- 五、皇国大日本青少年隊
- 六、学窓から野戦病院へ
- 一、島民追い出して牛の強奪
- 二、新築の夢無惨にも破られる
- 三、無謀な疎開命令
- 四、警察署長の証明書をもってこい
- 五、報酬の籾まで取りあげる
- 六、献木といって強奪
- 七、島民いじめの軍隊
- 八、馬車の徴用
- 九、命令命令でこきつかう日本軍
- 十、切り倒される福木
- 十一、三〇年間育てた「キャーギ」(いぬまき) 強奪される
- 十二、学校をこわして「水肥桶」を作り販売
- 十三、豚を殺して「縄ない」の罰を受ける
- 十四、まじめに勤めて
五、皇国大日本青少年隊
竹富島 - 軍事訓練が義務教育 - 自爆攻撃訓練
竹富国民学校高等科第一学年の八月十五日太平洋戦争は終った。戦争のために義務教育の後半は、まともに授業を受けずに終戦を迎えてしまった。戦後もしばらく、マラリアと飢餓のために、社会不安は続き、学校どころではなかった。八重川の離島竹富島で、どのような状況の中で戦争に協力をさせられたかまたどのようにして犠牲を強いられたか、などについて三十年前の青少年時代の生活を綴ることにした。
日本軍が南方各地で敗退を続け、まさに郷土決戦は避けられない戦況となった頃、竹富島にも、小銃兵の一個中隊と、機関銃兵の一個小隊からなる混成隊が駐屯することになった。学校は兵舎として取り上げられ、そのためか爆撃を受けた。その後各小隊は、瀬戸、金城山その他数か所の民家に分散することになった。島の中央部(マイノオン、サージオン、トー・ルングツク、ンブフル)と南側海岸線(カイジ、シュツサ、カンナージ)は陣地構築が続けられていた。日中は間断なく、米軍の艦載機グラマンやB二十四などが襲来し、石垣島の飛行場を中心として各離島に爆撃を加え続けていた。夜になると米軍の潜水艦から艦砲射撃を受けることもしばしばであった。明日にでも軍が上陸するかもしれない不安な情勢であった。
一億総動員令によって、高等科の生徒は、自宅から通いながら指揮班班長、西、大西軍曹)に配属された。食糧増産(カンナージ、カイジ、コンドイのカニフ等民家から提供された畑)や陣地構築のための作業に従事したり、軍事教練や夜間演習に駆り出された。宮崎旅団長の閲兵分列をはじめ、霊や散兵壕掘り、学校の側のお宮ンブールなどは、地下に四方から貫通路をつくる計画で、土、石運搬などさかんにさせられた。また、校庭や前のお獄での銃剣術、シュツサ島の南海岸)での夜間歩哨、手榴弾の投げ方、国仲お獄での火炎の詰め方、防空監視、キダールの道での実弾射演習、落下傘兵への斬り込み演習、急造爆雷(約二・五センチ厚さ三〇センチ平方の板で作った)を背負って戦車の下敷きになる訓など、米軍の上陸に備えて、日夜猛訓練が続けられた。その中で最も身に応え、心に深く残り、今となって悲に堪えないことは、銃剣術と爆雷もろとも自滅する訓練であった。旧式の三八式銃に着剣のまま、前進したり、「突撃」の訓練であった。国民学校の生徒にとっては、あまりにも重すぎる銃であった。
「突け!」の号令が何十回となく繰り返された。腕が上がらなくなり、銃剣が肩より下った。全身の力を振り搾って、銃を前へ、そして上へ、上げようと懸命だが、どうしても駄目だ。とうとうしまいには目の前が真暗になった。「馬鹿野郎!」と教官の落雷のような怒声が響いた。「鬼畜米英」よりも、わが教官の顔が鬼に見えた。かくして、大日本青少年隊員は、「歴史」や「地理」も、そして絵具や毛筆の使い方すらも知らないまま義務教育を終えることとなった。敵軍の戦車の下敷きになり、共に自爆する訓練をさせられた。重い爆雷を背負い、蛸壺の中から一気に飛び出し、戦車の前で腹這に伏せる。伏せると同時に、背負っている爆雷が、投げ出される状態になり、後頭部を強打する。膝を地面に摺って血が滲み出る。教官は敏捷性を要求する。繰り返している間に、後頭部には瘤ができてしまった。ああ、何と情けないことであったか。「一髮軽からず身命軽し、万山重からず君圏重し」を実践躬行せよとのことであった。純真無垢の紅顔の少年達は、戦闘用消耗品に過ぎなかった。皇国の勝利を信じつつ、あたら青春を捧げる覚悟に徹していたのであった。かくして、わたしたち昭和の一桁生れは、「国語」や「算数」など十分教育されないまま、また「そろばん」もできないままに義務教育を卒業することになってしまった。
六、学窓から野戦病院へ
八重山高女学徒隊 - 軍の指揮下にあるも同然
一九四五年(昭和二十年)四月、私たちは高等女学校の四年生に進級した。日本が米国に宣戦布告した翌一九四二年(昭和十七年)に入学したこの一期生は、後、戦争の進展とともに学業を中途で放棄せざるをえなくなった。三年の半ばごろからはほとんど授業は行なわれず、毎日平得飛行場の作業に駆り出された。一九四五年、八重山もひんぱんに爆撃を受けるようになると、傷病兵も増え、野戦病院、海軍病院、陸軍病院は女学校、農学校の女生徒を看護婦として強制した。女学校の家事課には「看護」という教科があって簡単な衛生、救急の知識を与えることになっていた。その教科に五月頃から軍医、衛生兵等が来て、女学校の教師に代わって指導を始めた。どのような指示あるいは命令があってこのようになったかは知らないが、結局私たちを学窓から全員いっせいに看護婦として追いやる力をかれらは持っていた。看護婦として配属さたのは六月十日であったと思う。全員署名と拇印を強要された。四年生六十名程の中、三十名ほどは野戦病院、あとの三十名ほどが半数ずつ陸軍病院と海軍病院に分けられた。私は野戦病院に配属された。
野戦病院は「開南」にあったが、私たちはそこへ移る前に民家を借りて更に指導を受けた。学校の教師はついていたが、もう完全に軍の指揮下にあるも同然だった。部落が空爆を受けるようになると今度は石垣小学校裏の墓地へ移った。空襲があると墓の中に隠れ、夜の寝泊りも墓の中であったが、そこでも講義は続けられた。このような指導を受けて六月の下旬に野戦病院へ移って行った。病院ではさらに病理関係二人、外科関係と内科関係にそれぞれ二、三名ずつに分けられた。任務は病理関係が血液検査、結核検査、伝染病検査で、外科関係が交替で手術と看護、内科関係が主としてマラリアの治療であった。これらを含めるいわば一般病棟とも呼ぶべき棟の外に、伝染病棟と軍症病棟があった。伝染病棟はチフス、アメーバー、赤痢等のたちの悪い伝染病患者が隔離されており、重症病棟はほとんど死を待つ傷病兵が軍の命令で入れられていた。任務の分損があってもそれが専らに行なわれているわけではなく昼はそれぞれの分担に就き、夜は全員が交替で内科、外科の当番に当った。つまり夜は、内科にあてられている者が外科に当ることもあり、その逆もあったというわけである。特に重症病棟は全員が二人ずつ昼夜交替で看護に当った。女学校の生徒といっても当時まだ十四、五歳の少女である。私たちは野戦病院という異常な環境の中へ追い込められて大人でもぞっとするようなことを体験させられた。患者はマラリアの発病者が多かったが、空襲や戦闘のあった時には直視できないような傷ついた者が運び込まれた。目がつぶれて顔じゅう血だらけの、あごがくだかれて、それでも「アンマー、水、水と弱々しく訴えている者、腹を射られて息をしているのか、していないのかわからないような、まるで地獄であった。あわただしく動く軍医や衛生兵の中で、私たちもまたふるえて立ちすくんでいることは許されなかった。どなられながらその次の処置を手伝わなければならなかった。腕の切断や弾丸抜き取りの手術を見ているとめまいがしたり、気が遠くなったりした。
死亡者の処置も私たちの任務であった。もっとも屍室まで運んで置いてくるまでであったが、それまでがたいへんなことであった。死亡者は一般病棟から出るということはなく、きまって重症病棟からであった。そこではほとんど死を待つばかりの人が常に二、三十名はいた。死亡時刻を確認するため全部の患者の脈を取りつづけることが命ぜられていた。
死亡者が出ると軍が最後の確認をして、あとは私たちの手に移るのである。まず、鼻、口、肛門に脱脂綿をつめて、それからタンカに乗せて屍室まで運ぶのである。かなり離れたところに設けられてあり、重症病棟から屍室へ行くには川のあぜ道を通り、やぶの中の道を通って大通りに出、そこを横切ってまたやぶの中の道を通って帰まで届くのである。でも相当難儀な道であるが、夜はたいへんであった。全く灯りのない道を、たった一人の少女が転んでは起き起きしながら、死体に気をつけながら運ぶのである。こわくて知らずのうちにヒーヒー泣き出すこともあった。
部落の畳を女子学徒隊に盗ませる
またある兵隊が、宿に畳を敷くから全員ついて来いと部落へ連れていった。私たちの宿舎は病院や兵隊の宿からは離れたところに造られてあった。丘と丘の間のくぼ地をさらに掘り下げ、屋根がわずかに地上から出る程にしてつくられていた。屋根をかやで葺いた宿舎は、床は竹を敷いただけで畳もござもなく、寝る時はそのままその上に寝るので背が痛くてたまらなかった。病院の患者の部屋も同じように畳はなかった。
畳を敷いてくれるというのでついて行ったが、部落につくと兵隊が、「部落民は皆避難して誰も残っていない。どこの家からでも畳のよいものを選んで運んでこい。」と命令した。私たちが畳を集めてくるとトラックに積んでもち帰り全部将校の部屋に敷きつめた。結局部落民であり、部落の様子をよく知っている私たちに自分たちの部屋に敷く畳を盗ませたのである。
私たちの女学校は部落のみんなが材木を出しあって、労働奉仕をしてつくってくれたものであった。現在の八重山高等学校の建っているところにあったその校舎も、兵隊がみんな壊して兵舎に使ってしまった。
学徒の労働 - 郵便貯金という欺き - 九月半ばまで
このようなおどしと欺きは外にもあった。
はじめ私たちは給料がわずかではあるが支給されると聞かされていた。しかしその後何ともないので皆なで聞いてみると、軍から郵便局にそれぞれ各人の貯金として預けてあるということであった。しかし、結局それも単なる話だけで今だにどうなったのかわからない。
病人の看護に来た私たちの中から病人が出た。過労、睡眠不足、栄養失調に加えて、マラリア、腸チフス、赤痢等の感染性の強い病気の患者を看護していて、病気にならない方がむしろどうかしていた程である。数人の生徒が発熱した。しかし、当時は病気にかかっても軍医の証明がなければ仕事を休むことはできなかった。病気と闘いながら与えられた任務は遂行しなければならず、とうとう二人の友が帰らぬ人となった。一人は高熱に耐えきれず、水を求めて水田に下りてきてそのままたおれた。
またある友は伝染病室の看護当番中に腸チフスに感染した。死線をさまよう娘のために母親が毎日通いつづけて看病した。そのおかげで娘は回復した。しかし、母親は逝ってしまった。逆に母親が腸チフスでたおれたのである。つかればてて夜宿舎に帰ってくるとみんなで歌を歌った。互いに慰め合い、はげまし合いの歌であった。さびしくなってみんなほおを涙でぬらしていた。家族がむしょうに恋しくなった。何名かの者がそっと宿舎を出て、闇の中を駆けて行った。家族は白水の山奥で避難していた。翌朝の点呼に間に合わせい。そて帰るためには夜じゅう歩いたり走ったりしなけれれでも出ていったのである。
翌朝帰ってきた者に皆ないっせいに尋ねる。聞くことは同じであった。「家の人たちに会わなかった。見なかった。」と離れてそれぞれの安否を気づかいながらみんな暗い生活を強いられていた。
野戦病院はなくおもとの麓に移ったが、私たちもそこへ連れていかれた。そこでは看護の仕事よりも壕掘りや炭焼きの仕事が多かった。山を下りたのが九月の中旬である。終戦の日から一か月は過ぎていた。
第四章 横暴な日本軍
一、島民追い出して牛の強奪
竹富村字黒島東舟道博(十七歳)
竹富島の暁部隊 - 黒島の強制疎開と1600頭の牛の解体
一九四四年、郷里黒島をはなれて、石垣の青年学校に入学していた私は、それが当時の風潮であったように軍人を志願した。ところが私の願い出は却下された。すでに沖縄の海は軍人や物資の輸送を許さないほど緊迫しており、私より先に志願していった人たちが沖縄から鹿児島へ行き着かないうちに、敵潜水艦によって沈められることがたびたび起っていた。その年はまた八重山も空襲を受けるようになった。
翌一九四五年、私は郷里黒島の父から避難をするので島へ帰るようにと連絡を受け三月に島に帰った。島には十二人程の暁部隊という小隊が駐しており、広井修少尉(獣医)が指揮をとっていた。私が帰って四、五日後、かれらの指揮で島の青年男女二十余名が集められ、挺身隊が組織された。私たちは三節の班に分けられ、上等兵に直接指揮されてかれらの配下におかれた。任務は島民の避難輸送となっていた。部隊自身がその任務をもって島へ来ていた。事実、大型発動艇で島民の輸送を行なうこともあったが、私はそれは表向きの事で、主任務は別にあったと今でも確信している。
島には当時、牛が1600頭いた。私たち挺身隊の者は昼は毎日十五、六頭から二〇頭ほどの牛の屠殺と解体の仕事をさせられた。このときだけは、指揮は部隊に八重山出身者としてただひとりいた手刈恒優に代った。かれは根っからのウオーシャ(豚の屠殺業を営む者)で、その腕を見こまれて特に来ていたのである。夕方になると石垣島からきまって船がやってきて処理した牛の肉と皮を運んでいった。
かれらは島民が自分で牛を処分することを命令と称して厳重に禁じていた。それでも避難地での食糧確保のために密殺を行なうこともあったが、もしそれが知れるとずい分ひどい目にあわされた。島民の面前でなぐられたり、一日中ひざまずきをさせられたりした。こういう事情から推して、部隊の黒島駐の任務は島民を避難と称して追い出し、牛を奪って食糧を確保することにあったと思うのである。牛は伊古部器の海岸で潰しておったが、1600頭の島のは三か月後には全滅して、浜には牛の骨で異様な山ができていた。
離島残置工作員「山川」 - 4月から竹富島の強制疎開
陸軍中野学校の離島残置工作員として、黒島に青年学校教員として山川敏雄 (本名 河島登) が赴任していた。
島に最初の空襲があったのは一九四五年の二月である。私は三に帰ったのであるが、そのころはまだ落をはなれた木の繁みや水の得やすいところなどで、小屋を造ったり防空壕を掘ったりして避難場所にしていた。役場からの命令が出て、島をはなれて避難をはじめたのは四月に入ってからである。
避難の指揮は山川がとっていた。この男は前の年に学校の教員として来ていたが、赴任する時は校長も教頭も、視学さえも知らなかった。ちょうど時を同じくして、波照間には山下、西表には山本、与那国には山里*1と、みんな山のついた名まえの教員が赴任しているが、その中のひとりである。もちろんみんな偽名で四人とも軍人であった。
島の人々にとって山川はまっく得体の知れない男で、スパイではないかとささやき合うこともあった。
学校へもきちんと行っているのか、道で子どもたちとふざけあっていることがよくあった。学校では教員は足りているのだから行ってもすることはなかったわけである。夜は時々青年や婦人を集めて話しをしたりしていた。
暁部隊が来てからはほとんど部隊と行動をともにしていたかれが、避難命令が出ると俄然威圧的となった。まだ二十四、五歳であったが、軍人の本性をまる出しにして居丈高となり、島の人々に怒鳴り出した。黒島の人々は西表島のカサ崎へ避難したのであるが、五つの部落の避難していく家の順序も山川が命令した。輸送は暁部隊の大型発動艇がとることもあったが、島のサバニが出ることもあり、その時の船頭も山川が命令した。
避難輸送は昼は敵機を避けて夜行なっていた。私が負傷したのは七月三日の午後八時ごろである。大型発動艇は保里の桟橋の西の通称アサビナ(遊岩)の下に、舳先を突込むようにして、昼は偽装をして置いていた。ちょうどその日は潮の関係もあったので私たちが船を沖へ押し出す役としてついていった。
現場について偽装の草や木を取り除くと、船はエンジンをかけてバックをしはじめた。わたしたちの役はそれを前から押すことである。あの船はかなり浅いところにも浮くようにできていて、間もなくすると船が浮いたので、それぞれ船に飛び乗った。船はやがて前進をして方向転換をしはじめた。ところがその時私だけはまだ船に乗らずに舳先にぶらきがっていたのだ。しかも船はじゅうぶんバックをしないで動き出している。「いけない」と思った瞬間、船は前面の岩壁に激突してしまった。私は心臓の止まるほどの衝撃を受けて海へ落ちた。右腕をくだかれてしまったのだ。
これは後で聞いたことであるが、腕からふき出る血で赤黒くなって浅瀬で私はころげ回っていたという。私は戸にのせられて暁部隊が宿泊していた玉代勢家に運ばれて来た。事故を知った部落の人々が集まって来る。私の家はすぐ隣りであるが、母は私が死んだと聞いて泣きながら駆けつけて来た。しかしかれらは母をひき止めて私に会わせなかった。
その日は避難は中止され、大型発動艇は私を石垣島へ運ぶことになった。私は伊古の桟橋へ運ばれ、そこから石垣島へ向かった。船の出たのは午後十時ごろであったと思う。船には五人の隊員がいて私を看護していた。そのころはようやく意識ははっきりしてきていたが、痛みは堪えられないほどであった。腕は根本を布でしっかりとしめつけられていたが、しめつけたままではいけないというのでときどきゆるめられた。とそのときは、血がどっと流れてまた気がとおくなるような感じがした。
石垣島に着いたのは夜中の十二時ごろであった。当時桟橋を上がったところに「池端」という海運会社があったが、船は私をその会社に降ろすとそのままひっ返していった。一人がつき添いとして残ったが、かれが開南にあった野戦病院へ連絡をとった。私はそのままの姿で夜を明かすことになった。翌朝八時ごろトラックがやってきて私をのせ、病院へ向かった。
桟橋から開南までは八キロほどあるが、途中三回も米機の襲撃を受けた。飛行機がやってくると運転手と助手席にいた他のひとは、車を止めて道のそばの草むらへ逃げた。私はその間車の中でころがされたままであった。幌のない車で、飛行機がよく見え、旋回して向ってくるときは自分に突込んでくるようであった。あのときの状況は今でもあざやかに思い出されぞっとすることがある。からだが動かせないので、ダダダダダという弾の音を聞きながらただただめをつぶっていた。
さいわい、三回の襲撃でも傷一つ負わずにすんだが、病院では、私は右腕をつけ根から切断されてしまった。マスイから覚めて気がついた時は気が遠くなるような妙な気持がした。からだの右半分が軽くなって重心がくずれたようであった。しかしそれよりももっと切実なことは、並みの人とからだがちがうという事実が私を苦しめはじめたことであった。まだ二十歳にもなっていなかった私はその後ずい分失望し、劣等感におそわれた。
9月8日 - ぜいたくな於茂登山の旅団本部 - 解散
九月一日に、私は病院を出た。その日、私は旅団本部から電話で呼ばれた。私はひとりで於茂登山の中腹まで歩いていった。先に、それまで農学校にあった旅団本部は、戦火がはげしくなるとそこへ移っていた。
八重山防衛と称して、八重山全島を指揮していたこの旅団本部が解散したのは九月六日である。私も九月六日までそこで過した。そこは病院とはちがって、食べ物はずい分ぜいたくでめずらしい物がいろいろとあった。解散をした日、私は名前はわからなかったが、中隊長からおすとめすの二頭の牛をもらった。おそらく石垣島内のどこかの農家から没収してあったものが、隊の解散、隊員の帰還で処分に困ったと思う。私はその牛を引き連れて黒島へ帰ってきた。ところが島につくと、私はその牛を二頭とも、思いもかけず島の人に横取りされてしまった。かれは自信たっぷりに主張した。
「私は軍隊に家を貸していたが一銭の金も受け取らなかった。だからこの牛は私のものだ。」私はかれの妙な論理に憤慨したが、年の若かったせいもあり、かれのけんまくにおされて牛の手綱をはなしてしまった。小さな島の同じ部落の、しかもすぐ隣のおやじである。これも戦争のためであろうか、なんとさもしい根性だろうと思った。
いま私は石垣島へ移ってきて、セールスマンをしながら生計を立てている。それだけでは家族を扱うことはできないので、土曜から日曜にかけては近くの学校の守衛もしている。子どもたちもまだ小さく、これからが生活はきびしくなる。片腕の無いということが就職するにもひびいていた。私から牛を取り上げた人は戦後、島の条件を生して牧畜業を始め、現在かなりの事業に広げている。今さらつまらないと思いながらも私は、二十七年前のことを考え腹を立てることがある。
二、新築の夢無惨にも破られる
石垣町字大川池田安秀(三五歳)
供出 - 建築資材を兵舎のためと奪われる
当時私は三十五歳、働き盛りで隣近所の人たちも私のことを「働きもの」といって、ほめてくれていたものである。私の家は旧家で、先祖代々の田畑があり生活もかなり安定している部類にはいった。しかし、住宅は祖父の代からのものでずい分古くそろそろ新築をしなければならないと、父と私は一生懸命働いてその準備をすすめていた。
石垣島は当時木材が豊富で建築資材を山から切りだすことができた。「ばふ」(多数の人を頼んで仕事をしてもらうこと)をして新築に必要な材木を集めてあった。なお不足の分はいくらか買うことができ、瓦も購入してそろそろ新築を始める運びになっていた。
当時としては、今日のようにトラック等のような運搬の手段がなく、牛・馬車を利用して山から材木を出していた。あの時の苦労はことばではうまく表現できないものである。
もし金があったとしても今日のように自由に購入することができず、簡単に建築資材を集めることはできなかった。おまけに、お金を持っていると思われると、やれ貯金だ、献金などとおいたてられ、自分の金を自由に使うことができず、全く誰の金なのかわからなかった。
また、これだけは必要なのでと、ことわるものなら、入れかわり立かわりおしよせ、「国のためだ、天皇陛下のためだ」とはやしたてられ、そうなるとことわりきれなかった。しかし、私のところは幸い妻子を台湾に疎開させることができ、疎開地では生活費にということで貯金をおろすことができ、ほとんどおろしたように記憶している。
はなしはちがうが台湾では貯金がおろせるということで、他人の貯金をおろしてきて、その金額の三分の一とかひどいことになると二分の一をまきあげて他人の金で肥るという悪らつなブローカーが暗躍していたという。
しかし、それでも八重山の人たちはありがたがり、多くの人たちが利用していたと聞いている。戦争というと誰でもそうだと思うが、まったくひどいもので、いいたいこともいえず、食べたいものもやれ供出だ、微発だといって、牛・馬扱いにされ兵隊は有無をいわさずかってなふるまいをなし、住民の生活は物価統制令とか、物資配給等でしめつけられ少しでも人間らしい生活をしたいという、今では当然のことが、当時は国賊扱いされたのだから今日の若い人たちに想像もつかない苦しいものがあった。
私は戦時中は警防団員で用には余りいかなかったが、それでも家族のものに言わせると働き手をとられて、ずいぶん苦労したということである。しかし、今でも私がやるせない怒りをおぼえるのは、先に話したように苦労して集めた建築資材(材木・瓦)を軍の兵舎をつくるということで強制的にとりあげられたことである。当時は住宅建築も自由にできず知事の認可が必要で、それも十五坪以下の家をつくれということで、認可申請をしてあったが、その矢先のことで「ズマカラド、クンジウクリリ」(どこからともなく全身に怒りがこみあげてくる様)、とうとう兵隊にくってかかった。すると「もし日本が戦争に敗けたら、作った家もどうなるか、戦争が終ったら必ずかえすから、がまんしろ」と彼はいったがそれでもなぐられることを覚悟で懇願すると、「それでは、何本か君の分をえらんでもよい」ということで、十五本程残すことができた。勿論代金など支払うはずがない。今考えると、誰の所有物なのか全くわけのわからない無茶な話であった。でも残したという喜びで、むしろ兵隊も話せばわかるのだと感激したものである。そんな例はほかにも沢山あったと思うが、私の場合は瓦までとられたのでほかの人たちより怒りがおおきかった。
日本軍がサイパン島で敗れ、石垣島の軍隊の動きがはげしくなると、煙を出すことが禁じられ、瓦焼工場は操業を停止させられ、かわらの値段は高騰していった。だから、貧乏人が瓦葺の家をつくることは、一生一代の大事業であり、そのことが農民の夢であり、ま社会的地位を認めさせることにもなったので、あのことは一生忘れることがないと思う。
水田が勝手に埋め立てられる
戦争の犠牲はいろいろあるが、もう一つ今でもしゃくにさわるのは、農民にとって死活問題である耕作地の損害である。私の水田はシラミズ(大川登野城の住民が戦時中避難をし、悪性マラリアで多くの犠牲者を出した所)にあるが、当時その一帯はあちらこちらに壕が掘られ、おかげで私の水田が掘りおこされた土砂に埋め立てられてしまった。
私たち農民にとって、水田は生命であり、おまけに収穫した米も供出で取りまくられるし、このままでは食糧の確保も保障できず、戦争がながびけばどうなるのだろうと家族をかかえて不安で、とほうにくれてしまった。
勿論損害賠償などがあるはずがない。全く泣寝入りをしたものである。軍隊はひどい、戦争はむごい地獄だとつくづく思った。
三、無謀な疎開命令
石垣町川平部落会長喜舎場兼美(四十歳)喜舎場兼次郎(三九歳)
石垣町字川平部落の宮崎県への疎開命令
1944年、海軍は川平湾を「震洋」の特攻艇基地にするため、周辺の川平部落をまるごと強制移転させる軍令を出し、地域は二転三転と混乱した。軍は、住民の猛抗議に天皇が定めたという決まり文句で押し通そうとする。
八重山にはじめて空襲のあったのは、一九四四年(昭和十九年)の十月十二日であった。それから一か月たって、石垣町字川平は部落ごと宮崎県に疎開するようにとの軍命令が下った。そのころすでに八重山の周辺はもちろん、本土までの海域も敵によって占領されつつあったことは部落民(住民)の間でも常識となっていた。
そのような状況のなかで宮崎県までたどりつけるはずがない。住民は軍の無さに怒り、反対しつつも、軍の命令とあらば絶対服従であり、死を覚悟でその準備に取りかからなければならなかった。その時の状況を、当時部落会長兼区長であった喜舎場兼美氏と喜舎場兼次郎氏の話、及び日記をもとにして明らかにすると次のようになる。日記は兼美氏のものである。
日記
昭和十九年十一月十二日、町民税ノゴコトデ役所へ行ク、川平ノ疎開問題ヲ聞イテ吃驚仰天。名蔵部ノ慰問。
兼次郎氏談
私が疎開問題を聞いたのは、名蔵の陸軍部隊の間に行っていた時の席上であった。私たちは慰問団を組織して各部隊の慰問に行ったりしていた。その日は、名蔵部落からの要請で行った。責任者の兼美は役所に用事があるからと行き、その帰りに私たちの所へ来た。疎開のことは演劇の終ったところで明らかにされたのである。とたんに団員は顔色を失う者、口のきけない者、泣きだす者など、死刑を宣告された者の様であった。
慰問後の慰労会の席上で出された酒を飲み、その勢で隊長にさんざん苦情を述べ海軍の疎開命令の無謀さを話し、何とか取りやめさせるよう働きかけてほしいと申し入れたが、いつも対立している陸軍と海軍ではどうしようもなかった。その腕から部落は大さわぎとなった。
日記
十三日味噌・醤油配給
疎開問題関し、警察署長、仲本部長、助役宮良信智氏来字講話十四日署長、助役帰庁
仲本宮良両氏ト共ニ疎開事務
兼美氏談
警察署長や助役などが来て疎開の件で講話をした。部落民は表面的には納得したようであった。しかし、部落民だけになると、乗船の日、山中へ逃げこむとか、防空どうにかくれるとか、どうせ死ぬんだからこの地で自殺するとか、特に老人の声は強く、私自身も本当にそう思った。ついに、「みんな生れ育ったこの地で骨を埋めたい。疎開中止の陳情をしよう。軍の命令にそむく者、非国民とされ、たとえ死刑にされようとかまわない。」と意見がまとまり、代表が派遣された。
住民が死のうと知ったことではない、天皇の命令だ
私は部落の責任者として行った。その日事前に県会議員や農業会長、その他の方々に実情を話し、支援を依頼して会議にのぞんだ。井上隊長は日本刀をカチャカチャさせ、「切り捨御免」もしかねない態度であった。
びくびくしながら覚悟を決めて話した。
「私たちは軍の命令に反対するわけではありません。しかし、ここ暖い八重山で住みなれた者が、今本土へ行けば、もう冬だし、衣服もなく、凍え死ぬでしょう。それで、せめて気候的に似ている台湾あたりへ行かせてほしい。」と言った。井上隊長は「台湾はもう疎開を受け入れていない」という。「しかし、敵機来襲も多く、はたして宮崎県までたどりつけるかどうか心配ですが」と言うと、「君達が途中で敵に沈められて死のうが、内地で凍えて死のうが、僕の知ったことではない、この計画は畏れ多くも陛下の定められたもので、今さら変更するわけにはいかん。」と実にむちゃくちゃなことを言った。それでも、「今ごろになって疎開する理由は何ですか。」などと、多くの人がつぎつぎと発言しました。
結局、川平湾の見えない所へ移転することを条件に、疎開は中止となった。
日記
十一月十六日、転出ニ関シ、関係当局陳述ノ為出四(注四は四カ字のことで石垣町官庁所在地)支庁会議室ニ於テ、順調二進行、九州転出中止決定ヲ受ケタ。
十一月十七日、九州転出中止ノ情報ヲイテ、部落民一同歓喜、陳情ノ甲斐アツタトクヅク感ゼラル。
兼美氏談
私が中止になったことを伝えると、特に老人は涙して喜び、この地で骨を埋めることができる、死をまぬがれた、この島内ならどこへ行ってもかまわないと、その喜びようは何とも言えないものであった。
日記
十一月十九日、雨ヲ冒シテ旅団長宮崎閣下東畑少佐殿、一木中尉、井上隊長、髙木大隊長、支庁長真玉橋属、富川農業会長、平良技手、富良永益来字(注字は字川平)、渡部隊長宅ニ会合。
十一月二十日、八時ヨリ閣下、井上隊長ノ講演。十時ヨリ井上隊長、翁長町長、富川会長ト共ニ境界見定メニ
十一月中に立退ク可キ区域
1、南風成氏宅ノ後道ヨリ東、本道ヨリ会館迄ノ北、外ハ一月中2、清一氏ノ田ノ西道ヨリ西八十一月中出入自由、十二月以降ハ午后三時ョリ六時マデノ間ニ出入ス、県道八十一月中が通行出来以後禁止
11月21日 - 川平地区の転出開始
兼美氏談
移転先は崎枝と決ったが立ち退くまでに日数がない。小屋つくり、農作物の収穫、道具の運搬、それを徹夜でもしなければ間に合わない状況となり、部落総がかりで仕事に取りかかった。
日記
十一月二十一日、転出先ノ入小屋作り、各隣組本日ヨリ総掛リ
兼美氏談
部落稔掛りと言っても、男子はほとんど召集され、女・子供・老人しか残っていないわけで、その仕事は大変なことであった。学校は当然のことながら休校にしてもらい子供たちも総掛りで移転作業をした。
川平国民学校の沿革誌「十一月二十一日、本日リ、部落移転作業ニ協力(高田方面)」
十一月二十三日佐藤少尉、支庁長、町長、農業会長、土地改良所長、視学、転出先ノ敷地ヲ見ラル為来所、分散シテ建設スルコトニ決定。
十一月二十七日耕地測量ニ行ク。十一月二十八日用材ヲトラックデ運搬シテ賁ウ、午前中昨日ノ測量、午后隣組長ト共ニ宅地ノ分配、大浜ョリ馬車十五台来。
兼美氏談
私は自分の荷物をまとめる暇がなくて困った。来客の相手もしなければならないし、測量などにも立合わなければならないし、運搬作業の手配もしなければならない。さらに軍からのいろいろな供出にも応じなければならないと、夜も充分寝れない日々が続いた。結局、だけに家のことはまかせきりで自分のことなど考えられない忙しさであった。
兼次郎氏談
家財道具を運び、家をくずしてその材料を運び、家を建て、農作物を収穫していく、その仕事は本当にたいへんであった。第一、力のある男たちがいない。年寄と子供と女ばかりで全戸移転しなければならない。その頃の崎校までの道はとても悪く、馬車の数もわずかで、小学生まで荷を運んでいた。材木や大きな荷物は四カ(石垣町)や大浜あたりから馬車が来て運んでくれて本当に助かった。
馬車徴用と言って命令されて来たと思うが、二十台ほど来ていた。その人たちのおかげで、必要な道具は最少限運び、作物も収穫できる分はできるだけ収穫し、いよいよ明日中にこの部落を立ち退かなければならない、と迫った日には、九分通り以上の荷物が運び出されていた。残るは先祖の位牌と寝具の一部、ナベ、食器ぐらいであった。
明後日以降はいかなる理由にせよ部落への立ち入りは禁止ということであった。
11月29日の夜 - 移転中止の命令 - 柵を作れ
ところが、その11月29日の夜になって、今度は移転しなくてもよいと言う命令が出された。私はもう怒って、今更何を言うかと軍隊の所にどなりこみたい気持であった。
本当に癖にさわったね。住民を一体何と考えているのか、いざとなったら、この島を守るのは我々住民なんだ、兵隊などにひけは取らないと思っていたのだ。
しかし陰では何と言えても、当時は憲兵、警察の目が光っていて、軍をわるく言うとすぐ非国民扱いであったからどうにも仕方がなかった。
日記
十一月二十九日移転荷造り中ノ処、支庁長、町長、農業会長、大田調査部長、南風見開懇所長。来字二付、移転ニ関スル色々ノ打合セ、午后三時、海軍参謀(大佐)部隊長(少佐)井上隊長来字。移転ノシタ結果、ノ見エザル様ニ堺スレバ移転センデ好イ事二話シハ決定。
移転問題ハ非常二頭ヲ痛メタ一生ノ大事業ト思フ、一段落シテ安防諜ニ気ヲ付ケルベシ。
兼美氏談
海軍の大将が来て、移転しなくてよいから柵をつくりなさいということになった。部落に住めるという安心はあったが、これまで多くの荷物を運び、家をくずして運んだその苦労も考えず、簡単に移転しなくてよいと言うのだから全くデタラメだと腹が立った。結局、従わないわけにはゆかず、多くの荷物や木材など持ち帰る力などなく移転先でほとんど捨ててしまった。もったいないことをした今思い出しても残念でならない。力がなかっただけでなく、時間もなかったからね。徴用とか柵つくり等にほとんど駆り出されていた。
日記
十一月三〇日ノ見エナイニ垣ヲ作ル為、部落総動員シテ同仕事ニ着手。
秘密基地建設のために陛下の命だとして住民を無視し敵視した
兼美氏談
道路に沿って湾に面した所に三メートルぐらいの鎖塀をつくれと言うことだから、山から木を切り出し、ススキ、黒ツグの葉などを取り寄せて、それにくくりつけていく。今思うと実に馬鹿げたことをさせたものだと思う。
川平部落移転の真相は「川平湾を海軍特攻基地、つまり、人間魚基地として利用する、そのため近くに、住民がいては困るということで井上隊長は疎開を命じた。」こういうことになると思う。それが先に述べたように当時としては部落民の最大の抵抗にあって、島内の崎校への移転となり、続いて中止、最後に大将らしき者が来て柵を作れということになったようだ。
秘密兵器があるからということで、すべてを軍の命令、陛下の命だとして住民を全く無視した、敵視したとさえ考えられるような扱いであった。
日記
十一月七日海軍設営隊副長大尉別所太喜次、原田組、大和田児玉氏来、同行シテ湾内眺視、全氏方午后四時帰宅。
兼美氏談
敵の上陸に備えて急いで人間魚雷基地をつくったものと思う。何の予告もなく、すぐ「疎開せよ」であったから、海軍のこちらの部隊の気まぐれと住民不信が、私たち川平部落民を精神的にも肉体的にもいためつけた。
私たちは兵隊のために慰問団をつくるなどして心をつくしたのに・・・。
四、警察署長の証明書をもってこい
大浜村字真栄里仲山忠英(三九歳)
供出という無料提供、断れば国賊呼ばわり
戦争中は「勝つためには」ということばの魔術には、大変困まりましたよ。籾や牛馬の供出を当り前のこととして農民に割りあてる。断われば国賊呼ばわりだから、どうにも仕様がないのです。みんな心では泣いているが、断わるわけにはいかなかったのですね。
「勝つためには」と言われると、何とも返すことばがなかったのです。軍は「勝つためには」ということばによりまして何をやってもよいことになっていたのです。
農民には籾の供出、立木の供出がありました。立木は、こちら八重山は、台風の中心地ですからね。先祖は福木など、台風にびくともしないのを植えると、四〇年五〇年でやっと、防風林になるのですね。そういう立木を供出させるのです。先祖はきっと、地下で泣かれたことでしょう。
献木というのもありましてね。これは当時の農村ではイヌマキなど一等の建築材は、山から切り下ろして、海岸の砂に埋めて、虫よけの作業を五、六年もする。それから持ち帰って材木小屋を作ってそこで保管する。毎年山から伐りとって、貯えていく。一家を造るのに一〇年ないし一五年計画で、材木は揃う。一生一代の計画であったわけですよ。これを唐突に、「勝つために」献木を命ぜられるのです。七〇歳八〇歳の老人は、ほんとに泣きましたよ。親子二代かかって仕上げる計画ですからね。一生の大事業が、献木の命令一つで、おじゃんですからね。ほんとに泣いていましたよ。
おまけに、つい最近(一九七二年春)戦災補償申請をやれというが、材木や牛、馬は補償の対象にしない、というから、農民はいつまで、ふんだりけったりかと、怒っているのです。
消える牛馬
一九四五年(昭和二〇年)六月第三避難所へ避難命令が出ると大変でしたよ。
住民は人里を離れ、農地牧場の管理ができなくなるのですね。供出で牛馬がとられるまでは、まあまあ、一応「勝つために」の略奪も、白昼まかり通って、泣かせたものです。桃里牧場の牛馬なんかは、供出によらず、消えてしまったのです。演習の形式で、鉄砲で牛馬は打ち殺される。ら致されるそして食用に供される。
私どもは、名蔵地帯の山間あたりに避難していましたがね。そこから、農耕用の牛がよく消えるのです。隣りの人の牛が消えた時にその人はほんとに働き手の牛を失って困っておったのです。たまたま、知り合いの土地の出身の兵隊さんと相談してつれ戻してもらったようです。その兵隊は、この牛は叔父所有の牛が迷いこんで来ているから、主へ返しましよう、と上官の許しを得て取りかえしたことがあったのです。これは終戦前七月のことです。
私も同じように牛をとられましてね。しかも8月15日後なんですよ。「勝つために」という言葉の魔術を使っての取り上げなら、魔術師には敗けますよ。しかし戦争に敗けてからは、同じ魔術「勝つために」の魔術は軍は使えませんよ。しかし、終戦後も、軍は麕から牛馬を取りあげるのですからね。軍部というのは、「勝つために」あるのでなく、「略奪するために」あったのですね。
八月下旬、私の農耕用の牛が、たんぼのあぜから消えたのです。名蔵の機関銃部隊の仕業だったのですね。いどころを、よく家で世話になった兵隊が、教えてくれたのです。私は乗り込んで行きましたよ。行ってみたら、牛は森の奥深くかしてあるんですね。近くにいた兵隊に「これは私の牛だから、返してくれないか」と頼んだら、その兵隊「私にはわからないから、隊長に会ってくれ」という。私は意を決して隊長に会った。
私「この牛は私のものです。一頭しかいない耕牛をとられて困っています。ぜひ返してください」
隊長「これが君の牛だという証明書をもってこい」
私「誰から証明書を貰いますか」
隊長「警察署長とか、村長とか」
私「警察署長や村長は、これは私の牛だということはわかりません。しかし、証人を連れてこいといわれるなら、いくらでも連れきます。連れてきますか」
隊長は返答に窮し、しばらく黙っていて、
隊長「では、一応つれていきなさい。そのうちに呼びだしがあるかも知れない」
私は氏名と住所を書き残して、さっさと連れ帰った。帰るときはほんとに急ぎましたよ。後から何かいわれはしないか、何かされはしないか、という心配でね。
私は幸い取り戻すことができましたが、そのまま消えてしまった牛の主は、マラリア熱にうなされながら泣いていましたよ。私の場れたなら、どうなったか知ら合も、あと一、二日でも行くのが遅れたら、どうなったか知らない。
「勝つために」ではなく「略奪するために」という印象が、どうも消えませんね。
五、報酬の籾まで取りあげる
石垣町字大川宮良長(四十歳)
黒島の強制疎開と食糧不足
「住民を守るために我々軍隊は来ているのだ、ありがたく思え」という考え方は、占領地に乗り込んできた軍隊と同様で、いろいろな面で住民生活を圧迫した。
私は、当時、黒島国民学校の校長でした。空襲もいよいよはげしくなった頃、軍命によって、私は島の人々と一緒に西表島の東部カサ崎に避難 (離島残置工作員による強制疎開) しましたが、そこでは一粒の米もなく、毎日潮干狩りにでて、貝や蟹などを採って生活しなければならなかった。その状態だと栄養失調で家族が死んでいくことは、火を見るよりも明らかであった。何とかしなければと、近くに避難していた兼久さんと二人で、西表島西部の干立部落に、監視の目を避けくり舟で夜渡った。干立部落では、稲刈りが始っていて、それを手伝えば一日に一斗の籾がもらえた。頼みこんで働かせてもらった。「先生方も食糧がないんですか。お互に苦しいですね」と部落民に励まされ、あるいは部落民を励ましつつ四日間稲刈りを手伝い、五斗の籾をもらった。
それだけあれば当分の間は妻子の生命をつなぐことができると、喜び勇んで帰る途中、くり舟に乗った監視中の隊長にみつかり、ピストルをつきつけられ、現在の西表小中学校の前あたりにあった部隊に連れ戻されました。その時、隊長と一緒に乗っていたのが、古見石人と崎山用能であったが、護郷隊とどんな関係にあったかは知らない。
住民を守らない軍 - 占領者顔で抑圧し収奪
戦争とは一体何んだろう。住民を守るために来た筈の軍隊は、このように理由もなく、住民を苦しめるし、自分の妻子の生命すら守れないような状態でなおも戦争をしなければならないのか。軍隊は、供出と称して、住民の米や野菜、さては労役に使用している牛馬までも取り上げているが、住民に背を向けられての戦争が果して可能なのか、住民を苦しめて何が戦争かと腹立たしく、その夜は寝ることができなかった。
翌日、隊長に呼び出されて詰問された。「お前はどうしてここから籾を持ちだすのか」と。「籾を持ちだすことがなぜ悪い、私が働いて得たではないか、食物がなくては妻子は死んでしまう。妻子を見殺しにして戦争ができると思うのか」と喧嘩しであった。次の日は未明に起され、裸にされた。何かひどい目にあわされるなと覚悟していたら、鍬をもってきて、一日中田を耕やせという。そんなことならおてのものだと、フンドシ一枚で一日中田を耕した。次の日もまた隊長の呼びだしをうけた。今日はまた何をやらされるのかと思っていたら帰っていいということであった。恐らく、籾はくれないだろうと思っていたら、良心がとがめたのか、籾はそのまま渡してくれた。
軍隊は、住民と苦楽を共にし、住民と共に戦うという考えは毛頭なく、いかに住民を抑圧し収奪するかという考えしか持たないように思えた。住民を守る筈の軍隊は、占領者顔で、その地域を支配し、住民を酷使する。それが日本軍の実態であった。
六、献木といって強奪
石垣町字石垣新城義雄(四一歳)
供出供出といって強奪されていく木材
戦争中は何でもかんでも供出供出といって住民のものをとりあげていました。材木などひどいもので、そのために戦災の復興はおくれたと思います。山林の木はもちろん、防風林として屋敷にある木までも切り倒して持ち去ったわけですから......。
字石垣には農民だけで組織した石垣平和農事会があって十町歩余松林を持っていましたが、軍への献木ということでとりあげられてしまいました。最初は組合員一人あたり五本の献木ということで、切り倒して渡すまでの仕事を命ぜられました。ところがその後は何のことわりもなく兵隊達が、閣下の命令といって切り倒して持ち去り、結局ハゲ山になってしまいました。私たちには五本を倒すための人夫程度を与えてすべてを奪い去り、兵舎、防空壕などを作る材料にしてしまいました。同じようにして、学校林、町有林なども何のことわりもなく伐採してしまいました。町有のみごとな楠林がありましたが、それも兵舎に使用されていきました。木は強いし、かおりはいいし、「本当にもったいないナー」「乱伐してひどいものだナー」と当時でも思いました。私も二十本ほどのイヌマキを持っていましたがそれをどうすれば守れるか、隠してみつかれば罰されるし、苦労して取り寄せた木をミスミスわたすわけにもいか頭をいためていましたが、非常に親しい兵隊がいたので相談すると、「防空壕に使いなさい、それなら取りあげられる心配はない」と教えてくれたので防空の上に並べて取りあげられずにすみました。終戦と同時に取りだして大事に保管していましたが、生活苦にたえかねて売ってしまいました。もっとひどいことには、避難して空屋になっている屋根をくずして持ち去ったところもありますし、学校の校舎などもくずして山に兵舎を築いたものです。「軍の命令」とさえ言えば、住民を犬畜生以下に扱い完全に無視して何でもできる時代でした。
当時、川平の部落会長であった喜舎場兼美氏は木材の供出について日記の中で次のように記しています。
八月九日 供木ノ件=関シ、軍部ヨリ春園義雄曹長支庁金城光栄、県木社崎山用貴三氏来、午後三時ョリ開始。
八月十日 木材供出廻り。
八月十一日 木材供出廻り。
八月十二日 木材供出廻り。
喜舎場氏の日記の中に川平部落での総本数を記し、その内訳を各戸記してありますが、主なるものは次のとおりです。
立ち木六〇七本。手持木、四二九本。
立ち木の内訳。波照間五五本。大屋四七本。白保二六本。手持木内訳。大仲松七〇本、糸満三九本。直吉三七本。八月二四日 立木、伐採始メ
七、島民いじめの軍隊
与那国村字与那国大屋為吉(一一歳)福里豊(一一歳)波平石戸(五六歳)
与那国島の陸軍と海軍
与那国島には、監視を主目的とする中川兵曹長(海軍の准尉)の率いる十数名の海軍と、島の防衛を任務とする森谷隊長の率いる二十数名の陸軍が駐屯していた。
海軍は、うらぶ山頂(島の中央部にある島で一番高い山に陣地(監視所)を築き、日夜交替で、その任にあたっていた。それも、一九四五年(昭和二十年)一月十四十五日、監視所は、米軍のB24偵察機の襲撃をうけ、もろくも燃え落ちた。以来島は数度にわたり米機の機銃掃射を受け、久部良港(漁港)に浮ぶかつお漁船とその工場が破壊され、民家も類焼をうけ、久部良部落の八〇パーセントが焼けおちた。村役所の所在地である祖納部落は、幸いかわらの破損程度の被災でまぬがれたが、防衛隊のやむことを知らない食糧(米・野菜・家畜) の供出と、悪性マラリアの猛威におびやかされていた。栄養失調と医薬の皆無の状態のなかで、死亡者はあとをたたず、村民の生活は極限に達していた。
証言 1 大屋為吉
うらぶ山監視所と小学校の勤労奉仕
当時、わたしは、小学校の三年生で、他の男の子と同じように、大人になったら、兵隊さんになろうと大きな希望で、胸ふくらませていたころです。学校には確か先生のほかに軍人も姿をみせ、その軍服姿に魅せられていたようです。だから先生から「今日はうらぶ山にレンガを運びます。」といわれてもいやでもなく、むしろよろとび勇んで参加したものです。しかし、実際にレンガを二個かついで、急な山道を登るのは、大変骨の折れることでした。何度か足場をふみはずし、先生に「しっかりがんばれ」とはげまされながら、山頂にたどりついた時はすっかり疲れきっていました。
海を渡る冷い山頂の風は、汗だくの体になんともたとえようのないいい気持でした。
四年生以上は一日に二往復もしたそうですが、水をバケツで運びあげたようです。文字どおり村民総動員で、築きあげた監視所も、偵察機の機銃掃射で燃え落ちたというのですから、今考えてみると腹だたしさが先にたち、あほらしくなります。
島の部隊は食糧はすべて供出でまかなっていたよう
証言 2 波平石戸
私たち夫婦は、息子を兵隊にとられ、米の息子は小学校の一年生で、島に残ったものは徴用だ、やれ供出だ、増産にはげめとなにからなにまで、命令で動かされていた。
供出にしろ、徴用にしろ村役所を通してくるので、こんな小さな島では、まぬかれるすべがなかった。おまけに徴用は「ウヤダイ」(島に残る共同奉仕作業の慣習でおこたるものは罰金を納める)ということで、稲の収穫期とか、植付期の農繁期に「ウヤダイ」がまわってくると、やむをえず、他の人を金で雇い徴用をはたしたものです。わたしたちは兵隊のことはよく知らないが、しかし、島の部隊は食糧はすべて供出でまかなっていたようです。いったいこの兵隊たちは何のために島にきたのか、徴用、供出で村民をまくしたてるだけで、何をしたというのだろう。ほんとうに戦争はいやだ、二度と起してはならない。
証言 3 福里豊
私の家族は、久部良が空襲で焼けると、畑の近くのほら穴(島にはいたるところに珊瑚礁の自然の洞窟が散在している)に避難した。ありったけの食糧と家畜をはとび、長期戦にそなえる覚悟でいた。ですから食糧の確保は、文字どおり死活問題でした。米はほら穴の一番奥にしまいこみました。豚は親戚や近所のもので屠殺し、食塩で漬けて保存した。山羊は野生の草だけで養えるので、最も貴重なものでした。それで、いつも腹をすかさず、満腹にして鳴き声をたたさぬようにした。もしも、鳴き声がもれるものなら、それこそ軍にみつかって供出させられてしまう。先ず自分たちが生きながらえることが第一だ、それこそ、私たちの最大限の抵抗でした。村民は、みんな必死でした。そうすることは、村民の最大公約数的な無抵抗の抵抗だったと思います。しかし、家族のものがマラリアにやられると医者にもかかれず、薬もなく、やむをえず、兵隊の薬と食物を交換することもありました。与那国島に駐屯した日本軍は、島民の純朴な慣習をたくみに利用し、軍部の有無をいわさぬ権力をかさに、島民の生命財産を守るということは、うらはらに抑圧と略奪によって、島民の生活をおびやかし続けた何ものでもなかったということでしか私は考えられないのです。
八、馬車の徴用
石垣町字登野城新城信政(五十歳)
太平洋戦争に突入し、終戦を迎えるまでに多くの人民の労働力がほとんど無報酬で軍に提供され、生活苦をよぎなくされた。軍事体制下の住民の生活は、働き手を失い、土地をうばわれ、自由を束縛されるなかで多くの住民が戦場へ、戦場へとかり出されていった。サイパン島玉砕のあと、八重山にもいよいよ空襲が行なわれ、農家の馬車が令状によって、徴用にかり出されることが多くなった。主な仕事は道路作業の土運び、供出された農作物の運搬などでありました。運搬作業は、ほとんど夜間行なわれることが多く、たまたま敵機の爆弾投下がなされたときなど、たずなを投げすて、馬車をほうり出して、安全地帯にかけこんだこともありした。
飛行場建設作業にもよくかり出されました。兵隊に家で食事を作ってあげたりよく世話もさせられました。このようにして、生活の不安を知りつつ、危険を感じながら戦争体制に協力させられました。
九、命令命令でこきつかう日本軍
名蔵開拓 - 台湾から移住
石垣町字名蔵
(台湾よりの移住者)王能通(三〇歳)黄四郎(二八歳)
王能通氏談
八重山に移住してきたのは、一九三九年(昭和十四年)で二十四歳のときでした。親戚の印鵬(キュウホウ)に道路作業の人夫として呼ばれて八重山へきたが、名蔵一帯の広々とした未開墾地に魅せられ、農業をする決意をしました。
それから名蔵開墾に精いっぱいがんばっていましたが、私にも日本軍から徴用令状がきて、毎日のように徴用で働かされました。農業もほとんどできないような状態においこまれ、それでも何とか作物を植えなければならないと毎日そのことばかり考えていました。幸い二、三日間雨降りが続きましたので、いまだと思い徴用にもいかず農作物の植え付けを行いました。ところが徴用にこなかったというわけで、私はさっそく中隊長に呼ばれました。中隊長は「きみたちは国のために働かないつもりなのか」とどなりつけたのです。私は「作業に出なかったのは、国に奉仕しないという訳ではない、雨が降って農作物の植え付けを急がなければならず、そのために徴用にでれなかったのだ」と説明し、「農作物を植え付けるのも国のためになると思います」と答えました。おこっていた中隊長もやっと考えたことでしょう、後では激励していました。
何も考えないで、ただ令命、命令といばるのが軍隊であったようです。
黄四郎氏談
私は日本教育を受けたので当時の日本軍国主義もわかります。いまふりかえってみると大変だったと思います。もう戦争はいやだと妻の民真ともしみじみ語りあっています。
私は一九四〇年(旧十五年)二十三歳のときに台湾から八重山へわたってきました。当時名蔵一帯まだ未開墾地が多く私は独身の身体を思いきり開墾にうちこみました。
一帯の農耕地はほとんど社有地で、主にイモ、陸稲、バナナなどを栽培しました。島の人々はマラリアが蔓延するとほとんどが開墾地を離れ、残ったのはほとんど台湾人でした。私は、どんどん開墾を続けました。ところが八重山も戦争の準備であわただしくなりました。私の生活も戦争の波にしだいにおされてきました。働き手の多くが毎日のように徴用にかり出され、重労働の毎日が続き、食糧だんだん少なくなってきました。私はひどく疲れてきて、いくどとなくマラリアに悩まされました。マラリアと戦いながら山林をき開いて作った農作物もほとんど軍に供出されることが多かった。また徴用に出ているときによく農作物が盗まれることもありました。たいへんくやしい思いをしました。でも戦争ですし、台湾人とまたしかられはしないかと思い、怒りをおさえていました。戦争は人々を苦しめるものです。二度と戦争はしてはなりません。
十、切り倒される福木
石垣町字石垣宮里英(五四歳)
食糧だけではなく薪にいたるまでほとんどを現地調達 (住民の供出) に頼った。
石垣町 福木の供出 学校の切り崩し - 薪に
屋敷にある防風林用の福木も軍は「供出」ということで切り倒して持ち去りました。最初、軍と係官が各家庭をまわり、立ち木の皮を一部分はぎとり番号を次々とつけ、後からその番号のついたもの兵隊が切り倒していきました。私の屋敷からも大きい福木を五、六本倒して持ち去りました。番号をつけたものの中に倒し忘れたものがありますが、その皮をけずりとった部分は腐ってしまい、今もその傷あとが残っています。又、その福木の皮は染料としてもはぎとりました。飛行機を偽装するためのボロぎれなどを染めていましたが、字新川などは相当はぎとられた家庭があります。それから山に兵舎をつくるという口実で、学校の校舎もくずれされてしまいました。一部は山まで運んだようですが、ほとんど薪にされてしまいました。御飯を炊いたり風呂をわかしたりするために立派なイヌマキなどをくべていましたし、机、腰掛などもほとんど薪にされました。それで戦後は勉強するにも支障をきたしたわけです。
軍隊は終戦後のことなど全く考えていませんでしたし、あと一か月も戦争が長びいておれば、町は日本軍の手で焼きはらわれ、住民は食糧確保のため殺されていただろうという噂もありました。そのような秘密会議には地元出身の隊長 (高良鉄夫氏) などは除外されていたということです。軍は長期戦に備え、食糧をおもと山頂に運ばせ、ふもと(底原)において兵隊自ら稲作をするなど、どこまで戦うつもりだったのか今考えるとゾッとします。
私は敗戦をま近かにして馬車ごと召集され石垣国民学校に陣どっていた野戦病院に配属されました。主な仕事は移転のために畳や薬品などを運ぶことでした。畳などは住民を山へ避難させた後の空家から勝手にかつぎだしたもので、大浜孫伴氏宅に百畳余りも集めてあって、それを夜間に馬車に乗ることも許されないので手づなをひいて開南まで往復しました。そこからまた、おもとへ移転ということで更にそれらの畳をおもとまで運びました。
供出ということで持ち去ったものに屋敷を囲った石垣があります。とられた家庭は字大川に多いのですが、その石垣の石は道路補修に使われています。それから老人には黒ツグによる縄の供出が課せられました。私は豚を一頭だけっていましたが、いよいよ山へ避難するということで、やむなく殺して肉をもって行くことにしました。ところが殺したその日に軍から豚の供出にきました。殺した豚をわたすわけにもいかず、だからといってかわりの豚をさがすこともできず非常に困ってしまいました (住民は勝手に家畜を殺すなという軍命令があった)。幸い豚の供出にきた者が地元の知人でしたから何とかその場はごまかしたような記憶がありますが、それが軍に知られていたら本当にひどいめにあわされていたと思います。このように家畜の供出についても何の相談もなくすぐ取りあげられてしまわれる状態で、田畑で使用している牛や馬をその場からとりあげられた例もあります。軍の命令がすべてをきめてしまう時代でしたから。
十一、三〇年間育てた「キャーギ」(いぬまき) 強奪される
竹村字竹富前新加太郎(三八歳)
竹富島のお嶽の木すら切りとって「感謝状」
竹富島では、軍の防空壕のささえ木、大石部隊の構築(西海岸の砂浜を掘り、暴風林の中まで水路にしようと計画)のために、木材の供出が行なわれた。竹富島では、お嶽の木を伐ることはタブーになっているがそのお嶽のみごとな、ふく木を切り倒され、今度は住民の長期間心をこめて育成した最高の建築資材「キャー木」を強奪した。私のもの約八〇本、有田家のもの、約二〇〇本。それらは三〇年木で直経約三〇センチ高さ約七、八メートルもある立派なものばかりだった。木材を供出したということで軍から「感謝状」を受けた有田のじいさんは、「これはただの紙切れではないか、三〇年間の苦労をどうしてくれる」といかりで体をふるわせ、泣いていた。
十二、学校をこわして「水肥桶」を作り販売
竹富村字竹富前新太加郎(三八歳)
戦後も由布島の学校をこわして「水肥桶」を
軍は、由布島で自治班をつくるために、学校をこわして、資材を運んだ。戦後も学校の床板をはがして、「水肥桶」を作って販売していた。当時の校長桃原用永(前石垣市長)と私は、隊長に「今後絶対に学校をこわしてはいけない」と強く抗議し学校こわしをやめさせた。
十三、豚を殺して「縄ない」の罰を受ける
竹村字竹富前新とよ(三八歳)
豚は軍の許可なくして勝手に殺すことは禁じられていた。しかし空襲がはげしくなり、食糧も無くなってきたので、あちこちで軍にかくれて殺し、由布への避難にそなえて塩づけなどしておいていた。私の父は「自分のった豚は自分のものだ。戦争が来て、どうせ皆死ぬのだから早めに殺してしまおう」ということで豚を殺した。ところがそのことが軍に知られ、呼び出しがあった。しかし父は呼び出しに応ぜず、母を出させた。母はさんざんあぶらをしぼられたあげく一日中「縄ない」の罰をうけた。(縄は偽装用に使用していた。)
十四、まじめに勤めて
石垣町字石垣大浜嘉市(三六歳)一九四四年(昭和一九年)
十月頃のことです。当時は、警防団が組織され、各地区に警防団の活動が強化されていました。私も団の責任者の一人として交代で詰所に詰めていました。警察からの指令で、灯火管制はきびしく白衣など目だつ服装で通行することも禁止されていて、それらを取りしまることも私たちの任務として命じられていました。ある日のこと、ひとりの男が夜十時頃白地の浴衣姿で下駄をはき近くの料亭から出て、私たちの詰所の前を通りかかったので、私は即座に「白地など目だつ服装で出歩くことは禁じられていますから帰って着がえるように」と注意しました。
すると、その男はすなおに引き返えしました。後で聞くと、その男は憲兵隊長だったのです。詰所の家主である吉見さんは、私に勇気があっていいなあーなどと話していましたが、私は彼が憲兵だと、ましてや隊長だとはつい知らず、注意したわけです。翌日、その昨夜の男が、憲兵服に身をかため部下ひとりを連れて詰所に現われてきたのです。そして、「昨夜、僕に注意した者はいるか」と言うので、「はい私です」と答えると、一緒にいた者もついて来いというので、吉見さんと二人ついて行きました。吉見さんは、昨夜のことで、きっと褒められるだろうなどとこそこそ、話しつつ、今の琉球銀行の向いの憲兵詰所について行きました。ところがそこで、意識を失う程に殴られたのです。憲兵の言い分は、憲兵さえも知らないのに、誰がそんな命令をだしたかということと、その夜、憲兵の友人が警防団詰所で上衣を脱いで白いシャツのままでいたのに、彼には注意をせずに自分だけにしたということらしい。私たちの言い分には全然耳をかそうとせず、一方的に私に暴行を加えるのです。吉見さんには「貴様のあの時の態度はなにか」ということで同じく暴行を加えたのです。
仕事の怠慢で暴行されるなら耐えられます。が、仕事を忠実にやって殴られるということがあり得るのか、日本兵が、いかにもの分りがわるく、一方的高圧的で、住民をも敵視していたかの証左です。その後は馬鹿らしくて、殆んど警防団の仕事はしませんでした。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
*1:与那国の残置離島工作員は山本という記録あり。離島残置工作員 - Battle of Okinawa