コンコーダンス用の書きおこしです。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》
Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands 6-11 April 1945
マーランで避難
平安座島玉栄ヤス(三六歳)
民間人の軍事訓練
戦争の始まる前は、どこでもそうだったと思いますが、処女会、婦人会、青年会、向上会が各字にあって消火訓練や竹ヤリ訓練を字の区長さんの命令でやっていました。学校での空襲に対する訓練は、私の長男、長女がそうでしたが消火訓練や学校から各自の家まで、深いみぞを掘って、爆撃のあった場合は、身を隠せることができるように穴を掘らされておりました。学校に空襲があった場合でも、そのみぞを伝って家に帰えるような訓練をしておりました。
壕は、山の手の方に自然壕を利用しながら各人掘ってありました。それは、字の区長さんや、役場のかたの命令でやっていたはずです。日本軍は、島には入っておりませんでした。十・十空襲後は、軍人が四、五名位入っていたようです。
十・十空襲の時は、大変とわかったです。空襲の二、三日前から、敵が空襲するかも知れないという情報が、どこからともなく流れていました。私らでも敵の空襲に備えて、竹ヤリ訓練を通して、敵が来たら一人でも、竹ヤリで殺すように教え込まれていましたからそのうわさが流れてからは、だいぶ気がたかぶりました。今、思い出すとおかしい話ですが、戦争を知らない私らは、きょうは竹ヤリ訓練だよと云われると、みんな学校に集まって、二〇名位ずっ組んで、前の列の人たちが、蒋介石のにがお絵をかいてある板めがけて、竹ヤリを突きさして行くのを見ようみまねで後に続くという訓練でしたから。
平安座島十・十空襲
私は、その日の朝早く起きて、田んぼに井戸から汲みあげた水を入れる作業をするために、ひとりそこへでかけました。平安座の田んぼの水は、全て井戸から汲み上げなければ、水はなかったのです。「ヤマジョウ」というつるべで、水を汲みあげる状態でした。「ヤマショウ」はひとりで、汲みあげることができます。二人で汲み上げるのは、桶の両端にヒモを通して、二人で、それぞれのヒモを持って汲み上げるようになっておりました。
私は、ひとりでひと汗かく程水を汲みあげていると、上空で「グッグッグッグッ」と音がするので、何げなく空を見上げると、なんと、無数のトンボが空を舞っているように、空一面飛行機が飛んでいるのでした。それまで、かすかに爆音が聞こえていたけど、まさか空襲とは思いも寄らなかったのです。
飛行機が、だんだん大きく見えるにつれて、これが空襲というものかも知れないと思い、水汲みをやめ、からのバケツひとつかかえて、あわてて家へ帰ろうとしました。
すると途中で、向こうから帽子をかぶってコウガァキィ(ほおかぶり)した新里というおじさんが、バケツをわきにかかえ、田んぼに水あげにいそいそとやってくるのに出会いました。
「エー、オトウ!!(おじさん)、これは空襲というものではないですかね」とたずねますと「ウレエヒャー演習レルヒャー(これは、演習だよ)」と云って、田んぼの方へ行きました。「私は、もう一度、西の空を見上げると、そこは読谷飛行場の上空の方で、大きな真黒のキノコ雲がいくつも見えたので、これは、間違いなく空襲だと思い家路を急ぎました。
家の近くまできて、ふりかえってみると、新里のおじさんは、水を汲まないで、さらに西の方の海岸べりにすわって、西の空を見上げていました。きっと、演習だと云ったものの不思議に思い、気になったんでしょう。戦争には一度もあっていないから空襲とも知らないで。
私は、あわてて家にかけこんでいきましたが、その頃までには、隣近所のおばあさんとも気がついて、平気でみている人、心配そうにみている人や、「空襲だ」といって、山の手の方の防空壕に衣料品を運び始めている者もあり、村は大騒動になり始めたところでした。
家で、私が「おじいさん。おい、空襲ですよ」というと「これは、空襲ではないよ」と返事したので、なおも「いや、これは空襲ですよ」というと、おじいさんは怒って「ヤナヒャー、(こいつ)、女のくせに空襲というものがどんなものかちゃんとわかっているのか」とどなる始末でした。「でもなんで急に、沢山の飛行機が飛びかい、西の方で爆音や、『ボーン」という爆発音が、連続して聞こえるのですか、西の空には、花が咲いているようにきれいなものが一面にあがっているがあれは何ですか」と云いました。私は、落ちついておれなくなり、子供たちの大事なものは、すぐに持ち出せるようにひとつにまとめてあったから、それを取り出していると、おじいさんは、また「おまえは、空襲といっているが、何んで男よりも、よくわかるのか。みんなは演習といっているではないか。おまえには、敵がどこで何をしているかがわかるのか。そんな心配するよりも、早く朝ごはんを食べなさい」といいました。私は、朝ごはんを前にしても、全くのどを通らなかったのです。私の庭先には、防空壕が掘ってあったので、フトンなどをその塚へ入れる準備をしていると、おじいさんは「食事もとらないで、いらんことをして、ごはんを食べなかったら何もできないではないか」とあきれていました。
私たちは、三か所壕を掘ってありました。一か所は家のすぐ西側に横穴を掘ってあり、もう一か所は山の手の大きい壕とまたそこへ行くのが間にあわない場合に備えて、大きな岩を利用して掘った嫁が三か所ありましたから、私の妹に、長男、長女を連れていき柳どおりを運ぶのを手伝ってくれないかと頼みました。
ところが私の父は、サバニ(くり舟)で渡し船業をしていたので、その舟をみに海岸へでかけてしまっていたのでした。それで私は、父を連れに行ったところ、子供たちは、母と一緒でないと自分たちだけでは壊にはいかないといって泣いて、妹とはぐれてしまっていたのでした。道中にいる子供たちをみつけて、壕に避難しましたが、案の定、その日の正午頃から、初めて平安座島は空襲をうけました。
この空襲で、平安座島の部落の殆んどが焼かれてしまいました。特に学校に近い西側の住居は、丁度私の家を境にして全部やられました。私の前の家は、大きなカヤぶきの建物でしたが、運良く類焼をまぬがれました。
しかし、さおに干してあった洗濯物は、全部焼けておりました。家が焼けなかったので、本当に助かりました。
しかし、私の父の家は焼かれてしまい、どうしたらいいのだといって泣いておりました。
これは演習だといいはっていたおじいさんは、海岸近くで山原船が数隻、爆撃されて炎上してしまい、そのうえ機銃の弾丸が「ピシッピシッ」と自分の近くに飛んでくるのをみた時になって初めて敵の空襲だということがわかり、あわてて、私らのいる壕に逃げ込んできていました。そして戦争というものは本当に恐ろしいもんだと青くなって話しておりました。
しかし、この十・十空襲は、殆んどの人が、目の前に弾が落ちてくるまでは空襲だと信じることができなかったのに、死傷者がひとりもいなかったのは、不思識でした。
でも、爆撃で何か所も大きな池みたいな穴が屋救や畑にできましたので、村中総出で、その穴うめ作業や、焼かれた家の普請をカヤを刈ってきて共同作業でこしらえました。平安座は、読谷飛行場爆撃の行きかえりのとおりみちになっていて、その都度、ついでに爆撃を加えられたようです。それでも、その後、何度も空襲はありましたが、死傷者は出ませんでした。
山原船で疎開
私らは、このような爆撃を受けてきたので、非常に警戒心を持つようになりました。ヤンバル(国頭)に疎開した時、空襲を受けたことのない人は、「むやみやたらに爆撃するはずがない」といって、飛行機が飛んできても、家の中で、普段のとおりの生活をしていました。そして私らが、爆音をきいただけで、すぐに避難するのをみて笑っていました。そのうち、となり村が、初めて爆撃されたのをみてからは、私らと一緒に避難するという状態でした。
その後、平安座の住民は約半数が、山原方面に疎開しました。私らは昭和二十年の旧正を済ました直後に、家族六名(夫の両親、子供二人、私と私の妹)山原船(マーランブニ)で持てるだけの家財道具をつみ込んで疎開しました。途中、空襲にあいはせぬかと大変こわかったです。無事、淡那に着いて、それから自分たちだけ、徒歩で荷物を担いで目的地の三原の宮里さんの家に行きました。前もっておじいさんのサバニで、衣類や食概は、一部運んでありましたから助かりました。
疎明せずに平安座に残った人たちの生活は、自然蝶や墓をあけて、そこに昼は入って、夜になると、部落の方へやってきて、夜中に月明りのような照明弾の明りのなかで、イモ掘りをしたりして翌日の分の食べ物を洗って炊いて、夜明けがたには、また壕に帰えるという生活だったようです。
私らは、宮里さんが、受け入れの準備をしてあるからおいでというたよりで尋ねていきました。宮里家は財産があったので稲のとりいれや植付けの手伝いなどをやっておりました。
山原でも夜の内に食物を炊いて、夜の明けない内に避難小屋へ持っていく生活でした。
山原は、爆撃が殆んどなかったとはいえ、山の中に逃げ込んでも、土はやわらかく、大きな石もないので、壕を掘ることができず、もし山の中に空襲を受けたら、平安座島にいた時より危険だと思い、いつもびくびくしていました。山中深く、避難小屋を作ってあっても、雨露をしのぐ程度のものでした。特に上陸空襲の時は、心配でしたが、山が深いので空襲は受けませんでした。
ただ友軍がいそうなところだけが爆撃を受けたようで、爆風を感じることもありました。
しかし、アメリカ軍上陸後は、日中は、山の奥深くに作ってある避難小屋に閉じこもって、村に下りることは、こわくてできませんでした。夜になると、二時間位かかって村へ下りてきてみると、いつもアメリカ兵に荷物を荒らされておりました。屋敷の大きな松の根本に穴を掘って、衣類などを入れたこおりをうめておくのだが、引っぱり出されて、あたり一面に衣類をちらかし、池の水の中に放り込んであったりしました。家の中に、おいておくと、もし家を焼かれたら、大変だからと、用心して特に大事なものを、こおりに入れて、小さな穴に入れてあったのです。きちんとしまっても、翌日の晩、きてみるとまた荒らされているという状態が、何回も続きましたので、昼、山を降りるということは、こわくて全くできませんでした。
私の場合、夜でも、子供を山から下ろすということはこわくてできませんでした。こんなにつらいことはありませんでした。何十世帯の人たちが、あちらこちらに避難小屋を作って生活していたにもかかわらず、この汀間の奥の山中では、日本兵にもアメリカ兵にも、一度も会いませんでした。空襲だけの間は、三原からそう遠くない山中に避難小屋を作って、生活しておりましたが、アメリカ兵が、入ってきたという情報で更に山ひとつ越えた奥の方へ避難小屋を作りました。飯の炊き出しのために夜になると、はるばる村へ帰ってきて食べ物を炊いて明けがたに持って帰えったが、時には土地の人が、どこそこに炭焼小屋があるからと教えてくれて、その炭を盗んで、鉄製の七輪に、おつゆなどを炊くということもありました。
山原の山は、ハブだらけだという話でしたが、足がめりこんでしまう位の深い山を、夜も昼も歩いても、一度もでくわしたことがなく、またそのような話を一度も聞いたことがないのは、本当に不思議でした。一度でもハブをみたら、夜、山原道を歩くことはできなかったかも知れません。平安座でも、村民の中には家で寝ていても、畑作業をやっていても、夜道を歩いていてもよくハブにかまれた人がいたもんですが、空襲時代になると、十・十空襲以後、家に寝るのが恐わくて、ずっと山手のハブの出そうな壕のなかで生活を送りましたが、ハブは一度もみかけませんでした。本当に不思議です。
私らは、木の根、草の葉をかじっていても、アメリカ兵が、村内を徘徊していても、日本軍が、戦争に負けるという気は、一度もしませんでした。しかし、六月になると山をおりて村の住居に帰ってもアメリカ兵は、どうもしないといううわさが、山の中にち次第にひろまって行き、住民が次第に山を降り始めたので、私らも思い切って山を降りました。
砲弾の中をサバニで帰島おじいさんのサバニが、ちゃんと残っておりましたので、村には、ほとんど滞在せずに、すぐに平安座島へ帰えることにしました。
私らの家族六名以外にも、他の人も乗せたので十名位も乗って、汀間の港を夜中に出発しました。まだ戦争が終っていない時だったので、漢那沖あたりで、砲弾がサバニの近くに落ちたので、「ドーン」という音がして、舟が大きく揺れたので、生きた心地がしませんでした。
平安座島の疎開民が、やはり山原から、サバニで平安座へ引揚げてくる際その家族は、母親と子供四人の家族だったそうですが、平安座~桃原間にさしかかった際、そのサバニにアメリカ軍の戦車の中から手榴弾が投げこまれ、母親は死亡して、子供たちは負傷してしまった。それをアメリカ兵が救い出して、子供たちを平安座島の病院へかつぎこんできたことがあったそうです。明けがた近くだったので、日本軍の特攻隊と間違えられたのではないかということでした。
こういう危険なところでしたが、二回程近くの海上に砲弾が落ちてきた程度で、無事、平安座島にたどりつきました。
それにしても、子供達はともかく、私達に較べて、那覇あたりからの避難民は本当に気の毒でした。県庁なんかに勤めている人が、「イモの皮でもいいから下さい」といって、物もらいしながら、さらに北の方へ疎開していく人をみると、涙がでました。
私は疎開先の村には、かなりの田畑があったので、乳のみ子もいないから、空襲がこない時は、田や畑をたがやして、稲やカズラを植付けしたり、また、山の中から田んぼに入れる堆肥をモッコでとってきたり、イモ掘りをしたりいろいろな仕事を地元の人と一緒に十分やっていましたので、気死ねすることもありませんでした。私らのいた部落は、小さな部落でしたから、イモや野菜などを収穫したらすぐその後からカズラをどんどん植付けていきました。
私らは、ヤンバルにいる間は、日本兵にもアメリカ兵にも、一度もあいませんでした。特に子供たちが、アメリカ兵に見つからないようにと、大変気を使いました。
というのは、中国大陸から帰ってきた在郷軍人の人たちから、日本軍が、支那人を「チャンコロ」と呼んで、大変ひどいことをしてきた話をきいて、軍隊というのは、非常に恐ろしいもんだと思っていました。それで、沖縄にアメリカ軍が上陸してきたら、私らはアメリカ兵に日本軍が支那人にやったような目に会わされるんではないかと思っていました。
私らは、そういう話しをきいていたから、ヤンバルの山奥にも避難しなければならないと思ったのです。しかし、後に山をおりはじめてからは、アメリカ軍は、むしろ親切で日本軍の方が恐ろしかったという話をいろいろききました。本当に戦争というものは、二度とするもんではありません。平安座島にまだいる時、その時すでに、山の手で壕生活をしていたある日、友だちが、「夕方の五時以後は、絶対に空襲はないから、村へ行ってみようよ」と誘われて、山をおり始めたところ、突然、飛行機が飛んできたので、爆撃されると思い、二人一緒にそばのみぞに頭から突っこんで、われ先にみぞの下になろうと二人でもがいていました。飛行機が去ってしまって、お互いのどろだらけの姿ともがいたことを思い出して、おかしくなって大笑いしました。
平常であれば、誰もこんなきたないみぞの中へ、しかも、何がいるかもわからんところへ、われ先に飛び込んで、あらそってまで下へもぐり込もうとするはずがないのに。戦争って本当にいやです。
米軍の陣地構築作業員として
津堅島が一番危険
平安座大収容所
私は、久志の方に疎開していましたが、アメリカ軍上陸後一か月も経つと、浜に置かれている主のわからないサバニ(クリ舟)を失敬して、それで平安座島に引き揚げてきました。そのサバニはどうなったか、わかりません。私らが、平安座に帰ってくると、伊計島、宮城島、屋慶名、平敷屋、具志川、などから捕虜にされた住民が収容され、約七千人に人口がふくれあがっていました。
食糧の運搬は、最初のうちは、屋慶名―平安座間の海上を潮につかりながら、歩いて運ばされました。船は、絶対使わさなかったです。何十回かつがされたかわかりません。
平安座島は、大収容所に使われ、軍病院、食堂などがあって、アメリカ軍の部隊もありました。金城紀光という有名な医者が、民間人の治療にあたっていました。なにしろ、平安座市として、市会議員までいたぐらいですから。軍病院があったから、若い人や、子供持ちでないちょっとかしこい人は、病院の手伝いを希望して、その後、立派に看酸婦となった人が、かなりいます。出世した者もいます。
一件の家に、七〇名位入居していて、更に天井板をはがして空地に板小屋を作ったりして、すきまがない位、ぎっしり人がつまっていました。そういうところを医師と看護婦が治療に回わっていました。平安座に帰えってからは、殺されるという心配もなく、食梱もあったので安心でした。
国頭疎開やはり、山原に疎開していた頃、一番首里、那覇方面の人が可哀相でした。親にはぐれた七、八戒の子供が二人、泣きわめいて、道路を走っているのをみかけましたが、可哀相だなあと思う位で、どうにもならなかった。
なにしろ、食糧難でしたから。小さな子供どうしだけで歩いているのを二、三回みかけましたが、何故、親とはなればなれになったかというと、それは、若い母親などは、アメリカ兵が近づいてくると、暴行されるのを恐れて、子供を放置して、山の中に必死に逃げこんだもんです。こうして親子がはぐれてしまうことが、よくあったのだ。実際アメリカ兵は、これは若い女だなあと思うととっつかまえよったから。
私は、軍属ではあったが、マーランブニ(山原船)の船頭だったので召集はまぬがれました。私は、与那原方面に、漢那から防空壕用の資材を運搬していました。また平安座島からの疎開民も私が運びました。一隻の船で百名位運びました。
当時二千五百名位の住民は、その殆んどが疎開したはずです。疎開するにも、金がかかりよったから、よほど金がない者、どうせどこ行っても同じだからとあきらめていた者などが、島には残っていたようです。
なにしろ、上陸前から、平安座はアメリカ軍の陣地になるぞという噂が流れていましたから。実際、伊計、宮城島はアメリカ軍の陣地になりましたから。浜比嘉島が一番安全でした。津堅島が、一番危険でした。日本軍の陣地がありましたから。だから、四、五世帯が残って、その殆んどは、真先に各地に避難していました。
平安座島は、海外移民が非常にさかんでした。それで、島には英語やスペイン語を話せる人がかなりいました。なかでも「川前」という人は、非常に英語が達者で、アメリカ軍の通訳として大活躍でした。
この人は、師範学校を卒業してから、両親のいるハワイへ移住していたが、その後、島へ帰ってきておりました。島では、村の消防団長、防衛隊長などをして、あの人の指示で動いているようなものでした。いわば、平安座島の守備隊長みたいな役割をしていた人です。だからみんなが疎開しても、重要人物だから区長や村長と一緒に、島に残っておりました。
そしてアメリカ軍の平安座占領とともに捕所にされたが、言葉が達者だから、すぐにアメリカ軍の通訳として働いたようです。村長は新垣金造という人でしたが、あの人は無数にある壕の中を逃げ回わって、なかなか捕まらなかったそうですが、その壕生活は、大変だったそうです。
私は、この川前さんが、通訳として金武にきている時に、平安座にはもう帰えれるからしばらく待っていなさいといわれて、帰える決心をしたのです。待っていなさいと云われたが、食糧が失くなっていたので、夜間を利用してサバニで引き揚げたのでした。最初のうちは、食種は豊富にありましたけれども、次第に欠乏してきたのです。
山中で馬を屠殺
最初のうちは、毎日のように馬を山の中で捕まえて殺して食べました。中、南部の民家の馬や牛が、戦火に追われてだいぶ山原の山の中へ逃げ込んできていたのです。避難先は、女、子供、年寄りが多くて、私らが若い方でしたから、ずいぶんたよりにされました。馬を殺すのは四人一組になって、一頭ずつ捕えてきては殺して、みんなで食べました。馬は一度に、二、三班も捕えてつないでいたり、また、一頭でも一日でもつないでおくと、物すごく暴れて、殺すことはできなくなります。
私らは、久志の山奥に、大きな避難小屋を作り、二〇名位入っておりました。そして、いろいろな道具を持っておりました。クワは、命より宝だったが、そのクワ(ハーグエー)やカマなど持っており、夜になると八時頃、夕ごはんを終えてからクワとカマスをかついで、他人の畑にイモを盗みにでかけ、昼は小屋で、寝ておりました。
日本兵の方が一番危険
米兵と遭遇
私がアメリカ兵に、初め捕まったのは、ある日、兄と自分の息子と三人で、真昼、散歩がてら、久志の先の浜においてある自分のマーラン船をみに行こうとして、山をおり始めたところ、突然、目の前に数名のアメリカ兵が、銃をかまえて飛び出してきた。肝をつぶして、さっと手を上げ、兄と息子にも手をあげるように指示しました。私は、軍隊で訓練してあったので、とっさに、手をあげたが、アメリカ兵は、その動作で、民間人か軍人か見分けがつきよったらしい。
私の兄は、カナダ帰りで、英語は一応話せたので、事情を説明したら、そのまま、アメリカ軍の陣地に連行され、隊長にも会わされました。そこでは、大変に待遇がよくて、びっくりしました。我々おとなは、ヒゲは伸び放題でしたので、安全カミソリ、石けんをはじめ、食糧品を持てない位沢山もらいました。また三人とも、ボロボロの着物を、アメリカ兵の新品の服に着がえさせてくれて、帰えされました。兄は、通訳として一週間程アメリカ軍と一緒にいましたが、言葉がうまく行かなかったのか、その後帰えされました。私は、アメリカ兵に見つかった時は、非常に恐怖を感じたので、それ以後、昼間に山をおりることはなく、小屋にじっとしていました。
我々のこもっていた久志山中には、四、五十名の日本兵がウロウ口しておりました。戦争では、日本兵の方が一番危険でした。あれらは、イモ掘りに行くのは、あぶなかったから、いつも飢えていました。ここの日本兵はわりとまじめでしたので、私は、夜間にイモを掘ってきたらよいのにと話したことを覚えています。
アメリカ兵に見つかってから一か月程たつと、アメリカ兵は、どうもしないといううわさが、山の中にも伝わってきたので、避難民は、次第に、山をおり始めました。そして元の住居で生活するようになりました。そうこうする内に、我々は、アメリカ兵にも慣れていき、次第にタバコをもらったり、話をするようにもなりました。
米軍の陣地構築に協力
さらに、彼等の作業を手伝って、食糧をもらったりするようになりました。
アメリカ軍は、久志間に、ほとんど陸続きに近い小島に陣地を構築しており、そこで散兵塚を作るための砂袋に砂をつめこんだり、戦車の通った後の道の修理作業がありました。「その仕事の話は、私の兄が持ってきて「食糧をくれるから行こう」というと各地からきている避難民のなかから、たちまち100名位も集まり、たいした仕事がなくても、沢山の食粗品やタバコをくれました。しかし、その作業は、一週間位しかありませんでした。この話は、我々が島へ引き揚げる直前位のことでした。
宜撮工作
アメリカ軍は、付きあえば日本軍よりはるかに人情があって良かったです。なぜ私がそういうのかというと、妻が妊娠していて疎開先の宜野座で五番目の子供を生んだ時、アメリカ兵が八方手をつくして医者を捜して連れてきていたのです。あの時は、本当にありがたいなあと思いました。
五女が生まれて、三日目にサバニ(くり堪)で、平安座に引き揚げたのですよ。赤児はどうもなかったです。
私は、在郷軍人でもあり、支那事変で中国大陸で、日本軍隊のやってきたことは、すべてみてきておりましたから、アメリカ軍に最初捕まった時、非常に親切にしてもらったので、アメリカ兵は、日本軍とちがって人情にあついなあと感じました。しかし、軍属の者は、田井等の捕虜収容所に連れて行かれたので、私は、一度つかまってから帰えされた後は一か月近くも、昼は山を降りなかったのです。その時も、私の兄には、「彼は、軍隊で訓練を受けていたはずだ」と云っていたそうだが、山の中で、四人の子供と、妊娠している妻が、待っているから帰えしてくれと頼んだら、釈放してくれましただけではなく、先程話したとおり、沢山の食粧品を持たせてくれたのです。
大量の米を持って避難私は、仕事の都合上、山原に避難するのは一番最後となりました。島はガラアキ(空っは)同様になっていました。空襲のあい間をぬって、山原船に二〇〇袋もの米を積み込んで、久志の方に避難したのです、とても自分たちだけで食べることはできない程の多量の米だったので、避難先の村の人たちにも分け与えました。一世帯あたり三袋ずつあげましたが、なお平安座に引き揚げる時も残っておりました。といっても、避難民も増え畑のものは失くなる一方だから、この先食糧がなくなってしまったらどうしようと考えて、保存のきくものはなるべく残して、大変な節約をして生活しました。
私は避難先の村では、一番若い方でしたから、毎日田んぼに出て、スキで土を掘りおこす力仕事を私がやりますと、若い女や年寄り連中が、そこに稲を植え付けするということをやっておりました。力仕事を私らがやったので、私らがきていやがられることはなかった。
米軍陣地アメリカ軍の陣地が、すぐ目の前にあったから、農作業は、すべて夜中にやりました。アメリカ軍は、沖縄上陸後まもなく、許田から松田を通って山越えして、すぐに久志間に陣地を作ったのです。何千もの兵士がいて、高射砲、大砲などをすえつけて、立派な陣地でした。なにしろ、満潮の時は、周囲は水で、潮が引くと、自動車でもその陣地に通れるようになっていたから。しかし、その陣地から実際に砲弾を発射するのはみたことがなかった。軍用犬も数百匹いました。アメリカ軍の親切さは、本当になんともいえないなあと思いました。支那で、日本軍のやってきたことは本当にきたないなあと思っていたから、戦争に負けて、本当によかったと思いました。
しかし、現在の日本は、経済力は世界でも二、三位でも、軍事力がないから、もっと力をつけて、国力を増やさなければならない。
戦前の日本は「ヤマトゥ一方」といって、一方的な政策を押しつけるやりかたで、大変だった。現在の世の中で、自衛隊でも戦前の日本軍のような軍国主義だったら、絶対に反対だが、今はそんなことはできないはずだ。戦前の日本軍みたいだったら、すでに同士討ち、つまり内戦が起きているはずだ。今までに内戦が起きていないのだから今の自衛隊はいいのだろう。
※ ブログ注 沖縄県史第9巻は1971年に琉球政府が編集、第10巻は1974年に沖縄県が編集している。ゆえに「日本の自衛隊が沖縄へ上陸してきたら、また大変なことになりはしないか」というような「沖縄の本土復帰」への不安と疑念の言葉が人々の証言の中にもしばしば散見される。現在は、戦前の「ヤマトゥ一方」で、「一方的な政策を押しつけるやりかた」はできないはずだ、という希望は、県民投票をものともせず、戦前の日本軍を彷彿とさせる今の自衛隊の強制配備や米軍基地の工事強行の「ヤマトゥ一方」を見ればどう思うだろうか。
長参謀長の車を運転
平安座島山城正鱗(三三歳)
戦争直前の島の生活戦前の平安座島は、人口約三千人近くで、男性の多くは運送業、漁業に従事していました。若い人になると、南方に漁業出稼ぎに行っておりました。それはフィリピン、シンガポールなどでした。
平安座の男性は、農業というものを全然知らなかったです。戦後、キビ作りが平安座でも一九六一年頃から始まり、これは金になるなあと思うようになり、男性でも農業をやる人が出てきたが、それまでは農業を知らなかったし、それは女がするもんだとバカにする風潮がありました。運送業は当時マーラン船(山原船)が、今のトラックのような役目をしており、国頭村の辺戸、東村、近いところでは、久志村、屋嘉あたりから、たきぎを積んで、それを泡瀬、与那原、那覇の泊港まで運搬しました。そして、帰えりは、国頭方面の各村々が経営している共同販売店の品物を那覇から運送する仕事をしていました。南部の方のたきぎは、この平安座のマーランが補充していたのです。また、牛や大島材、砂糖特に使う「くり板材」なども、奄美から泡瀬に延級しておりました。このマーラン船は、昭和八、九年頃には、百姓余りもありました。旧正二日の「初おこし」には、「満艦飾」でとてもきれかったです。旧の七月、正月には必らず全隻、帰えってきました。
徵兵忌避
ところが、このようなマーラン船(山原船)も、昭和十五、六年頃には、半分ぐらいに減っていました。というのは、戦争が近づくにつれて、青年達は、徴兵や徴用でかりだされていくので、平安座の人たちは、かなり召集のがれのために、南方に漁業移民として沢山出ていきました。それでマーランの乗り手が、いなくなったので、半数位に減ってしまったのです。
当時の兵事主任をしていた私の知る範囲でいっても、海外移民の大体は、ここにいては戦争にとられるからといって、特に親の方が、子供かわいさで移民をすすめていたようです。移民すれば、徴兵延期になりよったですから。私は、一種の徴兵忌避とみていたのですが、それは法に触れるわけではありませんでしたから、私からとやかくいった覚えはありません。
こうして、平安座名物のマーラン船も、戦争のために、戦後五、六隻しか残こりませんでした。マーランは戦時中物資の輸送にあたったので、米軍にねらわれたのです。海外出稼移民などの送金もあって、平安座は、戦前、かなり裕福な生活をしておりましたよ。
飛行場建設の徴用
飛行場建設の徴用
ところが、昭和十八年頃から総動員令、徴用令がかかって、若い者から年寄りまで男女を問わず、かりだされるようになりました。
特に昭和十九年頃に、津堅島に日本軍の飛行場を作るために、国場組の国場幸太郎氏が与那城村役場にやってきて、新垣金造村長に、徴用による労務者確保を依頼しておりました。嘉手納飛行場建設にもかなりの徴用が行なわれました。そこでは、米一粒にイモー斤混ぜるといわれる程、食物はわずかしか与えなくて、大変きっかったようです。
こうして、戦争が緊迫してくるにつれて、これまでの生活が狂い始めてきました。
昭和十八年に、私は与那城村の兵事主任になりました。当時の兵事主任というのは、いばったもんでした。仕事の内容は、徴兵検査から召集までで、この仕事だけは、本当にきびしい規則にしばられており、非常に忙がしかったです。一週間に一度は、必らず、中頭郡などという各郡ごとの兵事主任会識がもたれました。
県庁の中部事務所が、普天間にできておりました。そこでは、徴兵令の改正などにどう対処するかなどが話合われました。これまでの徴兵令では、南洋、フィリピン、シンガポールなど内南洋に出稼ぎに行っている人たちは、徴兵令が延期になっておりました。それが改正になって、現地でも彼兵検査を受けるようになりました。それに伴う事務などの仕事、速隊司令部にその数を届出たりしました。
また「観測点呼」—帰郷兵の一か年の訓練などの仕事なども毎年ありました。
兵事主任は、司令部に行きますと、えらい人に「在郷軍人の士気を鼓舞するのは、きみらにあるんだ」「兵事主任には、恩給も与える」などと、非常におだてられ、かわいがられたもんです。
「観関点呼」は、与那城村の場合は、本心と離島平安座の二か所で、一〇〇名近い退役軍人を対象に訓練しましたが、その場合、意兵が二人もきました。
徴兵検査兵事主任の仕市で一番つらいことは、徴兵検証でした。その頃も沖縄には林病、梅務思者がおりまして、徴兵検査の際、性病にかかっていることが判明すると、淋病の場合は「淋病」とかいたフダを、ひもを通して、それをその本人の首にぶらさげて、みんなの面前に立たすのです。そこには、司令官、徴兵官がいてその側に立たすのですが、実に恥かしい次第でした。
それがおわると、今度は透兵が、その性病患者を、なぐりつけるのです。これも実に気の毒でした。
ですから、私は、徴兵検査が行なわれる数か月も前から、各部落を回わって、「性病患者だけは出してくれるな。もしそれにかかっている場合は、検在までにはすぐなおしておくように」とふれまわって歩きました。一度師範学校出の青年が、性病息者だということになっていたが「自分には身に覚えのないことだ。何かの間違いだろう」といって、飛行兵に志願したら合格して、性病のしるしの赤印が、いつのまにか消されているということがありました。
民間人の訓練
青年、婦人、生徒に対する竹ヤリなどの訓練は、下士官だった退役軍人が、教練指導員としてやっておりました。それは青年訓練所と呼んで各学校で行っておりました。与那城村は、伊計、宮城、平安座島という離島をかかえていたので、訓練所も沢山あったわけです。
避難壕堀りの指示は、私どもがやるのではなく、各消防団の方でやっておりました。
平安座島の方では、川前宮達というハワイ帰えりのかたが、このかたはハワイで相当の財を築いて帰えってきましたが、この人が、消防団長をして、団員が三〇名位おりました。この人は、翼賛会の少年組織である翼賛少年団の団長も兼任しておりましたが、丘の上の一本松のそばに、軍の直接の指示ではなかったが、自発的に監視所、見張り小屋をこしらえて、各団員が交代で見張りに立っていました。また、山の手の方に避難壕を掘ったり、夜間に、竹ヤリ訓練や消火訓練などをやっておりました。翼賛少年団には、児童生徒全員が加入しており、夜間にも、竹ヤリ訓練などをさせられ、士気を鼓舞されておりました。
長参謀長の運転手
私は、十・十空襲の六か月前から、今の那潮市の松山町にあった連隊区司令部に勤務するようになりました。そこは、給料も良かったしそこがよいから行きなさいと云われて行きました。私は、自動車の運転免許証を持っていたので、沖縄派遣部隊の本隊である一六一六部隊の情報で長参謀長の車の運転をすることになりました。
十・十空襲のあった二、三か月前から、台湾から部隊長がやってきて、その部隊の兵器検査を行っておりました。十・十空襲当日は、台湾からえらい人がみえて、第一高女の講堂で、午前十時から講演会がある予定でした。それで私も、その日は早出するようにという命令が出ていたのです。
出勤の途中、連隊区司令部の附近で大きな大砲の音がして、子供をだいているお母さんたちが、外に出て騒いでいました。私は、その騒ぎを制止して、「今部隊で兵器検査をしているから、その音ですよ」と云いながら、間令部へ入っていったのです。すると、なんとそれは空襲だときかされて肝をつぶしましたよ。それでも仕事だから、私は、車を出して、市長官舎に住んでいた長参謀長を司令部にお連れしました。
十・十空襲では、別に負傷することもなかったのですが、相当家は焼かれ、死傷者が出ましたので、ここにいてはそのうちやられてしまうと思い、思い切って転属願いを出しました。転属願い先は、嘉手納の飛行部隊でした。
嘉手納へ転属
それでは、球部隊の航空修理所に勤務したらどうかと云われ、嘉手納の西側の比嘉部落の向いにある修理所で事務の仕事をするようになりました。私が、嘉手納を希望したのは、戦争が激しくなれば、国頭に近いから、危なくなったらそこへ逃げればなんとか生き延びれるのではないかと思い希望したのです。
そこでは、寮に寝泊まりしました。その姿には、北海道出身の小倉中尉という課長をはじめ、現役兵らがおりましたが、彼らは、毎晩、酒を飲んで「ここは、これ(女の意味)がいるからたのしみだが、このままでは危ないなあ」と話しあっているのをきいて、ここにいたら、本当に死ぬかも知れないと感じていました。私の同僚には、東江という伊江島出身の写真屋、仲村渠という写真屋、この人は現在でも那覇で写真館を経営しているらしいが、この人らは、航空写真を撮りにきていました。その他に現在画家の大誤信一さんも一緒で、十五名位いました。
上陸空襲
しかし空襲が激しくなって、我々の部隊は首里に引き揚げるよう命令が出ました。それで、昭和二十年三月三十一日朝、そこを引き揚げていく途中、空壊がひどくなったので屋良部落に大きな自然壕があったので、そこで、一時待避して、夜間行動をとることにしました。昼頃には、そこへ着いていました。
我々が、壕に入っている間、写真班の東江さんと、若い青年が、立哨にたちました。彼らが立っているすぐそばに、ガソリンかんがふたつありましたが、それに突如、直撃弾が当って、あっというまにふたりは火だるまになり、若い青年は、すぐに倒れてしまい、東江さんは、火だるまになりながら、我々のいる壕の方へかけつけてきたが、壕の入口で、火だるまになりながら、三分程立ちつくしてばたりと倒れてしまいました。実に恐ろしい出来ごとでした。
まだ、かすかに息がありましたので、私と仲村渠さん、大嶺信一さんに、もう一人青年と下士官五名で、美里村の「クール」山」に病院があるということでしたので、そこへ運んでいきましたが、途中で息を引きとってしまいました。
すると、下士官は、「自分は、どうしてもすぐに首里の本隊に帰えらなければならないから、あなたがたは、彼の始末をしてからあとできなさい」といって、我々と別れてしまいました。
残った我々の手で、彼を埋葬して、我々は首里へ行ったら危ないから、国頭の方へ逃げようということになって、そこへ逃げのびたのだが、翌日は、アメリカ軍の沖縄上陸の日だったのです。
上陸の日の迫撃戦
北谷の浜に上陸したアメリカ兵が、屋良飛行場めざして、突き進んでくるのがみえました。我々は「クールー山」の岡の西側にいたから、、広々とした飛行場には、さえぎるものは何ひとつなく、まるみえでした。
飛行場にかけあがってくるアメリカ兵めがけて、日本軍の前線部隊が、至近距離から迎え撃って、アメリカ兵は、バタバタと倒れていきました。アメリカ軍が上陸したその日に、迫螺戦をまのあたりにみて、ついにアメリカ軍が上陸したから、この辺にいたら殺されると思い、しばらく、山の中に身をひそめて、夜を待ち国頭めざして、四人で逃げていきました。
上陸前、海軍第11砲台やほとんど地元の防衛隊員で構成された特設警備隊などを残し、主力の日本兵は退避している。海軍11砲台は全滅したといわれている。
ヤンバルへ避難
国頭へ避難
国頭でも大変でした。四人で山の中を三日三晩歩き通したことがありましたが、各地からの避難民で、老若男女沢山の人が、ウロウ口していました。
一度は、子供、年寄りと一緒になって歩いたことがありますが、彼らは、足が遅かったが、気の毒になっていろいろ力づけながら歩きました。子供が歩けなくなったのを、私がおんぶして、小さなガケなどをよじのぼったこともありました。国頭山中では、いろいろ悲しいできごとがありました。羽地の「ワンドウ山」の附近には小川が流れていて(どこでもそうだったと思うが)、その小川に沿って人びとは、避難小屋を作り、四月頃から五月頃までは、それぞれの家族はみんな一緒に生活していました。だが、戦闘が激しくなり、食糧も欠乏してくると、老婆などが、家族に見捨てられていきました。
病気、栄養失調などで、一緒に逃げれなくなった年寄りのかたわらに、「ウケーメー(おかゆ)」を入れたおわんを置いたまま置き去りにしてある場合が、あちらこちらにありました。なかには、小釜の前にはっていく姿のままで死んでいるお年寄りをみかけたことがありますが、それをみた時は、本当に気の毒でした。
私らは、食糧には、そんなにも困らなかったです。山の中の田んぼから、もみを取って食べたり、ときたま、夜間、民間人の乞食に変装して、村におりて、各家で物乞いして、食べ物をあつめたり、あるいは、各人の持物を食瓶と交換したりで食いつないでいきました。
米兵の集団強姦
事件一度、アメリカ兵に山の中で、バッタリ会いましたが、その時おきたできごとは、他人には、申し上げられないことです。
我々四人と日本軍の少尉、それに田んぼの主である十八歳の娘さん五人で、山の中の百坪ぐらいの田んぼで、稲をもぎとっていると、突然、五人のアメリカ兵が現われました。なにしろ、山の中の田んぼですから、見通しがきかず、田んぼに入る道がカーブになっていて、英語でなにやらしゃべる声がきこえたかと思うと、ふりむいたらもう目の前にあらわれていましたから、逃げるいとまもありませんでした。その後のできごとは、それはもう大変でした。私らそんな光景を、みたこともきいたこともありませんでしたから。
それから、二、三日後、田んぼで稲をもぎとっていると、娘の父親がきていたので、「娘さんは、どうしているのか」と我々の仲間がたずねたら、「二、三日前から、風邪ひいて寝ている」と話しておりました。
このアメリカ兵どもは、その後、山手の方へあがっていきましたが、避難小屋に火をつけてもやしてありました。こいつらは、小屋を見つけたらすぐにもやしてしまうのが常でした。
敗残兵の生活もし、山にこもっている日本兵が、アメリカ兵に抵抗したら、すぐにその山の一帯は、山火事になりよったです。彼等はすぐに火をつけるのです。日本兵にも、あいましたが、我々の出会った兵士は、そのほとんどが、少々の金を持っていて、それで、もみを買ったりしているようでした。
そして、金がなくなったら、非常に頼みこんで、住民から食べ物をもらったりしているようでした。住民を脅かして、食掘を奪ったという話を後にきいたことがありましたが、我々のこもっていた山では、そのような話はききませんでした。
ほとんどの人が、山をおりた後も、まだ村の近くの避難小屋に、二人の女性が住んでいました。村はこわくて、ここに住んでいるということでした。その二人が、我々の小屋にいろいろな食糧を持ってきてくれたりしました。その中にチーズが混っていて、我々は、誰もそれを知らないものだから、みそ汁に入れて、ダシをとろうとしたが、いくら炊いても、ダシがでないので往生しました。その後その女性に食べかたを教えてもらい、大笑いしました。
我々のいた山は、羽地村田井等の山奥で、相当奥深いところでしたが、こんなところまで、よくアメリカ兵がやってくるもんだと感心しました。
家族の消息だが、どんな山奥でも、避難民が歩き回わっていたから、道ができておりましたので、よく遊びがてら、山の尾根づたいに、平安座島がみえるところまで行きました。それは五月の中頃だったと思いますが、その山中で、偶然、見知らぬ人から、私の家族の消息がわかりました。みんな元気でいることがわかり安心しました。
四月頃は、上空をトンボ(ていさつ機)が旋回して、急上昇していくと、すぐに必らずそこへ砲弾が飛んできました。旋回して急にエンジンを止めて、ストンと近くまでおりてきて、また急上昇することがよくありましたが、あれは不気味でした。五月すぎると、飛行機は飛んでいても、何事もなかったです。私の家族は、妻と子供がひとりいました。疎開命令がきた時、母と小さい弟と妹が国頭の安田に避難しました。しかし焼い弾などで、家が焼けたらいかんということで、父と妹の三名は、平安座島に残っておりました。避難先は、指定地に行ったのですが、受け入れ勢は、不十分だったそうです。指定地には、どこそこの村の人たちがくるからという通知は、届いていたそうですが、例えば、米の配給カードを避難民は持っていても、あるべきはずなのが、ないという状態だったようです。
特に首里、那覇の人は、農作業をやったこともない人が多く、また山道も歩きなれていなかったので、大変苦労したようです。
終戦の翌日投降我々は、軍人ではないが、軍属だったので、もし捕虜になったら殺されてしまうと思い山をおりることができませんでした。
しかし、山中でよく出会った避難民が、ひとり去り、ふたり去りして、この小屋いっても、あの小屋いっても、次第に空屋になっていき、我々は、小屋から小屋を転々と泊まり歩いていく内に、次第に心細くなってきました。
それで、四人、別々になって、思い切って山をおりました。すると、その日が、なんと8月16日で終戦の翌日だったのです。
辺野古と平安座の民間人収容所
おかげで、アメリカ兵には、非常にしぼられました。「終戦がわかったから、山をおりたんだろう。おまえは、軍人にちがいない」といわれましたが、その時の通訳は、ハワイ帰えりのかわいい親切な娘さんでした。彼女が私を非常にかばってくれたので、助かりました。私は、辺野古におじ夫婦が住んでいたので、収容所は、辺野古を希望してそこへ行きました。
当時は、部落全体が、収容所になっていたので、勝手に移動することはできませんでした。私は、辺野古での生活が始まると偶然に東風平で兵事主任をしていた人や、昭和九年頃勤めていた巡送会社の古い同僚に会い、彼らの紹介で、久志の市役所へ行き、そこで社会事業課の運転手に採用されました。そこでの仕事は、辺野古崎(大浦崎ともいいますが)から、物資をトラックで運搬する仕事でした。そこでは、数か月働らいてその年の十一月の初め頃に平安座島へ帰えりました。
平安座島での生活
平安座島は、島全体が、収容所となっていたようで、数万人もの人が集められ、平安座市となっていたそうですが、私が帰えった頃には、その殆んどが、それぞれの地城に帰えってしまっていて、市は解消しておりました。
それでも、まだ六千人ほど住んでいて、空屋ひとつなく、掘立て小屋にも人が住んでいました。さらに、他の地域から収容されていた人びとが、平安座を離れていった後は、アメリカ軍の使役もなくなりました。その後通訳をつとめていた川前さんが、アメリカ軍にわたりをつけて、平安座のかなりの住民が、(現在の沖縄県うるま市) 川崎のアメリカ軍部隊 (現在のキャンプ・マクトリアス) の作業に通うようになりました。
「ラック」という水陸両用車で、平安座から天願港に渡り、そこから川崎の部隊へとアメリカ兵と通いました。それで、平安座には、修理工などの技術屋が、沢山でました。また、川前さんが、Q・Mの沖縄班長になり、戦前の商業高校の後にキャンプを作って、平安座の人たちを数百名送りこんでいましたですから、今でもQ・Mには、平安座出身が多いです。平安座の人たちは、この川前さんのおかげで、多くの人が、仕事にありつけて、大助かりでした。それで、一九五〇年前後には、新垣金造さんの次に与那城村長になりました。その後また、Q・Mにいっています。
私は、その後しばらく与那原に住んで材木商を営むようになりました。平安座に残っていた四、五隻のマーラン船(山原船)を借り切って、国頭から丸太を運び、南部の各学校建築用として売りさばき、かなり貯金もできた頃、新垣村長に呼ばれて、庶務課長を勤めました。その頃の給料が、月に一〇〇円(B円)そこらでしたから、勤める人がいなかったです。新垣さんが村長をやめた時、私もすぐにやめました。それから、事業をやったり、いろいろなことをやりました。
伊計島のことについて私がきいたところでは、伊計島は戦争中日本兵の本土へ脱出する中継地だったそうです。伊計は各部隊の連絡所になっていたそうで、またクリ舟などもちゃんと準備するようになっていたそうです。
日本軍に抗議
宮城島首里牛善(四六歳)
農産物の供出と泥棒
農産物の供出係
私は、当時、宮城島上原部落の、農産物を軍へ供出する係をしていました。その仕事は、書記と二人でやっておりました。宮城島は四か部落から成っており、それぞれ部落毎に、二人ずっ供出係をおいていました。私に徴用の通知がきても、そうなると供出がとどこおるので、すぐに徴用取消しになったので、私は徴用には一度もいっておりません。私は、永年上原部落の区長をしておりましたので、供出係は適当だったのでしょう。
供出は各戸毎に当て制でした。その当時は供出をいやがるという気分は、住民の間にはなかったようです。みんなしかたがないものとしてうけとめていました。一週間に一度ぐらいの割合で、集まった農産物を屋慶名の村役場の方に、船で運搬しました。それも私の仕事でした。
日本軍に抗議
ある晩、供出用にとっておいた大根を、兵隊に盗まれたと、私にいってきた農民がおりました。私は、早速「これまで軍のいうとおりに、きちんと農産物を供出してきたのに、その上農民の畑から、作物を盗むとは何事だ」と駐屯部隊におしかけて、軍に抗議したら、「そんなことは、誰もやっていない」と抗議をうけつけないので、「それでは、盗まれたといっている本人を連れてくる」といって、当人を軍へ逃れていくと、本人は度胸がなく、軍をこわがって、だまってしまいました。私の前では、軍の悪さを告げても、車の前に出すと、肌のごきげんをとるようなことをいうのだから、私が軍をどろぼう呼ばわりしていることになってしまいました。部隊の伍長は、私が車をどろぼう呼ばわりしたうえ、大尉が島にみえても歓迎しにこなかったから、私を軍法会議にかける、といって脅かしました。私は「軍法会議にかけたいならかけろ。私は、実際に、盗まれた場所も知っているんだ。住民は、軍服をつけた人が盗んでいったのをみているんだ。住民には盗みをするものはいない。あなたがたがとったことは間違いないのだ」といい返えしました。
この伍長は、その後私の家に、二、三回もやってきては、どなっておりましたので、「やれるならやりなさい(軍法会議にかけてみろ)。私はこれまで区民と一緒に軍へどこまでも協力して、供出までしてきたのにそれを横から盗んでいくとは、これは日本軍人としてその資格がないのだ。私らは、村役場にも、あなたがたの部隊にも供出しているのに、まだたりないのか。あなたがたは、一般民衆の命を守るために、ここへ駐屯しているのだが、今はあなたがたは遊んでいて、農民が働いて農作物を供出しているのだ。それでも、自分らが盗っても、とっていないといいはるのは通らない。一般民衆はめくら (ママ) ではなくて、ちゃんと目を持っているのだ。何名がとりよったというのもはっきりしているのだから、あなたがたが、いくらとっていないといっても証人はいくらでもいるんだ」といってやったら、もうその後は、この鹿児島出身の伍長はこなくなってこのことはうやむやになってしまいました。
実際、この農産物の供出には苦労しました。その当時、農会組合というのがあって、私はその組合理事の一人でしたが、供出物の運搬は理事が交代でやることになっていました。しかし、殆んど私が運びました。一週間の間に組合に集めた農産物を、納期がくれば雨が降ろうが、風が吹こうがクリ舟で役場へ運びました。しかも、運び賃なんて出るはずもありませんでした。
日本軍のいない宮城島 - 疑似砲台の撤去
十・十空襲の時
昭和十九年の十・十空襲の時、宮城島にいる日本軍の駐屯部隊はそれが敵機だということはわからなかったのか、住民にはなんの連絡もありませんでした。
ちょうど、その時、醤防団長が、本島へ渡ろうとしていたが、異常な状態なので、これは、敵機の来襲にちがいないと判断して、途中で引返えして、住民に空襲だから避難しなさいと呼びかけたので、それから、住民は避難しはじめたのです。彼は、村で銃剣術を指導している退役軍人だったから、よく判ったのでしょう。
避難途中に、もう飛行機は、島の上空に達しており、中部の各飛行場などを空襲しての帰えりだったらしく、弾をまだかかえている飛行機は、部落にもボンボン落としていきました。それでその時、だいぶ家は焼かれてしまいました。十・十空襲後、民家や学校に駐屯していた部隊は引き揚げて、島には友軍は一人もいなくなりました。
日本軍の擬装大砲
友軍は、島の高台のあちらこちらに、松の木を切り倒して、擬装大砲を設置してありましたので、「こんなもんをおいていかれたら部落が爆撃されて、村民が殺されてしまうだけだ」ということになり、警防団の人たちで、取りこわしてしまいました。
ですから、宮城島には、日本軍の陣地はなくなったわけで、アメリカ軍の艦砲射撃を受けることはありませんでした。
しかし、津堅島には、日本軍の強固な陣地がありましたので、むこうは相当たたかれました。「我々は、闇夜にはよく丘に登って、アメリカ軍の艦砲射撃をみにいったもんです。
夜間の農作業戦争が近づくにつれて、空襲がひんぱんに行なわれるようになり住民は、自分達の命を守るだけで精一杯になり、供出どころではなくなりました。そして、日中は避難壕にひそんで、夜になると食糧さがしに出ていき、イモ掘りや食べ物を炊いて、また壕へ運び入れるというくりかえしでした。イモ掘りは、闇夜にはできませんから、月の夜に、十日分位も掘って貯えておくということをしなければいけませんでした。
でも空襲というのは、爆弾は落とされ、機銃はバラまかれるわけですから、壕の中にいても、いつもヒヤヒヤしていなければなりませんでしたから、その時の苦しみは、やはり言葉ではいいあらわせないものがありました。
米軍の上陸アメリカ軍が、宮城島に上陸したのは、四月の中頃でしたが、それは私の九番目の子供が、生まれて十日ぐらいたった頃でした。
アメリカ軍は島の北側の「トゥンナハ」の浜に上陸して、平安座島の川前喜達さんを通訳に使って、マイクで「アメリカ軍の云うことをきけば、殺さないから、壊の中から出てくるように」と触れ回わっておりました。アメリカ軍が、島へ上陸したという知らせで、若い連中は、みんな壕に逃げ込んで、家には、病人、年寄り、お産したばかりの人などが残こっておりました。
<首里牛善氏の妻の証言>
アメリカ軍が上陸した日、私は九番目の子供をお産して十日目だったので、アメリカ軍が上陸したのをきいても、どうにでもなれという気持ちで、おしゅうとさんと一緒に家の中に赤児を抱いてじっとしておりました。
おそろしい思いで、裏地の方でじっとしていると、突然、ドヤドャと足音がしたので、すきまからのぞいてみると、アメリカ兵十名が、庭先に入ってきました。先述の兵士は鉄砲を手にしておりました。家の軒下の方に、日の丸の旅を掲げてありましたので、それを見つけた兵隊が、ひきちぎって破ってしまいました。そして、くつのままドカドカとあがりこんできて、私が赤児んだいてかくれているところにも入り込んできました。
しかし、私の様子から、「お産したばかりか」というようなことをいって、それから、おじいさんがいる部屋に入っていきました。おじいさんは、あまりのこわさに、ぶるぶるふるえて横になっておりました。アメリカは、それを見おろして何んとかかんとかいっていたが、その内たばこをとり出して、おじいさんに吸えという仕草をしましたが、おじいさんは、自分もたばこはあるからいらんという仕草をしました。するとそのアメリカ兵は、たばこに火をつけて自分が吸ってみせてから、何んでもないから吸いなさいという仕草をしましたが、おじいさんがそのたばこを受けとったかどうかは記憶にありません。それから、すぐにアメリカ兵たちは、立ち去っていきました。
あの時、私は、てっきり殺されるもんだと思っていたので、あの時の恐怖は、夢みたいでした。なにしろ、その頃、アメリカ兵がまだ上陸していない時にでも、丘の上に繋下傘でアメリカ兵が降りてきたぞというデマがとぶぐらい、アメリカ兵に対する恐怖心が、村内に広がっていましたから。
米軍が協力要請アメリカ軍が上陸して、壕から出てくるように呼びかけても誰も出ていかなかったようです。私も、父に、「赤児と嫁は私がみているから、子供たちを連れてにげろ」といわれて、生まれたばかりの子供と妻と父を残こして、壕にひそんでいたのです。|アメリカ兵は、住民が出てこないので「トゥンナハ」の浜に引き揚げておりました。それで、私は家に様子をみに帰えっていると、川前通訳が、私を捜して、訪ねてきておりました。川前さんは「アメリカ兵は、別にどうもしないから是非きてくれ」といって私を「トゥンナハ」まで連れて行きました。
川前さんは、私が、日本軍への供出係をしていたことを知っていたのでしょう。「トゥンナハ」の浜まで行きますと、アメリカ兵が、すでに住民四、五〇人を取り囲むようにして立っていました。そこで、アメリカ軍は、私に「軍に協力するか、しないか」と問いただしました。アメリカ軍が、こわいからしかたなく、「協力しますよ」と答えました。「それでは、まず、卵を一日になん個か軍に供出してくれ」といいましたので私は、「それは、区長がしかわからないから、区長に相談してくれ」といって逃げました。こっちには、養鶏場があるわけではなく、ニワトリは、放し飼いにして卵を産ませていたのだから、こんな約束をしたらどうなるかわからんと思いました。
その後、住民はアメリカ兵が、何もしないということがわかり、特別なできごともなく、本島では激しい戦闘が、くりひろげられている時、島ではのんびりした生活が続いておりました。
平安座収容所の不自由な生活
不自由な収容所
生活しかし、上陸後、数週間たったある日、突然平安座島への疎開命令が出されてから、宮城島住民にとっては、これまでにない苦しい生活が始まりました。これまでは、アメリカ軍が上陸後も、島内では、全く自由の身であったが、平安座では行動が制限された収容所生活であった。そこでは、せまいところへ、伊計、宮城島など沢山の人びとが押し込められたから、食柵は不足して、これまでとは比べられないぐらいの不自由な生活でした。
それで、軍に頼んで、島へ食糧とりに行くことを許してもらったが、それは、数が制限されていましたから、こっそり島へ渡たり、食種をとってくるものもかなりいました。アメリカ軍は、住民を追い出してからは、島の高台のまわりに、部隊を配置して、見張り所にしているようでした。我々は、部隊の近くのアメリカ軍チリ捨て場に行き、古着や、テントの切れはしなど拾い集めたりしたもんです。島の海岸で、日本軍の飯ごうがみつかったから、日本兵が、村にかくまわれているはずだということで、家捜しされたことがありました。住民を追い出したのは、そういうことのためだったかも知れません。
横暴な米軍アメリカ軍は、住民のいない間に、立派なかわら葺きの家を数軒焼き払ってありました。また、村中のニワトリを盗んで、部隊で一か所に飼って卵を産ませて食っていました。馬小屋につないであった馬は、全部にがしてありました。
失くなった食糧品
私は、黒砂糖を、一二〇斤詰め砂糖樽を十丁持っておりました。二丁は、平安座へ運び込んで、売るでもなく全部食べてしまいました。後では貴重品になってだいぶ値が高くなっていました。残りの八丁は、避難壕にかくしてあったが、取りに行った時には、全部だ加れかにかっぱらわれて失くなっていました。
敗残兵等が漂着
戦況がしだいに悪化するにつれて、島尻から、クリ舟や、木切れに乗って島々にたどりつく防衛隊員や、日本兵が増えてきました。宮城島出身の兵隊もひとり、たどりついたのを知っています。平安座へたどりついてまた宮城島へ渡ったが、人がいなかったからといってまた平安座島へ戻ってきている日本兵もいました。
このような日本兵を、みんなが可哀相に思って、平安座の収容所でかくまっていましたが、爆弾穴うめ作業や排水溝作業などをみんなと一緒にやっているところを、アメリカ兵にわかって引っ張られていきました。
この頃から、こっそり島へ渡る宮城島住民に対して、アメリカ軍はきびしくなり、ある日、若い娘さんが、犠牲になってしまいました。それで、ほとんどの人が、へこっそり渡ることもなくなりました。
命がけで食糧運搬
しかし私の場合は、子供が九人もいて、しかも年寄りがいるので、どうしても島へ渡たって食糧をとってこなければ、飢えてしまいます。射殺事件があった後も、私はクリ舟で、夜中こっそり島へ渡たろうとしました。
桃原部落の東側の高いところにアメリカ軍の見張り所があって、カイでこぐ音をききつけたアメリカ兵が、めくら滅法に舟めがけて鉄砲をパーンパーンとうってきたので、おどろきました。それからは、非常に遠まわりして、宮城島の東側の「奥の浜」とか、「ダカチナ」とか「アクナ」という浜に、そっと舟をつけて、ひそかに部落へ入り、イモを掘り起し、自分の家からミソや塩を運び出して、アメリカ兵に気づかれないように平安座へ帰えりました。
こうして飢えをしのいでなんとか生きのびることができましたが、いつも命がけの食糧運搬でした。あの時の苦しみというのは、言葉ではたとえようがありません。
平安座市の誕生
平安座島は、このように収容所になっていましたから、人口が約一万五千人位に増えていました。その後、アメリカ軍は、平安座地区を市として運営するように云われ、学校に市役所を作りました。そして市会議員も十一名選出されました。私のシマ(上原部落)からは、私ともう一人の二人が立候補して、選挙の結果私が当選しました。
帰島運動
あの時は全くの無報酬でした。それは十か月程続きました。議員になってからの私の仕事は、先ず島へ帰えり、島の復興を計ることだと考え、英語は話せないから、川前さんを通じて、毎日毎日、アメリカ軍と折衝しました。各部落ごとに議員が選出されていましたが、軍と折衝したのは私ひとりだけでした。
私が軍に「島が荒れ放題になっているから、井戸や住居を清掃したり、道路を修理したりするから早く島へ帰えしてくれ」と頼むと、軍は「あなたがたは、例え帰えっても仕事はないから帰えりなさい」と答え、このような押し問答を毎日のようにくり返えしたら、やっと帰島を許可してくれました。
三か部落の議員は、軍となんら折衝しえなかったのだから、私は自分の出身部落の上原部落の民から帰えすことにしました。
全住民の引き揚げはアメリカ軍の注文で、四、五回に分けて、二か月近くもかかりました。砲弾でつぶされている家は、食糧とりにきた時すでにわかっていたので、家が残こっているのを優先させて、第一陣は、上原部落と宮城部落の十世帯を皮切りに、桃原、池味部落の順に引き揚げてきました。
伊計島の議員が、自分たちも帰えれるように一緒に交渉してほしいと頼みにきていたが、自分たちでやりなさいととり合わなかったら、私たちが、島ですっかり落ち着いた頃、引き揚げが実現しました。それで、宮城島の住民が引き揚げている時、伊計島の住民の中には、少しでも伊計島に近い感にいたいという頼みがあったので、宮城島の村を一緒に清掃するならいいでしょうと許して、宮城島にきていた人もいました。島を追い出されてから九か月ぶり位に、島へは帰えれたわけです。市会議員の肩書は、引き揚げてから二か月位たって解消しました。それは、前原地区のウッド大佐という部隊長が、私を宮城島四か部落の地区長に任命した時、平安座市は解消されたと思います。
部落の復興期成会市会議員として、部落の復興に全力を傾けました。まず、家を失くした人々の、家の建築から手がけました。各班毎に、編成して、カヤを刈らしたり、松の木を切り倒してきて、それらで、簡単な任居を各部落ごとに作らしました。
地区長となってからは、復興期成会を作り、それもまた推されて会長となり、その時はすでに焼失した住居は、再述してあったので軍から資材をもらい、診療所の建設にとりかかりました。
しかし、区長制が復活したので、これを機会に、期成会を解散して、各区長に責任をもたせるようにしたら、三か月かかっても診療所を建てることができないので、各区民にもう一度、期成会を復活させて、診療所を完成させるまでやってくれと頼まれたので、それを完成させてから正式に解散させました。
戦後の生活
私は、終戦当時は、夏はよく漁に出てさかなをとったりもしていたけど、父に畑に精出すように強く云われていました。というのは、私らは、戦前イモだけの収入で、一か年の生活費は出てきましたから。クリ舟にイモを満載して、近くは平安から遠くは辺野古あたりまで売りに行きました。
戦後も、やはり、クリフでイモ売りにでかけました。金武方面(塩原、豊原など)に行きましたが、そこには、南部方面からきていた避難民が、未だ残っていましたので、ひっぱりだこでした。それで、契約して売るぐらいでした。イモ掘りに一日かかるので、一口おきにしか行けませんでしたが、相当実入りはよかったです。
このような実績があったので、私の父は、農業に努力するようにいっていたのでしょう。父は、口グセのように「海アッチャーヤ、ヤードーラダョ(宮城島では、漁業に専念する者は、成功しないという意味)」といっていました。それで私は、農業のあいまに海へは行っていました。
しかしそれも1967年以来の、ガルフ石油進出に伴う土地闘争が始まって以来、海にも出るひまがなくなり、クリ舟も売り払ってしまいました。また、畑に出る時間も少なくなり、今では、土地の半分しか耕作することができなくなり、だいぶ草ばかりになってしまいました。
宮城島立退き命令
宮城島根保力ナ(四三歳)
消火訓練
十・十空襲前には、宮城島にも日本軍が十数人いて、高台の方にテントで監視所を設置して、自炊しておりました。ときたま村にもおりてきて、野楽などを売ってくれるように頼んでいましたが、私らは、可哀相に思って、それをあげたように覚えています。消火訓練や竹ヤリ訓練などもよくやらされました。
消火訓練の場合は、浜から、砂や海水を、リレー式に運ぶというやりかたでした。五〇歳すぎの婦人までも訓練をうけました。竹ヤリ訓練などは、ちょっとした広っぱで訓練をうけました。そして、指導員が、突然「敵機来襲」と叫ぶと、各自、自分が立っているかたわらに、ところかまわず伏せなければならず、伏せたところがよく牛やニワトリの糞の上であったりして、大変でした。そしてまた「敵機去った」と叫んだ時には、立上がるという、今から考えると実にバカらしいことを真剣にやらされたもんです。
ここでは、女性は、学校を卒業して二十五歳までは処女会、二十五歳以上は婦人会、男性はやはり二十五歳までは、青年会、二十五歳以上は向上会(今は成人会)に組織されていました。
消火訓練は、更に、ある家に焼い弾が落ちて火事になったと想定して、その家の屋根にまでのぼって、みんなで火を消すまねごとなどしました。そういう訓練は、実際の空襲には、なんの役にも立ちませんでした。
空襲下の生活空襲は、十・十空機以後なんべんも来襲しました。私たちの避難壕は、浜辺の方に作ってあり、一杯遠いところにありましたから、空襲だとわかってから逃げ出しても、壕にかけ込む前に、飛行機が飛んできていたので、荷物を持っていても、土手に身をひそめたり、近くのみぞに飛び込んだりして、壕はほとんど役に立たなかったです。それでも炊いたイモやおつゆも持っていましたが、飛行機の爆音が遠のくと、それらを持って壕に行き、その中で食事をしました。そういう時は、家の中では落着いて食べられなかったです。
当時は、どこの家でも、牛、馬、豚、山羊などを飼っており、豚なんか少くとも、近はいました。私の家でも、小屋一杯山羊がいましたよ。ニワトリも沢山いました。
戦争が始まると、豚やヤギをよく殺して食べました。避難壕に入る回数が、多くなればなるほど、飼料を与えることができなくなるわけですから。空襲で、焼かれた家もかなりありました。しかし、死傷者は、空襲でやられた人は一人もおりません。避難壕は、大体、親類が二、三世帯一緒に入れる位の大きさでした。私らの壕は、「艦砲射蝶をうけたら、一番危ないよ、なんであんなところに掘ったんで、そこからは出なさい」と、私の親兄弟に云われました。
私の母なんかは、あんな壕に入っているといって泣いていました。なにしろ、アメリカの軍艦は、目の前にずらっと泊まっていたので、私らが、壕を出入りするのはみえていたはずなんです。
私の夫は、私の兄の呼び寄せ移民として、アルゼンチンに再波航したままでした。
その時の私の家族は七人でした。子供は元名いて、その他に戦争が始まる前に一人病気でなくしました。空襲時代に人が亡くなると大変でした。空襲でやられたのではなく、病気や老炎で亡くなったのですが、路に、死者を葬りに行く場合、「ガン」に入れて、それをみんなで担いで行くのです。墓に行く途中、空襲にあうと、道中にも「ガン」をほっぽり出して、みんなクモの子を散らすように逃げ出しました。こうして、空襲のあい間に、葬式も行うのでした。
私のおばあさんの場合は、その日は、飛行機が一機も飛ばず立派な葬式ができました。しかし、その翌日は、二、三人で、お花とお茶を供えに行く途中、空襲にあい、やっとの思いで逃げ帰えりました。
生前、付き合いの深かった近所の人たちが、おくやみにといって、大根やおイモなどを炊いて私の家に持ってくるのですが、突然空襲にあい、それらを庭先にほって逃げ去ってしまうというようなこともありました。
十・十空襲前、私の夫の父は、私らが「避難壕を掘ろうね」と相談すると、怒って「バカヤロウたち、何云っているんだ。ここに戦さがくるというのか。避難壕なんか作る必要はない」といいましたが、私らは、きかんふりして、私と長男の猛男と亡くなった三男坊の三人で、壕を掘っていると、おじいさんは「バカヤロウたち仕事をしなさい。いらんことをして。沖縄には戦さはこない。ムダなことをして」と非常に怒りよったです。
私らは、子供らが多いから、避難用の食紙を沢山貯えておこうといって、小麦でハッタイ粉や、また私らは、お米を買ったことがないくらい田んぼがあったので、精米所で沢山のモミを精米させて、貯えておきました。
おじいさんの徴用
私のおじいさんは、当時六十歳すぎておりました。家大工や石大工もできました。
ある日、村役場の人がやってきて「おじいさんの職業はなんですか」とたずねました。おじいさんが「農業です」と答えると「農業以外に何かできますか」とまたたずねると「石大工ができます」と答えました。すると「それでは、あしたから徴用です」といわれ、すぐに読谷飛行場へ行かされたが、宮城島は嘉手納の飛行場作りの方だといわれたそうです。だがもう日が禁れていたので、読谷山岳名の公民館に泊めてもらい、翌日嘉手納へ行き、そこで三日位働かされたら、係の人が「あなたは、お年寄りだからもう帰えりなさい」といわれ、宮城島へ帰えされました。
帰えってきたら、「オイ、一大事だ。早く避難壕からこしらえなさい」といって大騒ぎしておりました。私らが、避難場を作るといったら、沖縄に戦争がくるはずがないといってバカヤロウ呼ばわりしていたのに、中部の状況を見てからは、「大変だ、大変だ」と云いだしたので、私らは「おじいさんは、徴用にとられてよかったね」と大笑いしました。
徴用中の爆死
だが、その後、宮城島の桃原、池味部落から徴用にとられた若い娘ふたりが、読谷飛行場で、敵機が飛んできたのでかくれようとしたら、監督が「作業を続けろ、どうもないから」とどなったので、作業を続けていたら爆弾を落とされ、池味の娘さんは、粉々にふっとばされ、桃原の娘さんは、両足に重傷をおったが、一命をとりとめ、今ではお孫さんもいますよ。その監督は、アメリカ軍のスパイで、日本人を殺そうとしたんだといううわさが、その後、流れていました。アメリカ軍は、宮城島の北側の「トゥンナハ」の浜に上陸しました。四月の十日頃だったと思いますが、その近くには、私の娘や息子らが隠れている壕がありました。
米軍の上陸・宣撫工作
アメリカ軍は上陸すると、すぐにそこらの壕から、住民を出して、チューインガムなどをとり出して、食べなさいといって差し出したが、住民は、それらには、毒が入っているかも知れないと思って受取らないでいると、話は入っていないといって、自分らで食べてみせました。
その住民の中には、南米帰えりでスペイン語の話せる私の娘や親類の人たちも混じっていて、彼女らが、チューインガムなどに毒は入っていないはずだから、受取りましょうといったら、みんなも、お菓子や、タバコを喜んで受取り始めました。
アメリカ軍は上陸する際、平安座の川前というハワイ帰えりの人を通訳にして、壕にかくれている人は住民に危害は加えないからすぐ出てくるようにといわせておりました。その後は、島の人も通訳に使っておりました。なにしろ海外移民がえりの人が、かなりいましたから。それで、安心してみんな壊からは出ていきました。私も、南米で十年も過ごしてきたので、スペイン語が話せたから、スペイン語がわかるアメリカ兵がおればいいのにと思いました。
アメリカ兵は、島の高台のまわりのあちらこちらにテント住まいをしておりました。別に住民に危害を加えるということはありませんでした。ときたま、民家にやってきては、タマゴを買いにきました。「タマゴ、タマゴ、ワン」といっておりました。「卵をひとつくれ」という意味だったはずです。買うといってもタバコなどと交換することです。
アメリカ兵が上陸してからは、島の若い娘たちは、身を防ぐために、わざと汚いみなりをしていましたが、よく見れば、若いということは、すぐわかるものでした。ある日、おばあさんの仕事のために、私の娘や、娘の友だちなどが、法事のそなえものを炊いている時に、アメリカ兵二人が入ってきました。イモをすりつぶした「ウムニー」をシャモジに入れて、「はい、食べなさい」といって、顔の方へ持っていくと二人と、「オー、ノー」といって、大げさな身振りで、うしろへひっくりかえりました。
若い娘二人は、トウフを油で揚げていたのですが、それを見つけると、そこへ近づいていって、二人をジッと見つめていました。長い間、こわくなるほど、ジッと見つめるものだから、すきをみて、上原部落の方へ逃げていき、夜遅くまで、よその家の「クチャ(装座)」の方で身をひそめていたようです。
アメリカ兵は、別に追いかける様子もなく、娘たちが、若いものだから、こわがってにげたにすぎなかったのです。私らが平安座島に追われたのは旧の四月十五日頃でした。多分、アメリカ軍上陸後、三、四週間位たっていたはずです。うちの畑は、みな家の近くにありましたから、イモ掘りに行って、イモを掘っておりますと、おとこがやってきて「エー姉さん。きょうすぐに平安座へ移動するようにとのことですよ。野や畑に出ている人もみんな呼んできて、すぐに平安座へ行かなかったら、アメリカ兵がきて、鉄砲で射り殺すらしいですよ」といわれました。
その時、すでにバケツ一杯のイモを掘ってあったので、あわてて家に帰えり、家の者をせかして移動の準備を始めました。
平安座には、二、三日いるだけだといわれておりましたが、そこへ行けば、一、二年も郷へ帰えされないかも知れないと思い、私は、着物も沢山準備して、豆類も持てるだけ持ちました。
長男の猛男には、バーキ(カゴ)一杯のイモを持たして、私は、衣類その他を持っていきました。一番下の子は、私の母が連れて、平安座島寄りの桃原部落まで、かなりの距離を歩いていきました。
桃原から平安座までは、潮が引いた時をみはからい、それでも潮にからだ半分つかりながら、下の子は、私の母がおんぶして、荷物は、それぞれ頭にのせて、海を歩いて渡りました。
平安座島の後方に渡りましたが、住居が割当てられていた訳ではなく、私たち親子はこれから先、平安座のどこに泊まったらいいかと途方にくれていると、私の母が、遠い親類にあたる人がいるからそこへ訪ねていってみようといいました。
もう晩になっておりましたが、そこを訪ねていくと、もうすでにW桃原部落の人が四世帯も入っていました。桃原からは、平安座はすぐ近くだから、私たちよりずっと前に着いていたのです。
いくら親類でも、すでに入っている四世帯の人を出てもらうわけにもいかず困りはてていると、そこの人が「いっそのことひざをつき合わせてでもいいから、一緒に泊まりなさい」といってくれたのです。
すると桃原の人が、「私たちは、表の家の人も知っているから、そこへ頼みに行くから、あなたがた入りなさい」といって出ていくことになり、私たち二世帯が、そこへ泊まることになりました。
ところが、二、三日平安座に移動しておくようにという話だったのですが、宮城島へ帰えされたのは、それから半年もたった後のことでした。
宮城島住民に対する退去命令はあまりにも突然のことで、みんなびっくりしました。島の人が三人ぐらいアメリカ軍の通訳になっていたので、かれらを通して命令が伝えられたはずです。
宮城島退去命令の背景
この突然の退去命令が出された奥山については、その頃みんなが話していたことはこうでした。
その頃、与論島の方からクリ舟で弾薬を巡んだり、あるいは、本土へ脱出をはかった日本兵が、島々にたどりついて、そこの住民にかくまわれることが、よくあったそうです。それで、宮城島でも、急に住民を追い出して、家捜しして、かくまわれている日本兵を見つけ出すためであるということでした。
実際に、宮城にも、伊計島あたりから、泳いだり、木切れにつかまってわたってきた日本兵が、海岸のガマ(ほら穴)に身をひそめていることがあったようです。部落の中で、かくまうということはなかったと思います。
平安座島収容所
私たちが、平安座収容所に収容されてから自由行動はできなくなりました。
しかし、アメリカ軍の許可で、人数は制限されたうえで、小舟で、宮城島へ、食植とりに帰えすことはありました。しかし、平安座での食糧は非常に乏しかったために、アメリカ軍割当てだけで、島へ食糧とりに行っては、とても耐えられず、次第に人びとは、夜間ひそかに、島へ渡たる者が増えていきました。島には、牛、馬、豚、山羊、ニワトリ、米、イモ、ミソ、砂糖など、収容所では、殆んど手に入りにくいものが、沢山あったわけですから。
敗残兵を隠匿
ある晩、ひとりのおばあさんが、小舟を島へ近づけると、突然ひとりの日本兵があらわれて「おばあさん、助けて下さい。私を民間人として、この舟に乗せて、一緒に逃れて行って下さい」と頼み込んだらしい。そのおばあさんは、「可哀相だから、それでは連れて行きましょう」といって、実際に、平安座へ連れてきていましたよ。
こうして、平安座の民間人収容所には、かなりの日本兵が住民にかくまわれておりました。そのおばあさんは、自分の食事を節約して、自分がかくまっている若い兵隊に、食べ物を分け与えておりました。その兵隊は、どこで手に入れたのか、大島紬に羽二重の帯をしめているかっこうをしていましたが、なるべく人目を避けたいといって、野にも出たがりませんでした。大島紬では、目立つからといって私の着物をこの兵隊さんにあげました。
友軍の兵隊さんは、背が高くて、色が白いから、アメリカ兵には、すぐ見分けがつきよったらしいです。私の班の班長さんの家にも、日本兵をかくまっていましたが、隣組で、チリ捨場を掘っている時、この兵隊さんもみんなと一緒に穴を掘っていたら、アメリカ兵がやってきて、引っ張っていきました。きっと誰かが、アメリカに父を通報してあったはずです。平安座では、収容されている人びとは、みんなアメリカ軍に登録されて、「登録札」(登録カニグワー)を、寝る時以外、作業中でもずっとそれをぶらさげていなければいけなかったです。多分、それを持っていないということで、日本兵であることがわかりよったかも知れません。とにかく、みんな引っ張られてしまいました。
宮城島居残り組
宮城島で退去命令がでても、なかにはこっそり居残った人たちもいました。居残り組のなかに、一人暮しの足の不自由なおばあさんがいましたが、それが、ある日、アメリカ兵に見つかり、手まね足まねで「何故、おばあさんはここにいるのか」ときかれ「このとおり足が不自由だから、ここに居らせてくれ」と頼むと「云うことをきかないと射り殺すぞ」という仕草で、鉄砲を向けて「殺してここに埋める」といわんばかりに、おばあさんの納屋から、クワを取り出してきて、庭先に穴を掘り始めたらしいです。
「ハァ、ヒャー、クッターヌスルクトゥヨ(ひゃあ無いた。この連中のやることといったら)」といって、翌日、この人はひとりで平安座にきておりました。これは、単なるおどしで、殺す気はなかったはずです。私の親類のおじいさんも居残り組の一人で、やはり足が不自由で、行くのはいやだといって、長いこと頑張っておりましたが、とうとうある日、アメリカ兵が、「歩けなかったら、これにのりなさい」といってタンカを持ってきて、それで「トゥンナハ」の浜まで運ばれ、それから平安座までは、水陸両用戦車に乗せられ、連れられてきておりました。
こうして一人残こらず住民を島から追い立てようとしたのです。が、最初は、あまりにも急に命令がきたので、あのおじいさんは「我々をなんで自分たちの島から追い出すんだ。字の人たちはみんな一か所に集まって、アメリカ兵がやってきたら、石を投げつけて殺してやろう」という勇ましい人もいましたよ。このおじいさんは、もう九一歳になりますが、今でも元気で山羊の草刈などもやっていますよ。
収容所生活
平安島の収容所生活は、各所を作って、班毎に毎日農作業でした。平安座島は、殆んど原野ばっかりで、たきぎひとつなく、勿論青野菜もなく、こんな枯木島だったんかとびっくりしました。伊計・宮城島の人たちが、原野をきり拓いて、野菜畑、イモ畑にしたんです。
以前から、平安座の人たちは農業は営まずこっちにまでイモを買いにきました。千ばつの時なんかは、是非イモを売ってくれときても、こっちも少ないから売れないとことわると、子供たちが、沢山いるから少しでもいいから是非売ってほしいとひざをついてまで泣きつかれ、しかたなく二、三斤売ってしまうというようなこともありました。
そのような島だったから、私たちが、生きていくのには、アメリカ軍の配給物資だけでは足りないから、どうしても自分たちの島で食糧をとってこなければなりませんでした。|アメリカ軍任命の「赤帽子」(いわば沖縄人ガード) (CP) が、「きょうは、何名。ミソ、塩、イモ、をとってきなさい」というように許可された者だけが、島を渡たることが許されました。
ほとんどが、引き潮を利用して、潮に胸までつかりながら、平安陸—桃原間を行ききしました。男も女も、字で、イモなんかをとったら男は担いで、女は頭にのせて、海を歩いて渡たるのですが、帰えりは、また引き潮の時間に間に合わさなければならなかったから気が気でなくて大変でした。行きも、帰えりも桃原の浜で、体への出入りの人数を確かめていました。
アメリカ軍は、住民を追い出した後は、島の高台の周囲にテント部隊を置いていました。多分日本軍に対する監視所だったかも知れません。
危険な食糧捜し
ところで、許可を得て、島へ渡たっていたら、食糧に困るので、元気な者は、老若男女、夜間にみんなこっそり島へ渡たったもんです。こっそり島へ渡たった者のなかには、若い娘がアメリカ兵に射殺されるという悲劇も起こりました。
その頃、夜こっそり島へ渡たって、それぞれの空家になっている自分の家に泊まって、翌日は、野菜取りをしたり、また避難壕などに置いてあった食糧品をとってきたり、男性の場合は、まだ残っている山羊や豚などを殺して、そこで食べたりして、その晩、またこっそり帰えったり、あるいは、二、三日そこに滞在したりしてから、またこっそり帰えるということが、普通になっていました。
そこへ、ときたま、アメリカ兵が、見回わりにやってくるのをみて、あわてて逃げようとして、機銃を打たれて負傷したある中年の女性がおりました。
若い娘射殺事件は、その後に起きたのです。その若い娘が殺された前の日、私たちは、イモやミソや、もう大豆のとれる時期だったので、それらをとりに行こうということになって、私と十九歳の私の娘とおじさんらと一緒に夜、小舟でこっそり島を脱け出し、村に入り、それらの食糧を手に入れて、その晩すぐに帰える予定でしたが、私の義妹の主人が「今夜は、山羊を殺して食べるつもりだから、一緒に食べて、泊まって行きなさいよ」とすすめてくれたので、そうすることにして、私たち親娘は、山羊を食べて島に泊まりました。しかしおじさんは、予定どおりその晩の内に、またこっそり小舟で帰えっていきました。
正式の許可を得て島に入ってくる者には、アメリカ軍の島出身の通訳が、見張り役などを兼ねていつもついているものでした。
翌朝早く、村にアメリカ兵がやってきているという知らせがあって、私は、兄姉と私の娘三名で必みに、ブルブルブルブルふるえながら、隠れていましたら、あちらこちらから機銃を、パラパラッ撃たれました。もう三人ともここで死んでしまうんだなあと観念して、もう生きた心地はしませんでした。
山羊なんか食べないでゆうべおじさんと一緒に帰えればよかったと思ったが後の祭りでした。
しばらくすると機銃の音もやんだので、なおブルブルふるえながら、外の様子をうかがうと馬に乗ったアメリカ兵が、ゆききしており、また、許可を得て島へ渡たってきた人たちは大豆の収穫などをしておりました。
そして、この日は、数日前からこっそりきている人たちが泊まったりしていたので、沢山の数に増えていました。そこへアメリカ兵がやってきて、畑に出ている者を製糖工場前の広場に集めていたのです。そして隠れている者に対しては、機銃を撃っていたのでしょう。
私は、娘を連れて繁みから飛び出して、みんなのいるところへ合流しようとしたが、兄姉は、「私こわいから行かない」といってなおも山の中にかくれようとしたので、「それでは、あんたは、そこで殺されたらいいよ」といって、私たち親娘はおそるおそるみんなのところへ歩いていきました。すると兄姉も心細くなって、また山の中から出てきておりました。
私は、若い娘を連れているので、アメリカ兵がこわくて、しっかり娘の手をにぎりしめて歩いていく途中、松の木の小枝が、落ちておりましたので、それをふたつ拾いました。
私たちは、アメリカ兵に顔をみられないようにするため小枝で顔を隠し、私は、通訳のおじさんの後にくっついて、その人の服のはしをぎゅっとにぎりしめて歩いていきました。
その日の朝、兄姉が、「大豆もとりに行きましょう」といいましたが、私は「きょうは、自分ひとりだったら、どうなってもいいけど、若い娘を連れているから、ミソと塩だけ持ち帰えればいい」といって、家の出入口の方にちゃんと準備しておいてあったのです。それから、逃げなくてもよかったのに山へ逃げ込んで危ない目に会ったのでした。それで、みんなが集合しているところへついた時に、通訳のおじさんに頼み込んで、みそと塩を取ってきてもらいました。
その人が「さあ、これからみんなトゥンナハへ行くんだ」といいましたので、こわくなって「そこでみんなを殺すんですか」とたずねたら、「ここは危ないから、みんな一緒に戦車で、平安座へ送りかえすのだ」といいましたので、それをきいて安心しました。
しかし、私の娘の方へ、一人のアメリカ兵が近づいてきて、穴のあく程、ジッとみつめていましたので、今にも山へ連れ込まれはしないかと心臓がとまる思いでしたが、別に何もしませんでした。
それから雨の降りしきる中を「トゥンナハ」の浜まで歩かされ、そこから水陸両用戦車に、二、三〇名も乗って、平安座の「ハバル」という浜に着き、おろされましたが、その時は、命が助かったと思い本当にヤレヤレと思いました。
この日、別の場所では、私の従姉と一緒にいた若い娘が射殺される事件があったのです。
ある娘の虐殺事件
宮城鳥喜屋原カナ(五四歳)
米兵の住民虐殺事件
私も、射殺事件のあった前日から、近所の同年輩の人たち三、四人と一緒に連れ立って、大豆をとりにこっそり島へ渡たってきておりました。そして私はみそや塩や砂糖などを集めて、翌朝、みんな一緒に、畑に出て、豆をとっておりました。そこに殺された若い娘さんもいたのです。この娘さんは、前日、両親と一緒に連れだってきていたそうですが、自分は、近所のおばさん達と豆をとって帰えるから島に残こるといったので、両親は、その日、日帰えりで平安座に帰えっていったのです。
この娘さんらの仲間と私らは、合流したかたちで、一緒に、大豆をとっていると、アメリカ兵三人が近づいてきて、私達が、バーキ(カゴ)に入れておいてあった砂糖をのぞき込んで勝手にとって食べておりました。私らは「このアメリカ人は、黒砂糖も食べるんだね」と話していたら、突然、若い娘だけを引っ張り出して、小さな丘の方へ引っ立てていきました。
私らは、女性ばっかりでしたので、こわくなって、みんな一緒に、木の繁みの中へ逃げ込んで様子をみていました。アメリカ兵三人のうち、一人が上半身、はだかになって、銃は持ったまま、娘を追いかけ回わして、つかまえては、また歩けと背をついて娘が逃げだすと、また銃を置いて、追いかけ回わしてはつかまえるということをくりかえしておりました。二人のアメリカ兵は、丘の上の方から、それをじっとみつめていました。
その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨン(お母さん、お母さん!)」と泣き叫びながら、逃げまわっておりましたので、私は、それをきくと助けてあげたいが私たちもみんな女ばっかりだからどうにもならないでしょう、と心の中でそういいました。私たちが、ひそんでいるところからは、見えないところへ追い込んだかと思うと、突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、娘を強かんするつもりで、あんなに追いかけているものと思っていたら、殺してしまったんだと思い恐ろしくなって、島の東側の海岸近くにある「グスク(城跡)」の方へ逃げて、夕暮れまで、みんな隠れていました。
それから、娘の様子をみにいくと、こめかみをうたれており、片方のこめかみは、大きな穴があいて、弾が出ていなかったのか、もう一方のこめかみは大きくふくれあがっていました。そして大量の血を枕にしてねていました。足は、片足は立てて、もう一方は伸ばしており、眼は乱れていなかったので、強姦はされていないようでした。
しばらくすると、また娘を殺したアメリカ兵がひとり、戻ってきて、本当に死んでいるかと調べている様子でした。私らは、その兵隊が、戻ってくるのをみたので、あわてて、しげみの中にとび込んでかくれて、様子をみておりました。
そのアメリカ兵も去って、もうすっかり日がくれた時に、私らは、この娘に、イモや砂糖をちょっと口に入れて、「私らは、女ばっかりで、仕方がなかったんだよ、きょうは、もうここで泊まって項だいね。明日になれば、男たちにきてもらってあなたを運ぶからね」といい残として、私たちは、村へ帰えりました。そしてまだ島に残こっている男たちにそのことを告げたら、夜遅くから、確かめに行き、翌朝、早く死体を娘の親類の家へ運んで、両親が平安座から来るまで、そこへおいておきました。「両親が来てから、右へ埋葬しましたが、葬式の時、娘を殺した同僚のアメリカ兵が、通訳も伴いやってきて、「女性を殺したということだったがこんなに若い娘を殺してしまって......」と、くやみをのべておりました。
米兵の婦女暴行
こんなこわい目にあってから、私らは各班毎に割当てられたとおりにしか、もう島へは渡たれませんでした。その後は、平安座|屋慶名間を干潮の時に歩いて渡たり、勝連村の南風原、西原などにイモ掘りに、大ぜいででかけました。帰えりも干潮の時を見はからって、大急ぎで帰えるのですが、相当の距離を、大きなバーキ(カゴ)一杯のイモを頭にのせて、潮につかりながら何回もゆきました。今から思うと、夢みたいな話です。
こんなに沢山の人たちと一緒に歩いているのに、アメリカ兵は、若い娘をその中からみつけると強かんするので、私は、自分と従姉でゆき、私の娘は、絶対に行かしませんでした。いつも、家のすいじ、洗濯をやらすことにしておりました。
本当にアメリカ兵は無茶でしたよ。ある日、南風原からイモ掘ってきての帰えり男はカマスに、女はバーキ(カゴ)に一杯掘ってきたイモをかついだり、頭にのせたりして、家路を急いでいると、三人のアメリカ兵が、こんなに大ぜいの人たちがいるのに、若い娘が、バーキを頭にのせているのを見つけて、いきなり引っ張り出して、竹ヤブに連れ込んで犯そうとしました。その娘は、両親にはさまれて歩いていたのです。母親が「これはうちの娘だからはなして下さい」と追いすがろうとすると、アメリカ兵は、鉄砲を母親に向けて近づけようとしませんでした。ところが、運良く部隊長が、かけつけてくれたので、その娘は助かりました。
摩文仁まで追われて
宮城島嘉陽田幸子(十七歳)
兵隊さんの慰問
太平洋戦争が始まった時、私は国民学校の六年生でした。当時父は与那城村役場の収入役を勤めており、兄は青年学校の教師として働らいておりました。家族は、宮城島の桃原部落に住んでいて、母が農業をしておりました。
その頃、男は満二十歳になると微兵検査があり、兵隊にとられ中国大陸へ行かされておりましたから、島には年寄りと子供ばかりしかおりませんでした。
私たち児童生徒は、五年以上に対して、月二回ぐらいの早起き会や奉仕作業がありました。そして兵隊さんの感問ということで、兵舎を訪ねて洗濯をしたり、草取り、便所の汲み取りをして自分達がたがやした畑にそれをかけたりしました。
そして毎月八日には「ショウテン」といって、生徒に対して軍隊式の訓練が在郷軍人の指導の下になされていました。行進や高学年に行くと銃剣術の訓練などがきびしく行なわれ、士気を高揚させていました。それは道路上や学校の運動場などで行なわれるのが普通でした。その後私は本局に出て高等女学校に進学しました。昭和十九年サイパン島などが陥落すると沖縄にも戦争が近づいてきて壕掘りが盛んになってきました。
私は女学校に半年位通ったが、情勢が緊迫してきたので、こわくなって島に帰えることにしました。それは、沖縄が大空襲される直前の九月二十日頃でした。
宮城で十・十空襲を目撃
島では、児童が学校に「たて壕」を掘っており、まだ島に残とっている若い人は自分たちが中心になって「青年会」を組織して部落の大きな壕を掘り、家族はそれぞれ家族壕を掘っておりました。
島に帰ってまもない十月十日に沖縄はアメリカ軍の機動部隊に大空襲されたのです。
その日の朝七時頃起きて、洗面のため外へ出ますと、西側の空が異常なので、よくみると無数の飛行機が爆音をとどろかしながら、読谷飛行場に爆整を加えているのでした。これは大変だと思い家族みんなは、壊へ避難しました。そして朝食を壊へ運ぼうとする時にも飛行機が頭上を飛ぶので大変こわかったけれどもその時は、宮城島の桃原部落には空襲はありませんでした。しかしすぐ向いの島の平安座島はやられております。
読谷飛行場は本格的に爆尿されていたようで西側の空はずっと花火のようにパッパッと光っていましたが、夕方頃になって漸く爆音が遠のいていきました。その時、宮城島の女子青年団は読谷飛行場へ奉仕作業にかりだされていて、私の友人が作業中にひとりは爆死、もうひとりは片足を飛ばされてしまうという犠牲が出てしまいました。
長い間、徴用にとられて家をあけていた男達が、空襲のあった晩に読谷から島まで、干潮を利用しながら歩いて帰えってきていました。那覇もほとんど焼かれてしまったので、島出身の友人の高等女学生が、島へ帰ってきておりました。
私が島へ帰ったのは、女学校での授業は一学期だけで、二学期に入ると、島尻で壕堀り作業だけやらされていたので戦争が間近かに感じられ、こわくなって親元の方へ帰っていったのでした。それで空後も学校には帰えらず、島に残っておりました。
絶望的な情勢の緊迫
しかし大空襲後まもなく徴兵資格がこれまでの二十歳から私より先輩の十八歳に引き下げられたため、若い人たちはもうほとんど兵隊、防衛隊に召集されて、男子青年は島にはいなくなりました。こうして若い人たちを初め四〇代の人たちまでそれぞれの任務につかざるをえない程、情勢が悪化してきたので、昭和二十年に入って大空襲後、子持ち以外は年寄りと子供しか残っていない島には、じっとしておれなくなり、もう「どうにでもなれ」という気持ちになって、島に私同様残っていた同級生と一緒に学校へ戻り、壕堀り作業を続けることにしました。
空襲は連続して来ましたので、私達は、ズキンにエプロン、救急袋を首にぶらさげた姿で那潮に向いました。学校では相変らず、津嘉山、各地で友軍の爆掘り作業や姉地構築した後の土が露出した部分に、芝生を植えたりしておりました。
私の故郷の桃原部落は、海に面しており、軍用山原船が出入りしていました。それで、三月に入ってからのアメリカ軍上陸前空襲では、この山原船がねらい撃ちされたそうで、ついでに部落全体も爆撃されて全部の家が焼かれてしまい、その時の空襲で私の家も焼かれてしまったようです。
下宿先での日本兵
私は女学校時代、弁が岳に近い首里の馬堀で下宿しておりました。私の親類の家で、非常に教育熱心な人で農業を営んでいました。私も学校から帰ってくると自発的に手伝いをしておりました。その家によく友軍の兵隊が出入りをしておりました。その兵隊は沖縄の人を馬鹿にしたようなことをよく話しておりましたので一度言い返えしたことがあります。「あなたは長野県の農林学校を出たらしいけれどもここでは上官のくつみがきなんかをさせられているが、私の兄はあなたが馬鹿にしている沖縄の農林学校卒業だけど、今は広島で幹部候補生ですよ」とはっきりいってやったら、その人はもう二度と私たちには沖縄の人を馬鹿にしたような話はしなくなりました。
私には、防衛隊に召集されている兄がいました。母は兄の無事を祈るために毎月天國へ参拝して、またその足で首里にある私たちの祖先の本家にもお参りにきたので、母とは首里で会うことがたびたびありました。
艦砲射撃の激化
母は空襲や艦砲附繋が一段と激しくなった三月二十五日頃にそのような中をくぐってお参りした後で、私の安否を気遣い島へ連れ戻すために下宿先を訪ねてきたそうだが、私は手伝いのために留守をしていたので、母には会えず、母はそのまま島に帰ってしまいました。
その頃はアメリカ軍の上陸は時間の問題とされており、島尻の方から上陸するんだという情報が流れていました。アメリカ軍のグラマン機が我がもの顔で飛び回わっており、B29が飛行雲を作りながら飛んでいました。
近くの弁が岳からは、嘉手納沖の海が見渡たせたが、そこには無数の艦隊が沖縄を取囲んでいるのが見えました。日中は海岸近くに停泊しているが、夜になるとはるか沖合いの方に退き、長距離砲で、一斉に射撃をして、夜空を花火のように焦がしていました。
敵は島尻からは上陸せずに帰手納からついに上陸したという情報を知って、家の近くの螺ではこわくなり、西原村幸地にある密をあけて、そこを壊代りに使っていました。弁が岳には友軍の通信部隊がいたのでその附近は危険だったからそこからは逃げたわけです。
しかし、昼は偵察機やボーイング機が飛び回わってどんどん燃繋を加え、夜は艦砲射撃をされて本当にいつ死ぬかわからないという状態で全く運を天にまかす以外にはありませんでした。
不発弾で即死
私達は、墓に接して、その入口の方に仮小屋も作ってありました。四月二十日頃の昼過ぎ、その仮小屋の中に友軍の兵隊ふたりがやってきたので近所のおばさん達も交じえていろいろ話をしておりました。そこでひとりの兵隊は「敵はもう幸地のすぐ近くまできているが、我々は夜間「一機一艦、一人十殺一戦車」の精神、つまり日本軍の飛行機一機で敵の軍艦一隻を沈め、日本兵一人で敵兵十人を殺し、戦車一台を壊すという精神で闘い、天長節(四月二十九日)までには敵軍を収退させるのだ」と吹聴しておりました。もう一人の兵隊は北海道出身ということでしたが、「僕のおふくろは国でどうしているんだろう」と寂しく話しておりましたので、私も急に母のことが心配になってその兵隊に「宮城島はどうなっていますか」と尋ねると「宮城島はもう敵に占領されているよ」と答えたのでびっくりして「住民はどうしていますか」と更にきくと「多分大丈夫でしょう」と返事しました。
私は、占領された島にいる母の安否が非常に気になって胸が一杯になり大声で泣き出しました。
ちょうどその時、ヒユッーと音がしたかと思うと目の前に坐っていて今まで私と話をしていた北海道出身の兵隊とその後方に坐っていた近所のおばさん、そのうしろのおばさんの子供の三人があっという間になぎ倒されてしまいました。ラッキョウ型の砲弾が、兵隊の腹を突き抜けておばさんの横腹をかすめて幼い子供の身体の中でやっと止まったのです。二人とも即死でした。爆発していたら全員即死だったでしょう。
兵隊の遺体は仲間のひとりが近くに埋郊したはずです。私達は、近所のおばさんの子供の遺体を近くに埋めてやりました。その時は、飛行機の爆音、爆弾のさく裂する音が昼中鳴り響いて、もうどこにも出れない状態の頃でした。
首里脱出
それから一週間も経たない内にアメリカ軍がもう幸地に攻めてきているという情報で、私達は、島尻にでも逃げないといけないと思い首里を離れる決心をしました。
まず親類のおじさんが、様子をみてくることになり朝からでかけていって腕には帰ってきました。おじさんの報告によると、もうこの辺からは一刻も早く立退かないと危険だということでした。友軍もこの辺に沢山きており、女学生は従軍看護婦としてみんな使われているので、おじさんは私に「あなたも南風原の陸軍病院に看護婦として行かないか」と云われましたが、私はとても臆病だったのでとっても恐くて行けませんでした。「それで私達はその夜の内に、西原村幸地を出て、首里の鳥堀から大里を経て南下しました。それぞれ持てるだけの食糧を持って、なおも夜道を歩いていきました。三月の末頃からは夜間はほとんど照明弾があげられていたので、艦砲射撃があると身をふせたりしながら、その明りで道の見当をつけて進んでいきました。しかし、南風原の陸軍病院の手前に友軍の陣地があって、その近くまで来た時、また照明弾があがったかと思うと目の前で突如砲弾が「バーン」とさく裂して私達の一行は散り散りになってしまいました。その時は、おじさん、おばさん、そこの次男の嫁さんと長男の子供と私の五人でしたけれど、気がついたら私は次男嫁さんと子供三人になっていました。無我夢中で歩いている内に軍の壕に辿りつきました。
それからはどこへ行ったらいいかわからなかったが、その時は沢山の避難民が移動しておりましたので、みんなの中に混じって、南風原から東風平へ夜通し歩いていきました。夜中の二時頃、富盛部落へ着きましたが、その間、負傷兵を運んでいる兵隊やこれから戦闘へ出かけるという兵隊が一列に並んで行進していたので道は大勢の人々が行き交うため真夜中だというのにザワザワしていました。私のいとこが、兵隊にとられて島尻にいると聞いていたのでもしかしたらその中に混じっているかも知れないと思って注意深く兵隊の顔をみながら歩いていたが、暗いのとあまりにも沢山いたので到底探せませんでした。富盛部落に着くと、そこにも来た沢山の兵隊がいて、負傷兵をタンカで運んだり、またそこは六か所位に道が分かれているので、兵隊が避難民などに道案内をしておりました。
更に私達三人は沢山の避難民に混じって、下っていくと、八重瀬岳の向いにある具志頭小学校に辿りつきました。その時漸く夜も明けはじめる時刻になっていました。このあたりは、首里のような艦砲射撃もなく、わりと平隠だったので、その日は、学校に休んで腹ごしらえしてから落ち着いたら、南風原で行方不明になったおじさん、おばさんが気になったので、また東風平に引き返えして捜してみようと思い立ち、具志頭小学校の近くにある橋にさしかかった。時、私達を捜しているおじさんにばったり出会いました。
おじさんの話では、東風平村の世那城部落には、食糧も豊富にあり安全な環も沢山あるのでそこへ行こうということになり、早速その足で世那城部落へ向かいました。
そこの部落では、家族が避難して空家になっている家を捜して、そこで四、五日ぐらい生活しました。野菜類も豊富にあり食想には困らなかったが、艦砲や空襲が激しくなってきたので、そのままここにいたら殺されると思い、壕を求めてすぐ近くの八重瀬岳に避難しました。しかしそこの安全そうな壕は全て友軍が入っており、私達民間人はとても入れませんでした。
土砂降りの中の壕捜し
一避難民は、粗末な小屋を作ったり、岩と岩の間にただ木の枝をかけたり、あるいは岩陰に身をかくすことなどによってアメリカ軍の激しい攻撃に耐えていました。しかしそれはほんの気休め程度のものであり、至近弾にあっても命を落としてしまうのは必至の状態でした。
避難民が次々やられていくのをみて、もうこれ以上はここにはおれないからといって、おじさんが安全な壕を捜しに行くといって私達を残して出ていきました。その頃は始終雨が降っており、その時もおじさんは土砂降りの雨の中を出ていったのですが、数時間後には、安全そうな立派な壕が見つかったよ、といってずぶ濡れになって戻ってきました。私達はほっとして、なんとか無事そこへ辿りつけないもんかと神に祈る気持で雨の中を出ていきました。
絶好の避難場所
その場所は、具志頭村と玉城村との境にある港川の中流に近い前川というところでした。
そこは、本当に良い自然壕でした。その自然の洞くつは、中が非常に広く、天井には大きなつらら状の鐘乳石がいくつも垂れ下がっている鐘乳洞でした。そして洞くつの中には水脈もありました。ですからそこでは炊事が不自由なくできるので大変便利でした。また艦砲の弾もこの壕に入っている限りは大丈夫でした。
港川の川を遡って行くとその洞くつに至るのです、更にその上流の方で、当時部落の人たちは飲料水、洗濯用水など生活用水として使用していたようです。
大勢の避難民は、附近の畑からイモや野菜類などをとって生活していたので、部落の区長さんが私達の住んでいる自然壕へやってきて「あなたがた沢山の人たちが、ここで炊事などしていたらアメリカ軍に見つかって爆撃されるから、知念村の方にでも出て行ってくれ」と嫌味などを云われたこともありました。しかしここは絶好の避難場所だったので出て行く人はひとりもいませんでした。
こうして三、四週間ぐらいここで過しました。その間、前川には大きな自然壕があるということをきいて、南風原で行方不明になっていたおばさんが親類の人と一緒にやってきてこの壕の中で再会しました。これで西原を出発して以来みんな無事にここまで生き延びれたのです。
恐怖の自然壕
ところが、降りつづいていた雨が、五月の下旬頃には豪雨となりました。私はこの洞くつの奥十メートル位のところにいましたが、午前十時頃、突然水が出てきました。奥の二十メートル位は大きな洞あなになっていて、その奥は川になっていて天井も低いのでそこから更に奥には入ったことはありませんでした。私たちのいる洞あなの入口の両わきは木がおい茂っており、普段は地下から港川に水は流れ出ているが増水した時は私達避難民がいるところが大きな川になって港川につながっていくという危険地帯にいたのです。そこへその日の朝早く「あかつき」部隊の小隊が、軍馬を数道連れてこの洞くつの中に入ってきておりました。馬のたずなは入口の方にまで伸びてきている木の枝に結んでありました。
水が出てきたから私達は、荷物を洞くつの中の小高い岩の上の方に移動させておりました。この洞くつの中には、大小いくつかの岩がありましたので、友軍の兵隊も年寄りや幼ない子供をおんぶした母親など大勢の人たちがそれぞれ自分がいた近くの岩にあがって水を避けていました。
そうこうする内に約三〇分ぐらい経過した時、ゴオーと音をたててあっという間に物すごい急流になってぐんぐん水かさが増してきました。もうそれぞれ自分の登っている岩からは身動きが取れないぐらいうず巻く渦流となって激しい勢いで流れていました。
たちまち小さな岩にしがみついていた人達を呑み込んでしまい、あっという間に流されていきました。気がついたら私の岩は急流の真中に孤立したかたちになっていました。おじさんは二メートルぐらい離れた安全な場所に立っていました。孫をおんぶしているおばさんは更に離れた孤立している岩にしがみついていました。次男の嫁さんは私と一緒の岩に立っていました。私達の立っている小高い岩も次第に呑み込まれそうになってきました。もう水は岩の一番上の方まで達していました。
そこへおじさんが一本の角材を捜してきてくれました。運良く、私達の立っている岩まで届く長さだったので、それを渡たして、まず私から渡たり始めました。水はもうその材木すれすれまで増しておりました。私は、ふと学校で体育の時間に平均台の上を歩く練習をしたことを思い出して、急流の上を両手でバランスを取りながら、やっとの思いでおじさんの立っている所まで近づくことができました。おじさんの手が届くところまで達した時その手をとって無事安全なところへ辿りつくことができました。
その間も、奥の方にいた兵隊、子供、年寄りなど次から次へ足もとの濁流の中を流されていきました。入口近くにいた馬までも押し流されていきました。岩に必死にしがみついている人が、水の勢いで流されていくのは、まるで水にはぎとられていくような感じでした。
私は、無事危険を切り抜けて、次はおじさんの次男嫁さんが渡り始めました。私が渡たった時よりも更に危険が増していました。もう命網であるこの角材は、急流に押し流されそうになっていました。それでもなんとか、おじさんの手の届くところまでは達することができました。無事渡たれるようにと必死の思いで見ていた私はホッとしました。そのとたん、手をとりあったふたりが、あっという間に私の目の前の急流へ落ちてしまい、たちまちの内にうず巻く潮流に呑み込まれてしまいました。瞬間の出来ごとでした。無理に手を伸ばして足をすべらしたのでしょう。
その後は、呆然と時を過ごしほとんど何も覚えておりませんが、四時間ぐらい経ったらさしもの激流もやっと秘やかになり始め、どんどん水がひき始めました。
水が引くに従って、岩にしがみついている人が、次第に姿を見せ始めました。その婦人は、私のおばさんの親類の人でした。そこは流れが急ではなかったのか、ほとんど意識を失いかけながらもなお、岩にしがみついて流されずに済んだのです。しかも臨月の身でした。生き残った人が、水をはき出さして、無事命をとりとめました。気がついてみたら、孫をおんぶしていたおばさんの姿は見えませんでした。いつ流されたのかは気がつきませんでした。
こうして、この奥行二〇メートル位の洞くつの中で、この世とは思えない地獄絵図がくりひろげられ、多くの人命を失い、生き残ったのは本当にわずかになってしまいました。
生き残った避難民の中には、友軍の兵隊に救助されたのもいました。それは、次から次に人びとが激流に呑み込まれていた時、兵隊がロープを持ってきて、それを岩に立っている人に投げて、その口ープの端をつかまえることができた人は、自分の胴体にそのロープを巻きつけました。すると兵隊迷数人が、そのロープをたぐりよせ激流の中から救いあげました。こうして幾人かは命拾いしたのです。その晩は、残り水が、なおも小川のようにサラサラと流れるこの洞くつの中で、ロウソクをともして生き残った人々が、三々五々あちらこちらに身体を寄せ合って呆然と坐り込んでいました。
私は亡くなったおばさんの親類のかたと、身を寄せあって、ぼんやりと亡くなったおじさん、おばさんのことを考えていました。
おじさんは私を助けてはくれたが、私の目の前で死んでいってしまった。親類とはいっても遠縁にあたるかたなんだけど、本当に親身になっていろいろやさしく接してくれたおじさんが、もういなくなってしまったのだ。今まで砲弾の雨をかいくぐってこれたのはおじさんがいろいろ考えてくれたからなんだ。
西原村の幸地を出てから、あんなに激しい艦砲の弾に誰ひとり負傷することもなく、安全な自然壕を見つけて、ここまで無事生きてきたのに、思いもかけず水で命を奪われ、私ひとりっきりになってしまった。そう思うと、これまで全くおじさんに頼りきっていた私は、これから先この戦場をどうやって生きていったら良いかわからず激しい不安に襲われました。
そしてまた私には二度と現われないほど、非常に親切でやさしかったあのおじさんが、私を助けて下さったのに自分は流れに落ちてしまい死んでしまったかと思うと本当にくやしくて、くやしくて仕方ありませんでした。その晩、私は夜通し泣き明かしました。翌朝は、肉親を失いながら生き残った人々が、つい前日人馬を吞み込んでいったとは思えないほど静かな川原に沿って、遺体捜しに出かけました。私もこの曲がりくねった川原におじさん達の遺体を求めて、洞くつを出ていきました。しばらく歩くとその川は、たんぼの間を流れておりました。そのあたりにくるともうおびただしい死体が、川の中やたんぼに引っかかっていました。その死体のひとりひとりをのぞき込むようにしておじさん達を捜し回わったけれど、なかなか見つかりませんでした。遺体は、幼ない子供、若い女性、年寄り、兵隊らしき人らの殆んどが、岩などに当たってひきちぎられたのか、服ははぎとられ金裸に近い人がおおかたでした。
なおも捜し続けている内に、やっとおじさんの遺体を見つけすぐに埋葬しました。残りの遺体も発見してすぐに埋葬してあげました。おばさんと次男の娘さんは、港川の海岸近くまで捜し回わったがとうとう見つけることが出来ませんでした。おそらく海に押し流されたものと思い、あきらめて引返えしました。
この洞くつの方から川原沿いにしばらくいくと大きなくぼみがあり、その上の方に、岩穴に石を積んだ塚(多分風葬姦では?)があるというので、おばさんの親類のかたと一緒に、大雨の時は、大変危険なこの洞くつを後にしてそこへ避難しました。
そこへ移動してまもなく、このかたは出産してしまいました。子供は無事生まれましたが、なんにもないようなこんなところでお産をしなければならないなんて、戦争とはこうも恐ろしいものかとつくづくそう思いました。
それから三、四日経つと、もうこの地域に対するアメリカ軍の爆撃が猛烈に激しくなってきましたので、ここで最後になるかも知れないと思いました。するとこの壕に入っている人が、「同じ死ぬのなら首里で死んだ方がいいのではないでしょうか」と首行きを誘ったので、私もその気になってここを去ることにしました。
再び首里を目指す
おじさん達の遺体を捜し回わったところを通り抜けて、具志頭部落の方へ向かいましたが、その問には、まだ埋葬されていない水死体が、黒ずんで大きくふくれあがったみじめな姿をみせていました。またあの時に親を失ったのか、幼ない子供が泣きじゃくってオロオロしている哀れな姿も目にとまりました。
首里へ行くには、具志頭、糸満を経由して行くつもりでしたので、まず具志頭部落に出て更に歩いていると、友軍の兵隊達に出会いました。私は親のことは片時も忘れたことはなく、いつも気になっておりましたから、宮城島の消息を知りたくて話しかけてみました。その兵隊達は、「自分達は、勝連村の津堅島から、夜間クリ舟で、知念半島へ上陸してきたところだが、これから先、自分達はどうなるかもわからんよ」と話していました。私は「宮城島はどうなりましたか」と尋ねると「もうとっくにアメリカ軍が上陸しているよ」と答えたのを聞くと、私は、「親は死んでも、子供はこうしてまだ生きているのか」と悲険にくれて泣いてしまいました。
私は、首里へ向かう時、自然壕の近くでおじさんの姉夫婦とも偶然にお会いしたので、そのかたも一緒でした。
摩文仁の方に近づくともうあたりは兵隊や民間人の巫傷者や死体でゴロゴロしておりました。手足が吹き飛ばされているがまだ生きていてウンウンうなっている者や血まみれになってもうすでにこと切れている者などが、またも降りしきる雨の中をみじめに横たわっていました。その道を私は、雨にうたれながら、そのような人たちの上をまたいで歩かなければいけない時戦争とはこんなにむごたらしいものなのか、もう戦争とは二度とあってはいけないと思いながら黙々と歩き続けました。
その時は、もう六月の初め頃でした。この摩文仁一帯に避難民や友軍は次第に追いつめられているところへ、アメリカ軍が空からも*海からも無差別に猛爆求を加えてきたので、死者や負傷者が続出したのです。
私達は、やむことのない砲弾の雨をくぐりながらなんとか真壁村の新垣部落に辿りつきました。ここは避難民で一杯でしたので、休まずに更に歩いて糸満のすぐ手前の国吉部落に着きますと、前にも増して避難民でごったがえしておりました。
首里行きを断念ここで糸満のすぐ近くまでアメリカ軍が攻め込んできており、到底首里まで行くことはできないということがわかりました。もう日が暮れて雨も降っているのに、あまりにも沢山の避難民で一杯でしたから、また新垣部落に引返えしました。そしてひとつの民家に何十人もの避難民で一杯しているところへ私達も割り込んでいってそこで夜を明かすことにしました。ここでは、身動きがとれない程ぎっしり詰め込んで坐わりながら、ワイワイガヤガヤして、自分は中城のどこそこから来たとかお互いのこれまでの無事を喜び合うかのように見知らぬ者どうしで話合っておりました。
私達は、こんなに沢山の人達と一緒にいたらかえって危ないと思い、明日は安全な塚を拠しに行こうと話合ってから眠りました。翌朝早く起きるとすぐに塚捜しにでかけ真壁部落に入りました。
壊は友軍が入っているので結局またカヤ葺きの民家に、他の避難民と共に寝泊まりすることにしました。
ついに被弾
飛行機からの爆撃、友軍とアメリカ軍との撃ち合い、夜間の艦砲射撃などで一日中騒がしい中を私達はこの部落で二日目を過している時、ついに避難先の民家の庭先に直撃弾がヒュルルルーと飛んで来たかと思うとすごい音をたてて爆発しました。
私は片足に激痛が走り、ぶったおれました。飛び散った破片のひとつが足にくい込んだのです。たちまちおびただしい血が流れ出ました。意識をしっかりさせて私は自分の首にかけてある救急袋から包帯を取り出し、なるべく心臓に近い太ももを、力をふりしぼってぎゅっとしめつけ、止血に努めました。
まもなく意識を失ってしまったが、気がついたら親類のおばさん夫婦が、この屋敷にある馬小屋に私を戸板に乗せて運んでくれてありました。大量の出血をしたせいか、大変なのどの渇きを覚えました。
その時、多数の犠牲者が出ておりました。ある首里の人が破片に腹をえぐりとられて、腸が飛び出て即死したのを初め、頭や手足などに傷を負いながらも一命をとりとめるなど多数の人が多かれ少かれ負傷しました。親類のおばさん夫婦は幸い無事でした。
再び被弾
ところがその翌日、今度は直撃弾が私の寝ている馬小屋に落下しました。幸い馬小屋の壁は石垣作りになっていて、その外側に落ちたために即死は免がれましたが、しかしその積み上げてある石が私の寝ている近くへ吹き飛ばされ、同時に飛んできた破片のひとつが、昨日痛めた、足のひざ小個に入り、二重に負傷してしまいました。その上、避難中、ずっと使ってきた学生時代の毛布が、くずれ落ちた石の下敷きになって、引き裂かれてしまいました。
スパイ呼ばわり
その避難先には、山部隊の兵隊も民間人に混じって多数避難しておりました。その中には負傷兵もいましたが、彼等は私達に「おい、きさまら沖縄人はアメリカのスパイだ! お前達のために日本軍は敗けたのだ!」と喚いていました。私達に対するスパイ呼ばわりは、私にとって大変なショックでしたので今でもはっきり覚えています。
そして自分達は閉じ込もって沖縄の防衛隊員に「おい、イモを掘ってこい !」とかいろいろ命令しているのをみて非常に腹が立ちました。
私は片足に二度にわたって被弾してしまいもう立つことは勿論のこと這うことすらできませんでした。
私と一緒だった避難民は、ここにいては危険だから島尻のはてまで逃げることにして、私ともう一人識名からきたという知人に「あなたがたはここにいときなさい」と云い残として立ち去ってしまいました。その婦人は私同様負傷して歩くことはできませんでしたが、水飲み場までは通うことができました。
二人残された後も、続々と避難民が通り去って行きました。ときたま見知らぬ避難民の中には、私達二人を哀れんで、おにぎりをめぐんでくれる人がいました。そのおにぎりを二人で分けあって食べたりして、なんとか飢えをしのいでいました。
友軍の一団もまたやってきたかと思うと摩文仁の方へ去っていきました。その時兵隊が「沖縄はもう駄目だよ。私達は追われているから出ていくよ」といって食糧をちょっとくれました。
重傷の身で捕虜私が負傷して四、五日経った頃、もうこの周辺には、日本軍を追いつめたアメリカ軍が押し寄せてきていました。戦車がゴウゴウと地響きを立てて走り回わっている音が聞こえていました。
午前十時頃、アメリカ兵が私達に近寄ってきました。日本語をたどたどしく話せる一人のアメリカ兵が「ムスメタチ、アシガイタイノカ」と言ってパンやバターをくれました。
私はその時は、ほとんど飲まず食わずの状でしたが、初めてみるアメリカ人に驚いてただガタガタふるえていました。そしてワンピースも持ってきてくれました。あれこれおしゃべりしてそのまま立ち去ってしまいましたが、今度は夕方もう一度やってきました。その時は、タンカを持ってきて、私達をそれに乗せてトラックにあげ、喜屋武岬に近い山城部落に連れて行かれました。トラックで運ばれている間中どこかで殺されるものと思い恐ろしさでふるえていました。
その部落には多数の避難民が集められていました。部落の広場に、アメリカが小石を並べて境界線をこしらえ、そこに男女別々にふり分けられ、その晩はそこでみんな野宿しました。
そこでは、白いヒゲの白人兵が私に日本語で話しかけてきました。「本籍ドコ?」と聞くので「宮城島です」と答えると「宮城島ワタシ知ッテイル友達沢山イル、川前サン吉田サン知ッテイル」と話しておりました。その人の名は私も知っている人達でした。更に私の名前を聞くので偽名を使ったら、それを書いている様でした。
そこでは二晩程過ごしました。そこでは更にトラックに乗せられ糸満の近くの伊良波収容所に運ばれました。そこには沢山の避難民がおりました。ケガ人はケガ人だけのテントに収容されました。日本兵は、持物は全部取り上げられ褌一本で集められていました。
こうして移動させられている時でも、いつも家族や同級生の安否が気になっておりました。
この収容所には朝着いたのですが、ひと息入れる間もなく、すぐに中頭の嘉真良の収容所 (胡座地区) に運ばれました。そこでも病人専用テントに収容されましたが、私をタンカで運んだのは日本兵捕虜でした。その人が云うには「私は硫黄島で捕虜になって、こうして沖縄に連れて来られてこんなことをさせられているんだよ」とのことでした。
家族の消息
この収容所でも私は一週間位しかおりませんでした。しかしここで家族の消息が偶然にわかりました。ある日、見知らぬ男性が「勝連出身の人はおりませんか」と大声出してきいていたので、私が「私は与那城村の収入役上地の娘ですが、父の消息はわかりませんか」と尋ねました。
すると「あなたのお父さんは、今、平安座市で、市会議員をなさっているよ」ということで、父の無事を知り、天にも昇る気持でした。
しかし私は、間もなく宜野座村の惣慶収容所に更に移動させられました。
収容所で病床生活
そこでは、食事は一日に二度しか与えられず、晩は大豆だけなので、栄養失調になって毛も抜け落ち、やせ細ってひとりで便所にも行けない様な状態になっていました。
私の受けた傷は、いっこうに良くならず歩くこともできない状態だったのですが、一番面白くなかったことは、米軍の衛生兵にいじめられたことです。
その米兵は、学生らしき人には反感を持っていて、私に対して「ュー、ジャパニーズ、ジャパニーズ」といって、注射器で水をかけたり、たたいたりするので、泣かされました。しかし、学生ではない人には、本国からの本人への贈物を分けてあげたりしておりました。
故郷の宮城島が見えるこの収容所で、早く帰りたいと思っても傷は一か月経っても良くならないので、通訳の人を通して軍医さんに診てもらったら、直ぐに手術することになり、全身麻酔をかけられ、足に未だ残っていた破片を取り出してくれました。手術後、未だ意識が回復していない時、あのいじ悪な術生兵は私をベットからわざと落としていたとまわりの人が話しておりました。一般に階級が上の人は親切でした。私を手術してくれた軍医さんは、大変親切なかたでした。手術後の措置も充分診てもらえたので徐々に歩けるようになりました。だいぶ良くなったので川病院を退院して、一般の収容所に入りました。
平安座市長の新垣金造さんに偶然お会いしたので、私が健在であることを伝言して下さるように頼んだから、手紙を書く様にいわれて、それを父のところに届けて其いました。
収容所の生活は、負傷している上に身寄りのいない私には大変苦しいものでした。一握りの米と勝利用のみその配給しかありませんでしたし、水汲みや薪取りも各人でしなければなりませんでした。まだびっこを引いて漸く歩ける状態の私にはとてもできませんでしたが、首里の下宿先の知人に偶然迷え、その人が私を見かねて助けて下さいました。薪も水もその人から分けてもいました。野菜などが不足して、それぞれ夜こっそりと野良に盗みに行っておりました。そうこうする内に一か月経つと、びっこを引きながらも遠出ができるようになりましたので、みんなと一緒に海岸に浴びに行ったり、福山に薪取りに行ったりすることができるようになりました。
もうその頃は、ホンダワラ、ヨモギ、シロバラセンダン草など今では雑草として道端にはえているようなものまで、食べれるものだったら何んでも取って食べておりました。
住民移動
ある日勝連村南風原の方に引取人のいる人は、そこへ移動することができることになりました。私は、早く両親のもとに帰りたくて泣いて暮らしていたけど、南風原には身寄りはないので途方にくれていました。すると宮城出身で収容所で巡査をしている人が運転手に「この娘も南風原まで連れていってくれ」と頼んで下さったので、みんなと一緒に南風原まで行くのはできました。そこでは引取人達が大勢つめかけておりましたが、私には引取人がいる訳はなく、その場合はまた元のところへ戻されると聞いていたので、ひとり泣いていると、まわりの人達が心配してあれこれ尋ね、私が上地の娘だとわかると「お父さんと連絡がとれるまで私のところへいらっしゃい」と何人もの人が声をかけて下さったので、無事移動できました。
そして父との連絡は平安座―屋慶名を往き来している海上トラックに乗っている通訳に頼んだから、うまく連絡がとれて、南風原滞在一週間位で父に会えました。
平安座の「イナガーバンタ」の浜でいつも私のことを思いだしていたという母とも再会でき、まもなく桃原部落に引揚げました。
故郷での生活は、家は焼け落ちていたので掘立小屋のワラ敷生活から始まりました。
戦争で受けた傷の後遺症は、二十八年経った今でもちょっと無理して疲れても左足が完全には伸ばせない程ですし、首里で下宿していた同郷の友人が一緒に弁が岳の通信部隊の近くで艦砲射撃にあって、はぐれてしまい、その後消息がつかめないので亡くなったものとして家族は法事もしているようですが、私はその友人のことがいつも気になっており、ついきのうも彼女に出迷った夢をみました。「生きていたのならなんでもっと早く連絡取ってくれなかったの」と私が話しかけておりました。
浜の渡し番
浜比嘉島柴引英二(三五歳)
十・十空襲前後私は、戦争の始まるずっと以前から、サバニ(クリ舟)で浜|屋慶名間の渡し番(渡し船の船頭)をしておりました。ですから防衛隊にもとられずにすみました。しかし戦争が緊迫してくると読谷飛行場作りの作業にかりだされましたが当時は子供と年寄りばかりしか残こっていなかったので、私以外に浜部落には、渡し番できる者がいなかった。それで住民や村当局が非常に困ってしまって、結局一週間程の彼用で、呼び戻され、相変わらず渡し番を勤めていました。
浜比嘉島には、十・十空腹以前大阪出身の友軍が十名位、守備隊として山の方におりましたが、住民から食紙の供出を強要することはありませんでした。
塚は、山の手の方に各自で掘ってありましたし、立派な自然壕が沢山ありましたので、嫁には心配なかったです。背年会、婦人会を中心にして竹ヤリ訓練もみんな受けましたが、それは部落の人が、役場で講習を受けてきて、その人が先生となって、柱を立てて訓練をしておりました。
十・十空襲前後あたりから、友軍はいつのまにか姿を消しておりました。十・十空襲では、浜比嘉島も相当やられました。死傷者はひとりもいませんでしたが、家屋は、部落全体の半分程焼かれました。十・十空襲以後、何回も空襲がありましたが、我々は、いつも山中の壕に隠れて、平安座島を爆撃するのをみていました。津堅島上空を飛んできた飛行機が、我々の頭上をかすめるような低空で飛んで、平安座島にある一〇〇隻近い山原船めがけて、爆撃を加えてその殆んどを炎上させたうえに、今度は民家にも爆撃をして、だいぶ燃やしてしまうのを目撃しました。
サバニで疎開アメリカ軍が上陸する以前に、浜比嘉島にも疎開命令が来ました。約半数近くの住民が国頭方面に疎開しましたが、それは屋慶名から荷馬車で行く者もあったが、その殆んどは海上をサバニ(クリ舟)で漢那方面に渡ってそこからは歩いてそれぞれの目的地へ行くという方法が、とられました。そして途中、空襲にあい、衣料品を全部焼かれてしまい、はだか同然でまた浜比嘉島に舞い戻ってくる人もだいぶいました。
疎開にも行かないで島に残った者は、どうせアメリカ軍が上陸して、どっちみち生きてはおれないから、どこへ行っても同じだ、どうせ死ぬのなら生まれ育ったところで死んだ方がましだということで残った者がおおかたでした。私の場合は、渡し番をしているために召集も受けなかった位だから住民がいる間は、島を離れることができませんでした。結局、島に残った者は、疎開した者に較べると苦労は少なかったようです。
米軍の浜比嘉上陸アメリカ軍の浜比嘉島上陸の快様は、我々島の者は、みな山中の嫁や、木の繁みの中からみていました。まずアメリカ軍は、屋慶名から、引き潮を利用して、数十台の戦車をつらねて、平安座島を占領しました。それをみた我々は、次は我々が占領されて殺されてしまうのかと観念しました。数十台の戦車がごうごう音を立てて突き進んで行くのをみると本当に恐ろしくなりました。
ところが予期していたとおり、平安座島を占領したアメリカ軍は、次には、平安座島から浜比姫島へ向かってきたのです。多分、水陸両用戦車だったらしく、約十台近い戦車が海を渡ってきて、浜の海岸へやってきました。
アメリカ軍は通訳を連れてきて、危害は加えないから全員山や爆から出てくるように命令しました。又島の人たちは海外移民帰りが多くて、英語を話せる年寄りもかなりいたので、その人たちを通して投降を呼びかけていました。元気な者は、アメリカ軍が戦車でくるのをみると、山の奥深くに逃げこんで二、三日隠れていましたが、アメリカ軍は島に常駐することもなく、平安座に帰ってしまい、また住民に危害を加えることもないことがわかり、みんな山や壕から降りてきました。それ以後アメリカ軍は、島にはあがってきませんでした。
浜比嘉島は、他に比べると楽だったとはいえ、空襲のたびに、藍の中や、壊に閉じこもって生活するのは大変でした。私には子供は三人いました。上の子が七歳で、下の子が三歳でした。特に下の子は、その頃イリガサー(はしか)に思り、熱発しているのに、じめじめした壕の中に身をひそめて爆撃をまぬがれるのは大変でした。しかし食糧は貯えてあったので、そんなにひもじい思いはしませんでした。
米軍による小舟の爆破
空襲が激しくなってから、島から脱出しようとした人の中には、アメリカの軍艦にそのサバニ(くり舟)を見つけられて、その人たちは軍艦に引き上げられ、舟は爆破されて、屋嘉の収容所へ捕虜にとられる人もかなりいました。アメリカ軍は、舟は、見つけ次第爆破しよったです。私の舟は、家の近くのくわの木の繁みの中に隠してあったので、終戦後も大丈夫使えました。
安全な浜比嘉
伊計、宮城島の人たちは、平安座島に収容されましたが、浜比嘉島の場合は、アメリカ軍が上陸後も、一か所に収容されることもなく、前に役場で仕事をしていた人、村長をやったこともある山根さんという人らが指導者となって、全員学校に集まり、そこで班分けをして、各班毎に農耕を続けました。その時は、誰それの畑ということはなく、全員平等でした。アメリカ軍任命の赤帽子(沖縄人警官)が、島から選ばれて、彼らを通じて、平敷屋、平安座からアメリカ軍配給の食概品も沢山もらいました。
浜比嘉島は安全らしいということで、津堅島、宮城島からも沢山の避難民がやってきておりました。その人たちにも食糧はわけてあげ、一緒に生活しました。ですから浜比嘉は、沢山の人でした。
また、島尻まで追われた防術隊の人たちの中には、泳ぎの自信のある人は、夜中にマブニを脱出して、木切れにつかまって、久高島に渡たり、そこから津堅島へ、津堅から浜比嘉島へたどりついた者が八人程いました。その人たちにも食糧をあげて、一緒に生活しました。
食糧品の配給アメリカ軍からの食粧品の配給をもらいに行くのは我々の仕事でした。
爆破をまぬがれたサバニが、私の用も含めて十変位残っておりましたので、それぞれに元気なものが、三、四名ずつ乗って、そのうえにアメリカ軍との連絡係みたいな「赤帽子」が一人乗って、初めて、平敷屋に配給をもらいに行こうとした時、一行が、藪地島附近まで来た時、突如、平敷屋あたりから「ダダダッー」と機銃掃射を受けてしまい、その弾丸が迅速く、「赤帽子」 (CP) に一発あたり負傷しました。みんなは、あわくってあわてて海に飛び込み、なおもしつように弾が飛んでくる中を舟影に身を隠しながら、左手は舟べりをつかみ、右手で泳ぎながら藪地島の方へ逃げ込みました。そして夜になって、なお、そのように泳ぎながら、屋慶名港まで舟を持っていきました。
これは、きっと平敷屋にいるアメリカ軍と連絡が不十分だったために、ヤミ舟と感違いしたために射螺されたのだろうと思いまして、それにしても、あやうく一命を落とすところでした。それで平安座へ行って、事情を説明して、「二世」に同行してもらいました。それ以後配給もらいに行ってそのような目にあうことはありませんでした。
自由往来を阻む米軍
アメリカ軍上陸後のある日、宮城島出身の人が、どうしても島に帰りたいから、是非舟を出してくれと、非常に頼み込まれて、ことわることができなくなり、その人の家族や家財道具一切をサバニにつめ込んで、宮城島の桃原に着いたところ、アメリカ軍が待ちかまえていて、捕えられてしまいました。
そして舟は引き上げられて、通訳を通じてきびしい尋問を受けました。「誰の命令があって、どうしてやってきたのか」などと。翌日になっても帰えしてもらえず、大変なことになってしまったと思っていたところ、やっと帰えってもよいということになった。
ところが、桃原を出てまもなく、平安座島との中間あたりまできた時、突然、アメリカ兵が、私めがけて、「パラパラパラ」と拳銃で撃ってきました。あまりのことに「タマシヌギティ」(びっくり仰天して)性も落としてしまい、ほうほうのていで島へたどりつきました。私を本当に殺す気はなかったと思いますが、それ以後は、誰がどんなに頼み込んでも、もう二度と、勝手に舟を出すまいと決めました。本当に命が縮まる思いをしました。
敗残兵の捜索
日本兵捜しのアメリカ兵が、たまに通訳を連れて、島に来ることもありました。そして作業をしている者の中から、ちょっとでも色白の男は、日本兵に違いないといって、引きたてて行こうとしました。実際にそれは沖縄青年でしたから、島出身の通訳が、それは日本兵ではないと、中し立てて収容所に逃れて行かれずにすみましたが、島で、十四、五名位の人がそのような目にあいました。
我々は、イモ、野菜はもちろんのこと、魚でも、少しでも複れたら、みんなで食べるようにしました。お互い助け合ったものです。
私は、一度、津堅島が気になって、ひとりで行ってみようとしたが、そこは日本軍の強固な陣地ができていたので、爆撃も激しく、とても近づけませんでした。海岸近くに多くの盟嫁をこしらえてあり、島の防衛隊もかなり抵抗したとのことで、アメリカ軍は上陸の際、一個小隊程が全滅したそうです。島の住民は、日本軍がいるから危険だということで、だいぶ疎開して、その大部分が浜比嘉島に避難してきたのです。
伊計島守備隊
伊計島平識善光(二九歳)
民間人に変装
戦時中、伊計島は約一五〇戸、人口千名位の島でした。そして、宮城島をすぐ目の前にした伊計城跡に日本軍の守備隊が陣地を作ってありました。その守備隊は石部隊で、召集兵の私は、この部隊に配属されておりました。
この部隊は通信部隊であり、首里、勝連村の平敷屋、伊計、石川などにある部隊を通信で結ぶのが主な仕事でいわば中継基地でした。
十・十空襲前頃には六、七〇名位いた部隊は、我々伊計島出身兵十五、六名位を残こしてみんな引き揚げてしまいました。
そして伊計島出身兵だけで伊計島守備隊を編成して島にとどまるよう命令が下されたのです。そこでの仕事も以前のとおり軍事通信の連絡を中継するのが主でした。
十・十空襲の時は、我々の兵舎も民家もだいぶ焼夷弾で焼き払われてしまいました。そのうえ、住民がひとり、機銃でうたれてしまい、その傷がもとで破傷風にかかり、十日後には死んでしまいました。
その後、たびたび伊計島も空襲に見舞われ、民家が焼失し、さらに戦況が悪化しアメリカ軍が、沖縄に上陸するかも知れないということで、上の方から疎開命令が出されました。
十・十空襲前まではこの島でも軍事徴用がひんぱんに行なわれ、多くの住民が、読谷飛行場づくりにかりだされましたが、情勢が緊迫してからは、ほとんど徴用でかりだされるということはなくなりました。
また農産物の供出も、空襲が始まってからは、避難壕住まいが多くなり、収穫は少なくなっていきましたから、それどころではなかったようです。島の住民は、当時、牛、馬、豚、山羊、ニワトリなどをどの世帯でも数多く飼っておりましたが、疎明命令が出されてからは、それらを放ったままほとんどの人が、クリ舟や村が準備したマーラン船(山原船)で、国頭の方へ避難してしまいました。島に残った住民はほんのわずかばかりの人たちでした。それは老人世帯とか、病気がちの人たちばかりで避難生活に耐えられないような人たちがほとんどでした。
おかげで我々は、島に食糧がだいぶ残こされたわけですから、なんの不自由もありませんでした。ほとんど毎日、卵や肉類にもありつけました。
そうこうするうちにアメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始され、沖縄は北と南に二分されてしまいましたが、この島にいても、我々には通信連絡で情況は殆んどわかりました。
そしてまもなく、「北中城村の仲順、宮舎場で敵軍の進撃をくいとめるよう」命令が下されました。その時私がこの命令を受信しました。それで我々十五、六名の小隊は、クリ舟で、本島屋慶名へ渡たり、そして命令どおり戦闘に参加するために、それぞれ武装して、壊を出て、いざ池を渡たろうとしたら、肝心なクリ舟が、アメリカ軍の爆撃できれいに片づけられてしまっていたのです。
我々は、上の命令に背くわけにはいかないので、ともかく対岸の宮城島まではなんとか渡ろうということになり、破壊されたクリ舟を修繕してなんとか宮城島へ弾薬や兵器も運び込むことができました。宮城島沖合いには、アメリカ軍艦が停泊しており、昼は偵察機がよく飛んでいるので、全て夜間行動でした。宮城島では、人目の少ない海岸の岩陰に身をひそめ、海岸の自然壕に武器弾薬をかくしておきました。すぐ近くまで宮城島住民が、避難壕を作ってあり、よく出入りしておりましたので我々の存在もわかっていたものと思います。
ところで、宮城島で得た情報によると、アメリカ軍は、もう屋慶名まで迫ってきているとのことで、我々は海岸の壕の中で作戦を練ったが、この小人数の部隊でしかも船らしい船もないので、どうにも身動きがとれず、本島で戦闘に参加することは「やめとこう」ということにしました。
米軍の伊計・宮城島上陸
それから数日経つとアメリカ軍は、我々がひそんでいる宮城島へ上陸してきました。「トゥンナハ」とよんでいる浜で、伊計島寄りのところです。ほとんど同時に、伊計島の西海岸の方にもアメリカ軍は上陸した様子でした。
伊計島出身の小隊長は、宮城島へ上陸したアメリカ軍に夜間斬込みに行こうと提案したが、それには私が強硬に反対しました。アメリカ軍には大量の武器弾薬があるし、しかも戦車数十台で島へ乗り込んできているからとても我々には勝目はない。なによりも、アメリカ軍は今のところ住民には、何んにもやっていないが、我々が刺激することによって、住民を巻添えにして殺してしまうにちがいないと思ったからです。
夜間斬込みの取止め私の意見にみんな賛同して、結局斬込みは取止めることになり、夜間にまた折をみて伊計島へ引き揚げ、武器弾薬を二か所に分散して隠しておいた。一か所は、それらを水ガメの中に入れ、宮城島対岸の民家の床下に深さ五尺ぐらいの穴を掘ってそれを埋めた。もう一か所は、伊計城跡の自然環の中にかくし、我々は、武装解除して、民間人に変装して疎開せずに残っていた住民に混じって、なにくわぬ顔で生活しておりました。
民間人としての生活
伊計島上陸後のアメリカ軍は、島に残っている住民を、次々と避難壕から出していき住民を殺すことはしないといってタバコなどをやっていたそうです。我々が島へ帰って生活するようになってからもアメリカ軍は、住民にはなんにも害を及ぼすこともなく、通信基地としての陣地を作っているようでした。そして民間地域の道端に、タバコや小さなツルハシなどを置いといて、翌日それが失くなっているか確かめにきたりなどして、いろいろ住民の動静をさぐっている様子でした。
これらアメリカ軍は、住民の宣撫工作をつとめたので、アメリカ兵は住民に危害を加えないといううわさが、国頭に避難している住民の間でも次第にひろまり、国頭の東海岸近くに避難していた伊計島の避難民は、南部では戦闘の兵最中だがクリ舟を利用してだいぶ引き揚げてきました。
島ではこれら住民とアメリカ軍との間にはなんの事件も起こらずに、生活を続けておりました。
日本軍の米軍陣地斬込み
ところが、友軍が次第に南部へ追いつめられるにつれて、砲弾が不足してきたのか、与論島を足場に小舟で砲弾を運ぶことがありました。ところが地理に不案内なため方角を間違えて、伊計島のアメリカ軍陣地のところへ上陸してそこをねらいうちされるということが増えてきました。
そしてまた、北部国頭地方にいる友軍が、小舟で夜間に、伊計島のアメリカ軍陣地に斬込みをかけてくることもしばしば起こりました。
さらに、摩文仁の方から与論島を経由して本土へ脱出を計ろうとする日本兵がクリ舟で流れつくこともありました。
このようにしてこの伊計島へ上陸しようとした日本兵を、民間人に変装している我々がかくまって、彼等を目的地へ送り出したこともありました。
多くの場合、アメリカ軍陣地の真正面に上陸しようとしてうち殺されてしまいました。そして私は、アメリカ軍にかりだされて、これら日本兵の死体を海から引き揚げる仕事をさせられました。
しかしアメリカ軍は、伊計島上陸を強行しようとした日本兵の数を確認しており、死体がその数だけ揚がらない場合は、島に上陸したものと判断して、島内を捜索したりするようになった。その中には実際に我々がかくまっていたり、さらにクリ舟で送り出したりした者がいたわけだから、アメリカ軍が確認した数とかれらが射殺した数は一致するはずはなかった。そのことでアメリカ軍に疑惑を抱かせた。
平安座島へ退去命令
アメリカ軍が伊計島上陸後数週間経ったある日突然、住民全員に対して平安座島へ退去命令が下された。つまりここで初めて我々は捕虜にとられたかたちになった。平安座島は平安座、伊計、宮城島住民のほかに、本島の避難民も加えて民間人捕所収容所となったのである。
我々の本当に苦しい生活がその日から始まった。たいして農作物のない島に沢山の住民が住むようになったわけですから、みんなひどい目にあいました。
当然我々も民間人に変装しているわけですから全員平安座島に収容されました。しかしあまりにも食料難になったものですから、伊計、宮城島正民の場合は、特別に頼み込んで人数を制限して、島へ食糧を取りに帰えることが許されました。それは厳正な警戒のもとでなされるということはありませんでしたので、ある程度自由な行動がとれまし
た。
収容所の中に武器搬入
我々は、軍人としての任務を完全に放築した気持ちにはなれなかったので、軍服、軍人手帳、兵器、弾丸をなんとか平安座島へ持ち込もうと計画した。
私の弟も同じく守備隊員でしたので、弟と二人で食種とりに島へ帰えされた時に、民家へ隠してあった兵器類を掘り出して、大きな水ガメに軍服や兵器類一式詰め込んで完全に密封して、そのなかにはみそが入っているようにみせかけて、伊計島からそれを持ち出すことに成功しました。そして帰えりは平安座島の人里離れた海岸近くに大きな穴を掘ってそれを埋めて、なにくわぬ顔してみんなのところには帰えりました。
しかしそれからというものは、何時自分が軍人であり、又隠してある兵器類が発見されはせんかと毎日毎日が不安でなりませんでした。私の場合は、食糧難で苦しい目にあうよりも、そのことの方が非常に苦しかった。
アメリカ軍は、住民を追い出した後は、あんなに沢山あった家畜類をほとんど野に放してしまいました。彼等自身で料理して食べてしまったのもだいぶいたはずです。
米軍の家屋放火
それから日本兵を捜索するつもりか全くの気まぐれからかはっきりはわかりませんが、かわら葺きの立派な家には、ほとんど火をつけて燃やしてしまいました。我々が、日本兵をかくまっていたのはほぼ確実にわかっていたはずですから、恐らくは、それに対する報復の意味で、いやがらせにやったのかも知れません。
伊計島の住民も平安座島に収容されてからほぼ六か月ぐらい経ってから島へ帰えることが許されました。
私は島へ帰える二、三日前、弟と一緒に兵器類を埋めてある場所へこっそり行って、掘り起こしてみました。するともうすでに大部分は、潮の影響でかボロボロになっておりました。
私は島へ引き揚げてからは、今日までずっと漁業で生計を立ててきました。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■