぐ村人たちも恐怖におののいていた。私の家族もそのような村人の群にまじって避難を急がなくてはならなかった。

 

あいつぐ米兵の暴虐それから米軍が上陸するまで、私たちは健堅のウイバルという所にいた。そこからさらに一キロも離れた桃山の山の中に避難小屋を作ってあったが、ウイバルの方がなにかと便利だったからである。だが、上陸して来た米軍は、そこであいついでいまわしい事件をひき起こした。

 

戦前私の家の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。そこへ突然銃を持った二人の米兵が現われ、妻子に乱暴しようとした。たまりかねた彼は起き上がって来て米兵の前に立ちはだかり、「私も海軍にいたことがあるが、君たちのように非道なことをしたことはない、さっさと帰りたまえ」とどなりつけた。営葉は通じなかったものの、その場は何事もなくおさまり、米兵らはいったん引き上げたかに見えた。ところが、間もなく米兵らが戻って来て、彼を叩き起こし、銃をつきつけて前へ歩くように命じ、前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

 

当時彼は五十歳をすこし過ぎていたとはいえ、まだまだ元気であった。若い頃の彼は、旧暦五月四日のハーリーの日に恒例として行なわれる相撲大会では、いつも優勝をあらそうほどの力自慢であった。それにひきかえ、米兵らは二人とも小柄でほっそりした連中だったから、彼にその気があったら銃を奪い返して逆に殴り倒すこともできたろうに、彼はそういうことのできない実直な男であった。

 

またその頃、米兵らは女性に乱暴をはたらくということでこわがられていた。野にも山にも米兵がうろついていて危険此の上なかっ たが、それでも人々は食糧を求めて村まで下りて来ざるをえなかっ た。当時ウイバルに大きな瓦葺の家が残っていて、そこに避難民が 常時十数名ぐらい集まっていたのも、そのためであったが、ある晩、その家でいまわしい強姦事件が発生した。

 

昼のうちにそこらを徘徊していた数人の黒人兵は、家の中に何人かの女性がいるのを見ていたのであろう。その晩おそく、黒人兵らが突然その家の中に踏み込んで来た。大声をあげて逃げまどう婦人 たちを追いかけ、一人ずっわし摑みにして闇に消えた。相手は銃を持つケモノたちである。その場に居合せた男たちには、どうすることもできなかった。

 

私たちは、もはや一日とてそこにとどまってはいられなかった。急いで荷物をまとめて桃山の避難小屋に移動したが、そこもやはり危険だということで、落ち着く間もなく、伊豆味の山の中に逃げることとなった。

 

食糧を求めて八人の家族が持てるだけの荷物を担ぎ、おまけに私は、八十歳の者母の手を引きながらの移動であった。やっと伊豆味の山の中のエンナという所に辿り着いたが、数日もたつと食糧が尽きてしまったので、そこでは食べられるものはなんでも食べた。

 

女たちが出歩くと危険だと思われたので、私は一人で連日食糧を求めて歩き廻わった。夜になると健堅まで下りて来て芋を掘り、暗い山道を数キロも担いで帰ったこともたびたびあった。

 

やがてエンナも危険でいられなくなったので、こんどは今帰仁の山へ逃げることになった。途中の道端には艦砲でやられた人々の死体がいくつも転がっていた。また、いまや隠れる人さえいない避難小屋には、毛布で包まれたままの死体がたくさんあった。私たちはますます死の恐怖につきまとわれ、ひどい食糧難に苦しまなくてはならなかった。

 

久志の捕虜収容所にてさらに数十日が過ぎた。私たちはすでに餓死寸前であった。その時、住民は何月何日までにどこそこに集合せよ、という伝達が届いた。さもなければ掃蕩戦で殺されてしまうぞということであった。それで避難民は続々と山から下り始めた。私たちも山を下りて今帰仁の今泊に行き、そこからトラックで久志に運ばれた。

 

久志には七、八か月もいた。はじめは五〇人ずつ、あるいは百人ずっ大きなテントに収容された。中には敷物もなく、土の上に寝ろということであった。それで人々は、とりあえず草を刈りて来て駆き、その上に住んでいた。文字通り家畜同然の生活であった。

 

だが、やがて私たちは、山から材木を切り出し茅を刈り集めて、自力で小屋を作って住まうようになった。

 

食糧もまた惨めであった。すでに区長も任命されており、配給主任を通じて一人何合、何個というふうに支給されてはいたものの、それだけではなんとしても足りず、誰もが栄養失調気味であった。働き手のいる家族はそれでもまだましな方で、実際に栄養失調で死んだ人々もたくさんいた。だから私たちは、久志から脱出して、羽地を経て健堅まで芋を掘りに来るようになった。帰りは羽地の川端で一息入れてから明治山を通って久志に向うのであったが、明治山付近まで来ると、日本の敗残兵らが道にはいつくばって恵みを乞うので、はるばる担いで来た芋などを少しずつ分けてあげたこともたびたびあった。

 

また、久志の入口にはCPが待ち構えていて、越境者を検査すると称して、荷物を取り上げる者もいた。私も二回取り上げられた。八里も九里も担いで来たものを奪われた時の悔しさは今もって忘れることができない。

 

村に帰っては来たけれどそのうちにそれぞれの村に帰れるようになった。だが、健堅には米軍の兵舎や倉庫が立ち並んでいて、すぐには戻れなかった。それで、一、二か月の間崎本部の学校の近くにテントを張って過ごさなくてはならなかった。私の家族は、久志にいた時は誰もマラリアに罹らなかったが、崎本部に来てから悪性マラリアに感染してしまった。私の家族はみんなどうにか命だけは取り留めたが、それで亡くなった者も少なくなかった。私の知人の中に、山の中に避難している時に妻に先立たれ、マラリアに罹っても看病してくれる者もないまま、とうとう一人で死んで行った気の毒な男があった。

 

崎本部から村に帰って来た時、さいわい私の家はまだ残っていた。といっても壁板も床も殆んどなくなっていたし、柱も数本はなくなっていた。米軍が壁も床も全部はぎとって、倉庫として使用していたのであった。壁にはカバーが張りめぐらされ、家の中にはまだダイナマイトや釘などが積まれてあった。それらをかたづけて、どうやら住めるようになるまでにはかなりの日数がかかった。

 

食糧事情もいぜんとして悪く、蘇鉄をはじめ、食べられるものは何でも食べた。また、私の畑は米軍宿舎の跡にあって、厚いコンクリートが張られていた。それをツルハシなどで叩き壊し、固くなってしまった土地を掘り起こすのは、並大抵ではなかった。おかげでさらに数か月の間、芋を食べることもできずに、蘇鉄などでがまんをしなくてはならなかった。

 

船員- 健堅

本部町健堅城間盛徳(二八歳)

重傷者に非情な軍隊

戦前、私は海竜丸という漁船の乗組員であった。十・十空襲の日は、七千斤余の魚を積んで渡久地に向かう途中、ちょうど伊江島の後方のフカンスングワまで来た時、グラマンの猛襲撃に見舞われた。乗組員のうち11人が即死し、私の家内の父が大腿部貫通の重傷を負った。船もたちまち火災を起こし、ブリッジから後半分が燃え、機関室も燃料タンクなどもやられてしまった。

 

グラマンが飛び去ると同時に消火作業を開始し、どうにか火を消しとめることができたので、フカンスングワに錨を下して、その腕はそこに停泊することにした。

 

間もなく昼間の消火作業の疲労で乗組員はみんなぐっすり寝入ってしまったが、気がつくと、船は沖へ沖へと流されていた。みんなで手をつくして機械を動かし、やっとのことで渡久地港に帰り着くことができた。だが、昼間の空襲で街はすっかり焼野原と化していた。私は負傷したおやじを背負って家路を急いだ。

 

当時浜崎にも暁部隊(船舶隊)が駐屯していたので、村に着くとすぐに部隊へ行って治療をお願いしたのだが、簡単な消毒を施しただけで、薬がないからもう来るな、と言われた。来るなと言われたって、こちらは重傷患者を放って置くわけにはいかなかった。それで翌日もまた行ってみたが、来るなと言ったのになぜ連れて来たんだ、と叱りつけられた。それでやむなく渡久地まで背負って行ったが、そこでも治療は施してもらえなかった。そのうちにウジが湧いて来たので、浦崎まで足を伸ばし、そこの民間の病院に入院させてもらうことになった。そこには、十・十空襲で傷ついた人々が所狭しとひしめき合っていた。

 

一斉射撃を浴びて私へ召集令状が来たのは、十一月三十日の夜中の二時のことであった。急いで軍服と奉公袋を受け取り、四時に所定の場所に集合して、そこから渡久地の波止場へ連れて行かれた。私は数年前に大阪で自動車の免許証を取得していたので、名護の部隊に配属され、読谷から名護へ―森を運搬する任務を与えられた。

 

米軍が上陸した直後のある日、いつものように名護の街を通り抜けようとすると、いきなり米軍の一斉射撃に見舞われてしまった。そして瞬時にして後部の荷物が燃え始めたので、私は夢中になって全速力で逃げた。羽地の田井等で車を止めて火を消し、再び車をとばして伊豆味まで逃げ、そこで車を乗り捨てて、干麵包と僅かばかりの玄米を持って家族のもとへ帰った。

 

今帰仁の山に隠れて私が家族のいたウッカーに着いて間もなく、崎本部のハニクの浜から米軍が上陸し、付近一帯の避難民が慌てて移動し始めた。私たちも急いでそこから逃げ、安和の山奥にあるタマターという所に壊を掘って隠れた。雨が何日も降り続き、艦砲がますます激しくなって来た。やがてそこも危険だということで、その山の表側にあるシギシキに移動した。

 

シギシキに着くと、そこにはまだたくさんの友軍がいて、米軍を迎え撃つと言って気勢をあげていた。ところが、突然米軍が攻撃を浴びせて来たので、私たちは両方に挟まれてしまった。もはや一刻もそこにとどまっているわけにはいかなかった。私は足を怪我して歩けなくなっていた老母を背負い、家族をせきたてて今帰仁の山へ逃げた。激戦の最中に面見知りの老夫婦に出会ったが、もはや助けてやるだけの余裕はなかったので、見捨てるよりほかなかった。

 

今帰仁の山には瀬底の人々がたくさん避難していた。しばらく一緒にいたけれど、生後間もない私の娘が泣き出すたびに、「この子のためにみんなが危険な目に会うのはごめんだから、早く絞め殺してくれ」などと叱られたので、私の家族はみんなから離れた所に避難小屋を作って隠れることになった。だが、間もなく食糧が尽きてしまったので、やはり健堅に帰った方がいいとおもい、家族を引き連れて戻ることにした。

 

途中のウッチントウという所で猛烈な艦砲射撃をくらったり、伊野波では米軍に出会って命からがら逃げ出したことはあったが、どうやら真部山まで辿り着くことができた。そしてそこから桃山に下りてみると、付近一帯に替戒線が張りめぐらされていたし、水罐や罐詰がたくさん放置されていた。私たちはみんなひもじかったけれど、罐詰にはきっと毒が入っているにちがいないということで、誰も食べようとはしなかった。そこから海上に目をやると、新底から伊江島に至るまで、アメリカの軍艦がぎっしり学んでいた。すっかりくたびれていた私たちはそこで昼過ぎまで寝て、それからウイバルに下りて来た。そして壕から衣類を出して着替えた。数十日の避難生活で体は垢だらけとなっていたし、ノミやシラミがたかっていた。私は、米軍に見つかったら殺されると思っていたので、ひげも伸び放題に伸ばしていた。村に戻ってようやく落着いた頃に、弟の家族も戻って来たので、ともに無事を喜びあい、一緒に過ごすこととなった。

 

捕虜となってだが、間もなく米軍の掃蕩戦が始まり、一緒にいた村の人々はみんな羽地にひっぱられて行った。私と弟の二人は、捕まれば兵隊とまちがえられるからといって、大浜の上の自然壕に隠れることにした。それはかなり広い壕で、布団とむしろを持ち込み、時にはランプをともして過ごすこともできた。

 

そんなある日、食糧を求めてウイバルまで来ると、突然数人の米兵がやって来たので、慌てて付近の民家に駈け込み、庭先に積まれていたきび殻の中にもぐり込んで、どうやら命拾いをしたことがあった。だがその頃、同じウイバルで米兵に見つかり、夫は射殺されその妻も輪姦されるという事件が起こった。突然米兵が現われたので、その夫は慌てて天井裏に逃げ込んだが、妻の泣き叫ぶ声を聞いて、助けようとして出て来たところを射殺された、ということであった。さらにその事件のほかにも、若い娘が連れ去られて輪姦されたこともあった。ある日、ウイバルから帰って来たところを、突然現われた米兵に取り囲まれた。日本兵じゃないのか、銃を担いで見ろなどと言われたが、知らんふりをして歩き始めると、彼等もついて来た。そして憲兵隊の前に出ると、そこには二世の通訳がいて、君たちは日本兵かと尋ねられた。そうではない、と答えたけれど、ジープに乗るように命ぜられ、そのまま羽地の憲兵隊本部へ連行された。そこで厳重に取調べられたあげく、田井等のカンパンに放り込まれたのであった。

 

本部山中への避難 - 瀬底

本部町瀬底上間ウシ(五十歳)

十月十日の空襲の時は、前の海に数隻の船が停泊していた。そこへ米軍機が飛んで来て、船や街に爆弾を投下したので、船も街もたちまち炎につつまれてしまった。

 

また、三月下旬には瀬底でも空襲に見舞われた。私の家も焼けてしまったので、それからは塞を開けて、その中で過ごさなくてはならなくなった。家も焼け、金もなくなって途方に暮れていると、間もなく、瀬底は危険だから本島に急いで避難せよとせきたてられた。それで大急ぎで荷物をまとめ、島の人々と一緒に本部の山奥に避難することになった。チンラガーの南側にミジントウという所があったが、すでにそこに避難小屋を作ってあったからである。

 

息子の戦死

ミジントウに着いてしばらくすると、にわかに艦砲射撃が激しくなり、避難の動きもあわただしくなった。ある日、友軍の兵隊たちが私たちの避難小屋の前を通りかかった時、親戚の者が私に「あなたの息子の兼和は戦死してしまったらしい」と知らせてくれた。兼和というのは私の六男で、護郷隊に入っていた。あんなに元気に出発した息子が死んだとは、どうしても信じられなかったので、私はすっかり取り乱して兵隊たちの前で泣き叫んだ。「兼和はどこにいるの。私の就和をどこへ連れていったの」と泣きながら訴えると、護郷隊の村上隊長は「我々もいつかは死ぬんだ。死ぬのはあなたの息子だけではない」ときつく叱られた。

 

だが、間もなくミジントウも危険となり、いつまでもそこにいるわけにもいかなかったので、私たちは、わずかばかりの米と稲や釜を担いで、急いでそこから逃げた。どこというあてもなく、一寸先は間であった。事実、私たちのほんのすこし前を歩いていた親子が一瞬のうちに艦砲でやられたのも、その頃のことであった。

 

彷徨そして帰島

やがて私たちは真部山に辿り着いた。そこには擬装した兵隊たちがたくさんいたし、陣地もみごとに擬装されていた。私たちの行手に兵隊たちが立ち塞がっていたので、通してくれと頼むと、「戦図はあと三日もすれば勝っから、その辺で待っていろ」と言われた。しかし、言われた通りにじっとしていると、どういうことになるか知れたものではないと思ったので、そこから引き返して別の道から逃げることにした。食事はオニギリを一個ずつ配るのがやっとであったから、大人も子供もすっかり奥せ細っていた。暗い山の中をあてもなくさまよっているうちに、深みに落ちて怪我をしたこともあった。また、前方から軍用犬を連れた米兵が来るのを見つけ、びっくりして滞に転がりこみ、息を殺してやっとのおもいで命拾いしたこともあった。

 

瀬底を出てから二十一日目の夜、私たちは島の見える所まで戻って来た。そして、どうせ死ぬなら生まれ育った島で死んだ方がましだという思いに駆られて、浜崎で小舟を見つけ、板切れで稲を作ってやっと頼底に帰り着くことができた。私たちよりも前に二、三の家族が戻っていたが、私の兄弟たちはまだ誰も来ていなかったし、行方も分らなかったので、みんな死んでしまったのなら自分たちだけ生き残っても甲斐がない、と悲嘆にくれたものであった。

 

それでもしばらくは、壕の中で過ごしていた。入口を木の葉などで擬装し、中には畳まで敷いてあった。そこへある日、突然米兵が現われた。私たちが壕の中で息を殺していると、米兵は入口までやって来て中の方を覗いていた。米兵の形が壕の中に映って、いまにも入って来るかと思われたが、誰もいないと思ったのかそのまま立ち去って行った。ほんとに命のちちむ思いをしたが、それ以後は何事もなく過ごすことができた。私たちは、まず森から木材を切り出して来て住居を作り、畑に芋や麦などを植え、挙で酒を醸造したりして新しい生活を始めた。

 

大阪から来た手紙そんなある日、本土の船員たちが島に上陸して来た。本土の話を聞いているうちに、手紙を書けば鹿児島の警察に届けてあげる、そうすれば東京だって大阪だって連絡がつく、ということであった。私は大急ぎで息子たちに手紙を書かせ、それを大阪の次男あてに届けて欲しいと頼んでみた。むろん、船員たちはそれを承諾してくれた。

 

その手紙は戦後瀬底から大阪に届いた第一報であったとのことである。それは瀬底出身の大阪在住者の間で、ボロボロになるまで廻し読みされたと言われたものだが、間もなく大阪からみんな元気でいるという返事が届いた。それで親戚や知人が私の家に集まって来て、ありったけの酒を飲み干し、大阪在住者の無事を祝った。

 

瀬底では、どういうわけかマラリアは流行しなかった。また、島に戻るとすぐに芋や麦を植えておいたので、食糧に困るということもなく、本部や久志からさえ芋を買いに来るほどであった。砂糖を作ってこちらから本部半島一円に売り歩いたこともあった。だから戦後のあの食糧難の時期にも、栄養失調で倒れた者もなく、マラリアで亡くなった者もいなかったことは、私たちにとって大きな喜びであった。

 

第一護郷隊第三中隊

戦争だから撃たれるのもあたりまえだから、何も考えないよ。戦友の上間兼和君が三〇二高地で殺られたら、その友達が手を切ってよ、手だけ持って歩いてるわけ。遺骨と言ってさ。遺体は三〇二高地に穴掘って埋めたんだよ。なんか変な臭いするけどどうしたかと。手を切って持って歩いてるわけよ、…(中略)…

三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史集英社 (2020/2/22)

 

 

避難 - 大浜

本部町大浜末吉カメ(五五歳)

十・十空襲の前後戦前はこの村はカツオ節製造がさかんで、海岸には大きなコンクリートの製造所があった。当時私の主人は組合の会計をしていたので、常時そこに詰めていなくてはならなかった。供出というのがあって、あの部隊からもこの部隊からも連日カツオ節を受け取りに来たからである。だから、供出に応ずるのが関の山で、民間に売り出す余裕は殆んどなかった。

 

長男の戦死公報が届いたのはそんなある日のことであった。息子は七年間も戦争に出ていたが、中国から南方戦線に移動させられ、そこで戦死してしまったのであった。寒い中国から暑い南洋へ移動させられたために、疲労と病気が重なって兵隊がバタバタ倒れたとのことである。南洋のコロールとかいう町で息子の元気な姿を見かけたことがあるといって、わざわざ伝えてくれた人もいた。七年間も故郷を離れて、母親の私ですら一度も面会もせずに死んでしまったのだから、まったく兵隊というのは不憫なものである。

 

ところで十・十空襲の日は、ちょうど崎本部と瀬底との間に数隻の船が停泊していた。私たちの船はその前日は大漁だったので、これらの船からも注文を受けて売ったばかりであった。その朝私が洗面を済ませて護岸に立っていると、突然上空に異様な飛行機が現われた。びっくりして見上げていると、それらは海上の船めがけて爆弾を落しはじめた。私はあわてて家の中にかけこみ、家族をせきたててまっすぐに避難の準備を始めた。外では警防団員らが年寄りと子供は一足先に避難させよと、大声でどなりながら走り廻っていた。

 

銃弾に娘を奪われる

年が明けると空襲はいよいよ激しくなって来た。私たちはすでに伊豆味山中のミシントウという所に避難小屋を作ってあったので、三月の末にそこへ移った。やがて艦砲が激しくなり、ミジントウでもたくさんの死者が出た。私の知人も二人の子供とともにそこで亡くなった。私たちは一〇人家族であったが、もうそこは危険だからよそへ移動しようということになり、艦砲の下をくぐってようやくフルガツウまで辿り着いた。友軍の兵隊が「明日は米軍が上陸して来るはずだから気をつけろよ」と注意を与えて行ったが、はたしてその翌日、米軍が上陸して来て激しい銃撃戦が始まった。

 

避難民たちは、ただ死の恐怖におびえて山の中を右往左往するばかりであった。多くの人々が傷つき死んで行ったが、当時十八歳の私の四女もついに八重岳の近くで銃弾に当たって死んでしまった。そこでは、浜崎の人々もたくさん亡くなった。

 

私たちは悲しみにくれ、恐怖におびえていたが、一刻も早くどこかへ移動しなくてはならなかった。その腕は壕の中でありったけのご飯を炊いて食べ、翌日のオニギリも用意した。そして翌日の晩、私たちは今帰仁の山の中へ移ることになった。

 

食糧運搬暗い山道を越えてようやく今帰仁の山に辿り着いたが、もう食楓は殆んどなくて、数本のカツオ節が残っているだけであった。だが、二、三日なにも食べずにいたところへ、知人がやって来て、いくらかの米を分けてくれたので、どうにかその場を凌ぐことができた。オニギリを二つずつ分けて、スプーンで少しずつ口へ運んで食べたものであった。それからあとは、親戚や知人から米を分けてもらったり、あるいは友軍の陣地から食札を担いで来たりして、どうにか食い継いでいた。

 

このようにして今帰仁の山には数十日いたが、やがて主人と息子は米軍に捕まって久志に連行されてしまった。食糧を求めて山から下りて来たところを見つかってしまったのであった。それから間もなく、私たちも羽地の仲尾次にひっぱられて行った。家族がはなればなれになってとても心細かったけれど、私たちは女だけで村から仲尾次まで食糧を迎び、さらにそれを久志まで担いで行ったこともあった。

 

米兵の非道ぶり

やがて私たちは仲尾次から引き揚げたが、すぐに村には帰れず、しばらくは桃山のテント小屋で過ごさなくてはならなかった。南国とはいえ沖縄の冬も寒い。それなのに人々は殆んど寝具らしい寝具を持ち合せていなかった。食無事情もいぜんとして悪く、飢えと寒さに苦しみながら、マラリアの猛威の前になすすべもなく、毎日のように誰かが死んでいくのであった。

 

間もなく私たちは、桃山から辺名地に移って来た。そこにはしばしば米兵が現われたが、普通の米兵はとくに悪いことをするようすでもなかったので、私たちは安心していた。ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。事実、彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。また、若い女性がそいつに拉致されかかっていたのを助けて、射殺されそうになったので格闘の末に銃を奪い返し、それを海に投げ捨てて逃げて来た男もいた。

 

だから、そのシビリアンが現われると、男たちはすばやく逃げ去り、女たちも、髪にも顔にも鍋などをつけてわざと薄ぎたない格好をしたり、車座になって固く口を結び、そいつが何をいおうと身じろぎもせずに抵抗したりするようになった。するとそいつはますます怒って、銃剣で壁や天井をつきまくり、乱暴のかぎりをつくしてから立ち去るのがつねであった。

 

瀬底の人々の温情

村に戻った私たちは、瀬底の人々から実に多くの援助を受けた。瀬底では割りに早くから作付けが行なわれていたので、豊かに実った芋や麦などを、補助タンクで作った小舟に積んで、浜崎や大浜まで運んでくれたのであった。そのおかげで私たちは、あの食糧難の時期にも、まったくソテツを食べずにすんだ。また瀬底の婦人たちは、早くから米軍の部隊で洗濯婦や雑役婦として働いていたのでたびたび石鹸などの日用品をもらったものである。おかげでどうやら私たちも生活を維持することができるようになった。

 

息子をうしなって - 辺名地

本部町辺名地並里カメ(四九歳)

息子の応召

戦争中は長男が内地に行っていたので、こちらに残っていたのは私たち夫婦と次男と娘が二人の五人だけであった。だが、次男はまだ十九歳だというのに、現地召集とかで入隊せよという命令が来ていた。_十月九日には、村の拝所にたくさんの人々が集まって、戦勝祈願を行なった。谷茶や大浜の人々も、青年団や処女たちも、全部そこに集まって一緒に御願をあげていた。

 

そして翌十日も、早朝からそこで御願をあげていると、突然異様な爆音とともに数機の米軍機が現われ、伊江島の上空を旋回し始めたかとおもうと、いきなり爆弾を投下し始めた。ものすごい爆裂音が聞こえ、やがてあちこちで火の手があがり、黒煙につつまれていくありさまが手に取るように見えた。当時伊江島には、辺名地からも一家の主人や青年男女が徴用で行っていたので、拝所に集まって来た人々は、爆弾が投下されるたびごとにわが身を切られるかのような悲痛な叫び声をあげていた。

 

当時、私の長女も伊江島に行っていた。それで次男は、親たちが長女のことを心配するのを見かねて、翌朝、サバニ(小舟)を漕いで伊江島に渡り、夕方の七時頃にはつれ戻して来ていた。そして彼は、その翌日、応召で伊豆味から出発の予定であったが、空襲が激しかったので、家に戻ってもう一晩だけ家族とともに過ごし、翌十三日には村の十字路からみんなに見送られて出発した。

 

息子の遺骨を尋ねて

息子たちは、中西の国民学校石部隊に入隊して、浦添村の内間で壕を掘ったりなどしていたが、私たちはそこへ何回も面会に行ったことがある。また息子も、二日間だけ休暇があったといって、村まで帰って来たこともあった。そして家族と楽しく語り過ごして、二口日の午前三時頃にこちらを出発した。私は大浜の橋の近くまで送って行ったが、息子は「お母さんまた正月に来て下さい」と言いながら別れたものであった。あの時に、誰に何と言われようが引き留めておけばよかったものを、息子は「そんなことをして、もし戦争に勝つようなことがあれば、家族そろって大変なことになるというから」などと冗談を言って笑っていたが、とうとうあの時に別れたままになってしまった。

 

息子は、西原村の棚原で死んだとのことであるが、どこでどのようにして死んだのかさだかではない。それで私は、羽地の収容所にいた頃に、息子たちと一緒に戦闘に加わった人々には、一人ひとり尋ねて廻わった。するとその中に、息子の最後のもようを知っている人がいたけれど、私に向かって、「母親のあなたにそのことを教えたら、あなたはショックで寝込んでしまうだろう」などと言うので、私は「足が切れていようが、首が吹っ飛んでいようが、もうそんなことで驚きはすまい。きちんととむらってあげたいだけですから」と、何度も頼み込んだのだが、なぜか彼等は本当のことを教えてくれなかった。

 

浜元にも棚原で肉親を亡くした方がいたので、別の日にその方と一緒に再度行って頼んでみたが、やはり無駄であった。誰が誰やら見分けもつかないということであれば、それはそれで弔う方法はあるからと、熱心に頼み込んだのだけれど、ついに聞き出すことはできなかった。息子はとても健康体で、高等二年を卒業するまで一日たりとも学校を休んだことがなかった。それだけにその遺骨にさえ会えなかったことは、残念でならなかった。

 

久志まで食糧を運ぶ - 辺名地

本部町辺名地川平カナ(四八歳)

私たちは、艦砲に追われて、しばらくはユキンガーの避難小屋にいたが、すぐ下まで米兵が来ていたし、銃声も激しくなって来たので、慌てて山の中へ逃げ込んだ。昼は山の中に隠れていて、暗くなってから避難小屋まで下りて来たりしていた。だが、数十日もそのようにして過ごしているうちに、食紙はなくなるし、毎日のように死者が出たので、そろそろ下山しようではないか、という話が持ち上がった。米軍が山を焼き払うらしいという噂もあったので、私たちも山を下りて今帰仁の崎山に行った。そこでは民家の世話になったが、家主がとても親切な方で、みんなに味噌などを分けてくれた。旧暦の五月十五日(6月24日)に、私たちはそこから久志に連行された。名護あたりの海で一人残らず殺すつもりらしい、などと言ってみんな大声で泣き叫んだものであった。

 

久志に着くと、禿山に張られたテントだけが立ち並んでいて、そこには収容されて来た人々が所狭しとひしめき合っていた。それで間もなく人々は、各自で資材と茅を集めて、掘立小屋を建てて住むようになった。

 

食糧も全然足りなかったので、人々は作業に出る時は袋などを持って行き、落ちこぼれた米をこっそり拾って帰ったりしていた。そのほか、ツワブキやニガナをはじめ海の藻など、食べられるものは何でも食べたが、みんないつも腹ぺこだったので、久志からここまで食糧を取りに通ったこともたびたびあった。

 

昼間は米兵に見つかると危険であったから、夕暮れ時に向うを出発し、明方にこちらに着くのであった。老婆なども人々にまじって歩いていたが、暗い山道だから何度も転んでいたものである。若い連中は来れなかったので、老婆たちも老軀にむちうって通ったのであるが、久志の入口まで来ると、道端巡査が待ち構えていて、若婆たちの荷物を取り上げるのであった。彼等はCPなどといって威張っていたが、せっかく八里も九里も担いで来た荷物をかっぱらわれた人々は、まことに気の毒であった。

 

収容所の頃

本部町桃山 ○○和恵(二三歳)

羽地へ食糧を運搬する途中で米兵のトラックに乗ったら、屋部の近くで脇道に入ったので、大声をあげて泣き叫び、車を止めさせて下りた。強姦事件の噂もいろいろ聞いていたし、そのままついて行くと、なにをされるかわからないと思ったからである。

 

そして荷物もほったらかして大通りに飛び出し、なおも大声で泣き続けた。するとそこへ、MPの乗ったジープが通りかかって私の側に止まった。どうせ言葉は通じなかったが、「ほかの車に乗せてもらったら、へんな所へ連れて行こうとしたので、泣き叫んでやっと下ろしてもらった。どうか羽地へ逃れて行って下さい」と頼んだら、あっさりと乗せてくれた。それでも羽地に着くまでは、また山の中へ連れて行かれはせぬかと、不安でしかたがなかったが、無事に羽地に到着した時は、MPというのは本当にありがたいものだと思った。

 

また、伊差川では、時には夜中に米兵が来て、若い娘を連れ去ろうとしたこともあった。それで時々MPがまわって来ていろいろ調べたりしていた。黒人兵が来た時などは、空罐やバケツなどをカンカン叩いて大騒ぎをしたものであった。

 

食糧が足りなくて、口べらしのために作業に出たが、当時の惨めさはなんともいえなかった。女学校を出た者や教師などは、殆んどアメリカ軍の洗濯婦となり、ワッシワッシガールなどと呼ばれているが、私たちは洗濯婦になることもできずに、いつも荒れ果てた水田に連れて行かれて稲を植えさせられた。

 

なかには夫を亡くした女学校出の女性が、キャプテンの秘書となって一緒にいたり、ハーニーになる者が出たり、そんな話がいろいろあった。

 

また、私は炊事婦として働いていたこともあったが、食糧がなくて、家族がいつもひもじい思いをしていたので、夜中に他人の畑に行って、みんなが掘ったあとから、親指大の芋を拾い集めて歩いたこともたびたびあった。それにヨモギを入れて煮て、いつもそればっかり食べていたので、そのうちに子供たちは栄養失調のために、頭髪が抜け落ち、頭ばかりでかくなり、骨と皮だけの見るも哀れな格好になっていた。

 

焼跡に涙を流して

本部町桃山○○マツ(六三歳)

米軍が上陸して来た時、私たちはチンラガーの壕に一晩だけ隠れていた。その翌日は、早朝からすぐ近くで激しい銃声が聞えて来たので、そこからさらに山奥に逃げ込み、ようやくマヤーガーに落著くことになった。

 

夜になると山を下りて、食極を探しに来たものだったが、せっかく担いで帰った食糧を友軍の敗残兵らに奪われてしまった人々もかなりいた。私たちと、軍の陣地からお菓子の袋を三つ担いで来て隠してあったが、軍が捨てて行ったのだからいいのだろうと思っていたのに、ある晩、谷茶出身の男と兵隊が一緒に現われ、このお菓子は軍のものだから、などと言いながら奪って行ってしまった。孫たちにさえ与えずに大事に隠して置いたものを、有無を言わせずにかっぱらって行ったんだら、まったくひどい連中だった。

 

私たちの家は茅葺きであったが、マヤーガーに隠れている間にすっかり焼けていた。たくさんいた膝や山羊などの家畜も、タンスも家財道具も、ことごとく灰になっていたし、親戚の家も殆んど焼けてしまっていた。山から食穏を取りに下りてそれを知り、焼跡に呆然と立ちつくして涙を流したものであった。

 

女性をねらう米兵たち

私たちは数十人の避難民と一緒に隠れていたが、ある日突然、米軍に取り囲まれ、銃をつきつけられた。米兵たちは避難小屋の中までついて来て、着物も食梱も全部あるから早く歩けと、さかんにせきたてていた。

 

そして羽地の田非密に連れて行かれ、そこで一泊して、翌日は伊差川に移された。伊差川では配給もあったが、MPが時々まわって来てお菓子などをくれたし、孫たちが熱発した時もわざわざMPがまわって来て、罐詰やお菓子などをもらったこともあった。

 

しかし、食神は配給だけではとても足りなかったので、各自の村まで食種運搬で通ったものだったが、途中の山で婦人たちは、米兵に襲われたり追っかけられたりしたことがたびたびあった。だから私は、若い連中を伊差川にとどめて一人で通っていたが、あとになると、年寄りもやられるとか、山の中に潜んで女性を待ち構えている米兵が多い、などという噂が伝わって来たので、こわくて帰れなくなってしまった。事実、羽地でさえも芋を拾って歩いていると、米兵が、まるで犬のように背を低くして接近し、突然襲いかかって来ることもあった。私も知人と二人で芋を拾いに行ってあわや襲われそうになったことがある。溝の中を犬のように這って来るのを見つけ、せっかく拾った芋を放り投げて、一目散に逃げて帰ったものであった。すぐ近くにMPがいるからといって、少しも油断できなかった。

 

本部町渡久地・浜元 (座談会)

○○有造(四五歳) ○○恵子(三一歳) ○○マツ(二七歳)

 

十・十空襲宮城一九四四年(昭和十九年)十月十日の朝、私は午前七時頃異様な物音で目がさめた。慌てて外に出てみると、瀬底の沖に停泊していた巡洋艦や商船がドカンドカンと猛爆撃を浴びている最中であった。間もなく街中にサイレンが鳴り響き、警防団の連中が集まって来た。当時私は、在郷軍人会の会長で警防団の副団長を兼ねていたので、すぐに任務についた。

 

おりしも、接岸中の商船日本丸(約百トン)から火の手が上がったので、我々はまず、その消火にあたった。米軍機がやって来ると慌てて海にもぐり、飛び去ると消火を続けるという、まことに危険な任務であった。

 

だが、間もなく、暁部隊(船舶特攻隊)の弾薬庫が爆破され、炸烈弾が大音響とともに街中に飛散し、街は一面の火の海と化した。

 

我々も命からがら塚に航け込んだが、壕内は暁部隊の負傷兵たちでたちまちいっばいになった。「その日の空襲で、渡久地と谷茶は八割ぐらい焼けてしまったし、響防団員も二人殉職した。また、それ以来、住居を失った人々は、伊豆味や大堂へ避難し、役所の事務も並里の壕で行なわれるようになった。

 

捕虜になるまで

宮城 米軍が上陸して来た時は、我々はウッチントウに隠れていた。安和の水明橋は友軍が爆破して通行できなくなっていたので、米軍はからまわって、伊豆味から迫って来た。宇土部隊はその進路を妨害せんとして、大急ぎで松並木を切り倒したけれど、米軍は戦車でそれをいとも簡単に片づけて進撃して来た。

 

番防団員は、警察の指示を受けて避難民を誘導する任務を帯びていたが、もはやそれどころではなかった。本部と今帰仁の境界にクルナミ山という所があるが、その付近一帯に避難民がごった返していて、夜になると歩けないほどの混雑ぶりであった。

 

そんな非常時にも、どこからかっぱらって来たのか、牛や馬を引いて歩く男たちもいれば、谷から谷へ肉を売り歩いている連中もいた。また、もう金を持っていてもしかたがないといって、避難民たちはわれ先に高価な肉を買い求めていた。

 

そのうちに食極がつきてしまったので、畑まで下りて行って芋を担いで来たり、時には民家の畜舎から豚をひっぱり出して、数人の仲間で肉を山分けしたこともあった。また、宇土部隊の撤退後、タナンガの陰に食糧米が放置されていることが知れわたり、その晩のうちに全部持ち運ばれたこともあった。備瀬一俵で六〇キロぐらいあった米俵を、どこからそんな力が出たのか不思議だったけれど、私もその時は必死になって運んだ。それでしばらくは食い継ぐことができた。

 

私たちは、三家族九人で満名のウンタチ橋を越えてトムイ山に避難していたが、激しい砲弾の間をぬって、しばしば芋掘りに通ったものだった。真暗な山道に迷い込んで、ふところにぬくめてあったマッチをすりながら、やっとのことで壕まで辿り着いたこともあった。

 

金城 大堂を猛烈な艦砲射撃を浴びた。殆んどの人々は谷底の壕に避難していたけれど、壕内の空気が汚れて悪臭を放っていたので、老人や子供たちは非常に苦しがっていた。老人たちは「日本がアメリカーに勝てるわけがない。絶対にかないっこない」などと言っては、若い連中に叱られていた。このようにして、谷底の壕に二か月余者避難していたが、旧の五月十五日(新六月二四日)に、下山せよという命令を受けて、付近一帯の人々と一緒に爽次に集合することになった。そこで万一米兵に捕まって乱暴でもされてはと警戒して、顔中に鍋墨をぬって歩いていたら、米兵らはそれを見破ってニヤニヤ笑っていたものだった。備瀬私の父もイムクン(芋で作った澱粉)を髪につけて、いかにも老人の格好をしていたが、米兵はその父を捕まえて、まず肩を調べて背のうの跡がないのを確めてから、オッケーと言っていた。私も男装をして、顔に鍋墨をぬり、ムンジュル笠(沖縄の農民独特の麦藁帽子)を被っていたが、米兵たちが横で指差しながら、こいつは女性だぞと笑っているのが聞こえた。私たちと一緒に捕まったある老婆のごときは、突然米兵に出会ったのですっかり仰天して、膝をつき両手を上げたり下げたりしながら、いつまでも命乞いを続けていたものである。

 

しばらくすると、米兵たちが詰やお葉子などを配っていたけれど、毒が入っているといって、誰もそれを食べようとはしなかった。

 

金城 避難している間に、カーミグワバンクという所で二人射殺されたことがあった。壕に入ったり出たりするのを米兵に見つかってしまって、ねらい撃ちされたのであった。私たちもすぐ上の方でその銃声を聞いていたが、それ以後は軍服などを着ていると殺されるといって、私の父などるウバサージン(芭蕉布の着物)を着て歩くようになった。

 

久志収容所の頃

金城 旧暦の五月十五日(6月24日)に兼次に集結してそこに一泊して翌日には久志の大浦に連れて行かれた。住民たちは、今帰仁から船で沖へ運んで海中に投げ捨てるそうだ、などといって大声で泣いていたものである。

 

宮城 私も兼次で家族を見送ったけれど、在郷軍人会長という立場上、おめおめと捕虜になるわけにはいかなかった。だから再びウッチントウの山に登ったが、その途中で片足を失った傷だらけの男に出会った。助けてくれと懇願されたけれど、それを振り切ってもといた場所に戻った。それから約四〇日間、私は友人と二人でずっとそこに隠れていた。

 

ある日その友人の親戚の婆さんが訪ねて来て、早く捕虜になって久志へ来てくれと懇願したので、彼は根負けして山を下りて行ってしまった。私も強くすすめられたけれど、一人だけでも残る決心であった。服はボロボロになっていたし、ひげも髪も伸び放題になっていた。

 

それからしばらくすると、こんどは私の母が説得に来た。母が言うには、住民は殆んど久志に集まっていて、すでに町長なども任命されて街のようににぎやかになっているとのことであた。もう在郷軍人会長だからといって、殺される気遣いはないようだから、一日も早く捕虜になって久志へ来てくれ、と頼み込んで母は一人で帰って行った。それから間もなく、ついに私も山を下りて久志へ行くことになった。

 

備瀬 久志に着いたものの、すぐにテントの奪い合いが始まった。今帰仁の人々が本部のテントを奪おうとしたので、本部出身には本部の人のテントがあってもいいではないか、などといって大喧嘩をしたものであった。金城それからしばらくすると、茅刈り作業に狩り出された。たくさんの男女が一緒に行き、前後にはちゃんとMPがついていたけれど、突然米兵たちが現われて誰彼のみさかいもなくかっさらって行くこともあったのだから、作業に出るのも命がけであった。

 

それとは別に、LSTから荷物を運ぶ作業もあったので、私は姉と一緒にいつも作業に出ていた。作業に出さえすれば、オニギリと味噌汁にありつくことができたし、それだけでも口べらしになったからである。また、看護婦の経験者は病院で働くようにということだったけれど、私はアメリカーたちと一緒に働く気にはなれなかったので、そこへは行かなかった。

 

とにかく久志という所は秀山ばかりだった。本部にはヨモギぐらいはあったけれど、久志にはすでにそれさえなかった。だから、楽の葉や海の藻など、食べられるものは何でも食べた。

 

<M> ひどい食糧難が続き、栄養失調で倒れる者も続出した。だから元気のある者はみんな本部まで食糧を取りに来た。当時、それは越境々と呼ばれていたが、重い荷物を担いで三五キロから四〇キ口も行列をなして通ったものであった。その苦労はたいへんなもので、久志に着くと三日ぐらいは歩く気もしなかったほどである。

 

ところが、久志の入口にはCP(民間の臨時督官)が待ち構えていて、せっかく運んで来た食糧を没収することもあった。二度も三度も被害をこうむった人々もいたので、私たちはそいつらを "島巡査グヮ" (CPの蔑称)と呼んで、その理不尽な行為を憎んでいた。

 

それから、その食糧運搬のさいに米兵に襲われた婦人がたくさんいた。男たちと一緒に歩いていても、男装で薄汚い格好をしていても、手あたり次第に巻い去るのであった。男がたくさんいても、武器を所持している連中に反抗できるわけがなかったので、そのつど泣寝入りするよりしかたがなかった。だから、あとになると女性は殆んど食種を取りに来なくなったし、男たちもわざわざ暗くなってから山道を通るようになった。

 

そして明治山まで来ると、道端に突然敗残兵が現われ、熱心に恵みを乞うのであった。気の毒になって分けてやることもあったけれど、時にはついムカッとなり、我々にだって帰りを待ちわびている妻子があるんだ、栄養失調気味の子供たちがいるんだぞ、などとどなりつけて断ることもあった。

 

とにかくたいへんな食糧難で、食いつなぐだけでせいいっぱいで「あったが、やがて私は、嘉数村長(戦時中の本部村長)の指示で労務班長になった。港で荷役の人夫たちを監督する仕事であった。そこで米軍は、人夫を駆り立てて深夜まで働かせ、疲労と空腹のために少しでも能率が落ちたとみるや、たちまち「班長班長!早く!早く!」とせきたてるのであった。

 

ついに本部へ帰る

金城 久志ではさんざん苦労したけれど、その年の十一月になってようやく本部に帰れるようになった。元の人々は一時は山里にいたが、間もなく村に下りて来て住み始めた。

 

宮城 帰村命令が出たので、本部に帰って来たが、街中が焼野原になっていたので、東・渡久地・谷茶の人々は殆んど並里に集まって来て、みんなで資材を切り出してテント小屋を作って住んでいた。また役所もそこにあったので、食梱も配給されていた。

 

備瀬 その頃浜元に軍病院があったので、間もなく金城さんと私はそこで看護婦として勤めることになった。だがある日の夕方、二人で浜元から渡久地に向かって帰って来る途中、トラックに乗った米兵たちとぶつかってしまった。米兵たちが車を止めて私たちに近づいて来たので、二人ともすっかりおびえて色を失ってしまった。強姦事件の噂をたくさん聞いていたし、もう逃げも隠れもできなかったからである。それでも病院の看越畑だと分れば許してもらえるものと、必死の思いで「ホスピタル、ホスピタル」を連発したものであった。そこへ運良くMPの車が通りかかったので、どうやら無事にすんだものの、あの時の恐怖は今でも昨日のことのように覚えている。

 

戦時生活 - 谷茶

本部町谷茶○○千代(二二歳)

牛小屋で商売

繁昌十・十空襲で谷茶は一面の焼野原と化したので、私たちはしばらくは知人の嫁に同居させてもらっていたが、間もなく、衣類と鍋と釜だけを持って、伊豆味の山に避難することにした。

 

当時、私たちはまだ結婚したばかりであったが、適当な家もなかったので農家の牛小屋を借りて、まず柱や壁に付着している装を洗い落とし、床もちゃんと炊いて、どうやら生活を始めることができた。だが、渡久地や谷茶から来た他の避難民たちは、殆んど生活に困っていたし、とくに子供をたくさんかかえている家庭では、三度三度の食事さえ満足にできず、農家で日雇などをしているありさまであった。さいわい私たちは、お金をいくらか持っていたので、付近の農家から来園を買い取り、大きな鍋で茶の葉を製造し、それを農家の芋や野菜などと交換して暮らしを立てていた。なかには茶園を買ってくれと申し出て来る農家もあったし、母がもともと商人だったものだから、私が作ったお茶を母が売りさばいて、商売は万事うまく行っていた。

 

田井等の金網の中にて

米軍が上陸して来たので、しばらくは逃げ隠れしていたが、やがて空からビラが落ちて来て、みんな所定の場所に集まるように呼びかけて来た。それを読んでおそかれ早かれ捕虜になるものと覚悟をしていたので、突然米兵が銃をつきつけながら家の中に踏み込んで来た時も、たいして驚かなかった。抵抗をしないようなそぶりを示そう、できるだけ気を落ち着けよう、と自分に言い聞かせながら黙って両手を上げたのであった。

 

外に出ると付近の避難民がゾロゾロ出て来て、みんな伊豆味校の下の三叉路に集合させられた。そしてそこからトラックに乗せられて、羽地の田井等の金網の中にぶち込まれてしまった。

 

テントの中には敷物など何もなくて、すぐ地べたであった。私たちは行列に並んでオニギリをもらったが、私はそれを食べながら主人の安否を気遣って泣き続けていた。主人はまだ山の中に隠れているというのに、まだ山に残っている者は全部殺されるらしい、という噂が流れていたからである。だが、やがて私は伊豆味の地理にくわしい人に頼み込んで、一緒に主人の隠れている所へ行くことになった。そしてそこで大声で主人の名前を呼び続けていると、ちょうどそこを通りかかった米兵たちに再び捕まえられてしまった。

 

だがそれでもあきらめずに、こんどは夜中に出掛けて行って、ついに主人を連れて来た。するとものの一分もたたないうちに米兵が現われ、「ユーバンゴウ、ユーバンゴゥ」と叫びながら、主人を連れ去ってしまった。番号を見せなさい、ということだったが、所持していなかったので、カンパンへ運行されたのであった。

 

他の男たちはひげも伸び放胆に伸ばして、年齢などを偽わっていたが、私の主人はひげもあまり生えていなかったので、兵隊だと疑われてひどい目に会ったとのことであった。

 

再び商売を始める

羽地から帰ってもすぐには谷茶に戻れなかったので、私たちはしばらくは崎本部の学校のテント小屋にいた。その頃、谷茶や浜崎には米軍の兵舎や倉庫が立ち並んでいたからである。谷茶や東の人々は殆んど並里のテント小屋にいた。

 

だが、しばらくすると、また商売ができるようになったので、こんどは鰹節の行商を始めることにした。しかし、どういうわけかそれが禁止になって、谷茶のブローカーが全部検挙されたことがあった。それでも食べていくためにはそれしかなかったので、ひそかに行商を続けていたが、あっちの村でもこっちの村でも大歓迎であった。

 

収容所 - 伊野波

本部町伊野波○○静子(二二歳)

久志にいた頃

私たちは山から下りると、今帰仁から久志へひっぱられて行った。主人は戦地へ行っていたし、三歳の娘と母と私の三人だけだったので、本部へ食棍を取りに帰ることもできなかった。一度だけ、母が帰ったことがあったけれど、途中で黒人兵に追いまわされてひどい目に会ったこともあって、暴行はされなかったけれど、それ以来どうしても帰そうとしなかった。時には実家の父が訪ねて来て、少しずつ分けてくれたけれど、久志にいた数か月の間、殆んど配給だけで過ごさなくてはならなかった。

 

当時は女性にとっては死よりも強姦の方がこわかった。男は睾丸を切って戦車でひき殺し、女性は強姦されるという宣伝が流されていたし、事実、ここでも親の目の前でやられた人もいたので、若い女性はとくに注意せねばならなかったのである。たとえ奪い去られても、目の前で襲われようとも、なにしろ男たちは近寄ることもできなかったし、見て見ぬふりをするよりしかたがなかった。

 

女性を追っかける米兵たち

久志から帰って来たものの、家は全部焼かれて何も残っていなかった。この一帯はたくさんテント小屋が並んでいたが、そこヘアメリカーが突然現われたりすると、みんなでドラム維などをガンガン叩いて追っ払ったものであった。

 

ある日、私たちは女だけで数人一緒にここから谷茶へ出掛けた。途中で四人の米兵が私たちに近づいて来て、いきなり、前後から私たちを挟み、私たちのなかの一部若い娘を逃れ去ろうとした。そこで私の母が、言葉は分らないながらも、大きな声で「渡久地、渡久地」と叫びながら、渡久地へ行くのだといって指さした。ところがその方向にたまたま私がいるので、米兵たちは、その娘はまだ若いからこっちにしなさいとでも勘違いしたらしく、こんどは私をつかまえて山の中にひきずり込もうとした。私は大きなザルを頭に乗せていたが、米兵たちが乱暴をしようとしたので、私の母や一緒に来た人たちが全部で私にすがりついて来た。

私はもうその時は死ぬのもこわいとは思わなくなっていた。そこで「私一人死んだらいいんだから何も騒ぐことはない。騒いだら全部やられるから」とみんなに言った。そして、どうせ死ぬぐらいならきれいに死のうと着物をなおしていると、私の母が「この娘をどうするつもりなのだ」と大声で泣きわめきながら、米兵たちにすがりついて行った。すると、さすがの米兵たちも気を呑まれて、私をつかんでいた手を離したので、いったんは死を覚悟した私であったが、頭に乗せていたザルをおもいきり放り投げて、後も見ずに一目散に逃げ、どうやら難をのがれることができた。

 

日本兵による虐殺 - 伊豆見

本部町伊豆味照屋忠次郎(四五歳)

資材の供出」私の家族は、戦前、フィリピンのダバオに十九年間もいて、二七町歩の土地に麻を栽培していたが、一九四一年に全部一緒に引き揚げて来た。そのためにかろうじて生き延びることができたけれど、そのまま向うにとどまっていて亡くなった人が多く、なかには一家全滅という例もある。

 

ともあれ、帰郷後、私は村役所の林務技手に命ぜられた。当時は木炭の供出などもあったが、戦況が悪化するにつれて、もっぱら軍向けの資材を検収する役員となった。宇土部隊が陣地構築のための資材を大量に要求していたので、伊豆味では伐採隊を組んで連日深材を切り出していたのであった。軍が指定した山は、私有林でも文句もいえず、とにかく資材を供出せねばならなかった。そのほかにも、軍馬の世話をする係などもいたし、嫁掘りなどの人夫として狩り出された人々もたくさんいた。また、作業中にちょっとでもぼやぼやしたりすると、いきなり飛んで来てぶん殴られたりしたものであった。

 

慰安婦朝鮮人軍夫たち

宇土大佐は嘉数村長の家に寄宿していたけれど、なにしろ評判の悪い隊長であった。民間の適当な家に女性を何人も囲ってほとんど毎日のように酒色に耽っていた。またそのほかにも、兵隊たちのための慰安所もちゃんとあったし、将校はまた将校専用の慰安所に通うといったありさまで、閑静な伊豆味の村が、すっかり殺伐たる兵隊の町に変貌を遂げてしまっていた。慰安婦たちは殆んど那覇の辻遊廓から連れて来られたジュリグワ(遊女)たちであった。

 

また渡久地には数十人の朝鮮人軍夫が来ていて、村役所の前を通って行くのをしばしば見かけたことがあった。軍夫たちは、ごく些細なことでもなんくせをつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景は、いまも忘れることができない。軍夫たちは昼休み時間になると、トウガラシをもらうために民家を訪れるのであったが、一、二分でも作業に遅れると、それこそ半殺しの目に会うのであった。

 

ところで、やがて私にも伊江島へ行けという徴用命令の赤札が来た。伊江島には二週間いたが、壕堀りや土運搬などをさせられた。荷馬車を引いている人々もたくさんいた。だが間もなく、すぐ伊豆味へ帰れという命令を受けた。伊豆味ではせっかく伐採した資材を検収する係がいなくて、軍としても困っていたのであった。だから、伊豆味に帰ると、軍用の資材が山と積まれていて、私は前にもまして多忙をきわめた。

 

十・十空襲

十・十空襲の日は、私は宿直で村役所にいたけれど、早朝からポンポンと大砲を打ち上げるような騒々しい音が聞こえて来たので、谷茶に据えつけられたばかりの砲台で、発射テストを始めたのだとばかり思っていた。ところがその時は、もうすでに伊江島は激しい空襲に見舞われていたのであった。そして間もなく渡久地の街も猛爆撃を浴び、一面の火の海と化してしまった。その日の空襲で街中が焼野原となり、役所も焼けてしまったので、それ以後は並里の塚で事務をとるようになったし、各村間の連絡も伝令で行なうようになった。

 

空襲から逃がれて伊豆味に帰り着くと、家族はみんなイシミジ山に避難していた。しばらくそこにいて、四、五日してから伊豆味に戻り、村の近くに壕を掘った。

 

当時は国民貯蓄も強制であったが、それも空襲で残らず焼けてしまったし、子供らの生命保険など三種類の保険があったが、何一つ残っていなかった。また、米などの食糧もすっかり焼きつくされてしまっていた。

 

照屋忠英虐殺事件の前後

年が明けていよいよ艦砲が激しくなってきたので、私たちの家族はイシンバ山に避難した。そこは町有林で、広くて深い山だったので、防衛隊の連中や本部一帯の避難民が密集していた。危険が刻一刻と迫って来たので、よそに移動しようと思って家族をせきたてたが、そこの方が安全だといって誰も賛成してくれず、とくにすっかり脇病になっていた父は、どうしてもそこを動こうとしなかった。

 

やがて、そこは猛烈な艦砲射撃を浴びた。まず、叔父が艦砲の破片でやられて即死し、父も足に重傷を負ってしまった。その日は朝の八時頃から一日中艦砲射撃が続き、付近の避難民はわれ先に今帰仁の山へ逃げ去ってしまった。だが私たちは、重傷の父を残してるはや立ち去るわけにもいかなかった。父の出血があまりにもひどかったので、足を天井につるしたり、木炭でお湯を沸かして傷口を洗い続けたけれど、その甲斐もなく父は十日後には死んでしまった。

 

重傷の父を前にして、もうこうなったらあきらめて全部ここで死んだ方がいい、一家一個所で全滅するのも時間の問題だと、絶望的な気持になっていたが、そこへいとこの忠英が訪ねて来て、一緒に逃げようではないかとしきりに誘ってくれた。だが、「重症のおやじを置いて行くわけにはいかない」と断ると、さらに「それじゃ一人だけ跡取りを残しなさい。跡取りだけでも私たちと同行させなさい」と言っていた。しかし私は、どうせ死ぬなら子供たちも全部一緒にそこにとどめておくことにした。忠英というのは、当時、本部国民学校の校長だったが、山の中をさまよい歩いているうちに日本軍に捕まえられ、スパイ呼ばわりされたあげくに斬殺された照屋忠英のことである。

 

猛烈な艦砲の中で、「殺してしまえ。こいつ一人のためにみんながやられるから早くこいつを殺せ」と、兵隊たちが怒声を浴びせているのを、恐怖におびえながらもちゃんと聞いていた村人たちがいた。忠英は耳がかなり遠くて、飛行機の音すら聞くことができないほどであったが、私たちと別れてから、ずっと山の中をさまよい続けていたらしく、大きな声で兄の心助や私の名を呼んでいるのが聞こえたと、伝えてくれた人々もいたし、また、日本軍に斬られてからも、私たちの名を呼び続けていたと、村の人々は教えてくれた。

 

忠英が斬殺されたカシンナー山は、私たちの隠れていたイシンバ山からは、ほんのわずかの距離にあり、小さな森によって隔てられているだけであったが、艦砲射撃があまりにも激しく、空には偵察機が旋回し続けていたので、私は一歩も外へ出ることができなかった。

 

砲撃が止んだのはそれから数日後のことであった。そこで私は、腹ばいになったりしながら、ようやく忠英が斬殺された場所へ辿り着いた。忠英は国民服を着たまま倒れていた。暑いさかりに数日間も放置されていたので、ものすごい死臭が漂っていた。そこへ兄の忠助たちもやって来たので、私たちは脚絆と足袋をつかまえてムシ口に乗せ、遠くに運ぶことはできなかったので、とりあえずそこに埋めておくことにした。その時はすでに、忠英の妻も破片でやられて死んでしまっていた。忠英は妻の死も知らずに斬殺されたのであった。

 

食糧強奪に来た敗残兵

それから間もなく、私たちはイシミジ山に移った。そこで私は、死んだ父のために形だけの仏壇を作り、木片でこしらえた位牌を安置し、生前父が好きだった煙草を供えていた。

 

そこへある晩、五名の部下をひき連れた敗残兵が突然現われた。そしていきなり、「私は運天から来た者だ。きさまらがスパイをしたために日本は負けてしまった。外へ出ろ。斬り殺してやる」とどなりながら、軍刀をチャラチャラさせていた。小屋の中では家内も子供たちも恐怖におびえていた。ちょうどそこに居合せた友人と二人は、あきらめて言われたとおりに外に出た。するとこんどは、「家に血が飛ぶからもっと離れて立て」と怒声を浴びせられたりしたが、もはや私は、怒りも恐怖感もなく、ただ目をつぶって立っていた。

 

だが、兵隊たちは軍刀をチャラチャラさせていたが、ついに私たちを斬れなかった。そしてやがて態度を一変して、「おい、食糧があるだろう。きさまらはアメリカから物をもらっただろう」などと言いながら、小屋の中を物色して、仏壇の煙草まで奪って去った。

 

また隊長格の男は、私に対して「君は照屋忠助とはどんな関係か」と尋ねたので、「いとこです」と答えると、ポケットから帳面を出して、これとこれは明日”ってやる、などと残忍な言葉を吐いていた。その帳面には、村の指導者層の名前が殆んど書きつらねられていた。

 

そいつらが立ち去ると、私は急いでいとこの忠助の所に走った。そして敗残兵が殺しに来ると言っていたから、すぐに逃げなさいと説得を続け、それから数日間、彼をある場所にかくまっていた。

 

事実、忠英だけでなく、太田守徳という人も、道案内をしてくれと誘い出され、斬殺されていたので、私たちは、昼は米兵に見つからないように逃げ隠れし、夜は夜で敗残兵の出現におびえるという恐怖の日々が続いた。ほかの地域の人々が羽地などにひっぱられて行ったあとも、伊豆味ではこんな状態がなおしばらく続いていたのであった。

 

山中避難 - 伊豆見

本部町伊豆味○○マツ(五一)

 

今帰仁の山に逃げる米軍が上陸して来たら伊豆味が決戦場になるのだから、一刻も早

 

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》