『沖縄県史』9-10巻 戦争証言 ~ 八重山 ( 4 ) 

 

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以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

八重山(4)(PDF形式:1.6MB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

六、漁民の生活苦

石垣町字登野城玉城キヌ(二三歳)

トラック島から引き揚げて

私の家はくり舟漁業を営む零細な漁民で、父は多勢の家族をかかえて人一ぱい働いてどうにか暮しをたてていた。その父も若死し(昭和十四年)、あとは母と年老いた祖父が残され家族の生活をささえていた。

 

私は十九歳で(昭和十五年)南洋諸島のトラック島へ出稼ぎに渡った。当時トラック島では一か月働いて三〇円(石垣島の賃金は一日四〇銭)の稼ぎがあった。島の生活は働けば働くだけ現金収入があがり、私たち貧乏人にとって大変魅力があった。私はそこで十六年に結婚した。夫は働きもので生活も安定し、十二坪程のトタン屋で、十八年九月には男の子が生れた。

 

当時トラック島でも「隣組」が活発に活動し、やれ保険の債券だのといって、汗水ながして稼いだ金がまきあげられていった。男の子が生まれて兵隊保険がかけられ、「二〇円、十円、七円、五円、三円」の債券割り当てがあり、私たちは、できるだけ少ない方をとりたいためにくじ引きで、割り当てを決めていた。そのうちに住宅もわずか七〇円で軍に買いあげられ、おまけに台湾銀行発行の小切手で支払われて、現金を手にすることはできなかった。(今日まで何の補償もない。)


一九四四年(昭和十九年)一月強制引揚げとなり、夫を残して「ロープ一本、懐中電燈一個、ナイフ一本、カツオ節一本」という携帯用品をもって、やっとの思いで二月に生まれ故郷の石垣島にたどりついた。私は生後七か月のむすこと一緒に私の実家にころがりこんだ。その頃、すでに弟は結婚し、妻子と家族(祖母、母、弟二人、妹二人おばと子供計十名)を残して特設工兵隊に入隊していた。私たち親子を加えて十二名のものが小さなかやぶきの家でひしめいていた。

 

私たち漁民には、田畑もなく、唯一の働き手は、兵隊にとられるし、悪性マラリアで家族のもの殆んどが寝ついてしまう。生活は生き地獄さながらのひさんなものであった。当時十二歳の弟は唯一の働き手として、朝早く起きて、前の海(家から一キロ以内の内海)に出かけ、もぐりをしたり、小魚を釣って生活をささえていた。

 

私と母は弟の帰えりを祈りながら待ち、四、五斤の魚をかごに入頭にのせて大浜部落まで歩いて食糧と交換に行った。大浜部落では農家の主婦たちが私たちのくるのをまちのぞみ、サツマイモ、モえなどと物々交換してくれた。

 

昭和十九年十月十二日の石垣島空襲以来敵機の来襲は日増しにはげしくなり、爆弾はあたりかまわず海中にも投下された。そんな時わずか十二歳の弟は身の危険もかえりみず、海中にとびとみ、浮き上がった魚を拾い集めた。これまでどうにか働いていた母もマラリアにたおれ、私は病気の家族をかかえて、弟だけが唯一の頼りなので、そんな弟を止めることもできず、丘にあがってくる弟の姿をみるとほっと胸をなでおろしたものの無事を喜びいたわるゆとりもなく、大浜部落へ急いだ。

 

そのころは農家の人達も空襲をのがれて、畑小屋、山やに避難していたのでやっとのことで避難小屋をさがし当て、食糧(イモ、モミ)と交換し、大急ぎで引きかえした。病人の食事もイモばかりで、だんだんすい弱していくし、わずかのモミを交換してもらった。一升びんに入れ、棒切れでつついて玄米にし、おかゆにして与えられる日は涙が出る程うれしかったものです。


そんなある日いつものように物々交換に行く途中巡査に「おい、とまれ、どこへ行くのか」と呼びとめられかどの魚をみて「ヤミに行くのだな、公定価格はわかるか、すぐもどれ」と引きかえされた。しかし、そのままでは明日の食物がない、おめおめ引き返えすわけにもいかない、燃えたぎる怒りをかみとろしながら良策はないものかとしばらく歩いていたら、軍のトラックがやってきたのでうまく頼んで便乗し、巡査の目をのがれて、食糧を手に入れることができた。その時の怒りと、イトマンチューといってさげすんだあの目つきはいつまでも私の頭から消えることはないでしょう。当時は警官もひどいものでした。母も魚の計り方が少しくるっているということで三日間も留置されたことがあった。

 

一九四五年(昭和二十年)に入るといよいよ食糧事情はひどくなるばかりで、住民はもとより、兵隊も腹をすかして農家の農作物を荒すものや民家に入っていもいをするものが多くなった。

 

私たち漁民は魚はとれても、食糧との交換もできずサツマイモをおかゆにして食べたこともありました。そこで背に腹は代えられぬとかくごをきめ、夜になると九時頃出かけ、農家の畑へしのびこみ「むいあっこん」(イモの収穫後に掘り残されたくずいも)採りにいくことにした。これまで人様のものを無断でとったこともなく、最初の晩は手足ががたがたふるえて、ガサという小さな物音にもびっくり仰天したこともありました。しかしマラリアで倒れた家族のこと、子どものことを考えると悪いことをしているという罪の意識も次第にうすれ、良心のかしゃくもなく盗人になりさがってしまった。当時は私ばかりでなく近所のもの、いや農家以外の殆んどの人たちがそうでした。いつの頃からか私たちはこのイモどろぼうにいくことを「戦果あげ」と呼ぶようになり、「今夜は戦果があがった」とか「戦果はどうだった」などと近所の主婦たちと話し合っていたものです。この「戦果あげ」は誰れが始めたか、知るすべもないが、兵隊たちもやっていたということを聞いて、少しはすくわれた気持になったものです。

 

しかし、そんな中でもモミ(農家が収穫して田小屋においてあった)には手を出すものは私の知る限りではなかったように記憶している。やっとの思いで、家族の食事をまにあわせ身心ともに疲れ果て、終戦を迎えたときは全く働く気力もなく虚脱の状態で兵隊(特設工兵隊)に出ていた弟も無事にかえってきた。誰れがどういうつもりで始めたか知らない戦争に強引にまきこまれ、生地ごくさながらの苦労と食糧難で生活苦をよぎなくされた戦争を再び起こしてはならないと思います。

 

七、良心の自由を細々と守る人びと

石垣町登野城崎山里秀(二八歳)

八重山農学校の奉安殿

私は昭和十八年八重山農学校にたまたま勤めることになった。そちらには奉安殿というのがあって、何とか勅語天皇写真が「安じ奉られる」ことになっていた。正式に学校に勅語謄本や写真が文部省から「下賜」されるとその学校は歴史の格が高い学校と、文部省が評価したことになる。と同時に学校長は責任を負わされる。学校沿革史にも下賜のことは記録される。

 

このことについて、私の勤めた学校で、最近私はたしかめてみた。その学校には昭和十四年九月に「青少年学徒に賜わりたる勅語」謄本と、「総理大臣を召され賜わりたる軍人援護に関する勅語」の謄本を下賜する、と学校沿革史に記録されている。そして、昭和二十一年九月三日には両勅語内務省通牒に基き奉焼す。」とある。だから教育勅語御真影(天皇や皇后などの写真)も文部省からは直接来ていなかったことになる。

 

ところで、この期間に、この学校の生徒だった某主婦に、あの奉安殿には何があったかと尋ねると、天皇陛下の写真と答えた。当時の生徒は、御真影奉安殿と考えてその前を通るときは必ず一時停止、気をつけ・最敬礼をさせられておった。この奉安殿には、教育勅語騰本や御真影の下がなかったことは明かに学校沿革史からわかるが、それ相当のものがあったかも知れない。要は、奉安殿という一坪たらずの、神宮の恰好をした建物の中に、国家権力としての天皇の権威が蔵されておればよかった


さて、われわれは小さい道路から大きい道路に出るときは交通信号がなくとも、一時停止をすることになっている。これを実行しないとひどい目にあわされるものだ。しかも一時停止に時間がかかると、いらだつ人もおって、いよいよ危いことになる。できるだけ一時停止の避けられる道路を選ぶのが、ドライバーである。私は「天皇の権威」とそれほどつき合う必要がなかった身分・職階であることをいいことに、いわゆる「先取り」ではないが、殆んど廻りみちをしていた。隣の小学校にはほんものの「御真影」と「教育勅語」があったはずだが、その奉安殿は学校正門前にあったので、そこは通らないことにしていた。これは私ひとりかと思ったが、そうではなかった。私と同年の川本信精教師もそうするものだから「君もあそこは避けているな」というと、彼はにやっとして、大笑いして、「そういう生徒も多いぞ」というて口に手をやった。

 

しかし勿論いつも廻り道をするわけにはいかない場合がある。奉安殿の前で最敬礼をする。この時、背をまげた時の目の高さでいつも目にしみ入るのが針状の葉を持ったビャクシであった。どこの学校の奉安殿の前にもビャクシンがあった。ビャクシンの濃い緑の針状の葉は、天皇守護神の天照大神の権力を表徴として、否応なしに私の服従を強制する顔つきみたいで、私の心の秩序を乱した。このビャクシンに対しては私は精神的アレルギーを感じてしまったらしい。奉安殿の中身が取り去られた戦後五・六年、友人が新築の家の玄関わきにビャクシンを植えたい、というので、私は反対したことがまだ印象に残っている。

 

八、日本は欲ばりだからね

石垣町字大川大浜アワツ(六十歳)

(問)戦争の時「天皇陛下万歳といって死んでいったという話があるでしょう。ばあさんは敗戦時はもう六十になられたがどう考えられましたか。

(大)まったく逆だちですよ。国を治め、国のためにやってから、身のため、親のためはやるというわけでしょう。これは逆ですよ。誰が子を産み、育てたの?なにがなんでも親と子を立てられないと、国は立てられないのではない?これが当りまえ。子供がじゅうぶん育つように国は立てるべきでしょう。逆になっている。戦争というのは、親を殺し子を苦しめる。子を殺し親を泣かせる。これが戦争。

 

(問)竹やり訓練や防空演習があったでしょう。
(大)先生方がね、生徒を集めてね、竹やり訓練をなさるでしょう。もの笑いよ!ほんとにあんたがたは、戦争がきたときに、竹やりで戦争ができるかね。かわいそうに。何のお説教かがやがやいているんだけどねーとは心で思ってもね。お上の仰せでしょう。
防空演習も同じことでね。

 

戦争は勝つと思われた?
(大)ウッシャラー。(相手のことばや考えと、自分の考えが全面的に対立するとき発する感嘆詞) わたしはね、いつもT先生と口げんかをしておったんだよ。わたしはね、こういうたのよ、

 

「日本のひとは欲ばりすぎるから、あの島を取ってね、ほ日清日露戦争、それからその次の戦争は、何といったかね、そうそう、支那事変、そのあたりまでは兵隊をどんどん集めても、どうやら間に合ったでしょう。ところが、日本は欲ばりだからね。こんどの戦争では、あの島、この島、遠い所までかこんで取って、さあ、こんどは兵隊は足りない。々で見届きはできない。兵隊をどんどん一セン五リンで集めて、この島にやる、あの島にやる。それでも足りない。それでも足りなくても欲ばりだからね。今にたいへんなことになるよ」と私がいうとね、T先生は、
「おばさん、こんな話、参謀長に聞かれると、大変な目にあいますよ」。すると私は、「なぜ大変なことになる?ひとばかりおどして、兵隊ばかり取っていって。誰が戦争やれというたの」というて、けんかをしておったのよ。

 

九、牛馬や畳が盗まれないように

石垣町登野城宮城昇(三三歳)

日本軍、供出のあげくに略奪

戦時中は、日本軍は供出供出と言って略奪行為にも等しい、目に余るもののとりようであった。特に農作物、立木、家財、牛馬等の供出で住民の生活は破壊された。部落近くにある田畑の農作物は掘りあさられ荒廃そのものであった。屋敷にあった防風林、ふく木、やらぼ、いぬまき等も切りたおされ、防空壕、兵舎等に使われた。馬は地構築のため発され、万一の時は軍隊の食に供されることもあった。微発をまぬがれた牛馬も兵隊によって夜中こっそりと盗みだされることもあった。そういうことで、わたしは、牛馬が盗まれないように、自分の馬の手綱に適当な罐詰の空罐を、四、五個しばりつけておき、枕元につないで寝ることにしていた。一度は、屋敷の外まで兵隊によって引っぱりだされたが、この空のぶつかりあう音で目がさめ騒ぎだしたのを盗まれずに済んだ。

 

微発がひどくなったのは昭和二十年の五月以降ぐらいからで各家々の畳がとられていった。墓とか畑小屋に避難しはじめていた家々も多かったのでその空家にあったものまで盗っていった。そこでわたしは、自分の家の畳の表を剥ぎとり、天井裏に隠しておいた。後日の生活の事を考えたからである。避難から帰ってきた時たいへんたすかった。個人の財産も軍はみな天皇のものと思っていたのか、とにかく軍にはなかされました。

 

十、母と五人弟妹を失って

大浜村字大浜新盛正尚(十三歳)

海軍飛行場周辺の連日の空襲

三月二十三日、大浜村役場前庭で形ばかりの修了式を消せた私たちは、四月から高等科一年に進級することになっていた。すでに緊迫した社会状況を感じていたが、それにしてもこんな恐しい運命が待ち構えていたことを誰が想像しただろう。三月の末にはもう激し空襲が始まった。前年の空襲とは異って、夜明けから日暮まで数十機が交互に飛来し、猛爆撃を展開した。空爆は衰えるどころか、むしろ日ましに激しくなっていくばかりである。大浜部落は海軍飛行場を守るためにその周囲には陣地があったので、大変危険であった。実際あっちこっちに爆弾が落ちた。連日の激しい空襲のため生も殆んど行なわれなくなった。そうした中で、どの家でも、夜になると母親は明日の食物の準備に大変であった。特に夫は召集され幼少な子どもを多数かかえている家での母親の労苦は大変なものであった。こうして母がやっとのことで炊いてくれたンムニー(芋だんご)を食べ、空襲から防空豪で終日身を守る、それが私たちの一日の生活であった。

 

空襲が激しくなり、大浜部落民の危険が増してくると、多くの部落民は安全な地帯を求めて山岳地帯に避難を始めた。安全といっても空襲を避けるためにはより安全というだけで出かけていった山岳地帯はすべてマラリアの有病地帯として恐れられていた所である。マラリアがいつごろから八重山に現われたかわからないが、石垣島の中央を南北に連なる山なみはほとんどマラリア地帯であり、そのために廃村になった村もあった。早くもどこの○○さんが死亡したという不幸な知らせを次々と聞くようになった。父を兵隊にとられ、たくさんの幼な子をかかえている私の家では、それがこわくて、どうしても病地への避難を決意することができなかった。さりとて自分の家でそのまま留まることはもはやできなかった。


そこで、部落の後方少しはずれた所に隣組単位で掘った防空壕があったので、そこに避難することにした。今日の大浜公園の中の大きな岩の下である。そこは木も、うっ蒼としておい繁り、湿気もそんなになくも大きく安全だったので恰好の避難場所であった。そこには、私たちと同じように山岳地帯への避難をしかねた相当の人々が集っていた。それだけに心強くもあり、しばらくそこで生活を続けることにした。

 

五月のある日のこと、突然空襲が始まった。あっちからもこっちからも、子どもを抱きかかえあるいはひきずって大慌てでに駆けとんできた。壕に入って家族あるいは隣人の無事を確め合って胸をなでおろした途端、妊娠していた隣のおばさんのいないのに気がついた。

「どうしたのだ」


「産気をもようしているので、蝶ではお産はできないし、またまでいく力もないので、家でお産をしてからいく」といっていた。皆おろおろしだした。一人の世話人もついていないのである。空襲中おばさんの安否を気づかって、いても立ってもおれなかった。ところが空襲が止むや気づかわれていたそのおばさんが、産み落したばかりの赤ちゃんを抱きかかえ、乱したままの姿でにとんできたのである。一同ほっとしてわが事のように喜んだ。だがその時の姿はあわれでみじめであった。そのおばさんは、これまでの無理と壕の中での冷えこみがたたったのだろう。間もなく産褥熱をだし、今生んだばかりの赤ちゃんと数人の子どもを残してとうとうとの世を去ってしまった。残った赤ちゃんは親戚のおばさんが引きとり、空襲の合い間をみて、その子のためにあっちこっちの壕をまわっては乳を乞い求めた。

 

戦争の中とはいえ、生まれて間もなく母親に死別した子をなんとかして命をつなぎとめ人として育てあげたいという苦労の甲斐もなく、その赤ちゃんもまた数日後には母の後を追うて逝ってしまった。あの死んだおばさんにはちゃんと夫がいるのである。ところがその時白保の防衛隊に召集され、自分の妻のお産にも、死にも、また赤ちゃんの死にも会えなかったのである。私は戦争の犠牲をまのあたりにみた。それまでは戦争を勇壮に思い、軍人となって戦場でらくことが天皇のためであり、日本人としての道だと考えていたが、それ以降、戦争というのはこんなにも残酷なものかとこわくなるとともにつくづくいやになった。

 

その後も私たちは、マラリアで倒れることを恐れて山岳地帯への避難を躊躇し部落の一角で耐え忍んでいた。そのうちに、戦争が遠の第二避難場へ行かなくてもすむ時が来ることだろうとかすかに期待して、一日一日を千秋の思いで過してきた。しかし私たちのこのかすかな期待は無惨にも打ち破られた。

「避難」の軍令、しかし避難小屋は兵隊に

甲戦備に入った。「六月十日までに第二避難場に避難せよ。」と軍は命じてきたのである。こうした万一の情況に備えて、於茂登山の山奥に部落総出で造った避難小屋があった。ところがその小屋の屋根や壁の茅は兵隊にはぎとられて住むことができない状態にあるということが既に私たちの耳に入っていた。どこへ行ったらいいものか。十日までにはともかく部落を出なければならなかった。幼い子どもたちをかかえて母は毎日苦しんだ。行くべき場所も定まらないままに避難の支度だけは怠るわけにはゆかなかった。

底原で、マラリア

やっと親戚のおじいさんの好意で、私たちの避難場所が決ったのは底原であった。しかし底原に特別に頼りになる人がいる訳でもなく、その近くに田や畑がある訳でもない。ただ、そのおじいさんの少し知っている台湾の方がそこにいて、その人の馬小屋があいているからというだけであった。その馬小屋は、先に避難した人がそこで死んだという縁起の悪い所で、余り気は向かなかったが、それ以外に行く場所をもたない私たちは、素直にそこへ行く以外に途はなかった。

 

最終日の十日、バンナーに召集されていた父が、家族を心配して暇をもらって来てくれた。あの時の嬉しさは今でも忘れることはできない。追いつめられた状況であったから父がほんとうに頼もしく心強く感じられた。何しろ、母を手伝うことのできる者は私一人だったのだから。夕食もそこそこに、馬車に荷物を積めるだけ積み、馬車にさがった
引っぱられたりして、真暗な道を底原へと急いだ。家を出たのが夜の九時頃だった。途中カイニーで空襲に逢い、馬車をほったらかして逃げかくれすることもあった。目的地の広原に着いたときにはすっかり夜は明けていた。

 

底原では、農作物をつくることもなかったし、またつくろうにもつくる所もなかったので、食糧は母が避難に備えて営々として貯えた米で間に合わさなければならなかった。
しかし食糧の不安もさりながら、私たちが最も恐れていた事態が現実となった。二~三か月に及ぶ生活、睡眠不足、無理、栄養失等がたたったのだろう。祖母を除いて七人の家族が一ぺんにマラリア倒れてしまったのである。薬といえば部落にいた時、兵隊からもらい受けた僅かばかりのキニーネがあるだけで、それも忽ち飲みつくし、後はほんとうに原始的な治療を続けるほかはなかった。祖母は必死になって七人の看病を続けた。


熱がさめれば、私が祖母を手伝った。芭蕉を切ってきて、それをたたいて枕にし額に水をかけ、熱のひどいときには、ミントゥ(こみかみ)や腰あたりをカミソリでかすかに切って血を出したりした。あるいはヨモギの汁をしぼって、それを飲ましたり、蚊の来襲を防止するためにヨモギの枯葉を燻らしたりした。

 

こうした必死の看病にも拘らず、母や弟妹たちはいっこうに快方に向わず、体力は日に日に衰えていった。特に母は疲れ切ってその衰弱ぶりはひどいように思われた。このままでは忽ちのうちに一家全員が死んでしまう。

カンカンという音が連日のように

ここにおってはどうしようもない。万策尽き、同じ死ぬなら、自分の生れた屋根の下がいいということで、また来た時と同じ道を部落へ引返した。その時にも運よく父が家族を心配して隊を逃げてきてくれていた。家を出て丁度十日目であった。この状態だと自分の家に帰っても自らの力で生きていくことは困難であった。やむなく親戚のおじいさんの力にすがることにし、そのおじいさんの家に宿をとった。ところがそこにたどり着くとそれまで誰よりも元気であった祖母が「あゝ疲れた。」とたったひと言を残して横になったまま不帰の人となってしまった。思うに、祖母は老いの身で死ぬ程に疲れはてていたのだが、ここで自分まで倒れてはと、疲労の色一つ顔に見せず、私たちの看病に当ってきたにちがいない。その事を考えると祖母を殺したのは自分たちなのだという思いが胸をついて、今でもその事で苦しめられる。

 

他家でやっかいになりながら死人を出したという家は、相手にとって縁起が悪く迷惑なので、私たちは、そこを出て自分の家に行くことにした。その時母は衰弱の余り口を利くこともできず、既に死を覚悟しているようであった。弟妹も差はあるが、殆んど母とかわらなかった。それから幾日たったのだろう。七月十六日、母は子ども六人を残して、誰も知らないうちに一人静かに去ってしまった。母が去る丁度その時刻だったのだろうか私はマラリアの高熱で苦しみ、前後不覚に陥っていた。父が帰ってきたのも分らない。


意識をとり戻した時には、父が母を抱きしめ、母の額に手をして泣いていたのである。とうとう母は死んだのだ。私は唯ぼう然として、その時は涙さえでなかった。父は家族の事が余りにも気がかりで今度も隊を逃げだして家族の情況をみに来た所だったのである。虫の知らせとはこういう事をいうのだろうか。軍紀に縛られている父は、母の葬式が済むとすぐ帰隊してしまった。


私は五人の重病の弟妹をかかえて途方に暮れた。これから先どうしてやっていったらいいのか分らなかった。とにかく体力をつけることだ、という訳で自分も発熱しながらおかゆを炊いてやるのだが一人も食べてくれない。箸をつけることさえもしない。そのような状態が続くにつれ、私も次第にあせり出し心もおだやかでなくなっていった。


マラリアの特効薬というので米二升と一個の割合で何個かのアテプリンを買い、それを飲ましてもいっこうにききめはなかった。そのうち末の妹が去った。母の死後一週間ぐらい後のことである。まだ二つで、その子のために乳を求めて方々まわった私の努力も空しいものになってしまった。


それからまた約五、六日後の七月三十日、弟と妹が同時に去った。その時も、私は母の場合と同様高熱で全くわからなかった。その二人の死を発見したのは叔母であった。母の妹に当る人で、私の母が死んだのもまだ聞いていなかった。叔母はアイクルの避難場で「自分はもう行くから残った子どもたちを頼むよ」という母の夢をみたということで、私の家族のことが心配になり、情況を伺いに避難場からわざわざ来てくれていたのである。

 

弟は随分と苦しかったのだろう。あっちに転がり、こっちに転がりしていたにちがいない。排泄物がそのままつぶれて散らかっていた。私の寝ていたすぐ側にいたのだが、私は全然わからなかった。二人の死をおじいさんに告げるとおじいさんは「今日もまたか」と観念した表情であった。棺箱をつくるための板もあるはずはなかった。米倉の蓋をはずして間に合わせに作られた棺箱に二人は入れられた。それを担いで海岸端へ葬むりに、黙って門を出ていくおじいさんの後姿を、私は病の床から茫然として見送った。

 

祖母が死に、母が死に、幼い妹が、二人の弟や妹が続けて死んでいった。一月もたたない中に、家族の中から五人の者が欠けていった。これでもう沢山だ。霊魂というものがあるなら、「お母さん、不幸はこれで終らせてくれ、私たちを助けてくれ」と祈る気持ちであった。しかし、四日後には次女が、更にその二日後には長女が、また相次いで二人を残して世を去った。もう涙も出なかった。

 

「次は僕の番だ。君たちは先に行っておきなさい。近いうちに会うことができるだろう」。亡骸に手を置きながらそれが妹らに精いっぱいいえることであった。しかし不幸はわが家だけではなった。その頃は東の家でも、西の家でもカンカンという音が連日のように聞こえた。夜になってもその音は止まなかった。夜が更けても響いてくる箱を作る音を、部落の者はみな互いに黙々として聞いていた。それはまた人間に代って隣近所の人の死を互に知らせてくれるでもあった。

 

マラリアは、この大浜の土地からひとりの人をも残してはおかないかのように荒れ狂い、毎日幾十人もの命を奪い去った。棺に入れられたのはまだ恵まれた方で、大方のものはムシロやカマスにくるまれ、足を露出させたまま海岸端に葬られたという。この世の出来事とは到底思えない悪夢のようなことが、現実に行なわれていたのである。

 

 

第七章 食糧難とマラリア


一、抜刀威嚇で死地マラリアの島へ疎開

家畜と人間の生地獄、波照間島の悲劇

特攻隊の不時着

台湾沖航空戦を身近に

一九四一年(昭和一六年)十二月八日、ハワイの真珠湾急襲によって勃発した太平洋戦争の波は、日本最南端の地、波照間島にもたちまちのうちにせまってきた。

 

即ち同月十八日に弾薬を満載して太刀洗を出発し、台湾へ向かう重爆撃機一機(隊長井上中尉以下八名乗り)がマートル原に不時着した。部落の防団員や部落民が現場に急行し、救助にあたった。搭乗員はけがはしたものの全員無事で、部落事務所に収容し、婦人会、女子青年団在郷軍人等がその話並びに飛行機搭載物品の保警備にあたった。
これは、この波照間島に歴史はじまって以来はじめて飛行機が着陸したことであり、島の人々は弾薬の散在する危険ななかにも物めずらしく飛行機の見物に集まった。翌十九日には小学校校庭におい航空機に関する講話並びに飛行機の展覧と説明会が行なわれ、島の人々には太平洋戦争を実感として身近に感じたものだった。その遭難飛行士一行は全員無事帰還した。

 

翌一月八日の大詔奉日には校庭で「米英撃滅部落民大会」が開かれ、在郷軍人による銃剣術会が催され、「鬼畜米英撃滅」と「神日本」を謳歌し、士気を鼓舞し、戦争への関心を高めた。

 

しかし、昭和十九年になると、サイパンの日本軍全滅など苦戦のニュースが知らされるなかで、同年十月五日に戦闘機一機(特攻隊一人乗、操縦士塚本庄一郎伍長)が、不時着するようになって、これまでニュースでしか知ることができなかった戦況が、緊迫したものとして、身近に知ることができた。その塚本伍長を石垣の兵隊に送り届けた波照間島米盛善幸(四十歳)は、当時のようすを次のように語った。

 

私が石垣の憲兵隊(登野城枝にあった)に連れて行ったが、彼はれっきとした特攻隊で日の丸のはちまきをして、背中には白い布で所属部隊と氏名年令が書かれていた。
二十一歳の伍長だったと覚えているが、所属部隊と氏名は忘れた。彼の言うには、南方出撃のため、四機編隊で飛行してきたが、天候が悪かったので相手を見失なって行き先がわからず、島が見えたのでそこに不時着した。エンジンの故障や燃料の不足ではなかった、と言っていた。なぜ相手を見失なっただけで、不時着したのかは不明だが、特攻隊の行き先は死に決っているので死を恐れてのことだったかも知らない。ニュースでしか知ることのできない特攻隊を目の前にして、前線の緊迫した事態を身近に知った。

台湾沖航空戦

大本営は大惨敗にもかかわらず、大勝利であると発表をした。

昭和十九年の一〇一〇空襲は直接波照間には被害はなかったが、十月十二日~十六日にかけて行なわれた台湾沖航空戦では、島の上空を次々に編隊を組んだ飛行機が南西へ飛行し、十数分後にはものすごい爆音が聞え、黒雲がたちのぼったりした。

 

あるときは「五機の友軍機が飛んで行ったが爆音の後、二機帰って行った。」(波照間二八五七上里真昭(十八歳)の証言)

 

また、「北から四機、北西から四機が飛行してきたが、島の南東海上に八機がつっこみ、ものすごい爆音とともに黒雲がたちのぼりまた、あるときは空をぶらさげた二機が低空飛行していったときもあった。」(波照間島佐事安祥の証言)

 

「夜になると、南西の水平線にサーチライトの閃光がひっきりなしにたちのぼり、撃墜された飛行機が火をふいて海中に墜落するようすが、目の前にあざやかに見えた。」(垣本保(十六歳)の証言)

 

また十月十四日には初めて敵機が二機飛来してきたが、空襲はせずに去った。
このように、台湾沖海戦はこの島には空襲こそなかったものの、近海には戦場さながらの様相がくりひろげられ、通信施設のない島ではいったい戦争の情勢はどのようになっているのか知らず、不安と恐怖にさらされた。


このようななかで、島の区長田福重勝氏は、八重山郡島守備隊に通信隊と防備隊の配備を要請した。(当時、公舎(字の事務所)の総代だった波照間島新川真那(四二歳)の証言)

波照間の空襲

戦争の緊迫した事態は金属類回収の命令でもわかった。アルミのかんざしや、直接日常生活に必要でない全属製の容器や道具が回収され、学校では十一月二十日には体育施設の鉄棒三本も取りはずされて献納され、また翌二十年一月六日には、石垣国民学校附設陸軍病院へ児童調製の阿旦薬草履一五〇足を、慰問品として送った。空襲にそなえて、学校の校庭や各戸の庭には防空壕が掘られ、舎、かつお工場、民家は阿や木枝、綱などで厳重に擬装された。昭和二十年一月二十一日午前十一時四十分、敵機八機が来襲し、初めてこの島に機銃掃射による空襲が行なわれた。

 

幸いにして、人命にかかわりなく、学校や公共施設には被害はなかったが、民家が一戸(野原家)と穀物倉庫四棟が全焼した。また二月八日十二時二五分、B24が一機来襲し、島を三回旋回し機銃掃射と爆弾投下を行ない、朝日丸、豊福丸のかつお工場を全焼し、昭洋丸のかつお工場の一部を破壊した。波照間島登野盛キヨ(十七歳)は当時のようすを、
かつお工場には、ドラム罐に漁船川の石油が貯蔵されていたので、それに引火して次々爆発し、その音とともに空中にドラム罐がふき飛ばされ、丸い輪をつくって立ちのぼる黒煙は島のいたるところから見え、敵軍が上陸したのではないか、とさわいだものでした。」と話された。

 

その翌日、二月九日からは学校での授業も停止になった。

 

2 ナゾの男山下と抜刀威嚇の疎開命令

1945年2月初旬、山下寅夫の赴任

一九四五年(昭和二十年)二月初旬(朝日丸工場空襲の数日前) 波照間校に青年学校の指導員として、山下寅夫が赴任した。山下とは偽名で本名は酒井喜代輔(現在佐賀県守山市に酒井工業所を経営)で彼は波照間を去るまで本名を明らかにしなかった。

 

山下は赴任当時からナゾに秘められたことが彼の周辺にあった。彼と同一校に勤務した上里真昭は、次のように証言している。「私は十月の末頃赴任したが、彼は私より三か月遅れて赴任した。彼はどこが発令したかも不明だし、青年学校の指導員とは言っていたが、職名も不明だった。私は彼が単なる学校の教師ではないということがわかった。
それは指導員としてきていながら、職員室の彼の周辺には十数個の火薬箱が置かれていたからである。それは背負って行動できるようにつくられ、信管をとって投げれば爆発できるしかけになっていた。それがまた、いつ、どのようにしてどこに処理されたか、全くわからなかった。そのようなことがあった時点から、彼は単なる指導員ではないことがわかった。特務機関だといううわさも耳にした。」

 

彼を下宿させていた西島本米(三三歳)は、「山下さんは当初は青年学校の指導員ということで来られました。当時、波照間には旅館がないので、出張で来られる方は私の家に泊りました。一週間ばかり下宿先をさがしたが、さがせないので、そのまま私の家に下宿することになりました。たいへん子ども好きで、うちの子をだいたり、あやしたりして、かわいがってもらいました。ある時は、写真のかわりにということで、私の子どもの絵をかいてもらったこともありました。

 

ご飯も家族と同じかまのものを食べ、子どもたちにも自分が食べさせたり、ご飯つぶを床に落とすと、お父さんお母さんが苦労してつくったお米だから、一粒もそまつにしてはいけないよ、と言って取って、自分が食べました。大変よい人でした。高木(彼の内妻の里)から、たくさんのおもちゃを持ってきて分け与え、由布(疎開地)にも持って行きました。」とたいへんよい人だった、と話しているがそこにナゾが秘められていた。

1945年3月下旬 -「山下」の変貌

一九四五年(昭和二十年)三月下旬、竹富村長玉盛淳博氏をとおして疎開の命令が、波照間出身の村会議員仲本信幸氏に伝えられた。仲木議員ができないと、つっぱねて村長を返したら、現われて来たのが一学校の指導員の山下であった。

 

「君は宮崎旅団長の命令に従わないと、言っているらしいな、何たることだ。非国民 ! 」と高圧的な姿勢で出てきた。

 

「米軍は現に慶良間に上陸しているのに、何で逆戻りしてこんなへんびな小島に上陸するか。上陸するなら沖縄本島や、本土に向かってするはずだ。こういう情勢だのに波照間に上陸するから、マラリアの地に疎開せよとは非常識な話だとつっぱねられたが、また三口ほどして、

 

「慶良間島に敵の潜水艦から米軍が上陸して、島の有志をとらえられ、日本軍の配置がもれたのでたやすく陥落した。波照間にもそのことがおこらないとも限らない。」と頭ごなしに迫ってきたとのことである。(波照間島仲本信幸(四九歳)の証言)

 

何故、一学校の指導員の山下が、八重山郡島守備隊第四五旅団長(宮崎武之少将)の命令という形で、村長を、そして村会議員に働きかけ、疎開を指示することができたのか、また、彼は西表に配備された護郷隊から配備されたと言われているが、どのような経路を経て学校の指導員として、配置されてきたのか、ナゾに秘められている。当時、西表の護郷隊にいた波照間島新城清吉(三十歳)は、「彼は酒井喜代輔といい、軍曹であった。徳之島に行くことになっていたが、空襲がはげしかったので行くことができず、波照間に指導員として派遣された。私と二か月間(昭和十九年の十二月前後)は同隊にいた。他の上官に比べて臆病で、おとなしく思われ、敵機が見えたら誰よりも先にあわててかくれるようなもので、話に聞くような波照間での態度とは全くちがっていた。」という。


波照間赴任当初は学校の指導員という形で来たので、生徒とも交わり、父母の間にも親しく入っていったが、疎開の命令が出されて本性を現わした。ここに日本軍の巧妙な手があった。

 

疎開の命令が島に伝えられると、島民は周章狼狽した。それは山下の変身振りにもあった。彼はこれまでの長髪を切り落とし、半ズボンと長靴と軍服に身をかため、帯刀し、たちまちのうちに軍人と化した。そして校長をも、区長、巡査、村会議員をも彼の軍刀支配下におき、島のすべての権力の上に君臨した。

 

疎明の命令が島に伝えられると、島では公舎(現在の公民館)や慶原山の洞穴の岩陰で、連日のように協議が行なわれた。最初の公舎での協議では、仲本信幸議員を初め、島をあげてマラリアの地に疎開することは死同然だと反対したが、軍命だから仕方がないとか、米軍の上陸を恐れて、もうそのときがきたと思う者もいて、ずいぶん激論したが、彼の抜刀威嚇の前には勝てなかった。

 

当時、公舎の総代(総務)でその協議に参加した新川真那は「最初の協議のときは山下が来て、疎開せよと一方的な命令で、反対する者は斬る、牛馬も皆殺す、家も火をつけて焼き払う、井戸にも毒薬を入れる、と押しつけるだけで字民の声など全然聞かなかった。」と証言し、南部落の役員をしていた佐事安祥は次のように話した。「山下は最初は教員という形で仮面をかぶってきたが、疎開ということになると、姿を転じて軍人になった。見せかけだけの教員であり、特務機関、一つの国内のスパイだったと思う。公舎での協議のときは疎開は軍の命令だということで、山下が一方的に押しつけてくるので疎開をする、しないということは、話し合うことはできなかった。」


また当時、公舎の幹事だった花城辰末(波照間島二八歳)は、「公舎での協議のときは疎開をやれとの軍の命令であったので、どこに疎開をするか、どんな方法でするか、準備はどうするかということが主に協議された。仲本信幸さんは、疎開はぜったいしないといって山下とわたりあったが、田福区長や部落民の中にも空襲で野原家も焼かれるし、空襲もはげしくなるはずだから、島に落ち着いておれないと、いう者もいた。

 

仲本さんは疎開をするなら、マラリアのない由布島にするといったが、部落民の多くは由布島は遠くもあるし、また、夜の航海だし由布には船の入り口もないので荷物の運搬にたいへんだといった。

 

仲本さんは船の入るところに着いたら、荷物は陸からも運べるしどうにかなる、恐しいのはマラリアだと言っていたが、多くの人々はマラリアよりは空襲を恐れていた。由布島は小浜にも近いし、空襲の恐れもある。南風見は洞穴も多いのでその心配はないと言って、南風見に賛成する者が多数だった。」と協議のようすを話した。

 

疎開の協議は洞穴のある避難地、慶原山の森の中の岩陰でも行なわれた。その協議に参加した上里真昭は、「慶原山の協議は、山下が区長をとおして集めさせた、と思うが、各部落の班長をはじめ北や南部落の部落民も多数集まっていた。はじめ、区長があいさつして、続いて山下が疎開について説明していた。その内容は、米軍は波照間に上陸する恐れがある、そのために島は無人島にする、家畜も一匹たりとも残すな、最後は全家屋も焼き払う、井戸にも薬を入れる、反対する者は容赦なく斬る、と言っていた。

 

その後、協議に入り、どのような態勢で疎開するか、班別にするか、出発の日時、疎開の場所、漁船をおろすこと(冬期は漁船を陸上げしておいた)その他の準備について話し合われ、これが最終的な協議で、その翌日から船をおろす作業にかかって準備は急速にすすんだ。」と話し、


また、南部落の勝連スエ(波照間三十歳)は当日のようすを、「山下は半ズボンをつけ、茶色の長い軍靴をはき、日本刀を二つ下げていた。誰かがこんな小さな島には米軍は上陸して来ない、洞穴があるから心配がないので疎開には反対だ、という声がすると、山下は顔を真赤にさせて怒り、日本刀を抜刀してサッサッと振りまわして、自分の言うことに反対する者はこの日本刀で斬るとおどしたので私たちはおどろいて、ふるえながらそのようすを見た。山下がそうすると、誰ひとりものを言う人がいなかった」と証言している。


この慶原山での協議を最後にして、翌日から疎開の準備にかかり、準備は急速に進んだ。

 

3 軍の家畜の威嚇徴用 家畜の生地獄の悲劇

家畜と住民を引き離す

疎開の準備は班別に食糧や荷物をまとめ、荷造りすることから始まった。穀物類はあさやわらで作った袋に入れて荷造りした。

 

非常食として携帯できる袋にかつお節とはったい粉を入れて非常時にそなえて各自の分を準備した。また、マラリアの特効薬キニーネは入手不可能なのでヨモギ、ニンニクなどを大鍋に入れてせんじ、その液を広口びんに入れて漢方薬にした。

 

家畜も「一匹たりとも残すな!」との山下の命令であったので、各戸では豚、山羊、にわとりなどを処分し、塩づけにしてびんやかめにつめ、肉はくん製にして俵にした。各戸では自家の豚、山羊、にわとりなどを処理するだけでせいいっぱいで、大きな牛馬には手をつけることはできなかった。牛馬は各班で二~三頭殺して肉を各戸に分配してくん製にした班もあったが、多くの班は牛馬の処理については、精神的な余裕がなかった。
また、自分がかわいがって育て、家族同様に田畑で共に働いてきた自分の牛馬を自分の手で殺すことは農民には耐えられないことであった。それで他人に自分のものから殺してくれと、お願いしてまわった。


当時、波照間では牛馬は大切な労役で稲作の時期になると、水田の整地に二~三頭の牛馬を連ねて水田を踏ませたので、各戸には三~四頭、なかには十数頭の牛を飼っている農家もあった。疎開前は当地では牛馬八〇〇頭、豚四〇〇頭、山羊一七〇〇頭、にわとり五〇〇〇羽が飼育されていたと言われ、家畜の豊かな島として知られていた。

 

疎開が開始されると、軍は島の豊かな家畜の徴用に獣医の広井修少尉、栗原軍曹らが博労の嘉手刈恒優、高良吉雄と当地出身の仲筋米三らを伴なってやってきた。


屋久(地名)の洞穴の中で全島の家畜の屠殺、処分についての協識が行なわれたとき、徴用に来た広井少尉、粟原軍曹らは、「君たちは西表島疎開することになっているので疎開地に持って行ける家畜は持って行きなさい。君らの持って行けない分を取るために来たのだ。島には一匹たりとも残すな! 残したら米軍の食糧になり、利敵行為になるから全部殺せ!」と言ってまるでわがもののような態度で抜刀して命令したとのことである(字波照間仲本信幸(四九歳)の証言)

 

食糧、特にたんぱく質に窮乏していた軍にとって、この波照間島の豊富な家畜は恰好のものであり、そのうえ波照間には、当時進幸丸、朝日丸、豊福丸、昭洋丸、大福丸、開洋丸のかつお工場が六つあり、そのかつお工場の大釜、大調理場、乾燥屋(バリカン屋)石炭、薪、などの加工施設、資材は豊富な牛馬の加工にも最適のものであった。この豊富な家畜と恵まれた加工施設を使って食糧を確保するためには強制疎開という手段に出たと憶測されるのもあまりにも条件が整っている。

 

家畜の徴用に来た軍はかつお工場にも近く、木が多く、防空のためにも条件のよい富部落の大嶺家、崎枝家、西島本家を宿にしていた。大嶺真那(波照間島六十歳)は当時のようすを次のように語した。「私が疎開地へ荷物を運搬して、島に帰ってくると私の家に彼等が泊っていた。私の家の後の森の中や、近くの木の下にはたくさんの牛がつながれていた。部落民疎開地へどんどん行ってしまうので、島に残った部落の役員や青年たちが軍に殺させるために連れてきたものだった。軍の炊事は隣の家でやったが、そこにはいつも肉が木の枝に下げられていた。軍は島の青年たちを使い、昭洋丸のかつお工場で製造して軍が連れてきた船で運んで行った。その船長(宮城)は私の家で病気で死んだので石垣に連れて行って葬式した。」


軍は島から防衛召集された青年や、島に残っている男女青年の中から各部落三~四名ずつ、計二十余名を動員して屠殺と加工にあたらせた。屠殺班のひとりである石野清峯(波照間島十七歳)は次のように言っている。

 

「私は防衛召集されて石垣に行ったが軍の命令で家畜の徴用に島に行かされた。島に残されている青年たちとその任務にあたった。男子は屠殺し、女子はかつお工場で加工にあたった。私たちが来る前にも山下が命令してたくさん殺させ、あっちこっちに殺したまま肉も取らずに、木の枝をかぶして腐らしてあった。私たちは集められたものや、野原につながれているもの、逃げまわっているものを殺した。捕えられないものはそのままにしておいた。その数はそう多くはなかった。私たちが屠殺した場所はプルマ山(現在の波照間製糖工場の事務所の位置)のヤラブ木(テリハボクのこと、その木は屠殺のときの血のために立枯れしてしまった)の下で殺し、肉を取って骨は近くに山積みしておいたが、終戦後近くの燐鉱の穴(廃坑のあと)に捨てた。(現在もそこには白骨が山積みされている)。肉は旧洋丸のかつお工場でくん製にした。女たちが小さく切った肉をかつお節製造用の大釜に入れ、海水で煮て、バリカン屋(乾燥屋)でくん製にした。煙がたつので空襲が心配であったが、一回あっただけで被害はなかった。くん製にしたものは荷造りして軍が手配した船で軍に送った。」

 

吉村清(波照間四六歳)は徴用に来た軍の横暴ぶりを次のように話した。
「軍が徴用に来る前は牛は班で殺してくん製にして疎開地へ送ったが軍が来てからは軍が取り上げて疎地には一頭も送ってない。私の牛は一頭は班で殺して肉は班に分配したが二頭は野原で殺して肉も取らずにそのままにしておいた。豚やにわとりはできたら疎開地へ持っていくつもりで、殺さず残しておいた。にわとりは二十数羽を床下にかとっておいたが、ある日畑から帰ってみると、それがみんな軍に使われている青年たちに取られてしまっているのでその背年たちにどなったら『軍の命令でやった』というので、その軍人を連れて来いと言って石を投げつけて追ってやった。

 

しばらくして、広井少尉がやって来て、
『君は軍がそうやっていると言っているらしいなあ。』と言ってきた。私は、
『軍は島の住民を保護するために来たはずだのに、住民を苦しめるとは何事か。私たちは食糧を確保するために苦労している。苦労して集めてある他人の家畜や食糧を盗んでいくとは軍はそんなものか。私たちは疎開地で何を食べて生きるのか。盗んだものはみんな返しなさい』
と言ったら広井少尉は、
『そんなら君のものはみんな持って行きなさい。それができるものなら......』
と言ったので私は『私のものはみんな持っていく。』と言って受け取りに行った。私の家の前の安里家には、軍が集めたにわとりを網で囲ってあったのでそこに受け取りに行ったが、一部のにわとりは彼等が殺して食べ、残ったものは彼等が集めたたくさんのにわとりの中に混ってしまってわからないので結局一羽も取りかえすことができなかった。私はおこって、
『君等のやり方は日本軍人のやり方ではない。私も軍隊にいたがこんなことをやれとは教わらなかった。波照間に来ている日本軍人はこんなざまをしていると八重山の旅団長に知らせてやる』
と言ってやったが、その少尉はできるものならやってみろというような態度をしていた。


また昭洋丸のかつお工場使用の件で軍とわたりあったこともあった。
彼等が引き上げる前になって、軍の牛肉の製造の責任をしていた嘉手刈に軍のやり方があまりにもひどいので、さんざん文句を言ってやった。他人の工場を何と思っているのか西表からかつお製造のために取ってきて山積みしてあった薪をみんな使い、船の燃料の石油や工場の道具は使い放題でがまんできなかったのでさんざん言ってやったら嘉手が広井少尉に伝えたとみえて、軍から昭洋丸のかつお工場の責任者来いとの呼び出しがあったので私が行った。広井少尉は、
『この人が軍に文句を言った人か、かつお工場の謝礼として一五〇円やる』と言って一五〇円を出してきたが私は、
『こんなもの受け取れない。これだけで工場の補償ができるものでないし、また、島のあれだけの牛を殺された字民に対してもこれだけのものを受け取るわけにはいかない』
と言ってことわったら、
『この金は私のものではない。君が取らなければそのしまつに私が困る。少ないかも知らないが軍にはこれだけしかないのでこれだけしか上げられない。君が取らなければかつお工場の組合員に対しても言い訳がたたないので是非受け取ってくれ』
と言うのでしかたなく受け取った。日本軍は波照間でたいへんなことをしている。特に山下などはきつね同然だ」と今だに日本軍の横暴ぶりに怒りをぶちまけていた。

 

また当時昭洋丸工場の会計をしていた川平新勝(波照間四九歳)は、

「昭洋丸のかつお工場を使っていた軍が引き上げて行ったと聞いたので、私は当時会計をしていたのだが、船長(吉村清)と連絡ができず、私自身で工場の使用料、資材の補償を請求して広井少尉宛に手紙を出したら、十二月になって返事が来た。その手紙は今も持っているが、他人の工場を勝手気ままに使って、その謝礼は微々たるものだった」
と言って手紙を見せてもらったが、その中には「五月十二日工場使謝礼トシテ吉村清へ五〇円也」と記載されていた。

 

家畜の徴用に来た軍が引き上げて行った後も島には逃げまわっているものや、後のことを考えて残してある家畜がいくらかおった。それを知った山下は疎開地からわざわざ全滅させるために使いを派遣した。その命令を受けた上里真知(波照間十八歳)は次のように証言している。

 

疎開をして二十日ぐらい過ぎた頃、山下は私に、『島にはまだ家畜が残っているらしいから、使いをやるので君が責任をもって島に残っている家畜を一匹残さず全滅させて来い』
という命令を受けたので、七~八名の青壮年を連れて豊福丸で島に行った。島には逃げまわっているものやつながれているものもいた。つながれているものは手綱のとどくだけの草を食べつくし、その足跡は土を深く掘り下げるほどで、骨と皮になっているものもいた。疎開から引き上げてどうなるかわからないので、逃げまわっているものはそのままにしておいて、つながれているものだけを殺そということで手配して殺した。私はガナバリ(地名)のヤラブの木の下に集め、十七頭殺した。もちろん肉を取る余裕もなく、殺してその場に伏せておくだけだった。これが最後の処分で、その時は島には誰もいなかった。その後は食糧の収穫のために来る以外は島には人はいなかった。疎開地に帰って山下には『全滅させて来た』と報告した」

 

馬の屠殺にあたった上里真昭は次のように話した。
「馬は疎開地への物資の運搬に使ったので、最後まで各班には二~三頭ずつ残っていた。軍が徴発していったのは牛だけで、馬は残してあったので私たちは専ら馬の屠殺にあたった。老人たちが集めてしばってあるものを私たち若い者がまわって殺した。馬は牛より知があるし、ずいぶん殺すのに苦労した。一日で一三頭までは殺すことができた。それは殺してその場に倒しておくだけで、肉は一匹からも取ってない」

 

また佐事安祥は屠殺のもようを次のように話した。
「マグロ縄の一方の端を木の幹にしばりつけ、その縄を牛の首にかけ、他の端を引っぱれば首がしまるようにする。最初から木にしばりつけると牛があばれて殺されない。また他の一人は牛の片足をしばったをつかみ、手斧を持った人の一、二、三!の合図で首をしめると同時に手斧を頭蓋骨の急所深くたたき込み、その拍子に片足をしばった縄をつかんだ人が引張って横倒しにして頸動脈をほうちょうで切って即死させる。肉を取るときはまだ血が体内を流れているうちに皮をはぎ取る。慣れない人は皮をはぎ取った牛は血管があざやかに見えて、無気味で見きれないものだ。
私は南部落の役員をしているので、自分で殺せない連中は私の所に連れてくるので処理しなければならず、慣れたものだった。あるとき、私が殺すのを見ている人が『佐事さんはこんなことができるがもしアメリカが上陸してきたら自分の肉親にもそれができるか』と言うので、
『おお、軍隊ではその訓練を受けてきたので万一の場合は仕方がない』
と冗談で言ったが、当時は殺気だった事態だから、そんなこともしでかしかねないという状況だった」

 

また、疎開地から収穫のために島に来た仲底善祥(波照間四一歳)は、
「船が島の近海に来ると海上にも異様な臭いがただよい、上陸してみると島のいたるところに牛馬が殺されて腐敗し、道の西側の木の枝にはギンバエが桜の垂れ下がるほど着いていてまるで生地獄のようだった」と当時、この島は家畜の生地獄さながらの様相であったと、証言している。

 

4 死のマラリアの地南風見へ

八重山のマラリア史

病人、妊産婦もかまわず強制疎開

屠殺と荷造りなど疎開の準備をすすめながら、先遣隊として各班から数名ずつ南風見へ派遣した。先遣隊は疎開の場所を定め、各班の荷物が収容できるような仮小屋を各班に一棟ずつ造って疎開民を迎える態勢を整えた。

 

場所は北、名石、南の三部落は南風見田の東の方に、前と富嘉部落は南風見田の西の方のシタダレ川の近くに定めた。東の方は広い砂浜と原野に恵まれ、岩陰や洞穴も多く空襲にはよかったが川の水が濁っており、マラリアも多いところだった。一方西の方は山が海岸にせまったところで、耕地がなく、かやも少ないので家を造るには不便であったがシタダレ川の水は澄み、マラリアの少ないところであった。

 

一九四五年(昭和二十年)四月八日、先遣隊の受け入れ準備もできて、いよいよ疎開地へ第一陣として、名石と北部落の班から進幸丸第二号(船長上里真知)と大福丸(船長大嶺幸吉)で出発した。上里船長はそのときのことを次のように話した。

 

「最初の疎開地への航海は南風見への航路も不明で、夜航であったので、大原の仲間川の川口の小島(カラス島)に人と荷物をおろした。大原から南風見田へ二里の道のり荷物を運ぶことは、道路の整備されなかった当時はたいへんなものだった。これではたいへんだということで、南風見田南風原口という船の接岸できる場所があるというので、そこをさがして山から木を数十本切り出してポールを立て、夜の運航の標識にした。その後は潮時をはからってそこから運航した。」

 

その後、毎晩のように、進幸丸第一号(船長上里徳喜)、進幸丸第二号、大福丸、豊福丸(宮良定勝)の四隻で疎開地への輸送にあたった。子どもから、老人、病人を連れ、また家財道具を持って、夜間の漁船での運航は、たいへん苦難なことであった。南風原口で漁船に空襲を受けてからは鹿川湾に荷物を下ろし、そこから山道さえないところを南風見、由布へ荷物を運搬することはたいへんなことであった。

 

疎開開始の日にお産を迎えた波照間ヒサ(波照間三三歳)は、「疎開の始った日、その日は、私の部落(名石)の一班から出発することになっていたが私はお産にあったので、部落では疎開に行ってしまうし、空襲の心配もあるので、ペミシク(地名)の畑小屋でお産を迎えた。産婆もいないので私の母にお産をさせてもらった。夜になると畑小屋は静まりかえり、親牛を殺された子牛がひっきりなしに泣く声が聞えて、この子も疎開に行ったらこんなことになりはしないかと思われて、泣かされた。産後十三日目に疎開地へ行ったが、夜間の船旅はたいへんなものだった。その子は幼名をナベと呼んだが、出生届もできないので正式に命名もしないうちにマラリアにかかり、生後五か月して死んでしまった。」

 

とその当時の苦労を話し、また船の中で陣痛をおこした東里ミヨは
「旧三月三日の晩に私たちは疎開地へ出発したが、夜中の三時頃から陣痛が始まり、明け方西表に着いた。上陸して二里の山道を南風見まで母に連れられて歩いたが、周期的におこってくる陣痛のあいまをどのようにして歩いたか知らない。その子は南風見で元気に育ちはしたものの、栄養不足で乳が満足に出ないので、おもゆをつって飲ましたが、子どもがかわいそうでたまらなかった。疎開解除で子どもは元気で波照間に連れ帰ったが、まもなく私もマラリアにかかり、母体の栄養失調とマラリアで衰弱し、その子はみるみるうちにやせ細り、九月に生後六か月で死んでしまった。出生届も出すことができず、入籍もしなかった。当時は生まれたものの、出生届もできないので、入籍しないまま死んでしまうものがたくさんいた」
と当時の悲惨な事態を話した。疎開は、病人、妊産婦、老人、子どももかまわず非情にも強行されたのである。

 

また公務を預かる人々の苦労もたいへんなものだった。国民学校(校長名信升)においては重要書類や器具も職員と共に疎開地へ持って行き、学童は父母とともにまた職員も部落民とともに疎開した。(なかには疎開地へ行かず石垣島へ逃げ出す者もいた)。四月二十九日には疎開地に仮事務所一棟を建て、重要書類を保管し、ま学童の訓育にあった。
当時、波照間郵便局長だった仲底善祥(宇波照間四十歳)は「私は当時郵便局長をしていたので、郵便局の重要書類、帳は私といっしょに持って疎開した。金庫以外のものはほとんど持って行った。私は自分の家の家財道具でもせいいっぱいだのに郵便局の荷物まで持たされて、その苦労といったら話にならなかった。郵便物は古見の配達人と連絡をとってやった。八重山の焼けないまでは貯金の支払いまで南風見でやったが、それが焼けてからはできなかった。郵便局の荷物はそのまま持ち帰ることができたので、帳簿書類関係は一つも紛失することなく、戦後の事務処理にはたいへん助かった」と公務をあずかった者の苦労を話した。

 

また疎地での生活のようすを次のように話した。「疎開地ではすべて斑単位に組織され、家も班単位に建てられ、寝食ともに班ですべてやった。家は防空のために木やアダンの下をたよりに細長く造り、中央に道路をとおして両側に寝るようにした。また厳重に偽装した。梅雨期にあたったので木の下の家ではじめじめ湿って住み心地の悪いものだった。特に便所は砂地を掘って造ったので雨でくずれ落ちたり、ウジムシが上まであふれてきて何回も場所を移動した。

 

住み家は海岸近くに造り、第一避難所と呼んでいた。山の中腹には第二避難所を造りそれはマラリア蚊や毒虫を防ぐために床を高くし、床下から山ピパージの薬でいぶすように造られ、食糧を運搬して交替で人をつけて警備にあたったが第二避難所へ運んだ食糧は白アリにやられるのが多かった。またハブのいない島で育ったのでハブが心配であったが、ハブはたくさん殺したが、幸にしてそれにかまれた人はひとりもいなかった。

 

更に山の頂上近くには第三避難所をつくり、非常事態にそなえたが、それは仕上げるまでにはいたらなかった。第三避難所から見下すと、新城島黒島波照間島は下の方にはっきりと見えた。波照間の開洋丸、豐福丸工場が空襲でやられるのがはっきりと見えた。そのようすを見ると崎山で波照間、生島二見上ギリバ、我家又は、産シャル親又、真面晃ルソンネ、見ラデシバ、日涙マリ見ラヌ』と歌われた昔のことが思いうかべられ、昔の歴史は今また自分たちの上にあるものだと考えさせられたものだ......

 

疎開地では全くコウモリの行動と同じで、昼は行動できないので、山にとじこもっていて、夜になると暗やみの中で行動する。食事の準備も夜は灯がもれると敵に知られるというので朝と夕方のうちに準備したが、煙を立てないようにと気を配ったものだ。朝も早く起き、朝は空襲がないので、開墾などのしごとは朝のうちにした。大原は『南進部落』と言って移民計画の部落で、豊原のところも移民計画のために開墾に手をつけてあったので、耕作には助かった。大原部落から水牛を借りてきてすきおこし、いもを植えたが、収穫しないうちに引き上げてきた。」

崎山節

二百年前、首里王府(尚穆王時代)によって波照間の住民が西表の崎山村に強制移住させられたことが、今また日本軍によって同じことがくりかえされたのである。


また大原部落は当時「沖縄県振興十五ヶ年計画」(昭和八年~1二年)によって開発が計画されていた。それを受けて時の八重山庁長大舛久雄氏(新城島出身)は新城島の住民を大原に移住させて開発しようと計画しそれがすすめられていたが、マラリアのためにその実施が困難であった。大舛支庁長と軍がかかわりあったかどうかは不明だが、大原、南風見の開発のために黒鳥、波照間の住民を強制疎開させたのではないかとの憶測があるのもその時期が一致するからである。もし、そうだとすれば、マラリアの地、西表の開発のために再び波照間の住民が犠牲になり、現代版「崎山節物語」の悲劇が演じられたのである。

波照間島の遭難兵

疎開地でも食糧確保のため開墾し、耕作したものの、すぐ収穫できるわけはなく、食糧の欠乏は日に日に迫ってきた。そのため六月八日、第一回「決死収穫隊」として各班から選出し、総勢六六名を粟の収穫のために波照間島に派遣した。収穫隊は鹿川湾から日暮時に豊福丸で出発し、収穫を終えて六月中旬無事鹿川湾に帰った。そのときに、日本軍の遭難兵が波照間島に漂着していた。その世話にあたった花城辰末(波照間島二十五歳)はそのようすを次のように話した。


疎開地から粟の収穫に夜行してきたが、翌日の朝、部落をまわって来ると阿保勢家の附近に人が二~三人居るので、誰も島にはいないはずだと思ってびっくりした。よく見るとひげを伸ばし、髪も伸び放題であるので、ほんとにアメリカ兵が上陸したのではないか、これはたいへんなことになったと思って、行こうかどうしようかと迷ったが、こうなっては下れないと思って思い切って行ってみると日本兵であったのでほっとした。

 

ここは日本の最南端の島で、どうゆうわけで住民がいないかということなど話したら、彼らも安心して喜んでいた。彼らは五日前に漂着したが食べ物がないので、空家をまわっていもやねぎ、お米などさがしたが火が見つからず、やっと空家からマッチをさがしたと言っていた。井戸の側の木に小豚とにわとりを殺して下げてあった。彼等のいうには自分たちの日本軍はフィリピンで敗北し、解散したので各自逃亡し、彼ら八名はジャングルの中でしばらく暮していたがカヌーが見つかったので、それにヤシの実を積み込み、台湾へ向けて来たが漂流し、途中で死ぬ者は水してやり、やっと四名生き残った。西表の崎山崎まで流されたがまた南に流され、朝の十時頃、波照間の南風泊の海岸に流れ着いたらしい。衰弱しているので、海から陸に上がるのに二時間かかって綱で引き上げたり、引張ったりして上陸したらしい。軍曹の一人は仮死状態になり、自分は助からないから捨ててくれと言ったが、せっかく陸地に着いたから、生命は必ず助かると励まして連れてきたと言っていた。その中の一人はワンマンなものがいて、ヤシの実は限られているので、一日にどれだけと決めて食べていたようだが、彼は力づくで他人のものを奪い、多く食べたので体力は衰えなかったと話していた。小舟の中で死ぬか生きるかの戦いであったはずだから、体力の強いものが最後まで生き残ったようである。彼らは私たちと四~五日いっしょにいて、疎開地へ連れて行ったが、その後はどうなったか知らない」

 

その四名の兵隊の氏名は次のとおりである。海運整備兵曹長石川茂忠(山梨県甲府市橘町一番地) 海軍一等機関兵曹 村山俊雄 主任兵長 山川京一 整備兵長 清水正敏。収穫隊の一人であった佐事安祥さんには石川兵曹長からは台湾からお礼の手紙が届いたと話された。


また収穫の炊事係をしていた本比田トミは、「西田原さん、金武さんと私の三名は炊事係をしていたが、その話を聞いたので見に行ったが、二人の兵隊は死にそうであった。かわいそうに思い、食べ物を持って行って上げたらそのお礼としてミシン糸を二個ずつもらった。南風見に連れて来て、彼は小浜に送るとことになったので、米盛トミ先生はこの兵隊たちはヤシの実を食べて生命が助かったということで、『ヤシの実』の歌を私たちに教えてもらい、私たちはその兵隊に『ヤシの実』の歌を歌って聞かしたものだった」


その兵隊たちは山下が由布に連れて行き、由布から夜航で小浜島に送り届けられた。当時、小浜島に竹富村役場があり、海軍の特攻部隊が駐屯していた。

 

六月二十六日には第二回決死収穫隊、一四七名が島に派遣され、稲の収穫を終って七月中旬に帰った。

 

南風見のほかにマラリアの少ない古見部落や遠く由布島にも疎開した。古見部落には、名石部落の石野家三戸と後富底家、南部落の加屋本家と辻野栄次訓導が親せきや知人をたよって疎開した。

 

由布島には仲本信幸村議のすすめで、彼の班(富嘉一班)と前部落の彼の親せきの上里家、東盤家、前花家が疎開した。南風見にマラリアの罹病者が増えると山下も彼の宿(西島本家)の家族を連れまた慶田盛家も南風見から由布に移って来た。

 

由布は小さな離れ島でマラリアがなかった。そのうえ、対岸には肥沃な土地があり、与那良田には水田を開墾し、整地までやったが夏で時期が合わず、作付するにはいたらなかった。また西島台地を明墾して畑にし、いもを植えた。役も島から連れて行ったので耕作に助かった。また山羊は木の下でって飼い、その飼育は学童たちがあたった。また小浜島に近いので必要な物資は小浜島からかつお節や塩と交換してきて供した。由布への空襲はなかったが小浜島からの流れ弾が来たときもあった。上陸にそなえて山奥に避難小屋を作れと村役所から指示があったので、古見岳の前の川の上流に避難小屋を造って、食糧を分けて運搬し、番人を交替でつけておいたが、ほとんど利用しなかったとのことである。(由布については仲本信幸の証言)

 

由布には波照間からの疎開のほかに竹富島や黒島からも疎開して来た。

 

5 横暴な特務兵山下

疎開が実施されると学校の指導員から軍人に変身した山下は、もともと学校の指導員として赴任したので、軍の階級も不明で、自から少尉とか中尉とか名乗っていた。旅団所属の上等兵仲筋米三は家の徴発に来た時の山下について次のように話した。

 

「私が広井修少尉と家畜の屠殺のために波照間に行ったら、島の人々は山下という中尉が来て、たいへんなことをしているというので、旅団所属の中尉には山下という軍人はいないが誰だろうと思っていたら、私たちが大嶺家に移った晩彼がやってきた。それは酒井軍曹であった。


私たちは彼を酒井軍曹としか知らない。何故に山下と名前を変え中尉を名乗ったか不思議でならなかった。彼は広井少尉のまえで、酒井軍曹と名乗り、身震いしながら自分は護郷隊としてこの島に来て、疎開を指導していると報告していた。私はなぜ酒井がそれほど身震いしながら報告していたのか不思議でならなかった。上官の前であるし、また名前、階級を偽っていたからだと思ったが、彼の報告を聞いていると疎開の一切の命令、指示は彼の責任で行ない、彼が勝手気ままに行なっていたからではないかと思われた。」と証言している。


波照間には壮年たちはみんな防衛召集され老人と婦人、子どもたちしかいないし、軍人は山下一人しかいないので、彼は軍隊については彼以外に誰も知っている者はいないと考えていたらしい。退役軍人の一人である佐事安祥は、「疎開地で班長会の後、イノシシを撃ちに行きたいが誰か鉄砲を使える者がいるかというので『はい、私ができます』と言ったら『おお、いたのか。君は軍隊の経験があるか』というので『はい、私は大正十二年兵、佐賀の五五連隊第十中隊の二番ラッパ手だった』

と言ったら、『おお君は平和時代の教育を受けた軍人ではないか。その時代の軍人はりっぱだ。では、いっしょに連れて行く』と言った。弾はいくらあるかと聞いたら五発しかないというので、それだけでは何にもならないと言って行かなかった。そうしたら彼は私と力勝負しようと言ってきた。ちょうど白浜に行ったときてんま船がいたので、てんま漕ぎ競争をしようというのでやった。当時、私は四十二歳でまだまだ元気はあったし、また、かつお工場でてんま漕ぐのは慣れていたので、私にかなうはずはなかった。彼は私に負けたので次は何かで負かしてやると言った。

 

またある晩は波照間の桟橋で貨物を荷造りした三斗俵を青年たちを使って船に積んでいたが、夜の三時半を過ぎているし、湖がひきかけて、干潮になったら船が出られないということで、青年たちをいそがせていたが、なかなかうまくできないので自分がやるということで山下がやったが、彼は三俵だけ投げてへこたれてしまった。私にも手伝いしてくれというので八〇余りの俵を船に投げてやったら『君にはかなわない』と言っていた。

 

その後は私には一日おくようになった。彼は軍隊について知っている者は島には彼以外にいないと考え、また彼より強そうな者は必ず負かして彼の支配下におこうとした。彼は島の人たちを畜生同様に考え、馬鹿にしていた」

 

島には日本軍人は彼一人であるし、彼は軍政下だから軍人である彼には何でもできると錯覚したのか、島のすべての権力の上に君臨し、学校長、巡査、区長、議員などすべて彼の軍刀支配下においた。

 

疎開地へ最後に運航した晩、山下は巡査をはじめ住民三〇~四〇名に暴行を加えた。
それを見た仲底善祥はそのことを次のように話した。「その晩は前、名石、富嘉部落などの最後に残った疎開民が出発することになっていたが、集合が遅いし、また、船の能力も考えないで勝手に荷物を積んであるということで、巡査もいながらこんなことをするのかと言って、巡査をはじめ、部落の大人たち三~四〇名が彼にたたかれた。特に亀浜巡査はひどくたたかれ、けられ、溝に仰向けに押し込まれ、暗がりで見ていた人々には、巡査は死んでしまったのではないかと思われるほどだった。彼は巡査であろうが、議員であろうが、彼の思うとおりにいかなければ、抜刀してかかってきて子ども扱いにしたものだ」

 

また、北と南部落の班の荷物を運搬した翌朝同部落の班長ら数名が彼に暴行を受けた。その一人大泊ミツは、
「ある日、波照間から帰ってきた山下さんは各班長と炊事係集合しろという命令でしたので、四~五人の班長と女は私一人集まりました。体の大きい山下さんは太い長い棒で力いっぱいひとりひとりたたきました。弱い私はたたかれると同時に地べたに倒れたのです。何の理由でたたいたのか、今でもわかりません。」


と話し、そのようすを見ていた勝連スエは、
「それは山下が波照間からくん製にして持ってきた自分の牛肉の俵が見つからないのは班長に責任があるということで、北と南部落の班長を南部落の一班小屋の前に集め、一列に並べて手を上に上げさせて、生竹の一メトルぐらいあったものでたたき、それが割れ、ちぎれ、一節になるまでたたいた。私たちはかくれて見たが、あとは恐ろしくて見かね、また山下に見つかったらたいへんだということで、ばあさんたちが、こんなものは見た人に罪があり、見ない人には何の罪もないというので逃げてきた。

 

その後、東迎のじいさんは班に帰ってきて、山下にたたかれたということで班員や家族に八つ当たりした。たたかれた班長は佐事、船附、新城、東迎のじいさん方であった...............。

 

また私は班の倉庫の係で、島尻さんは炊事班長をしていたが、毎日の食糧の使用量と残量を山下に報告した。その報告にすこしのちがいがあると釜にあるごはんのついたしゃもじでたたかれた。島尻さんは貧乏班のくせにぜいたくに食べさせているということで、何回山下にたたかれたかわからない。私の班は分家が多いのでどちらかというと他の班より食糧は少なかったので、貧乏班と言って馬鹿にしていた。山下はあの班はお米班、この班は粟班、私たちの班はソテッ班だと言いふらしていた。島尻さんと私は無理がたたったのか班では、誰よりも先にマラリアにかかってしまった。山下は私たちの寝ている小屋に来て『班の生命になる倉庫と炊事を預かる者が先に倒れてはどうなるか。誰に引継いだのか』と言って寝ている私たちにどなったので、うちのばあさんと島尻のばあさんがたまりかねて山下に、病人にまでそんなにしかるのかと言って山下は老人に追いかえされたこともあった」と話した。

少年兵、護郷隊「挺身隊」を組織

山下は疎開地に来ると国民学校の四年生以上の学童と防衛召集されない男女青年たちを集めて「挺身隊」を組織した。挺身隊は挺身隊館として一棟の小屋をつくり、中央から道路をつくって両側に男子、女子に分けて共同生活をした。挺身隊の任務は荷揚げ作業、船の偽装、避難小屋造り、清掃、警備などで、夜間も不寝番をおいて警備に当たった。挺身隊は各自ナイフとを巻いたものを常時腰に下げ、各自でつくった戦闘帽をかぶっていた。いわば未成年者の軍隊であった。彼等は毎朝ラジオ体操をし、日中は日程に従って共同作業をし、夕方は砂浜に集合して教化訓練を受けた。指導者は山下波照間出身の青年学校の教師、石野盛正であった。

 

この挺身隊の指導員らは教化訓練という名で学童、青年らを酷使し、虐待した。挺身隊のひとりであった波照間島新盛良政(十九歳)は「ある日、私たち挺身隊は、真夏の日盛りの午後二時頃から五時間も暑い砂浜で教化訓練ということで体罰を受けた。理由は清掃ができていない、ハエを取るのが少ないということだった。私たち挺身隊全貝を砂浜に二列に並べ、石野が男女かまわずひとりびとりを生竹のちぎれるほどたたいた。私は二~三回たたかれると目まいがしたので、そのまま前にうつむきになって砂地に倒れ、腹が痛いと言って難をのがれたが、立っている者はどんどんたたかれた。最年長の富底康佑は特にたたかれ、彼はそれが原因で死んだ」と言っている。

 

また、富康佑の姉の上盛ミツ(二九歳)は、「石野は挺身隊の子どもたちをハエを取るのが少ないというただそれだけの理由で、名石三班の前の浜に並べて、生竹がちぎれて一節になるほどたたいたり、けったりした。私たちはそれを見て、生命が欲しくてこんなところに疎開して来たはずだのに、何の罪があって、成長ざかりの子どもたちをそんなにたたくのかと思うと悲しく、またにくらくてたまらなかった。それを見ていた親たちはみな口を揃えてそういった。康佑(当時高等科二年)は腰から横腹にたたかれた跡が黒くふくれあがり、それが痛いといって横になったきり、それを病気にして南風見で死んでしまった。


疎開地から引き上げて四~五年後に、南風見から骨を拾ってきた。康佑のろっ骨は折れていたという話しもあるが私は見ていないのではっきりしたことはわからない」
と話し、

 

また、西島本サダは「私の妹の敏子(仲底敏子、当時十歳で四年生)は、山下の部下石野にたたかれ、尻から左横腹にたたかれた跡が青にはれあがり、それがマラリアにかかって熱が出るとよけいはれあがり、腐れて黒ずんだ汁が出るとそのまま死んでしまった。大仲文(当時十二歳)も同じようにそれが原因で死んだ。石野は何故に学童までそんなにたたけたのか、彼の心の内が知らない。彼はそのことで終戦後、島の青年たちに制裁を受けている」という。


山下と彼の部下石野は悪気のない学童たちを強化訓練という名で虐待し、殺人的な犯罪行為をしたのである。また山下は挺身隊に窃盗を強要した。新盛良政は、
「山下は私たちにくりを盗んで来いということだったので、古見に行き、海岸にあったくり舟を盗んで南風見まで帆をかけてきたことがあった」
と話し、また銘刈進は、
「山下は仲間川にダンベー(大きいてんま船のこと)があるので盗んで来いということだったので仲間川の上流に隠してあるダンベーを取ろうと行ったら持ち主に見つかり、追われたのでその旨山下に報告したら『みんなついて来い』というので彼について行った。山下は日本刀をふりかざしておどしたら彼らは頭をぺとぺと下げて、生命だけは助けてくれというのでそのダンベーを取り上げてきた」と彼の犯罪的な横暴ぶりを話した。

西表の台湾人虐殺

また彼は台湾人を彼の日本刀で虐殺したと自ら言っていたとのことである。新盛良政はそのことを次のように話した。
「私は山下が日本刀を肩にかけ、台湾人を一人たたきながら、シタダレ川の上流に連れて行くのを見た。その台湾人は西表の炭坑で、奴隷のように働かされた者で、私たちの疎開に鮮袋(カチガー袋)で作ったみすぼらしい着物を着て、乞食のように食べ物を恵んでくれとやってきたので婦人たちがかわいそうだと言って食べ物を与えたらたびたびやって来た。それ山下に見つけられ、山下は彼をスパイだといい、ほかにもう一人台湾人が居るということで、それをさがすために川の上流に連れて行ったらしい。山下は帰って来て、『他の一人は切ったが、ここから連れて行った者は、逃がしてしまった』と言って自分の日本刀をふりかざしてアダンの枝を切り落していた」

 

同じく佐事安祥も、「私は山下が片手をしばった台湾人を一人連れ、彼は日本刀を肩にかけて、その台湾人をたたいたり、引張ったりして連れて行くのにシタダレ川の近くで逢った。「何をしたのか』とたずねると『こいつは悪いことをした』と言って西の方へ連れて行った。それは午前十一時頃であったが、午後三時頃また山下が西から帰ってきたので『さっきの人はどうしたか』と聞いたら『切ってきたよ』と言って帰って行ったが、班のところに来てみんなに、台湾人を殺して来たと言って彼の日本刀でアダンの枝を切り落し、血のついた日本刀をふいて手入れしていたとのことである」と証言した。山下は台湾人を虐殺したのである。いかに乞食のような身なりをした台湾人と言っても、そのようなことが人道上許されるべきでなく、彼はまさに殺人犯であったのである。

女性たちに晴着を用意しておけと

彼は疎地の婦人たちにも「近いうちに避難小屋に行くから一張羅の晴れ着を用意しておけ」というので自分たちを殺すつもりかも知らないと思って非常袋を用意したとのことである。(上盛ミツの証言)


狂気じみた彼は集団自決をも考えていたかも知れない。一歩誤れば座間味島渡嘉敷島の集団自決のような惨事をおこす寸前だったかも知れない。このように非道極まる横暴をふるまった山下を動かした日本軍の正体はいったい何であっただろうか。

 

彼は陸軍中野学校出身で、
「赤き心で断じてなせば
身もくだけよ肉また慣れよ
君にささげん................」
中野学校の校歌と言って女子挺身隊に教え、自ら国内スパイと言っていたとのことである。(加屋本シズの証言)

 

彼は陸軍中野学校でゲリラ訓練を受けた特務教員であり、大本営直属の「遊撃隊」(護郷隊)の特務将校で、西表島に駐屯する護郷隊から派遣された。西表の護郷隊には波照間島からも新城清吉、前迎登、山田均、慶田盛光次、南風本肇、など派遣されたがナゾに秘められたことが多い。


山下はその使命のためには住民の生命や財産をも顧みないという日本軍の正体をむき出しにしたそのものであったのである。

 

6 人間の生地獄 - マラリアの悲劇

疎開地では梅雨が明け、暑さが増してくるとマラリア罹病者も日に日に増加し、死亡者も続出するようになった。罹病者の最も多かたのは、南風見田の東の方に疎開した北、名石、南の三部落であった。そこにマラリアが多いということを知った南部落の三、四班は東からシタダレ川の西の方に移ってきた。その班長であった佐事安祥は当時のようすを次のように話した。


「黒島の友人が私たちに『君たちはマラリアの最も多いところ来ている。西の方のナイーヌ浜(マラリアのないという意味でそのように呼ばれたとのこと)にはマラリアがないので、そこに行った方がよいではないか』というので、そのことを南部落の部落民に話した。生命を守るために来たのだからマラリアのあるところに居ればマラリアでやられるから、マラリアのないところに移動しようといって、田福さんと班長四名でそこを調査して部落民にはかったら、一班と二斑は老人と子どもが多かったので、せっかく落着いたのに今さら苦労して移動する必要はないと言って聞き入れないので、三班と四班だけそこに引越すことにした。

 

山下は西の方へ行く者には薬もやらない。また食糧も不足したら与えないと言って反対したが、マラリアにかからなければどうにかできる。生命があって何もできるのであって、東の方にいてマラリアにかかり死んでしまったらそれまでだ。あげないものならもらわないでいいといってはねつけた。山下はマラリアの薬があるはずはないし、食糧もそのときまでは足りていたのでどうにかできた。東にいるときは私の斑では二人マラリアにかかったが、西に移動してからは誰もかからなかった。そのうちに東の方ではマラリアでどんどん倒れていった。それを知った山下は『佐事さん、あんたはよく見たね。残っている人も移動させよう』と言っていたが彼がどんなに号令しても、そのときはもうマラリアで倒れている人が多いし、今更引越すことはできないと考える人が多数で、結局残った人は移動することはできなかった」。

 

島の人々は疎開地に行って初めてマラリアの恐ろしさを体験した。
マラリアは、アノフェレス(ハマダラ蚊)によって感染され、伝染力もつよく、感染するとひどい寒気をもよおし、身震いが始まると、毛布やふとんを幾重かけても身震いがおさまらず、やがて身震いがとまると四十度以上の高熱を出し、なかには高熱で発狂することもある。二~三時間たつと熱がさめ、平常にもどる。また数時間すると寒気をおこして熱発するというように、それが周期的に行なわれるうちに食欲が減退し、体が衰弱して死亡するという恐ろしい病気である。

 

疎開地には医師介輔山盛氏も同行したが、マラリアの薬もなくまた二つの病棟は造ったものの医療設備があるはずもなく、病棟にあるものはヨモギの汁を入れる容器が二~三個あるだけで、治療のすべがなかった。(大泊ミツの証言)

 

またマラリアが蔓延してくると二棟の病棟だけでは足りず、多勢の集団生活のなかでは治療が困難で、かかったら最後死を待つというように惨たんたるものであった。
大原の仲宗根家(下地出身)では南風見の御嶽の西の方の山小屋に避難していたが、その中には母親が死んでいたが、一人の幼い子はその母親の乳房を口にくわえ、他の一人は側で泣いていたが彼等はどうなったか知らない。(佐事安祥の証言)

 

また漂流してきたメチルアルコールの入ったドラムを砂浜に隠し、それを飲みひたる者もいた。山盛医者はメチルアルコールを飲んだら目がやられると言って注意したが、憂さ晴らしに人目を忍んで飲む者がいてそれにやられる者もいた。

 

七月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増し、罹病数百名にのぼり、死亡者は南風見田の東に疎開した北、名石、南の三部落で七十余名、西の方に疎開した前部落で三名、富嘉部落はナシ、古見四名、由布ではナシ、というように続出した。

山下と識名校長の対決

このような惨たんたるなかで、部落民は山下に疎開解除を要請したが、彼は聞き入れなかった。たまりかねた波照間国民学校識名信昇氏一行は一九四五年(昭和二十年)7月30日夜間にもかかわらず旅団司令部へ乗り込み、疎開地の惨状を訴え、疎解除を陳情し、即日帰島が許可になった。喜んだ一行は疎開地へ急行し疎開解除の許可のあったことを伝えたが山下は疎開解除はできないと拒んだ。


何故に、旅団長の命令をも山下は拒否することができたのか。ここに大本営直属の特務員の隠された秘密があったのである。即ち、天皇直々に与えられた権限を有すると思いあがった青年特務山下は、疎開の一切の命令、指示は彼の権限と責任で行ない、旅団長の命令で疎開させたかのように見せかけながら、旅団長をも無視し、彼の勝手気ままな考えで波照間の住民の生命と財産を取り扱ったものと思われる。ここに日本軍の護郷隊なるもの、特務兵、特務教員なるものの秘められたナゾがあり、山下を動かした日本軍の正体があったのである。

 

宮崎旅団長の帰島許可が山下に拒否されると山下と識名校長の論争が始った。帰島を拒否する山下にたまりかねた部落民は、一九四五年(昭和二十年)8月2日、南風見の挺身隊館に於いて緊急部落会を開催した。山下は「島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!」とどなりつけた。島に帰って玉砕するか、そのまま疎開を続けるかの大評定の結果、疎開地に踏みとどまる希望者は一人もなく、満場一致で帰島することに決議した。玉砕する決意での満場一致の決議の前には山下の軍刀も功を奏することができなかった。

 

真に住民の立場にたち、住民の生命を守るために立ちあがったのは軍人ではなく、学校の校長であったのである。

 

その大協議に出席した仲善祥は、「山下は『島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!まだ終戦になっていないし、もう一度戻って来るかも知れないから帰島するなら家はくずさないでそのままにしておけ!』と言ったが私は『マラリアでこんなに苦しんでいるのだから、島に帰ったら玉砕はしてももう二度とこの地に来る能力はない!』とはっきり言ってやった。山下は引き上げにあたって家はそのままにしておけとみんなに言ってまわったが、最後に残った人たちは家をみんなくずして引き上げた」と話した。

 

 

この協議が終ると翌日から帰島準備にとりかかった。
一九四五年(昭和二十年)8月7日、折からの大潮を利用して古見の前良川、後良川の奥深く避難してあった漁船、昭洋丸、大福丸進幸丸が暗夜に出動し、古見班より帰島を開始し、南風見、由布班の順に行なわれた。また病人、老人、子どもを先に帰させ、健康な青壮年は最後まで残って始末した。

 

そのうちに終戦になった。その知らせを聞いた住民は悲しむより安堵の気持を隠しきれなかった。それからは昼間も運航することができるようになった。
半年ぶりに島に帰ってみると道路も区別のつかないほど草が仲び、田畑にも農作物はなく荒れ果て、どの家も荒れ放題で、庭には背丈ほどの草が伸び深閑としたものであった。疎開中台風がなかったことが幸いで、家屋は破壊されず、また空襲で民家(保久盛家)の前に爆弾が落ち、直撃を受けなかったので全壊せず、他は機銃の弾の跡があるくらいであったことが幸いであった。

 

荒れ果てた耕地は牛馬もいないし、また、マラリアで耕作できるはずもなかった。疎開地から持ち帰ったわずかな食糧が生命の糧となったのである。疎開地から持ち帰った食糧は各戸に分配した班もあったが、多くの班はある期間共同炊事を行ない共同作業によって復興にあたったが、一家全員マラリアに倒れ、死亡者が続出するなかでは共同炊事、共同作業もなりたたず、各戸、各自、自分のことすらできない事態に追い込まれた。

 

特に北、名石、南部落はマラリアがひどく、一家全員マラリアに倒れ、一家全滅し、家系断絶する家が続出した。

大泊ミツ 証言 - 17人の家族で一人生き残る

北部落の大泊家では17名家族から四男の嫁ミツ一人生き残るという悲惨なことがあった。大泊ミツは当時のようすを涙を浮べなが次のように話した。

 

「私の家は長男、三男、四男(主人)の夫婦と子どもたちが揃って一家で生活していたので十七名家族でした。主人は戦地で病気になり、復員して疎開前に亡くなりました。

 

南風見では長男の嫁が妊娠八か月でありながら亡くなり、またその子(五男)の二人を亡くしました。主人の母は私が疎開地から帰った翌日マラリアで高熱を出して亡くなりました。そのときまでは私も三男の嫁も元気でしたので他人を頼んで棺を作ってもらい、四~五人で葬式しましたが、当時にしては最高の葬式でした。

 

その後は大家族のうえに食糧も少なく、栄養失調と看病不足で次々枕を並べて倒れて死んでゆくのでした。私の次男(四歳)の葬式はむしろに包んで元気な方を頼んで二人で燐鉱の石垣の側に運び、土を掘って埋め、隣鉱の石でかぶしておきました。まるで、動物を埋めるようなものでした。それでも後の葬式に比べれば、土を掘って埋めたので良い方でした。私は父のいない子だけに、子どもへの望みをかけていましたが、一人を亡してからは疲労も重なり、とうとう熱発してしまいました。一日に家族の二人が死んだときなどは、熱発のない合間に杖をつき、草の茂った道をつまづきながら、元気な方をお願いして葬式させたものです。

 

間もなく二人の兄たちも防衛召集から帰りましたが、三男の嫁は夫を待っていたかのように、兄が帰って三日目に死んでしまいました。兄たちは大勢の家族の看病をいっしょうけんめいにやっていただき、班から分けてきたもみをついておかゆをたいて食べさせたり、魚を取ってきて食べさせたりしたのですが無理のせいか頼りにした兄たちも熱発してしまい、大泊家は誰一人看病できる者もなく、全員助けぬ身となりました。その頃までには十七名の家族のうち半数以上が死んでしまったのです。

 

私の実家(保久盛)の兄が防衛召集から帰ってきて私を見舞いにパパヤのスープをびんに入れて持って来てもらい、そして『家に帰って来なさい。自分が看病するから』と言って帰りました。大泊家には看病する人がいないし、自分の病気もしだいに重くなってくると、親兄弟の顔が見たくてなりませんでした。

 

兄たちの許しを得て私は実家に行くことを決意し、私の長男(五歳)には明日迎えをよこすと約束して、私は発熱の間をはからって何度も休みながら、やっとのことで実家にたどりつきました。

 

『お母さん』と言って入った私は話すことばもなく、泣きくずれました。母は元気で私を迎えてもらいましたが、父は発熱して寝ており、私を見ると『何故に帰ってきたか。女は嫁いだらこの家の人でない。何を食べるために来たのか。この家にはお前に食べさせるものはない。明日すぐ帰りなさい』と親ながら私をひどくしかりました。私は悲しくて、悲しくて泣きくずれました。

 

裹座には兄と嫁が発熱して寝ていました。兄は魚を取って食べさせるために、無理して熱発してしまったのです。兄は高熱で脳症をおこして発狂していたのです。姉は頭いっぱいシラミがいたので髪を切ったと言って、男のように丸坊主をしていました。兄も姉も重体でしたので、私までこの家で面倒をみせてもらえないと思い、帰ろうと考えているうちに日が暮れて帰れなくなり、その晩は実家で泊りました。その翌日からひどい発作と高熱を出し、兄の死もわからない状態でした。幸い実家には母も妹や甥姪たちも元気でしたので、看病してもらいました。二~三日して婚家においてあっ長男は親せきの人に連れられて来ましたが、実家の親はきびしく『この子は大泊家の子だ。こっちで看病してくれる者もいないし、直ぐ返せ!」と言って追い返されました。『かあちゃんかあちゃん』と泣き叫ぶわが子の声をふとんの中で聞きながら別れました。

 

その三日後、『長男が死んだのでどの服を着せるか」との言葉がえるのであまりにもおどろき、私は気を失なってしまいました。今でもその後のことはどうなったか思い出せません。私は意識を失なって、死んだ子どもの名を呼んだり、家族の名を呼んだりしたそうです。

 

そのうちに意識も回復し、ようやく歩けるようになって、大泊家に帰りました。大泊家ではみんな亡くなってしまい、仏壇の前で、私一人生き残ってほんとに申し訳ないと言って心ゆくまで泣いたのです。私は人のいない家に一人居ることもできず、また実家に戻りました。

 

十二月頃になってようやく元気になったので、私は自分の手で亡くなった十六名の死亡届を書きました。死亡届を書きながらひとりびとりの面影が思い出されて泣けてきました。家族はみんなやさしく、いい方ばかりでしたのに何の罪があってこんな破目におちいってしまったかと思うと戦争がにくらしく思われます。今でもお盆になると、仏壇に供物をしながら当時のことが思い出されて泣けてくるのです。」

 

このような悲惨なことがこの世にあったのかと思われることが現にあったのである。

大泊家のマラリアで亡くなった方々は次のとおりである。
六月 南風見で長男嫁   ヒサマ 三七歳
七月     長男の五男 精佑 五
八月 波照間で母     ナビ 八六
       四男の次男 一雄 四

       三男の嫁  秋江 三二

       長男の長女 初子 三

          四男 善起 八

          三男 幸吉 十二

       四男の長男 高輝 五
九月        長男 加那 三九

       長男の長男 精昌 一六

十月        次男 喜益 三七

          三男 敏明 三三
十一月    長男の次男 幸佑 一四

    波照間で  三女 トミ 二一

          五男 精幸 一七


大泊家の婿である西里正次は当時のようすを次のように話した。「大泊家の三男の敏明が自分の妻(秋江)が死んだが自分では葬式できそうにないのでしてくれと杖をついて私の家にやって来た。私の家もみんなマラリアで倒れているし、私も寝ていたが、その朝は水がないというので他にくみに行ける者がいないからしかたなく一升びん二本を持って阿保勢の井戸で水をくんで来たらたったそれだけしたのに体が動けそうにないのでできないとことわった。

 

敏明は「せめて屋敷の外にでも運んで葬れたらよいがあなたたち兄弟のなかでさえもできないというものなら自分もどうしたらいいかわからない。......」と言って泣きながら杖をついて出て行った。彼はどのようにして自分の妻を葬式したか私もわからない。五男の精幸はこれ一人でも生命が助からないと大泊家は断絶してたいへんなことになると思って、私の家に連れて来て、二か月ぐらい育て看病した。ところが衰弱して歩ききれないので、便は家の中でやってよいということで裏座の入口からさせた。そのため雨戸も腐ってしまった。そのように大切に育てたが彼も死んでしまった。トミ、精幸、敏明などは私が葬式した。

 

当時の葬式は棺など作っておれないので生竹を二本切ってきて、こもをあんでつなぎ、タンカをつくり、それに死体をむしろでくるんで乗せ、肩にかけるように網をつけ、両手でそれをしっかりつかんで二人でかついで葬式した。


土など掘って埋めることなどできないので、燐鉱の石垣の側に置き、石垣をくずして周囲に積み上げ、その上にススキや木の枝をかぶせておくことしかできなかった。墓標など立てることはできなかった。隣鉱の周辺にはそのような墓がたくさんあって、マラリアのしょうけつがおさまって、それを洗骨するときは他人のものとまちがえたりしてその処理にはたいへん骨がおれた。

浦仲タカ証言 - 11人家族中子ども2人だけ生き残る

北部落の浦伸家では十一名の家族のなかから子どもたち二人が生き残っただけだった。その一人浦仲タカは次のように話す。「私は家族の多くが死んでしまってからマラリアにかかりました。父は私がだいぶよくなって再発しました。••••そのうちにヒデ子姉(十七歳)が死んでしまい、父も高熱で動けないし、どこをまわっても葬式できる人が頼めないので三日間もそのままほっておいた。そのうちに父の熱がさめたので死後三日後に父と二人で異臭のする遺体をひきずりだして、家の前の防空壕に入れておきました。それから異臭がしだいにはげしくなってくるし、部落内だからそこにおけないということでそれから四~五日後に西の新城家のおじさんと他の人を頼んで来て葬式してもらいました。その人たちは、異臭があまりひどいのでお酒を飲んでから葬式にかかりました。その時は私も少し元気でしたので、ごはんだけたいておにぎりにして墓に特たせました。当時はおにぎりやパパヤを供えて葬式したのはよい方で、ほとんどせんこうだけ供えて葬式をやったものです。

 

私の父も葬式してもらえる人がなかなか頼めずやっとのことで上里さんを頼んできて死んで二日後に葬式してもらいました。弟の敏雄(七歳)はマラリアの熱のうえに唇のそばに黒い斑点ができてそれが腐れ出し、どんどん広がって歯が見えるほどになってたいへん気の毒な死に方をしました。

 

マラリアでそんなにたくさんの人が死んだのはキニネ下足と看病不足と栄養不足だと思います。家族全員がかかって枕を並べて倒れているので、看病などできませんでした。熱がさめた合間にしか食事の準備も看病もできなかったのです。飲み水をくんでくることでさえたいへんなものでした。当時は今のようにタンクや水道などというものはないので深い井戸から水をくむことはたいへんなことでした。飲み水さえに入れるのがたいへんでしたので、高熱を出したときに頭を冷やす水などは洗面器一杯の水をたいせつに使ったものです。

 

マラリアの最中までは疎開地から持ち帰った米や粟があったので助かりましたが、もみをつき、食べられるようにこしらえることでさえたいへんでした。マラリアの最中にその食糧がなくなって、ソテツに頼っていたらどんなことになったか知れません。ソテツに頼るようになった頃はマラリアもだいぶよくなっていました。軍が来ておかゆをたいて配給して食べさせたり、アテプリン(マラリアの薬)を配給したりしたときはマラリアはだいぶよくなってからのととでした。

 

死亡届もずうと後になってマラリアもおさまってから書きましたが、葬式のときは位牌を書く余裕もなかったので死亡年月日も想像で書きました。また死亡届もかんたんなもので一片の紙きれに氏名と死亡年月日を書いて送るだけでした」。

 

浦仲家のマラリア死亡者は次のとおりである。


九月  祖母 ナヒ 六二歲
    母  イツキ 三九

    妹 (三女) 美代 十一

    妹 (五女) スエ子 四
    弟 (次男) 和離 二
十月  姉 (長女) ヒデ子 一七

    父 真那 四七
十一月 弟 (長男) 敏雄 七〃
一月  叔母 ヨシ 一八

 

また南部の勝連スエは、「浦仲のタカ子はたいへん気の毒でした。タカ子のお父さんが亡くなったとき、父の遺言で父が死んだらこれで他人を頼んできて葬式してくれと残したお金だと言って、それを持って仲筋家に来ていたが、そのとき佐事のじいさんもそこにおられたが、佐事さんは当日三人の葬式をすることになっているので時間がなくてできない。勝述のおじさんのところに行きなさいと言ったら泣きながら出て行った。そのようすは気の毒でならなかった。その後はどうなったかわからない。

 

私の主人(文雄)は復員してきて当時は元気でしたので葬式をする人だった。死んで四日過ぎた田盛の子どもを葬式して来て、その異臭が体に染って自分も気分が悪くなって病気になりそうだというので頼りにしている人が倒れたらたいへんなことになるということで、香水をつけてやったり、ヨモギに酢を入れてつぶしたもので体をふいたりやったこともあった」と話した。

 

当時は死んで数日後にやっと葬式するということがたびたびあった。なかでも北部落の後の部はずれの新里家では仁王じいさん(粟国出身であったのでアグナブヤとも呼んだ)は子どもを▢地で失ない、残った家族をマラリアで失ない、最後に一人になったじいさんは、村はずれでもあったので、部落民も気づかず、死んで二週間以上経過して班に発見され畳とひとつになって腐乱した死体を畳とともに運び出し庭の防空壕に葬るという痛ましいこともあった。

 

北部落の鳩間家は一家全滅し、家系断絶という事態になった。現在東田家の次男宏介がその家を継いでいる。鳩間家のマラリアで死んだ人は次のとおりである。
七月 長男 保久利三四歳
九月 長男の次男 保 五
   長女の長男 徳善 三

   長女    トシ 三十
十月 長男の長男 寛治 九

一二月 次男   兵作 三十二

第一回空襲で食糧倉庫を全焼した北部落の盛家は部落全戸から食糧を徴集して与えたが、苦しいなかで、食糧不足のため八名家族のうち子どもたち二人だけ生き残った。マラリアで亡くなったのは次の六名である。
八月 母    カナシ 60
九月 三男   方三  27

   長男の嫁 ウトシ 35
   父    真勢
一〇月 長男  石戸 38

一二月 四男  政孝 20

 

北部落の宮良家は九人家族のうち次の七名が亡くなった。

五月 南風見で 五女 四歳
六月      父  四〇〃
九月 波照間で 母  四〇〃
        四女
        六女
        長男
        次女文一五

 

北部落の黒島家の三男孫康(当時八重山農学校三年生で十八歳)はマラリアの高熱で発狂し、家をとび出して近くの洞穴の中に奥深く入り、人が気づかないところで死んで十年後発見されるということもあった。

 

南部落では最もひどかったのは慶田本家(九名)と底原家などであった。
南部落の役員であった佐事安祥は次のように話した。
「私はマラリアにかからなかったので葬式する人だった。私は部落の役員をしていたので毎晩十二時までは部落をまわってきてるのがふつうだった。朝になると毎朝のように、げたをカラカラと引きずりながら、ゆっくり歩いてくる音が聞えて来た。決って葬式を頼む人だった。そのようすといったら真青な顔に目のひっこんだものやひげと頭髪の伸び放題のもの、頭髪の全くないものなどさまざまなもので、弱々しく小さな声で呼ぶ声がすると私は何のことだとわかっていたので、『きょうは誰の家か』と聞くと名だけしか聞きとれない声がする。『心配するな、私がまわってくるから君ははや帰って寝なさい』と言って帰えす。このような人が毎日やってきてまるで私は葬式屋のようなものだった。


私は毎日のように辻野先生や田福さんにお願いしたりして、部落中で歩ける人を呼び出したが集まる人はいつも七~八名だし、死んだ人をかつげるものは四~五人しかいなかった。それでかつげない人は竹や木を切ってきて二本ずつ縄をかけてタンカをつくり、また元気なものは、二~三人ずつ組んで葬式をするというように手配してやった。一日に三~四名まではどうにか葬式できたが、一日に七名も死んだときなどは夜までかかってやった。底原徹の死んだ日は七名の式をやったが、夜までかかってやり、その日のことは今もって忘れられない。何で人間の世にこのようなことがあるのかと思うほど悲惨なものだった。

 

私の妹の死んだ日は、彼女は未明死んだが、当日は各戸に食糧がなくなっているというので、疎開から持ち帰ってでまとめてあった食糧を分配しなければならない日だったので、死んだ人はどうでもよい、生き残った人の対策からしなければならないと思って、弟のことは誰にも話さず、食糧から先に配ってやった。それが終って『実はきょう、妹が死んでしまった。私は今から彼女の葬式をしなければならないが、私一人では晩までに間に合わない。働けるものは手伝ってくれ」と言って集まってもらったが、働ける者は五~六名しかいなかった。それから手配してやっと明るいうちに葬式することができた。

 

私の兄の末子(当時六歳の女の子)を葬式したときは他に手伝ってもらえる人がいないので私一人で、後の方にはモッコに入れたその子を、前には葬式の供物(線香とにぎりごはん)を入れたものをかついで葬式したこともあった。そんなときは土を掘って埋めることなどできないので、燐鉱の近くの石垣の側におき、周囲に石を積み上げてその上にススキを切ってかぶせるだけでせいいっぱいだった。


名石部落でもマラリアがひどく、嘉良家、加屋本家、金盛家は一家全滅した。また上盛家では一週間のうちに五名が亡くなった。富底正一はそのときのようすを次のように話した。「私の家族ではマラリアで最初に死んだのは、おじの真那佐(六一歳)で続いてナヒ(五七歳)であった。私の長男の栄三(八歳)と三男の正二(二歳)は同じ日に死んだが、いつ死んだかわからなかった。家族はみんなマラリアで倒れて発熱しているので、自分のことすらできない状態であったから子どもの死ぬのも知らなかった。家内がさわってみると冷たくなっているので、それからさわぎたて、二人とも死んでいた。家族はみんな発熱していたので、波照間ナヒ、富底イケヤ、仲底正夫の三人で二人の子を墓の周囲の石垣に葬式してもらった。妹のエイ子(一二歳)はマラリアにかかって回復しつつあったが、病後食欲はあるのに食べ物がないので、自分でかつお節をかすめ取って食べ過ぎ、胃腸をこわして下痢して死んでしまった。十名家族のうち五名がマラリアで死んだ」

 

前部落の前加良家でも一日に松(五一歳)とウトシ(七三歳)の二人が亡くなった。一家の主人をモッコに入れ、足をたらしたまま葬式するようなことはできないということで、家の戸をはずし、その板で棺をつくって葬式したとのことである。

 

前部落と富嘉部落は元気な人も割にいたのでそれほどひどい葬式のしかたはなかった。
このようにこの島のマラリアの悲劇はことばで表現できないような惨たんたる状態になり、疎開前の家畜の生地獄は疎開後は人間の生地獄となったのである。

 

7. 食糧難とソテツ

マラリアに続いてソテツ地獄

マラリアの最中までは疎開地から持ち帰った食糧でどうにか飢えをしのいでいたが、年の暮頃からその食糧も食べつくし、そのうえ、マラリアで耕作もできないし、耕地も荒れ果てているので人力ではどうしようもないし、家畜もいないというようにいよいよ緊迫した事態に直面した。

 

幸いにして野生のソテツが生い茂り、ふだんはかえりみられないこの野生のソテツを命の網にしたのである、当時、波照間で倒されたソテツは一戸平均七〇〇本、全島で約十五万本のソテツが倒されたと言われている。

 

ソテツは生で食べると中毒するが、醗酵させると毒素がとれ、食用として供することができる。ソテツの実はふだんでも食用にされることがあるがそれは限度があるのでその幹を切り倒し、こぶし大に切って木の陰に地上に積み上げ、かやをかぶして醗酵させ、それをうすについて水につけ、何回も水をかえて沈殿させたでんぷんをおかゆにしたり、また幹をかんなでけずって日に干し、乾燥して粉末にしていもと混ぜて食べるというように手のかかるものであった。また多量の水を必要とするのでマラリアのなかではそれをとしらえて食べるということはたいへんなことであった。村の近くの井戸の周囲にはソテツを沈殿させる桶がずらり並んだ


ソテツは発酵のしかたがよければそのおかゆは固まるが、それがまずいと固まらず、どろどろの汁を主食とするので腹持ちのあるものではなかった。いもをまぜると固まるが、いもは畑に自生しているいも(ムイアッコン)しかなく手に入れるのは困難だった。


野菜は野生のアキノノゲシやニラ、パパヤなどで、パパヤは幹まで食べつくした。野菜が手に入れば幸いで、ふつうはソテツのおかゆだけを食べた。このような食事では栄養補給などできるはずはなかった。

12月末の救援

また、マラリアで全員倒れているので漁船も運航することができず、島のこのような事態は中央に知らされることもなく、救援の対策も全くなかった

 

このようなマラリアと窮乏のなかで、十二月末頃、島の指導者仲本信幸村議はマラリアで倒れて意識の混迷するなかで三日がかりで一通の手紙を書き、島の窮状を訴え、救援を要請した。その手紙は決死の覚悟で書いた筆跡がとくめいにきざみこまれ、血のにじみでるようなものがあり、当事者の心を打った。


それを受けた村役所と旅団司令部からわずかばかりの医薬品と食糧が送られ、軍医二名と数名の救援隊が派遣された。彼等はおかゆをたいて病人を見舞ったりしたが、全島生き地獄と化した事態では何の足しにもならず、またその時には多くの患者は死に、生き残った者は回復に向っていた。

山下の引揚げ

無謀な退島命令を強行し、島の住民を鼻の極に追い込んだ旅団だったが、その償いを果たす能力は持ちあわせていなかったのである。旅団から数頭の牛とわずかばかりの農器具の援助があったが山下は彼に近い身内に分配して彼は島を引き揚げて行った。
その後救援物資の運搬に軍用船で同行した大浜信賢医博は当時のことを次のように記録している。

波照間の罹患率と死亡率

「今次の戦争において最も酸鼻を極めたところは波照間島でありました。住民のマラリア罹患率は99.7%で、いわばすべての住民がマラリアにかかり、死亡者もまた最高で30.05%で、すなわち住民3名中1人は死亡しているのであります。したがって私等が波照間に着いた時は、救援物資を部落まで運ぶ方法がなく、回復期にある青年患者で、熱の間にある者を動して辛うじて出来たのであります。私は部落に入って全く言葉が出ません。


部落の様相は全く痛ましい限りでありました。どの家を訪れても仏壇には白い位牌が三つ四つ並んでいて、残った家族もまたすべてを並べて熱で伸吟しております。勿論看病する人もありません。薬もありません。食べる物もありません。着る物もありません。全部無い無いづくしです。庭を見ると古いむしろの上に紙屑のような物が干してあります。これは何かと尋ねて見ると、これは熱が下った合間に野原の蘇鉄を切り倒して来て、これを千切りにして太陽に干して、後で食糧にするものだとの話。全くの蘇鉄地獄であります。

 

私共は部落民マラリア治療薬と食糧を部落幹部に与え、住民が一日も早く回復する事を祈って、西表白浜に向って出発したものでした」(大浜信賢著『八重山マラリア撲滅』二四六頁より)

1946年4月

日本軍の武装解除後、沖縄の行政機能は一切麻痺して無政府状態おちいったなかで、八重山郡民の手による「人民政府」ができ、宮良長詳医師を支庁長とする「人民政府」の出現によって、この島本格的な復興対策が行なわれた。

 

その四月には、戦争直前に波照間校校長の経験のある石垣在桃原用永(四一歳)が新政府の文化部社会課長に就任され、その救援の任務にたずさわったことが何よりの幸いであった。

 

その原氏はその体験を次のように記録している。
「宮良支庁長は救援の要請を受けてさっそく私に『波照間救援の趣意書』を書いて郡民に訴えろと命じられた。私はかつて波照間に四か年も勤務していたし、戦争後の事情もそれとなく聞いていたので、案外、趣意書はたやすく書きあげて支庁長に提出した。支庁長は私の書いた趣意書を私宅で静かに読んで深く感動し、強く胸を打たれて感激のあまり、その夜はまんじりともせず、夜明けるのももどかしく、夜明けとともに、事業部長の崎山英保氏を私宅に呼び、すぐ波照間へ行って一刻も早く島民を救済するように命じた。私の書いた趣意書は当時の『海南時報』に掲載し、郡民にアッピールした。

 

その四、五日後には宮良支庁長を先頭に、衛生部長吉野高善氏、事業部長崎山英保氏に私が随行して、食糧品、衣料品、医薬品などたんまり取り揃えて渡島し、さっそく、食糧品、医薬品を配給する

 

ほか、吉野部長による健康診断を行ない、宮良支庁長と私は各戸をめぐり慰問した。その晩は島民を学校に集め、島民の志気を鼓舞す大講演会を行なった。

 

廃家になった家は十数軒あったと思うが、それらの家は屋敷内外とも雑草が生い茂り、草丈は三、四十糎も伸びて、仏壇に位牌だけが取り残されていた。主なき家、廃家のあわれな、もの憂い姿を初めて経験した。

 

島民は救援物資の配給を受けて、はじめて蘇生した心地がすると喜び勇んだ。支庁長は島民に感謝されつつ、翌日は帰任した。その後も波照間に対しては特別に物資の配給を多くした」(桃原用永著『八重山民主化のために』六五頁)

 

その新政府の一行の来島によって本格的な調査と復興対策がなされ、仲本信幸村の進言によって「復興委員会」が設置され、その任務にあたったのである。その委員長であった仲本信幸は次のように話した。

 

「四月には八重山支庁長の宮良長詳氏をはじめ、政府関係の調査員がやって来て本格的な復興対策がなされた。その郡民政府社会課長の桃原用永氏が波照間の復興対策をどのようにしたらよいかと私の意見を聞くので、私は彼等の来る前から私案を持ってそれに従って復興対策をすすめてきていたので、それを示した。それは『復興委員会」を設置して、その中に食糧班と衛生班をおき、衛生班の中に予防係と治療係を設置して復興対策にあたるというものであった。委員長は提案者である君がやれということで、私がやり、各委員は各部落の班長がそれにあたった。食糧班は各戸が農耕ができ、自立できるようになって三年後に解散した。

 

その解除式のときは波照間がこの苦悶から救われたのはソテツのたまものであり、それに恩義があるということで、波照間にソテツが初めて伝えられたと言われる大泊の浜の東の岩陰で『ソテツの感謝祭』をした。

 

衛生斑は継続してマラリアの撲滅にあたり、五年後にその委員会を解除した」
この太平洋戦争で弾で一人も死ななかった波照間では飢えとマラリアで477名(八重山民政府衛生部の調査)で、当時の区長の調査では未届の新生児を含めると実際はそれ以上おり、マラリア以外の死亡者を含めると1946年当時約700名を越えた(公舎の総務の新川真那さんの証言)とのことである。


この数字は住民の三人に一人の割合で死亡したことになり、沖縄最大の死亡率となったのである。

 

 

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