『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 本部半島編 3

 

友軍に虐殺された父

今帰仁村湧川謝花恒義(十六歳)

今帰仁村で日本軍に最初にやられたのは、平良コウ何とかいう人だったと思います。アメリカ帰りです。スペイン語が話せる人であったです。そのあとが、うちのおやじたちです。わたしはずっとこちら、湧川におりましたから、直接この父の死に目にあっていないんですよ。わたしはこっちに祖父祖母といました。弟たち、それから妹たちは全部宮崎の方に疎開していましたから、この連中が疎開から引き揚げしてくるときにはもう、すべて事が終いたわけですよ。わたしはそのとき十六です。父は四十いくつだったでしょうかね。

 

まあ、その当事の模様(謝花喜陸氏虐殺事件)など、わたしが直接見たわけでもないし、あとから喜仁の自分の家の方にいって、おじいさん、おばあさんに会って聞いたことですから...。

 

十・十空襲の頃はですね。こっちの方(北東の方を指さす)。ちょうど屋我地の渡しがありますね。あそこに山根部隊という陸戦隊がありましたよ。そこに艦船がいっぱいおりましたので、そこと、それから運天港に白石部隊魚雷艇隊とつるが隊の特殊潜航艇隊がおりましたのでね。あそこが目当てですよ。今の今帰仁中学が製糖工場であったんですが、そこと運天港に軍事物資があって、あの辺みんなやられたですよ。そのためにやられたと思うんですがね。製糖工場はその頃、シークヮーサを相当しぼってジュースにしたことがありますよ、一時期は。それは何か兵隊のためだったと思うんですよ。

 

十・十の日には、わたしたちはまだ天底(国民学校)の生徒ですよ。高等二年でした。

その日は最初、朝の学校へ出る時間位でしたかね。七時そこらへんぐらいになりましょうかな。この上を通っていったんですよ。おそらくグラマンでしょうね。艦載機ですからね。一度、運天港のあたりを旋回して、伊江島が基地だったから(日本軍)、むこうへいってかえったと思うんですよ。それからわずかの時間せいぜい三十分くらいしてから、またやって来て、あとはもうどんどんですよ。で、ここら辺の住民は避難しました。避難場所といっても、十・十空襲のころは戦争なんていうものがよくわかりませんから、防空壕というものがよくわかりませんから、防空壕というのは簡単なもので。だいたいそこの公民館の前、これは鎮守の森ですがね。あすこと、学校の向う側の谷間になっているところあたり、その下いっぱい防空壕なんですよ。サイレンは爆撃がはじまってからしか鳴りませんよ。だれもまだ空襲なんてのは聞いたことも見たこともありませんしね。おそらく非常に上空だったと思う。あれは飛行機雲だったんでしょうね。誰しも、ちょっとおかしいなと、ひそかにみていました。だけどしばらくしてあっちこっちで変な爆裂の音がするんですね。はじめのうち、きょうはまた、友軍の演習なんだとか、おお、たいしたもんだなあとかーそのすぐあとからですがね、ボンボンはじまったのは。わたしたちの避難場所は谷間のほうですよ。たしかに空襲だというのがわかってからサイレンが鳴ったんですがね。逃げる準備をはじめたんですが、その日はもう学校は休みです。ちょうど校門あたりの家が建っているんですけれども、ちょうどそこらへんで第一撃は、わたしたち当りましたね。ほんとうは自分たち目がけているわけじゃないんですね。ちょうど向こう、これからあの渡しというと、だいたいここら辺から低空飛行はじめないと、爆撃できないようなんです。ちょうど自分たちが、この葉の方へ逃げこもうとするときに、三、四機ぐらいの編隊でボンボン爆撃しました。あれから十・十空襲のあとというのは、わたしたちはもう一応は、戦争が近いんだということは、もう十五、六にもなりますので、解っていたわけですがね。でも人家に被害があるんだとか、ここら辺の人家に被害があったんだとかいうことは、殆んどありませんのでね。運天やそこら辺に行きますと、やはりだいぶんやられていますからね。

 

運天港のすぐ近くだし、だいぶんやられましたよ。ここら辺でやられたといっても、この海岸べりの船しかやっていませんので、殆んど人家には、何の被害もないですよ、ここら辺は。

 

そのころは学校の高等科ですから、もう朝から軍事教練ですよ。防空壕掘りですね。ちょうどあの白石部隊がおりましたんで、それに山根部隊とか、ああいったような陸戦隊の人々などへ協力、でもう朝から防空壕掘りですよ。それからちょうど今帰仁小学校のほうに、井上部隊が駐屯していましたよ。でそこの陣地構築作業ですね、それにもう全部かり出され、殆んどもう授業はしていないですよ。でちょうど自分たちの同級生からも三名、実際二人ですか、ひとりは航空志願して少年航空兵として行って、ひとりは海軍志願して行って、で、ひとりは湧川の人間で、嘉陽といって、こいつは帰ってから亡くなったんですよ。

 

で、この天底のやつで喜屋武というやつは、喜屋武甚彦さんなんかの親戚らしいですが、ブラジル帰りだったんですけれども、これは海軍志願してそのままもう帰らないんです。だから自分たちももう卒業当時は、今でいう進路指導とか、そういったことはなかったですね。中学に進むなどといったような連中は、そうたくさんいなかったですよ。十四から十六ぐらいの人までくらいで、農兵隊というのがありましたよ。農兵隊といってですね、いわゆる増産部隊みたいな格好でですね、一つの隊をつくって、あっちこっちの農地を耕やしてですね、藷など植えたりしたのを記憶しています。こういったものに行った連中とか。だいたいもう上級学校に進むんだというような連中は、あまりたくさんいなかったんですよ。

 

自分たちも結局は、もうだいたいあのころもう陸軍幼年学校とか、少年戦車兵とかですね、そういったもんがだいたい憧れの的ですよね。あの頃の少年航空兵ですね、それに引っかかっていったのが、まあ嘉陽君ですけれども。あの時、ああいった所に進むというようなことでしたからー。だいたいまあ十四、五名ぐらいは自分たち上級学校に進もうということで、一応自分たちが戦前の一番最後の受験生なんですよ。だから越地の金城秀雄君、あの人々も自分らと一緒なんですがね。あれ今帰仁小学校なんですよ。わたし天底ですからね。こちら湧川分教場だったんですよ。今の公民館の前です。今幼稚園がありますね。あれが天底小学校の分教場なんですよ。単なる山、この辺は畑ですね。秀雄君は、受験はしたものの落されて、自分たちが一番最後の受験生ですから、結局、秀雄の連中は一か年待って受験するということになって、それから戦争になっていますから、別に受験などできないでですね夫で結局戦後の第一回目の高等学校の生徒ということになります。結局自分たちの同年生の場合には、中学といいますとあの頃六年から受験できたですよね。だから自分たちの同級生としても六年から受験した連中は、もうすでにあのときに、三年四年になっていますよ。結局自分たちの同年生は、むこう戦後の学校を出たときには、受験はしたものの、そのまま学校を行かずじまいです、そのままずっと戦争に追われっぱなしです。ですからもう全然卒業証書なんていうものもないんですよ。たしかそれ過ぎてからになりますと、三月、この辺に来たのが三月の何日だったですかね。だから、自分たちの卒業証書とかそういったようなものは、どこかの防空壕にたくさんあったらしいですよ。もうこの辺に来たのは、やっぱり四月頃じゃないですかね。十・十以後、十一月から五、六か月の間は生徒の生活と言っても、朝から晩まで陣地構築ですよ、自分たちの場合は。で父兄一般住民といいますと、伊江島徴用とかああいったものですね。荷馬車部隊までみんなかり出されたわけですから。むこう伊江島の飛行場構築ですね。それとまあ、大丈夫だろうと思っていた人々も、どんどん、どんどん応召される。で、あの頃からじゃないですか、いろんな軍事教練が、今迄よりずっときびしくなったのは。護郷隊にどんどんとられるし、といったことだと思うんですがね。その間はもう生徒は全く学習どころじゃない。朝から晩まで陣地構築ですね。それと一般住民は、殆んど働ける人、青年団の人々も全部伊江島の、殆んどこの辺は伊江島です。あの頃はまあ徴用といったんですがね。荷馬車部隊といった人たちは殆んど遠く読谷まで行ってる筈です。この辺からかり出されてですね、その頃はもうこの辺ではそう変化はないですね。結局十・十空襲で焼き払われた難民ですね、ナハあたりから中南部の人々、あれが全部呉我山の奥の方に避難しましたからね。あの小屋作るの、わたしたちもやりましたよ。学校生徒がですね、みんなかり出されて作ったんですね。今の自練あたり(渡喜仁)、監視所だったんですよ。あっちの構築作業もですよ、この五、六か月というものはもう全く勉強なんていうものは絶対やっていないですね。一番大切な時期であったわけなんですがね。あの頃の教育とかなんとかということになりますとそれで徹底してきたんじゃないでしょうかね。しかしこの三月からの空襲が始まって、四月になってからはもう勉学とは縁を切って逃げなければなりませんのでね。それからはもう大変ですわ。しかしこの辺では幸いに食うには困らなかったですがね。もういつもよりはおいしいのを食ったわけですよ。あっちこっちの豚は逃げるし、山羊は逃げるしですね。それからみんなつかまえて誰のもんか分りませんから殺して食べるんです。四月の、一番最初に米軍と出くわしたのは、自分たちじゃなかったですかな、恐らく。というのは、ちょうどここですよ、鎮守の森ですね。森の南側に面したところ、このまだ残っていると思いますがね。朝の何時頃でしょうかなあ、もうどんどん、空襲は始っていますから、あんな遠い所の避難壕では心細いからというんで、できるだけ近くだということで一応そこに逃げておったら、やっぱりあのときのの作り方は、たくさん入口あるわけですけど、壕と壕の間はみんな通路にしてですね、どこからでもこうして出来るような方法で作ったわけですが、ちょうど学校の前のずっとむかいがわの森ですがね、あっちでどうも変な声が聞こえるんですがね、あっちですよ。飛行機はボンボンとんでいますからね、おかしいんじゃないかということで、のぞいたら、鉄カブトに偽装網に木の葉さしたりいろんなことをしている背の高い連中が、二、三十名ぐらいずらっと並んで、あっちこっち森の上から立って見ているわけですよ。鉄砲持って。こっちにおったのはよく見えたんですが、すでにもうこっちに来ているんですよ、兵隊は。こっちは下になっていて、目の前にきたのがわからないわけですよ。でも逃げるのをみても撃たなかったですよ。しかしあの頃、各学校軍事教練用として使いもできない鉄砲がたくさんくばられていて、あれ一つうちに持って来てあったんですよ。自分たちもしあれがあるの見つかれば、その場でやられておったんじゃないかと思うんですがね。ちゃんとあれは奥のほうにかくしてあったもんですから。これはもう見られなくて。兵隊が入口に立ったもんですから、この横の道からずーっと逃げたわけですよ。逃げて鎮守の裏手のほうにですね、の中に入っている人は向こうに全部逃げていったわけですよ。後で話してみると、そのとき山の上の方におった人は、ずっとこのヨットハーバーの方からですね、戦車とかそういったもので、どんどん、どんどんこちらに来るのを見たんだそうですが、離れておりますから、面と出くわしたのは湧川で自分たちが初めてじゃないかと思いますが。別に射殺されたとかいうことは、ないんですよ、ただ、今は那覇に引越しておられますけれども、仲松といって、その人のダンナさんがですね米軍と向かったんですよ、鍬を持ってですね。その場でやられました、あれは。あの人がやられたのは、おそらく四月の米軍が上陸したその日ですよ。その日にやられた第一号です、あの人は村民の目の前でやられたらしいんですけれども。パッと来たもんですから、鍬を持って向かったんでしょうね。それからずっと、隠れて逃げのびていたんですが、そのあとからですね、役所におられる大城セイシュンさん、あの人の奥さんがですね、湧川の人なんですよ。その次男でしたか、この学校の向かい側の森、鎮守の森の裏側になるんですが、あれから森の裏側を廻って自分たちは逃げのびて一つの壌に翌日まで隠れていましたがね。そしたら、その子どもがいたんですよ。壕があって入口があってここの上に米軍はいるんですよ。ここに入っている中の子どもが、わぁわぁ泣きだしたんですよ。腹減っていますからねえ。このの中には、だいたい十名ぐらいは入っていたと思うんですが。上には、米軍が立ってちゃんとあっちこっち見て回っていますからね。おそらく泣声は聞こえたかと思うんですよ。子どもの泣声だからと言うことで気にもとめなかったかと思うんですが、すんでのところでその子どもをやりましたよ。みんなのためだということでね、鎌で。それを祖母が、死ぬのは一緒であって、子どもをそんなにすることはないだろうということで、結局はみんなで止めてその子どもは生きたわけですがね。もしみんながその気持なければもう子どもは死んでいましたよ。セイシュンさんの奥さんのお父さん、お母さんが泣きさけんで、わめいてこの子ども殺すなといって止めたような記憶はありますがね。奥さんにしてみれば、たくさんの命とは代えられないとい気持からだったと思いますがね。あれはもう一番イヤな思い出でもありますね。自分の子どもを殺さねばならない立場になりますからね。それからずっと逃げのびて、湧川の人々が殆んど隠れていたのが、今の嵐山のむこう羽地寄りのふもとになりますがね。あれは、そこに川があったんですよ。その川は、羽地の呉我の辺に流れていると思うんですがね。それに沿った部分に、殆んどあの頃隠れていましたね。それからあとはもう全部、羽地の方に行っていますから。だいたい仁、運天そこら辺の人も、外人マリン道ですね、あの四班から裏側に杉林があって、そこらへんに大部分隠れていたようですね。もうそのまま山ごもりです。だいたいもう湧川の人は、この辺からずっといっぱいしておりますので、今の嵐山の方に一応落ち着いた感じでしたね。食糧事情とか、そういったものは割とよかったですよ。ずっと自分たちが隠れているが、豚とか牛がいっぱいおりましたからね。だいたいもう草刈りでその管理をする人もおらないし、牛もみんな逃げておりますしね、みんなつかまえて来て。あと青野菜食べないわけですからね、昼間は煙出せませんので、夜の間に。自分たちがやったのは牛肉ですね、それをいい部分だけを取って、たくさんいっぺんで煮込んでね、それを食べるわけです、それが常食ですね。のちには変な斑点が出来ましたね、紫色の。あっちこっちできたんですよ。毎日毎日これだけですから。何もないし、穀物もあるにはあるんですがね。米軍がこちらに来る前にだいたい穀物などの保管の方法としてはですね、カメの中に、もみなどを入れて密封して地面に埋めて、それでふかしてたべるんですよ。夜こっそり出て行って、これを掘り返して取ってくるんなら、あったんですけれども、それがなかなか思うように出来ないわけですからね。結局手っ取り早い肉をとってきたんですね。あの頃忘れられないのが、自分たちが四班の裏の中の杉林の中に避難して、第一の避難場所というのがあの杉山の防空壕なんですね、で、

 

そこには昼間は駄目なんですね。それで昼間は弁当持ちというんでしょうか、肉の塊をもってですね、米人がなかなか来ないような山の中に一日中ねそべっているわけです。杉林が昼間よくないというのは、米軍の監視兵が昼間は近くまで来るからです。夜になれば屯地へ帰りますから、それで夜になればまた自分たちはそこに戻って、翌日の食べものの準備なんかして夜明けとともにまた出ていくわけですよ。自分たちには、杉山にかくれておって近くではどうも避難が思うようにいかないから今日から少し場所を替えようということで場所を移動したんですよ。そして昼間に出てきたら困るというので、だいぶん日が西に傾いてあとから出てきたんですね、出てきたら、我喜屋繁さんの実家が盛んに燃えているわけですよ。そのときすでに繁さんのお母さんと祖母に当たる人とは家で射殺されているんですよ。やられて火をつけられている。

 

繁さんの家はこっちで、森の方にいっぱいテントをはって準備しているんです。これからこの山は大変見通しききますからね。なぜそうなったかといいますと、そのときは伊豆味のマブイからの敗残兵がどんどんこの尾根をつたわってずっと羽地の試験場を通って多野岳(タニュウ)に通ずる一つの通路なんです。それに目をつけたのが米軍なんですね。この森からこの尾根というのは非常に見通しがきくわけです、だから見張りがついているのです。大体十二、三くらいのテントがあったでしょう。自分たちは繁さんのうちがここ、日が傾いてきたときはこれからこっちが見えますからね、ああやったなあと思って、ふと横に目を移すと、すでにウロウロしているんですね。こちらではうっかり出れない、しばらく待とうというんで、日が暮れて真っ暗になるまで。あのときは嘉陽宗徳さんも一緒です。あの人々も応召されていたと思いますが、竹槍と手榴弾をもって岩のところにかくれました。ここで、少しでもやろうものなら、見通しがきくわけですよ。自分たちはここにかくれておって暗くなるのを待って、食糧や日用必需品をとりにいくわけです。ここ一帯は呉我山の平安山といって茶園を経営している人で、平山良明さんのおじさんに当る人です。これからこのみえる山、この茶園を通ってでないといけないのです。自分たちは行こうとしたんですが、すでにこの辺一帯もう電線が張られておったらしいんですね。どういうわけか自分たちはそれに引っかからずにここに来て、何か担いでいったんです。二度目のとき、はじめて発見されたんです、嘉陽宗徳さんとですね。結局ここにおれないので嵐山の方へいこうということになって、その途中なんですがね、このときはもう終りじゃないかと思ったんです。射撃されてさんざんな目に会いました。情報があってこの辺一帯を警戒しておったと思うんです。伊豆味からの兵隊はこの辺を通ってみな多野に逃げてますからー。

 

十六歳だったんですが、たくさんの荷物をかついでいったんですがね、疲れて目的地までたどりつけないんですよ。道のそばに寝てろんで休んだですが伊豆味の兵隊はいっぱい多野の方に越していきましたですね。その腕に越してきましたけどね。撃たれたけど被害はなかったですね。我喜屋繁さんもたしか一緒でしたね。日本軍を誘導しておったんじゃないですかね。日本軍の道案内役買って出たと思うんですがね。その昼間にはお母さん、おばあさんと二人やられているわけです。今も屋敷はそのままですがね。新しい家は建っています。お父さんの宗さんはまだおります。この人は口が悪いんですよね、自分の奥さんとその母親もやられていますからね。ししばらくして、昌さんなんかはヤケになっていたんでしょうね。こんな山奥にかくれておって苦労するよりはやっぱり羽地(収容所)にいったほうがいいんじゃないかとうっかり口をすべらしたために、すんでのところでやられるところでした。それを止めた人も今健在(勿論宗さんも健在です)、十八位でしたか、あの姉さんは。

 

その人が日本軍に殺してくれるなと、泣いてなだめてわびを入れてですね、この人は米軍に妻も母もやられて気持が高ぶっているんだ、ということを説明したので許された。もうすんでのところ、一というとこですね。この友軍たちは、結局、マブイからの流れ者ですね、いわゆる多野に突破しようにも出来ない、もう釘づけ状態にされたような人々ですよ。それが避難場所に同居していたわけですね。だいぶん日本兵がおりましたよ。そのときですよ、竹下さん(中尉) (註・武下) たちがやられたのは。小屋作ってありましたからね、日本軍の海軍と陸軍両方。天底から来た海軍と向うから来た陸軍とですね。同居ではない、どっちかといえば別々に住んでいた。


それからはしばらくすく川という所に落ちついていましたがね、それで出ていったほうがいいということで、結局、羽地の呉我、我部祖河、古我知の方へ全部移りました。この辺の人は殆んど呉我と我部祖河ですね。その後はもうずっと羽地ですよ。湧川あたりが一一番最初に今帰仁では学校はつくったでしょうね。一番最初に帰ってきたと思いますから。ちょうど今の公民館の方に、テントを張っていましたから。羽地の方へ行ったのは、五月。自分たちが、日本がポツダム宣言を受諾したんだということを聞いたのは八月十五日で、わたしたちは羽地におりました。自分たちがすく川というところに行ってからは、米軍はどっちかというと友だちみたいな感じがしましたね。

 

むしろ恐いのは日本軍ですね。その頃まだ友軍と言っていましたよ。自分たちの親父連中がやられた後もですね。彼等も、米軍よりは日本軍が恐いんだと。

 

おやじがそういう目にあったのを知ったのは、亡くなって二、三日もしてからかね。ちょうど渡喜仁あたりの人々全部湧川のたよりを頼って来ておりましたのでね。それから伝え聞いたわけですよ。それで早速、自分は古我知に伯父(比嘉善雄)がおりますんで、アメリカ帰りですから恐らく伯父はやられるんじゃないかと、すぐ人を使いに出して、これはこうなっているから、伯父の場合もアメリカで教育を受けて来た者であるし、次は危いぞと。うちのおやじは、あの頃も産業組合していましたね。産業組合関係、役所関係人事の関係をみんなやっておりましたんでね。長期戦になるということは予想したんでしょうね、恐らく。だからあっちこっち避難している住民たちに、今のうちに増産しょうじゃないかと呼びかけたらしいんですね、確かに。それが結局ウラに出たんじゃないですか。それでやられたと思うんですがね。

 

あの当時は、日本軍の連中とベッタリの女の人もいたようですがね。もしかしたら、その女の人からの密告もあったんだろうということを後で聞かされたわけですがね。この人も実際に今、中部の石川辺にいるということですよ。肝心なことになるとこの人も、わたしに言わないんですよ。この人の話を聞いたという人々もたくさんいるらしいんだがね。そこのところもわたしには、どの程度事実であるかはっきりしないんですよ。うちのおやじの場合は、第一にあの頃の村の有志になりますし、農業関係とかそういったものも手広くやっていたし、悪くいうなら、ここら辺一帯ではどちらかというとボス的な存在であったかも知れませんな。そういった面で、うらみだったかどうかはこれわかりませんがね。わたし、この兵隊を大分探し廻りましたよ。あれからですね、日本の軍隊に非常に嫌悪感があるのは。ちょうど十六、十七ですから、手榴弾一コニコ必ずわたし持って歩いたんですがね、しばらくは。それらしき者がおったらということで探したんですがね。とうとう、そういったものは、時が解決してくれたんでしょうかね。

 

自分が一番考えるに、あの頃の精神状態といいますかね、どっちかというと正常じゃなかったのですから。だれもかれも、どうせ米軍と相対したって勝目はないんだし、ひとつのうっぷんばらしみたいな格好になっていたんじゃないかなあ。なかには、農家の人々のためにも日本の兵隊たちを連れて来て、畑を耕してあげたりとかいう人々もおったんですがね。それはまだ戦争が近づかないときにあったんであって、殆んどちりぢりになってからは、作物をせびりに来たりですね、物モライ同然ですよ。だいたい畑のある人は、友軍、友軍だということで、自分たちの食糧を減らしてでも彼らにものを持たしてやりましたんで、今後そういったようなことがあるのかわからない。これは自衛隊とかなんかとかいうことにもなりますと、やはり一番肉親を亡くした自分たちにいわすれば、こういったのはもうまたとはつくってもらいたくないですね。

 

うちのおやじ達中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行ってとり囲んでいた。相手は五、六名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。別にそうされるということを全然予期はしていないもんですから。今まで村のために尽くして来た人だし、また応召される方々の見送りとかそういったようなものも、在郷軍人の会長でもあった関係で、みんな一手に引き受けてきた。それはもう村の守護兵であったわけですから、そういったような面でなにか協力要請に来たのじゃないかぐらいに考えたんじゃないですか。まだ四十何歳かですから、まだまだ充分働ける年であったわけですよ。キホウというのは、初に呼び出されて一緒に出ていったらしいんですがね。何名かグループをつくって、あっちこっちリストにもとづいてやっていたんだそうですね。

 

何の抵抗もできない人々をこういうふうにやったというあの当時の友軍というものは、憎んでも憎みきれないというんですかね。あの頃の人々の一般的考えからすれば、戦争に負けるといったような考えは毛頭なかったわけですからね。それが、あにはからんや戦局はそうじゃないと、実際追いちらされているんだと。そうなるというとこれらの人々の考えにしても、やはり友軍にちょっとこう同情している面もあったと思うんですよ。自分たちも被害者でありながら、そういったようなことは顔にも出さずに、ご苦労さん、ご苦労さんで通したわけですからね。それにそういったような中で、相次いで残虐な行為が起ったもんですから、これはいかんということで、もう今から一番こわいのは友軍だといったような考えがでてきた。

 

当時、友軍といったような言葉が民間に使われていた。やっぱり自分たちとしても憧れていましたからね。あの頃の教育の恐しさというものですね。どういうふうな方法であれだけとけこんできたかですね、また実際に、自分が勉強している学校の中には、軍隊も駐屯しているわけだし。ぼくたち勉強の時期ですね、最後の追い込みをかけようということで、天底 (今帰仁村) の図書館に宿泊して勉強したんですよ。十・十空襲のあとです。夜は合宿で勉強する、昼間は陣地構築というふうな目の前で、実際に海軍の兵隊たちがいるわけですからね。見るもの聞くものもうすべて軍隊のものですし、自分たちはもう、勉強の合間合間、モールス信号を覚えたりですね、手旗信号を覚えたり、その中には応召で来たおじさんたちがおりましたので、その人たちの手伝いをしたりしましたよ。だいたい海軍では、みんな白石部隊なんかやっていましたけれども、司令室の方から信号灯を点滅させて、それを解読させるといったようなものを毎日やっていました。おじさん連中も全部引っぱり出されてやったんですけれども、こちらはまだ頭のやわらかい十五、十六ですからね、解読の方法とかそういうのを少しおそわれば、あと解読するのはわけありませんからね。このおじさん連中にどうするのかと聞いたら、いま送られてきた信号を解読して、司令の方に通知するんだと、間違ったら打たれたりとか、もう妻子のあるおじさん連中ですよ、もう分らんと、君たちも手伝いしてくれんかということを言うんですよね。自分たちもよしよしまかせておけと。やんちゃですからね、こうこうだということを紙に。ああ、みんなよかった、ほうびをあげようといって、ビタミンAの小さなお菓子がございましたよ、海軍のですね。それを戦闘帽の一杯もってきてですね。ああいったようなお菓子は食べたことがなかったですよ。先生方なんかになりますというと、タバコなんてもう殆んどない時代ですからね、先生のタバコだというんでタバコを持って来てくれる兵隊たちもいましたがね。この人たちほとんど沖縄の人でした、聞いてみたら。おそらく徴用かなんかで出てきた人々じゃなかったですかね。二水(二等水兵)ぐらいですよ、みんな。

 

あの頃の軍隊に憧れる教育、決してあれは急激にはやってきておりませんからね、知らず知らずのうちに吹きこんでいったんですね。これはもう、相当の罪悪ですよ。

 

うちはおやじの弟、その弟と結局、三名は戦争でやられたわけですよ。長男がうちのおやじでして、次男が警察の方にいたんです。水上警察のほうにいったんですよ。警部補でしたから、那覇のほうに行って、その飛行機で連絡する途中でやられてしまったわけですよ。連隊区司令部に行ってですね、中から一応帰ってきて、ま連隊区司令部に配置がえになってそこでやられたんですよ。三男の子で長男ひとりはおりますよ、渡喜仁の人、現在普天間高校の数学の教師で。三男の子は、人間の運、不運をみせてくれます。宮崎へ母子で疎開したのです。宮崎の空襲で、おんぶしていて防空壕に入ろうとするとき、機銃掃射でやられて、子どもは助かった。人間の運、不運というものは大変なものですね。戦争のために両親ともやられたんですがね。

 

 

 

主婦の戦争体験 (座談会)

今帰仁村

玉城 (四二歳) 主婦

宮里 (三一歳) 主婦

上間 (二八歳) 主婦

 

玉城 十月十日の空襲の日にはここにいました。今泊では家が一軒焼けました。一軒は爆弾が落ちました。中原アキさんという、兼次小学校の炊事している世話人のアキさんの家です。そのうちの前の庭に。アキさんはこっちにいなかった。家は茅葺で、大きい家ではなかったけど。山羊なんかやられました。わたしたちは家の庭に防空壕を掘って、砂地でしたけどいました。防空壕は簡単なもので、かがんで入る位の穴にアダンの葉や土、砂なんか厳っていました。入口には板なんかでおおうて入っていました。アキさんの家から百メートル位離れていましたが、防空壕の中の砂崩れて落ちましたよ。その日は昼じゅう、八時頃から五時頃まで空襲で、晩はやみましたから見にいきました。翌日は何もなかったです。家は茅だけ全部飛ばされて、板なんか釘が半分位抜けていました。鶏なんか腸が飛ばされてカラになって。屋敷内には人がいないで、そのうちはみなよその壕へいっていたので、人は何ともありませんでした。

 

わたしも、その朝ですよ、どっかでドンドンドン空襲の音がしたもんだから、あれは伊江島の演習であるといってですよ、大通りに出たら飛行機がこうして急降下のジェスチュア)降りるのがみえよったですからね。演習であるといってみんな立って見てるわけ。

 

そしてしばらくしたら、この辺にも来ましたから、そして機銃がはじまったから、これ大変といって、庭につくっている袋に入った。あの日は何も食べなかった筈です。子守りだけ。それから翌日も来るかと思って、山に逃げてですよ。家にいた人もいました。わたしは二日位おってよ。うちの息子が徴兵に、十五日に具志川の平良川に入隊といってよ(沖縄県史8、P・三八〇参照)。十三日まで山におって帰って来て、十五日の朝、平良川の公民館に来なさいといって通知がきていましたから。見送りする人もいないですよ。夜、親戚の人だけ来て、夜で顔なんにも見えないで、シマの二十一の徴兵検査の兵隊だけ。いつもは字民みんなで見送りよったけど、ヌンドゥルチのモウで旗もって見送っていたけど、あのときはみんな山にいたから、親戚の人だけ来て県道まで送っていった。わたしらは村までいこうといったけど、ここでもう、というのでー。もう、ものも見えないで、誰も顔もみえないですよ。暗いときに。村にみな集合したら、誰もついていく人もいないで、こんな小さい紙片に行く先を書いてよ。一人一人で歩いて平良川までいってよ。引率も誰もいないで、自分で入隊したわけ。

 

わたしももう、気が済まないでですよ。いっぺんは面会しないと気が済まないで。あの当時乗り物も何もないですよ。トラックありましたけど、あっちまで面会に歩いてよ。

 

その翌年の一月。一月七日でした。ウンジャミヤーのおばさんとフイチャーの仲宗根栄俊さんと三人で歩いていくことにしました。泊る目当てもないので、途中でアカがったところ(明りのみえるととろ)いって泊るといって。こっちからでて恩納から東廻りをして、今の何とかどーチ、うん、屋嘉までいってよ。歩き通しで。許田から明治山越えて、こんな小さい道でした。明治山越えて屋嘉までいって、屋嘉まで小さい道で、アダン葉があるところから歩いてよ。屋嘉までいって、明りがあったから、もう夕暮れているからあの明りの家へいって泊ろうといって。行ったら、すみませんが泊るところないから、兵隊さんの面会にいくんだが、すみませんがといったら、どうぞどうぞといってよ。あのときは一月七日でした。ウヌピヤ、ヌン、ピンワシララン(その日はどうしても忘れられない)それで入っていったらよ。あの当時は新でお正月したんでしょう。一月七日はナンカヌスクーで、本土では七草がゆですか、こっちでは豚の骨のジューシーメー(雑炊)で、三名ともみんなそれいただいて、あーよかったねーといってー。

 

 

こっちからは面会するのに、お菓子も何も買うのもないで、あの当時までモチ米つくっていましたからね。前の日、粉をひいてよ、モチ米でお菓子つくってよ、自分のうちのコーガシをつくって、それと油味噌、ながもちするといって。それを弁当箱に入れて、隊長さんにも何かあげようといって、余分につくってー。

 

翌日は平良川までついていましたがね。平良川まで着いたら、まその部隊が、ずっと、具志頭の与座という山にいっていますよって、いっぺんもいったことのないところよ、与座まで歩いていって外間という部落にまだ明りついているところに着いて、二人で泊って、一人のオジサンは息子は高嶺にいるといって、一人のウンジャミヤーのオバサンは越来から別れて読谷にいって。

 

途中で度々空襲に会いながら、途中、みんなに教えてもらいながら、あっちにいったら港川というところがあるから、あっちにいかない前に、役所があるから、こっちから山の方に行きなさいといって教えられて、その日は雨がふっていて、あのへんの粘土は、足にくっついて歩きにくくて。与座という部落に歩いていったら、山部隊はどの辺にいるかと尋ねたら、ずっと山の上にいますというので、また一人で山の上の部隊尋ねて、門番―門衛がいました。何々というけどいますかといったら、ハイいますよといって、その人は兵長の兵隊さんが門で、おばさん、息子はね、今日平良川に荷物運びにいったから、夜遅くしか帰らないから、こっちに知っている人がいますねー、といっていました。わたしこんど、こっちははじめてです、知人はどこもありませんよといったら、そうですか、それじゃ息子が帰ってくるまで、こっちに泊めておきましょうといって、この兵隊さんが部落に連れていってですよ、部落のうちに泊まっておきなさいといって。またあしたの五時のラッパが鳴ったら、来なさいよといって、ハイといって、知らないうちに泊まってよ、うちの人もとても親切で、お風呂―兵隊さんがあっちで大きなナベに風呂もわかしてあって、風呂も入りなさいといって、そっちで風呂も入ってですよ、そして晩に、九時頃に、玉城のオバサンといって、大きな声で、靴カバカバして来ましたがよ、息子はねえ、今帰ったばかりですから、あしたの朝、未明にあっちまで上ってきなさいといって、また来てました。ハイ、どうもありがとうございますといって、こっちのおばさんにね、わたし一人暗くてこわいから、おばさん一緒にいきましょうといって、ハイハイわたしもいきますよといって、おうちのおばさんと二人で門まで行ってですよ、おばさんはまた門から帰って、わたしは門に入っていって、息子はあっちにおるからといって。面会室がありましたがね。みな北海道の方でしたが、隊長さんなんか、入っていったら隊長さんなんかみなランプつけておって地図もっておって、おばさんはどこですかといわれて、ずっと国頭郡今帰仁村の今泊という部落ですよといって。ああそうですか、あんな遠いところから、歩いて来たのって、隊長さんが。ハイ歩いて来ましたよっていうたら、ああえらいですねといって、あんな遠いところから、ああそうですかといって。どうぞどうぞ、おばさん息子と二人こっちで話でもしなさいといって一部屋貸してですよ。息子と話するうちに、また兵隊さんがお茶なんか沸かして持って来たですよ、障子もありましたがね、山でみなつくって、仮小屋で、丸太を切ってつくったんでしょう。周囲はみんな障子も作って、面会するところは静かに。こっちで、息子と話をしなさいといって。入っていって話をして。これは隊長さんにあげるんだから、これかたくなるんですよ、二、三日しておいたら。外間で泊ったとき、うちの人が藷を煮ていたからよ、藷の上において蒸したから、おいしかったから、どうぞまずいものですけどおあがりなさいといって、隊長さんにあげたら、この隊長さんがよ、これはもう、お母さんいいですよ、あんな遠いところから息子さんに持ってきたのに、こっちはいいですよ。いいえたくさんもってきてあります、どうぞおあがりなさいといったら、みんな火燃やしておったさ、大きなナベに焚火、一月、もう寒かったから。ああこのお菓子は見たことのないお菓子だねぇ、ちょっと火にあぶったらおいしいかといって、燃やしている火の上にあぶってあがってましたよ。

 

その日は帰りますでしょう。息子とあまり長いこと話はできないで、その翌日は高嶺にいった人と那覇の国場まで待ち合いましょうといって、待ち合いしてよ、また一緒に二人歩いてくるときにー。国場で十時頃でしたかね。朝五時に面会したんですから、あまりながらくは面会時間はなくてー。すぐ宿屋に帰って、すぐあと帰ったから。十時か十一時頃でしたかね。

 

三日間かかって行って、一時間くらいー。

 

あのとき会っただけですよ。またうちの息子がよ、もうお母さん、兵隊はお金はいらないから、お金持っていってといいましたよ。お母さんもいらないよ。お小遣いあったら何かおいしいの買ってあがったらいいといったら、いいえ兵隊は何もお金もいらないかと、わたしにお金を二十円くれてですよ。那覇から帰る途中に。アィーもうどこかなー、トラックでもあったらいいがねえと思って、二人少し包みもって帰るときによ。ナカジミヤーのサカちゃんが女学校(二高女)の生徒で学徒動員で働いていてよ、その人が車に乗っていましたから、アイ、グランチュミヤーのおばさんに似ている人が歩いているといって車をとめてですよ、ええおばさん、アサカちゃんどこにねえといったら、今帰仁の仲宗根までですよといって、息子のイトコに当る方が、アィーよかったねといって、サカちゃんの車に乗せてもらって、仲宗根まで、その日のうちについてですよ、よかったねといってもう忘れられないですよ。義夫さんは栄俊さんの息子さん。

 

息子は真勝といいました。現役で一最後の現役でした。あのとき会うたきりですよ。もう暗やみからみて気が済まなかったから、空襲のときでもいって面会して、あれがおったところは見たから、それだけでももういいと思います。

 

帰ってからは、うちは農民ですから、豚も牛もっていましたから、きたらまた藷を掘ったり、クズつくって、クズは乾燥して、保存食をつくりました。菜っ葉も乾燥して、もうあれしかなかったから、また大麦つくっていましたからね、麦をついンジュミー(はったい粉)を作って、こんなことで別の仕事はしませんでした。また心配して、今日また空襲くるかねえといって、空襲きたら食物といってないからねぇ、自分たちで保存食をつくることを考えだして、どこからも教えられたのではありませんでした。メリケン袋がありますから、あれの一パイくらい、四人家族でしたから、砂糖も自分で罐につめて、準備しておいてあったんです。大浦崎(米軍の収容所)にくときにもみんなもっていって、朝なんかは飯は炊かないでね、いつも湯を沸かして砂糖とまぜて、ユーヌクして朝は食べて、ながいことありましたよ。

 

デークニバー(大根葉)なんかゆでて乾燥して袋につめたり、黒砂糖なんか大きなのを持っておったらすぐ食べられないからと思って、みな小さく切ってですよ、カンカンに詰めてね、そしたらすぐ食べられるからね。味噌と塩と砂糖といつも準備して袋につめてね。米軍が来た日はですね、伊豆味の方から志慶間川のずっと上の方から川づたいにおりて来ました。

 

宮里 わたしなんかワラビのミーの、ウエバル、城址のむこう側の方、ウエバタにかくれていましたがね、アメリカーが向こうのほうから来るよーという声が聞こえてきたから、こっち出身の人で屋宜原のほうにいた人がですよ。あれなんかはあすこに上陸したので国頭のほうに逃れていたようですけど、このうちの人かはあれから引き返してきたり、ケガしたり、逃げたりして来た人がいました。ケガは空襲です。血がダラダラしたり、ゴロゴロ逃げて来た人もいました。防衛隊にいて、逃げた人が今生きているんです。孫市さんなんかケガして、今でも元気です。あの人たちはケガしてきて、米軍が本部にはいるよというので、わたしたちはワラビ(羊歯)の中にかくれていました。今日は来るよーというのが聞こえてきました。すこら辺の人も本部辺の人も、兵隊じゃないで、お母さんとか、年寄りとか、みな川伝いに下におりてきました。水のない川です。だから血ダラダラしてケガしてね。この人たちなんか今日はこっちに下ってきて、あすは上にあがってきて、避難民、ゴロゴロして歩いていましたけど、年寄りも女も子供もみんな、この人なんかみているから、わたしたちは逃げたんです。

 

三月二十三日からあれまでずっと毎日、あのときはずっと山にみなこもっていましたわけですがね、本部のほうには今帰仁より早く上陸しましたよ。だからあれをみて流れてきたわけです。屋宜原の人はむこうにいったから。

ワラビの中にかくれていて、お砂糖もっていったから、子供が泣いたらこれをくれて、うちの明がまだ三つでしたよ。わたしは三名つれて、上が健一で十歳、喜久男が七歳。くるといった日は、その二、三日前から、むこうの人たちはゴロゴロして、川の中をあっち行ったり、こっち行ったりしていましたから、そのくるという日は、この本部から流れてきた人なんかはどこへ行ったか、いなかったですよ。そしたら本当にきましたがね。わたしたちは山の上の方のワラビの中にかくれていましたけど、わたしたちのすぐ下の方でよ、休憩しましたよ。飯盒のガラガラするのなんか、英語でゴヤゴヤするのも聞こえていましたよ。こわくてよ、わたしは子供たちに砂糖食べなさいといってすかして、こんなしていましたよ。みんなその付近にそれぞれかくれていました。わたしの主人の弟は姉さんのうちの壕にね、病気で重体だったですよ。けれどもうちにおられないもんだから、山の小屋に連れていきましたけど、小屋ではたまらなくなって、あすこのうちはお父さんも病気でね、掘りきれなかったですよ。だから自分のうちの葉といって、あることはありましたが、むこうの方にやっぱり避難民がきましたから、あすこの家はクルナミえというところにつくってありましたけど、病人も連れているし、あすこにもおられなくなって、姉さんのうちのはまた、大きかったが、完全なものではありませんでしたが、担架も用意していました。炭焼ガマを利用した小屋をさがして、上は土しかおいてないから、不完全なもんですよ。姉さんのうちの親戚みんないましたけど、照夫さんという人は中のほうに寝かせてあったわけです。

 

それできょうは、アメリカーが来るといったので、誰も照夫さんをみる人がいないわけですよ。行こうというけど、あれひとり、わたしはいいからといって、お母さん行きなさいといったから、おばあたち、わたしたちみんなちりぢりばらばらでひそんでいるわけですよ。

 

そしたら上のほうからみえるんですが、照夫さんや主人のいる壕アメリカーがのぞいて歩きよったですよ。わたしなんかはその壕がすぐみえるんです。そしたら一人の兵隊が鉄兜をかぶってユラユラした人が(木の枝で偽装している)壕に入りよったですよ。この人は日本語が判る人で、ビラなんか持ってたくさんいれてありました。照夫さんに、山にいないで羽地に行きなさいといったそうです。わたしなんか大変で、その日はもう死ぬと思いました。しばらくしたらまた下のほうにおりていきました。その日から空襲も何もありませんでした。そしてカナチャーというところに憲兵隊がいて、また、スク原一帯ミトバンナというところに部隊がありました。アメリカーがおりたから、こっち(今泊)は収容所だから、憲兵隊がいて安心だから、誰かがみてきて、その腕からはシマは電気が明るくついて、アメリカーに会ったらみんな手あげなさいよといってね、手あげたらどうもしないから、備瀬の人もみんな蓑着て、農民の装着ていたらすぐやられるから、あれも捨ててー。

 

年寄から先におりたんですよ。また青年と女の若い人は、みんななかなかおりなかったですよ。わたしなんか四、五日かくれていました。わたしは三十一歳です。玉城シズさん四十二歳でした。

 

うちに帰ったら、桃原、備瀬、伊江島の人がみんな入っていたんですよ、そしてうちの壕にかくれて山にいきましたけど、布団とかみんな盗られていました。着物もみんな盗られていたんです。食べもうちにかくれてみんな山へ行ったから、本部方面の人を捕虜といってこの部落に連れてきて、食べ物もないですよ。伊江島の人たちもこっち来て一か月くらいしてからまた連れていかれたですよ。玉城辺野古・大浦崎にいったのは六月でした。二十五日です。山からおりてきて兼次学校に部隊がたくさんいましたからね、こっちは食べ物も何もないで困っていますでしょう。大笑い話になりますけどよ、鶏、アヒルなんかわたしのうちに養って卵うんでいましたからよ、山へ持っていったのをまた持ってきたアヒル、うちのおじいさんは藷ばかり食べたくないなあ、お肉も食べたいなあするからよ、ええ、あんたあっちいったらお肉の罐詰と卵と換えるという話があるから、行って換えてこないかというわけさ、うちのおじいさんが。そういうから、うちの隣りのウンジャミヤーのねえさんと二人で、兼次学校にたくさんテント張って部隊ありましたよ、隣りのねえさんと二人でたくさん卵もっていってよ、学校の門に行ってよ、門番がいましたから、前に行って、言葉も判らないから、牛罐のことをこうやって(両手で角の真似をし、次に腕の肉をつまみ、両手で罐詰の大きさの輪をつくるゼスチュア)、卵をみせて交換しようと言ったらよ、そうかといって、すぐあっち走っていって、こんな大きな、こんな高さの牛もってきてよ、卵と交換してよ、あのときの牛罐おいしかったさ。交換してきたらうちのお父さんが喜んでですよ、また替えてきなさいよといって。みんな「タクマ、アイン」(利巧者だね)といってよ。

 

そのあとから、うちで、旧三月、四月は田植えの時期でしたから田を植えてですよ、稲をまいていったから、こんな高くなっていましたから、大浦崎にいって、また食べる物なかったからよ、稲取りに来よったよ。

 

何回か来ましたがよ、久志から食べ物とりに来るときは、歯も抜いて年寄り風にして羽地廻りして、山の中でよくアメリカーと出会いよりましたがよ、年寄りと思って、入れ歯だったから、ふところに入れて、すぐ顔みて行きなさいといって。男の人はわざとボロを着て、縄の帯をしてヒゲもボウボウにして、女はナベの底のスミを顔にぬったりして、危いといって。


宮里 あすこにいって、シマに帰って何か食べ物とってこれる人は、少しはよかったんですけど、わたしなんかのように、とりにいききれない人は配給で間にあわないですよ。他に何もないから、クズは少しありましたけど、ホントに少しずつ子供たちと分けあって、持っていったクズも山にかくれた時の残りでー。

 

玉城 食べ盛りの子供のいる家は命がけでとったり、米とったり、久志からシマまで歩きました。

 

上間 田んぼにある名もわからない草までとって食べました。

 

玉城 わからない山道、山道から、わたしは憶えておってね、四つ角いったら草を結んで、こっちからきたというシルシ、またあっちいったら、またあっちで。山の中、小さい道はじめてですから、道から歩いたらアメリカーに会うから、一回は明さんの家(古我知)に泊ってよ、わたし先頭になって、十人位組んで、みんな結んだ草を目当てに、川渡ったりして。

 

山からおりてくるとき、伊差川ってあるでしょう。伊差川の大通りに出るところのうちは竹藪があって、遠くから目当てにしておいて、先頭になりましたから、みんなあとから追うて来て、アイナ、ヤードゥヤカラエール(偉いね)といっていました。

 

測量士でさえ間違えよったというのに、こんな小さい道で、木の中くぐっていった。山の中ではマラリアはなかった。友軍はあったそうですよ。マラリアアメリカーが来てからでした。羽地でもだいぶんかかっていましたよ。

 

上間 わたしは戦争前、十八年に結婚してあの当時は羽地にいました。結婚式はもうモンペで結婚式しました。羽地着くまで五回位おりて避難しましたよ。十八年、空襲がはげしいもんだから、わたしつれて一緒にあっちまでいった人なんかがやっぱり飛行機が来たら避難するんですよ。本当の空襲はずっとあとですが、やっぱり飛行機きたら空襲といって、十八年の十一月にわたし羽地にいきましたがねえ、モンペ姿で結婚式。モンペはもう普及していましたが、余りいいのがなかったから借りてしました。それで足袋もはかないで、あの当時は派手にするのがいけないといって、今でも明ちゃんモンペ姿で結婚式したといって。そのとき満で二十六歳でした。馬車でいきました。あっちから荷馬車でわたしのうちに迎えにきました。ご馳走ももってくるから、花嫁を迎えに荷馬車でさ、あの当時は内地いく人も、名護まで馬車でいきよったよ。一時はちょっと安心した生活しましたがね。実際に弾丸がきだしたのは十月十日よあとで、それも毎日ではなかった。たいがい三月、四月ころからはげしくなりました。羽地いってから、地形が判らないから、何回山の谷底に落ちたか判らないですよ、夜なんか、避難中に。

 

わたしの一番末の妹はきれいな娘だったから、避難小屋からこの娘一人必らず連れ出して、避難中みんなの中から、必らず兵隊が連れ出すといってさ、友軍でなくてアメリカさんがよ、上陸してからこの娘一人だけこんなに囲んで、たいがいこの小屋に十人余り男女がいたから、全部が抱き合って泣いて、お願いします、お願いしますといって、美人の娘をみたら人の中から引っぱり出していくのをみましたよ。そしたら今考えたら、一人はクリスチャンだったかねえと、いつでも思いますが、一人だけ、何とかかんとかいって説得しているんですよ、ほかの兵隊を。こんなことしたらあとで大変よー、といってなだめるのすぐ判るのよ、顔で。やがてこんなに抱いて連れていきよったよ。この顔がケイレンするくらいショックでね、それで一人の兵隊がなだめて、そしたらようやく許して。もうそのあくる日にわたしなんかおりて来た。その頃、古我知なんか、毎晩、強姦する兵隊があちこち人のうちを廻っていました。あとは一斗カンですね、石油罐、あれみんな門のところに吊るしてね、早く来たうちが鳴らしたら、全部鳴らしたら、本部は田井等にあるからね、MPがすぐ、どこまでも聞こえるようになっていたんです。本当は敗残兵がいないかというのだったかも知れないですがね、毎晩こんなでしたよ。人のうちこうしてミーグルグルして、MPが来たらまた逃げよったよ。だからあれを考えた人はどこのいい人が考えたかねえと思いよったよ、あの一斗罐。うちのムラはやっぱり山のメーだから、古我知だったから。あの頃薬草園もありよったです。避難民とわたしの家族とわたしの姉の家族とウンジャミヤーの家族と八十人いました。わたしの屋敷に、一時はわたしの家の便所も、造りのあの便所も、もうたまらないでね、こんなに人ではわたしなんかたまらないで、もう、済みませんが便所だけは別に作ってもらうようにといってお願いしましたが、ようやくあの人なんか自分で土を掘って便所をつくっていました。この人たちは小禄の人たちでした。帰るときはみんな夜逃げするようにして、昼中は兄弟みたいにしているような人でも、日にちがたっていったら、夜、世話になったというあいさつもないで、みんな自分で帰りよったの。でもやっぱり、この人なんかそうしないはずと思った人なんか、とてもていねいに、今は戦争のためだからといって言訳けして、帰りよったんです。ほとんどは夜寝ている間に帰っていきました。

 

玉城 うちらも着物と米と替えて食べよったよ。浜に藷もっていったら着物と替えて食べよったよ。配給で間に合わないでよ。藷も米も伊平屋からもって来よったですがね。
上間わたしなんか中指くらいの謎もってきて、二十くらい掘ってきたら、家族ちゃんと三つずつか四つずつくらい、ちょっと皮むいてお塩ふってよ、たいてね、みんなに配給した。

 

玉城 みじめでしたね。わたしなんかムイウムというのをとってきてですよ、皮むいてウムニしたり、ジャピジャピしてよ、うちの子供たち、アイーまたウムニ・サヤーして。

 

上間 うちなんかまだよかったですよ。タタミの上で生活してましたがね。うちはソテツのクズでたモチね、とてもおいしかったね。何ていうのこのソテツのもち、アーシムチーうちとても好き。あれおもちの粉と混ぜたらおいしい。他には何もないでクズチャンプルーつくって食べました。あれの他に何もないで、ここのムラで一家ほとんど一日中中毒で死んだのがおります。初次郎さんの家よ。

 

玉城 モービル油買いにいきよったよ。みんなあの油、食べました。あれで天ぷらつくって食べよったがよ、臭くて、アイー、モービル油を買いにいったとき、玉城で、あれは山からおりて、久志にいかない前に、油も何もなかったから、、モービル油を買いにいった。友軍の運天にあった部隊(石嶺隊) に。

 

天ぷら焼こうにも臭くて、舌さすさ。みかんの葉なんかいれたら臭くないといってよ。油が、玉城にもあるという話がありましたから、玉城に買いにいく途中、キビ畑のそばに、友軍にやられたといって死んでムシロおおうてありました。あのかたはアメリカーといって、友軍にやられたといって、アラガキという人。死んでね。イエー、ウンチューエーナー、ユーグン、ネル、イラッタンディドヤー (あのねえ、この人はもう可哀そうに、友軍に射られたんだってよ) といってですよ、ムシロおおうてキビ畑のそばに倒れておったんです。それは渡喜仁でやられてからです。渡喜仁でもやられたんですね。謝花。あの人は無茶苦茶だったとねえ。何回も刺されていたというのに、友軍に。あの長田さんも何回も逃げてきたってことはMPがいたから、今泊ではなかった。みなスパイというて。あの人はいい人だったとねえ。あの方は兵事係で役所に勤めていましたよ。殺された時は区長だったそうです。

 

乳呑児と老人をつれて

今帰仁村越地上間カナ(二七歳)主婦

十月十日の空襲の時はこっちでは運天港が近かったです。むこうが石部隊で、海軍が警備していました。魚雷艇とか、運天港の方から出ました。それで今の中学校敷地(今帰仁中学校)が北部製糖で煙突なんかが立っていたもんで、運天港から今の中学校が目標にされてひどかったんです。こっち(越地)の方は何も、大して被害はなかったです。機銃掃射はありました。お家焼かれたり、親戚みんなで待機しておって屋根の上に柴を準備しておって、梯子じゃなくて、丸太なんか準備しておって、棒立てて、まわりに縄をはり丸太から登っていけるようにしてー。こっちから六軒目位の家、二十年の三月だったと思うけれど、機銃で焼かれました。そこら辺に避難していた人たちは全部こっちに移りました。女子組から、年寄りまで。こっちはいっぱいでした。宮里さんの家は大きなお家でしたけど、機銃でみんな焼かれました。女は防空壕にいき、男は別の壕の中から飛行機をみていて消火に当ったりしましたけどね。それでここっちはまぬかれたんですよ。久吉屋とうちは。他の部落はもっとひどかったかも知れないけど、うちの部落は運天港から遠かった関係で、たいしたことはありませんでした。西方面はまた伊江島の基地があったので本部あたりはひどかったんじゃないかと思います。自分たちの状況しか判りません。

 

年が明けるまでは屋敷内にも防空壕があって、空襲がひどいときにはまた、共同で三、四十名収容できる位の壕を山のふもとに掘って、むこうの水を頼って生活出来るようにして、お家から夜も昼も生活できるようにしてありました。海の方のうちの山にありました。空襲警報はサイレンで知らせました。いざ上陸寸前になって家に帰れなくなってからは夜も昼も子ども、年寄りは防空壕に寝泊りさせる状態になりました。

 

上陸してからはずっともう防空壕生活でした。上陸しない前は空襲は朝から晩まで、何回となく続いたもんでー。余り長いことじゃなかったんです。たとえ戦場じゃなくってもひどかったんです。空襲はひっきりなしにあって、それで防空壕生活をしました。

 

十日か二十日近くお家へいったり来たり、歩けるものは明日の食事の準備したり、動けない者は年寄とか子どもたちの面倒みさして、動けるものは出て食糧とったり、準備したり。ご飯はなくてお藷でした。米があっても精米にもいけないのでお家でこれやったり(手で白をひく動作をする)夜しか出来ませんでした。上陸寸前になってから艦砲射撃とか照明弾とか、今になって思えば照明弾は信とか照らすだけということは判りますが、そのときはそれが飛んでくるんじゃないかと思って一メートル位のがけを五十キロもある荷物をもったまま飛びおりたこともありました。怪我もせずに、今でも珍らしいと思います。

 

その頃は海の方の防空壕にはおじいちゃんをおき、山の方へは部落の人たちのところへ乳呑み子をあずけていたので、昼間は山、日が暮れてから家へ帰っておじいちゃんの弁当をつくって食事をつくり、海の方の防空壕へいって十時過ぎになり、それからまた月のときもあったり、手さぐりでいったりして山の方へ登ると十二時になりました。

 

おじいちゃんにはお砂糖と油味噌、一升ビンに水入れて便器と用意してくるので、夜いって洗物なんかやって、そこにはおじいちゃんと、おばあちゃん(八十九歳)と二人でしたが、上陸してきてお家へ上ってきて、捕虜とられて行くときにわたしはおじいちゃんがその頃亡くなられて幸いだと思いました。

 

 

上陸してきてじき亡くなられたもんだから。生きていたらどこへ連れていかれたか判らなかったからです。ちゃんとお葬式もして、ちょうど比嘉さんところにスペイン語を話されるおじいちゃんがいらしたので納棺してから米軍に事情を話して許可を得て、米軍が出動する前か夜になってから葬式やるつもりだったけど、危くて、もし、人が多勢で歩くの不審に思われたら危いからというんで、そのおじいちゃんに頼んでしたら、とてもきれいなお葬式ができましたけどね。納棺してむこうが三人ほど来て確認して手を合わしてもらって、みんな行かなかったら、ちらばっている米軍もみんな葬式に出なさいといって集まって。そしたら字民あとでみんな後悔していましたけどね。こっちからは親戚だけでした。土葬でした。埋葬したものの、大きい墓でしたから後で開けられて、おばあちゃんはまだしてなかったんだけど、棺桶外に出して朝早く骨拾って、もし蓋したらまた開けられないからと、蓋はしないでおきました。すぐ近くに娘の墓がありましたが、おじいちゃんの望みだったもので、そこに入れました。八十八歳のおばあちゃんはどこに捕虜され連れ去られたか判らないで、今だに判りません。それ考えた場合―。

 

久志にも判らない人がたくさんいました。年寄りは片っぱしから集めて、家族は最初に連れていって年寄りは後に残って、我を張って家族のいうことは聞かないで、森を離れたがらないで後でどこへいったか判らないのです。家族は羽地にいって、おじいちゃんやおばあちゃんは久志に連れていかれた人もあるし、わたしの知っているおばあちゃんも、久志で二、三日木の下でいらしたけど、それかまたどこかへ連れていかれて、あとは判りません。八十八歳のおばあちゃんも久志に連れられていっていたらうちらも判ったんですけれども、どこに連れていかれたかいまだに判りません。運天さんところのおばあちゃんも久志でうちらが見たんだけど、作業にいく前にみて、確かに運天のおばあちゃんだけど、あの人は牛肉なんか嫌いでしたが、牛罐が多かったのを、誤解心が強いわけよ、年寄りはそれでこんなの食べさせて殺すつもりではないかと、自分が嫌いなのを食べさせて殺すつもりではないかと、全然食べないで栄養失調になって、どこに連れていかれたか判らないのです。

 

わたしたちはやっぱし、友軍でも米軍の本当の心境というものが判らなかったんじゃないかと思う。というのは、敗残兵が山から、昼は逃げかくれして、夜は部落におりてきて、おりて来た場合には住民として日本軍の面倒をみましたがね。負傷している方もいるし、治療してあげたりメシたいてあげたり、こうして状況聞いたり誤解したりいろいろのことであんな犠牲者も出したのだと思う。謝花喜睦さんとかー。それがスパイであるという本当の証拠はつかまないで、ただ人のうわさとか、自分たちが助かるためには、自分たちは上陸したときには殺されるとばかりと思っていたが、それがそうではなかったわけですね。先発隊なんかとても温かくして子ども年寄をみてもらったりしたもんで、次第次第に気持が判り合ってくるようになって。配給をくれたり、こんなのを友軍が山からおりて来て見たり聞いたりして、アメリカさんとチヤホヤしたりした人たちをちょっとうらみ目でみて、こういう目にあわれた方が多いんです。

 

自分たちも何とか生きながらえるためには、手真似足真似で気持を通じあいました。それで米軍は辞典なんかも持って歩いていました。やっぱし言葉がちがうだけで。首里辺りで戦ってこちらで休養にくるということを辞典で話しておりました。うちの和子が乳呑み子でオッパイあげるのに困りましたけど、兵隊たちは休養しているので、自分たちの子どもや妻を思い出してベビーなんかみて抱きたがるわけなんですが、それがこわくてー。


ベビーが三名いて、ワイフがいて、ユラユラ乗って帰ったら抱きたいと辞典で話していました。和子が誕生過ぎてヨチョチで可愛いかったので、アメリカさんがとても上手に歩かせてくれたんです。ある日は惜しなさいと連れていったが、わたしはこわくて、隠れてオッパイあげたりしていました。自分の天幕に連れてって食糧あげたり、十歳位の子に自転車に乗せたあと食糧あげたりして連れて来ました。住民と仲良くしました。

 

日本軍はそれを夜みたり聞いたり、また他の人が話しているのを聞いたりするので、それから次第に、アメリカとチヤホヤする人はスパイとしか見なくなって、それであのような事件が起きたのだと思います。

 

家と、海の防空壕と、山の方と、三重生活だったのです。他の家は馬とか男の人も担げるだけ担いだら三、四日の食糧も担げるでしょう。うちはおじいちゃんの面倒をぜひみなければいけないもんだから、他の人はうちのような苦労はしなかったんじゃないでしょうか。若かったから出来たんだと思います。おじいちゃんにも子ども
にも責任はあるので、山にいた部落の人と別れるハラを決めたのも若いし責任があるし、ということでした。

 

おしゅうとさんは五十幾つで長女が十歳で、自分の着替えと食糧少々をリュックサックに背負わせて吉夫を連れて歩きました。長女は他人の子たちよりはよくやったのです。その当時十歳で久志から羽地までね、和子おぶって一緒に最後まで。おじいさんは決った防空壕にいさせてもらって。それから米軍が上陸して来て、たちの悪いアメリカさんたちが来て、若い娘さんたちに暴行しようとして、この人たちが帰ってからもう、この壕にいては大変だということで全部出て、おじいさんとおばあさんだけ残してからみんな出ましたけど。三十日の昼、それからあくる日は、向いの山に、夜明けるまでに食糧を準備して宿替えした。わたしは、裸になってから、頭に荷物乗せて、潮満ちているでしょう。満ちていようが、ひいていようがもう変らないわけ。夜といっても、夜明けなかったら道があぶないし、夜が明けてからいったんだけど、食糧の確保だけでも、大変なことだったし。わたしらが困ったのは、子どもが幼ないということと、年寄りがいたということ。動けるのは、うちとお姑さんふたりだけ。

 

長女が十歳で三年生のトシにはなっていても、学校は井上部隊 ... 友軍が兵舎にしていましたので学校もろくに出ていないんです。部落から炊事班が出て、娘さんたちはもう、みんな炊事に。子どもは空襲始まってからはろくに学校行ってないですよ。一日壕掘ったりがあって、家には乳のみ子がおったんですけど、それでも午後からでも連れて行かれましたから、陣地掘りに。年寄りと動けない病人たちだけしか残さないで。主人は兵隊に連れていかれるし。

 

家で働くのはわたしひとりしかいないですけど。それに乳呑み子を持ちながら。家族廻りして人集めにきよったんですよね。それは兵隊がですが、いくら国のこととはいいながらも部落におりて、人を集めるということで一、二時間しか仕事は出来ないでしょう。遠いところ歩くその道中が時間つぶしで、仕事するという時間がないわけです。四、五名、十名も、おりて部落に人を集める時間では、大男たちが女の倍も仕事は出来る筈だがと思いました。弾がとんでくる心配以上に生活のことが心配でー。家畜も多かったが、次第次第にもう面倒みきれなくて、捕虜となるときに全部野放しして、それで財産というものは全部なくなるわけ。着のみ着のままで出てしまって。住民も全部戦争犠牲者です。軍人だけの戦さでしたら考える余地もあるけど、その戦地になったところが、兵隊であろうがなかろうが犠牲にはなるし、財産はなくなるし、わたしら戦前までは、篤農家といって字でも一、二番に入るぐらいの農家でしたが、それが終戦直後になったら、どん底に落ちてしまって。


主人は十九年の六月に召集されて、佐世保に六月十五日に召集された。姪の子と同じ日に入隊でした。姪の子は海軍志願して送り出す覚悟でいたんだけど、主人も急に召集が来てハッとなったもんでオッパイはあがるし、和ちゃんはオッパイがないし、生活はするしで、とても病弱で、三、四歳ぐらいでしか健康とり戻せなかったです。主人は二十年の四月十六日戦死という公報が来ています。伊江島です。はじめ佐世保行って、からだの具合が悪いといって帰されて来ているのに(七月の下旬ごろ帰って来ています)また動員令で伊江島行って、それから帰ってきて字から班長として日本軍の仕事をしていた。兵隊と同じ行動をして、作業班長として。くわを取って働ける人は全部させられた。

 

役所の兵事係が、一時間前に来て (動員令で) 御飯一杯もやれないでそのままやるくらいだった。それから二月上旬、おじいさんが還暦のお祝いがあるし、和子の誕生日だからそのときは、何か理由つけて、暇もらって二日程来ていました。それが最後だったんです。最後に三月に入ってから防空壕で書いたんでしょうね、走りぺンで本部に勤務している人にことづけしてありました。それが最後の手紙だったんです。

 

二十年の六月の半ばごろ、わたしたちはみんなと一緒に連れていかれました。久志ではわりあい米軍がきびしくなかったので、ほかの人は夜なんか今帰仁や羽地の方へ食糧とりに出かけていました。わたしは小さい子どもがいるので不便でしたが、七月か八月ごろ、羽地の親戚から、くるようにさそいがありました。それで我部祖河の親戚をたよっていくことにしました。許可するところもないので夜、米軍の目をぬすんで、収容所を出ました。久志から羽地まで九里のみちのりなんですよね。その間の山の中に、友軍がいるんですよ。一升おにぎりにして道中で食べるといって持って夜明まで山に入りました。兵隊が山に来るまでにはもう羽地の部落近くまで行っておったです。それでまた腕、帰る時分には山をいったりきたりしました。その間には、山に友軍がいくらでもいるんですよ。おにぎりは半分しかなりませんでした。途中の友軍にとられるというよりあげたんです。一番要求するのは、マッチと塩でした。自分の主人たちが、どこでこういう目に合っているかと、おしみなく、自分たちはひもじくってもおにぎりなんかみんなあげて、食べられるものみんなあげて、自分たちはまた来たら親戚が食事つくって待っててくれるので食べよった。正秀と吉夫はおじさんが来たときに連れてもらって、おばあさんだけ残して。親戚にいろいろ面倒見てもらっこうして生きのびて来ました。

 

 

 

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