『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録』 ~ 八重山 ( 1 )

 

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日本軍は石垣島に3つの飛行場と1つの秘密飛行場を建設した。

13. 海軍石垣島南飛行場(平得飛行場・大浜飛行場) 

14. 海軍 石垣北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)

15. 陸軍 石垣飛行場(白保飛行場) 

16. 陸軍 宮良秘密飛行場

石垣島の宮良飛行場を加えれば、日本軍が沖縄で建設を予定した飛行場は16カ所になる。

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。

八重山(1)(PDF形式:1.6MB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

第二章 飛行場建設

一、「平得」飛行場建設の土地接収

1942年6月 - 強制接収、強制預金

いよいよ敗戦の色が濃くなるにつれ、軍部は沖縄本島宮古八重山といわゆる南西諸島の陣地構築を急いだ。1942年(昭和17年)6月佐世保海軍施設部は石垣島に海軍飛行場の建設を指令した。それから平得飛行場の建設が始まったのである。

 

その当時の飛行場建設の模様、平得の西本貞二は次のように語っている。

 

わたしは当時、平得部落の部落会長をしていました。飛行場を予定していた土地の地主は殆んど平得の部落民でしたからいろいろな問題がありました。

 

その飛行場建設の指令式が警察署武道場で行なわれました。開会は午前八時、参加者は世保海軍施設部から海軍中尉、在郷軍人分会幹部、八重山警察署大舛久雄警部外署員、八重山支庁長、八重郡下各町村長、外三役、各学校長、石垣島内の区長、部落会長等と郡下の指導的地位の者を全部集め、七〇名ほどいました。式は軍部のことで、定刻には全員が集合し、開会されました。会場中央には真白なテーブルかけをかけた席が二段ほど高くしてあって、その両側に軍人がきちんと座っている様子は御前会議を思わせる情景でとても緊張しました。そこでは質疑などは全面的に禁止されていました。

 

佐世保海軍施設部から派遣された海軍中尉は威厳を保ちながら大きな地図を広げ、「天皇陛下の御命により、平得部落の北方、大浜部落の西方にT字型の東西線南北線をもつ海軍飛行場を建設する。面積は百余町歩必要である。飛行場の建設に全郡民が協力すること、特に平得部落の責任者は万難を排して、とどこうりなく仕事の遂行をはかるように......」との特命がありました。

 

会場にはいよいよここまで戦争がきたのかという不安がみなぎっておりました。部落会長としての責任感から身ぶろいする程張しました。

 

わたしは早速その日のうちに部落総会を招集し、警察署における飛行場建設指令式の模様を報告しました。軍部の命令とあって部落民には反対の意を表明したり、ぐちこぼす者はいませんでしたが動揺色はかくすことは出来ませんでした。すでに当時は、軍部使先の世相であり、反里的言動ができない状態がつられていて、察や憲兵の動きも活発でした。

 

その次の日には飛行場建設予定区域内の地主名簿が届けられました。わたしたちが全く知らないうちに軍部と役所で測量がなされ、地主が調べられ、名薄までつくられていたわけです。早速、地主と部落の幹部が呼び集められ、今後の問題についていろいろと話し合いがなされたが、誰一人として反対する者はなく、表面的には仕事は順調に進められた。しかし、茶の間では土地を取り上げられた部落民の不満や怒りはかくしきれず、同時に深まりゆく戦争への不安が尽きなく話し合われたものでした。

 

平得の西本真二は、このように当時の飛行場用地取り上げの状況を話している。

 

また同じく平得の東蔵盛野佐(五十三歳)は当時の土地取り上げの模様を次のように語っている。

 

「わたしは、三町歩の土地を取り上げられました。やむなく川原部落近くに土地を求めましたが、その土地も大浜国民学校敷地の移転の予定地だということで取り上げられ、ほんとうに踏んだりけったりで、泣くにも泣けず、怒りに燃えつつも、何より恐しいのは軍のことで意見を述べることもできなければ、ぐちひとつ言えず、ほんとにつらい毎日でありました。

 

以上が土地取り上げについての西本、東蔵盛さんの証言であるが、飛行場建設のためには、次のような問題もあった。拝所・墓地の移転問題である。飛行場建設工事区域内に拝所が三か所、墓地が四三か所あり、軍部はその移転を部落民に命じてきたのであった。そのことについて前出の西本貞二は次のように語っている。

 

「軍は墓地や拝所の移転を早急にするようにと部落会長のわたしに命じてきました。いうまでもなく拝所は、豊年、豊作を祈り、いろいろと祈願する信仰の場となっていて、ふだんならなにびともその移転など口にする者はいなかったのです。部落民は移転することは神様を追い払うようなもので、このことだけは絶対にできないものだと信じていたし、もしそういうことでもするものなら必ずバチがあたると信じていたのです、それが軍の命令とあって部落民はびっくりしました。軍の命令には絶対服従、それをどうすることもできず、その対策にとりかからねばなりませんでした。わたしは早速、部落の幹部をはじめ、つかさ(司)、氏子たちを集め、支庁長がその説得にあたりました。会場周辺には憲兵がうろつくなどしておどしをかけたりしました。憲兵は日頃からよく私服で部落内に入り、自分は憲兵であるといいふらし、部落中に威圧を加え、物言えぬ空気をつくっていきました。」

 

ついに軍の強い命令で拝所の移転が決まり、つかさ、氏子をはじめ部落の幹部総出で厳粛に祭事を行ない一応移転はしましたが、部落民のなかには拝所の移転で何か異変がおこりはしないか、バチがあたりはしないかという不安におそわれ、毎日がほんとに重苦しい厭な生活でありました。

 

次に、墓地の移転にかかりましたが、軍部はここでも何ら移転先を示さず、代替地も与えないままに移転しなければならない立場においこまれました。そこで仕方なく部落で土地を求め、それを小さく区切って墓をつくり、そこへ移転したのでした。無緑墓地が二か所ありましたが、それは部落会長であるわたしの責任において移転しなければなりませんでした。これらの仕事は、すべて部落と個人の多大な犠牲によって遂行されました。

 

次に、用地取り上げに対する補位はどうであったかというと、作物の補償は一文もなかったということである。土地代、建造物の補償評価も一方的になされ、土地代は最高が坪当り一円最低が十銭であった。

 

土地代の支払い業務は村役所が当たり、土地代、建造物の補償金は二割を受領し、残る八割は強制的に鹿児島興業銀行八重山代理店に定期及び当座預金をさせられ、証書のみ渡された。しかし多くの部落民が二割の現金をも、戦争に勝利するためと勧められ預金させられたりした。

 

この預金はいまなお凍結のままになっており、実質的には財産は没収されたかたちになっている。地主の中には軍の甲戦備の宣言が下り、支払い業務が停止され、証書さえ未受領の方さえいる。平得の田本信助さんもその一人で、田本さんは「証書の紙切れさえも受けていないので畑を取り上げられたのと同様ですよ。全く国家はドロボーですよ。」と、当時の軍の横郷に怒りをぶちまけ、心底から戦争への憎しみを語っていた。

 

同じく東蔵盛さんも「わたしは、当初の飛行場予定区域外に姿を持っていたのですが、何の理由もなく、また何の補償ちないまま工事中に強制移転させられてしまいました。当時の軍の横暴さと個人の財産権の軽視はあまりにひどいものでした。」と語っている。

1942年9月 - 建設開始

こうして何の補償もなく、飛行場建設用地が取り上げられ、一九四二年(昭和十七年)九月、平得飛行場は着工されたのである。

 

ここでついでに、着工当時の模様を見てみると、まず工事請負いの責任者には本土業者の原田組が当たった。人夫はほとんど地元から雇っていたが、やがて朝鮮人が百人程送り込まれてきた。そして一九四三年(昭和十八年)二月頃から、国家総動員法による平得海軍飛行場建設就役のために、八重山郡下に及ぶ徴用令が発動されたのであった。ここには六十歳未満の男女がかりだされ、動員署から区長、隣組長を通じ徴用人名が連絡されてきた。遠く離島各地からも食糧を持参して、二・三週間も民家や部落会館を借りたりして、徴用の任務を遂げなければならなかった。

 

動員された数は一日平均二千人は越えていた。馬車も強制的に徴用されるし、作業用具も個人の負担で持参し、とても重労働であった。

 

作業中背をのばして休んだりすることは許されず、憲兵や軍の幹部が常に監視の目を光らし、少しでも仕事を休む者があれば、どなり、暴行を加えることさえあった。特に朝鮮人に対しては作業はたいへん厳しいものであった。危険な作業、たとえば爆発物の取り扱い等はほとんど朝鮮人まかせるという状況であった。

 

二、泥水飲んで飛行場作業

八重山中学二年生加治○○(十三)

原田組と朝鮮人労働者「生かさず、死なさず」

わたしが中学校へ入学したのは、一九四四年(昭和十九年)の四月十日であった。一億総動員、国民皆兵、「欲しがりません勝つまでは」と大東亜共栄圏の確立を目ざして、戦意向上にやっきとなっていた頃である。

 

入学試験も、口頭試験で行なわれ、「国家のために尽くせる人間」というのが、主な内容であったように思う。マラソン、懸垂なども体力テストとして課されたのである。

 

沖縄県八重山中学校は開校三年にしかならず、運動場の整備もまだなされず、入学式の翌日から早速運動場整備作業、石割り作業が毎日続いた。

 

戦争がだんだん激しくなるにつれて、英語が軽視されていったのであるが、八重山農学校などでは、英語は一足先に廃止されてしまっていた。一メートル三〇センチしかない小さな体で、五尺余りもある木銃持たされて、一歩前後!右!左!ツケェと一時間もやられた教練の時間の苦しかったこと。配属将校の目に射すくめられて、電気に打たれたように緊張し、全身で耐えていたことなどを思うと今でもゾッとする。十二月八日は、大詔奉戴日といった。大東亜戦争の宣戦布告の日に当たり、いろいろの行事が行なわれた。

 

早朝より石垣の権現堂に集り、境内の清掃の後、配属将校の訓示、竹やり訓練などを行なって「鬼畜米英」を叫んで、国民の戦意高揚が計られた。

 

すでに学徒動員令 (昭和十八年十月) も布かれ、数多くの若き学徒が、戦場へ送られたのであるが、八重山でも鉄血勤皇隊というものが組織され、国内戦時体制の強化がなされた。

 

授業もだんだん少なくなって、週に三日、後には全くなくなってしまった。そして飛行場建設作業や兵舎作りのためのカヤ刈り、蛸壺掘りなどへと駆り出されたのである。

 

現在の石垣空港は、戦争中は日本海軍の飛行場として使用されていた。その建設作業にわたしたちは毎日のように出されたのである。

 

先生方に引率され、弁当持参で作業に出かける。はじめのうちはまだ見たこともないブルドーザー、ローラーなどを見て、たいへん興味深く思ったものである。中でもトロッコを走らせるのはとても面白く思った。

 

原田組が工事を担当していたが、中に朝鮮人労働者がたくさんいて、大きな金槌を細い柄をたわませて、「サニヤー、サニャー」とかいうようなかけ声をかけて槌を振る。単調ではあるがその音が規則正しく響く。時々厳しい監督がやって来て、口ぎたなく罵り、鞭でびしゃりとやる音が今も私の耳に残っている。「生かさず、死なさずに使う」と言ったのはこのことと、実にひどいと思った。滑走路の真中で機銃掃射を受けた日の恐怖は今も忘れることができない。

 

十月十二日、いわゆる十・十空襲の翌々日のことであった。いつものように飛行場人口で集合、先生に引率されて作業現場へ行く途中のことである。滑走路の真中にさしかかったころ、突然急降下する音が聞えたかと思うや、バリバリと、やったのである。引率の先生方は、「伏せ伏せ!」と大声で叫び、手で制しながら、あとは立ち上がって叫んでおられる。しかし、生徒は、まともに機銃掃射を浴びたのははじめてなので、気も動転せんばかりである。先生方の制する言葉も耳に入らない。蜘蛛の子を散らしたように四方八方へ逃げてしまった。さいわいに怪我人は一人も出なかった。米機はまたも引き返えして来ては、バラバラ、どかんとやる。生きた心地はしないのである。「何処をどのように走ったのか記憶にはないが、気がついてみるとわたしは平得部落に入っていた。

 

昼食時間のことである。弁当。当時は食短不足で、白米追放運動などというのも本土にはあったと聞いているが、米はすべて軍に供出されるので、私たちの口にはあまり入らない。私の弁当は、はじめは麦を混ぜたもの、後では大豆を混ぜたご飯であった。それにカボチャの花のチャンプルーなどが入ったりする。

 

その日は弁当を開いてみると砂がいっぱい入っていた。さっきの爆風で入ったのであろう。

 

炎天下の飛行場作業で最も苦しかったことは、飲み水不足であった。作業班の中から四、五名ずっ水運び要員をだすのであるが、遠い大浜の部落まで行って汲むので、とうてい間に合わない。仕事がきついと余計水が欲しくなるのは人情だ。

 

当時はよく、「......五分前」ということが言われた。「休憩五分前」と聞くともう水飲みの用意である。われ先にかけ寄り、ずらり列をつくって、押し合いへし合いである。泥と汗に汚れた手を突っこんで、五、六人が飲むともう汚れてしまう。後方の人の番になる頃には泥水そのものだ。このように泥と汗のうちに平得飛行場(別に大浜飛行場と呼ぶ人もいた)の作業は進められた。

平得飛行場と並行し白保飛行場も

平得飛行場の作業と並行して、今度は白保飛行場である。だんだん戦況が激しくなると敵芸の来襲もひどくなってくる。白保飛行場は特攻隊の出撃にも使用された。そこでの作業は、主に爆撃でやられた滑走路の穴埋め補修作業であった。敵機来襲のあい間になされるので、大変な仕事である。

 

夜間の空襲もだんだん激しくなる。私は与那国鉄先輩とは、下宿が同じであった。防空壕の中で聞くB29の音は、親もとを離れて何かにつけ不如意な、十三歳の少年の心には、心細いというよりも何か異様な感じがした。それをこらえ、それに耐えさせてきたものは一体何であったのか。八重山高等女学校のKさんは、埃の中でよく泣いていた

 

鉄血勤皇隊も飛行場作業が終る頃には、通信隊に配置される音対空監視に立つ者もあり、他はあちこちの部落に配置された。私は沖縄製罐工場の南の方にあった田所隊に配置された。そこでの仕事は蛸壺掘りやその他の雑役であった。時には市丸という配属将校の当番兵などをしたりしたこともあった。

 

その頃(一九四五、六月)級友の城間君がマラリアのため、あたら若き命を失ってしまった。市民は殆んど於茂登岳に避難していた。食糧不足のため極度の栄養失調で、マラリアに倒れてしまったのが多かった。城間君の遺体を運んでとり見えない石垣の町通った時のささしさは、何とも言い表わしようがない。赤く熟した桃が、どの家にもたわわに実っているのだけが目立った。

 

六月頃からいよいよ上陸の公算大ということで、部落ち始んど於茂登記に移った。部隊移駐用のカヤ葺兵舎作りや、八重山神社の建立作業にも従事した。

 

八月二日、私はとうとうマラリアにやられてしまった。郷里に帰ってもよい、という特別の許可を得て私は喜び勇んで竹富へ帰った。マラリアの高熱にうかされて、終戦になったことも全く知らなかった。高熱のため頭のも遠くなり、顔も青ざめて、やっと立ち上がれるようになったのは、九月の半ば頃であった。

 

というわけで、私たちは一年生の頃はともかく、二年生では全く授業もしていない。最も大切な時期に鉄血勤皇隊として駆りだされ、勉強の機会を失ってしまったことは、返えす返えすも残念で、日本軍国主義に対する大きな怒りと同時に、今後このようなことをくり返えさないように、今こそ自覚して立ちあがるべき時だと思う。

 

三、青年学校生徒の白保飛行場建設

大浜村青年学校々長宮良○○(四十歳)

軍隊の手先となり二度と教地に立つことができるのか

わたしは昭和十九年、大浜村立青年学校(今の礎辺に茅で作ってあった)の校長として赴任しました。従来各学校にあった青年訓練所が統合され、青年学校として一九四四年四月に独立したのです。石垣町立青年学校は、現在の農林高校にありました。校長は島袋俊一先生でした。

 

大浜村立青年学校の教諭は、石垣英政(現南部農林校長)、松山忠夫(現石垣市会議員)、宮城光雄(現石垣市教育委員)、清村英診(元石垣市教育委員)の各氏で、当時生徒数は四〇〇人ほどいました。学年は四年まででした。ほとんどが午後からの授業でした。主に軍事教練科目、公民科を教えました。大浜地区の底原という所で、米も作っておりました。

 

空襲もはげしくなってきたので、収穫もしないままになってしまいました。そのころ住民は食糧の確保増産、軍作業への協力、防空塚掘りなどと追いまわされる状態でした。六月には野戦飛行場設定隊もやってきて、青年学校の生徒もトラック八台を受けるたされ、白保部落の民家を借り受け、朝は暗いうちに食事をとり、班(第一班から五班まで編成)ごとに点呼をすませ、校長を先頭に白保飛行場建設に、駆り出されることになりました。

 

真夏の照り輝く太陽の下で、汗まみれにツルハシをふるう生徒、モッコで士砂を運ぶ婦女子、馬車の往来、人海戦術の飛行場建製でした。たしか壮年団、婦人会、中学生、国民学校の生徒たちを含めると1000人ぐらいはいたと思います。石垣から白保への道は、朝夕、飛行場建設に徴用された人たちでいっぱいでした。七月に入り、「サイパンで日本軍全滅」とニュースが伝えられたが、軍部は「神国日本がまける筈がない。いま敵を引き寄せて一挙に勝敗を決するのだ。」と豪語して、苛酷なほどに飛行場建設のために、徴用人をこき使うのでした。わたしも、戦争が終る前まで、日本国の神州不滅論生徒にとうとうと説き、励げましていました。そうしたら二、三日で終戦なりました。あの時の気持は複雑怪奇で自分でどう整理していいかわからない状態でした。今考えると恥しい、おかしい話ですが、ほんとにそう思っておりました。

 

終戦となり、もう一度教職に就こうとは思いませんでした。軍隊の手先となり、若い青年をだまして二度と教地に立つことができるのかと毎日良心の呵責をうけ、とうとう教員をやめることにしました。今は農業をしていますが、あの成長盛りに十分栄養もとらされることなく、炎天下でツルハシをふらされ、飛行場つくりに一生懸命になり、日本国の神州不滅を信じ、牛馬のように働かされた寄年たちに、何とわびをしてよいやら、わびのしようもありません。いくら過ぎ去ったこととはいえ二度とあの悲惨な戦争をおこしてはならないと思います。

 

教育は人を殺すことも出来るし、また人々を愛させることも出来るものだと、今つくづくそう思います。どうかこれからの教育者は科学的真理に基づき真の歴史を教えてもらいたいと思います。そしてほんとうに平和を求める青少年を勇気をもって育ててほしいと思います。

 

四、飛行場建設のための小浜島からの徴用

原田組の監督の厳しさ - 牛馬のように

太平洋戦争もいよいよ戦局が緊迫するにつれて住民の生活も次第に苦しくなってきた。特に一九四三年から一九四四年(昭和十八年から昭和十九年)にかけて、ここ八重山においても国家総動員法に基づき登用制がしかれ、老若男女問わず働ける者はすべて費用に狩り出されたのであった。

 

ここでは、主に離島生民の徴用の情況を記す意味で、小浜島の次の方々に当時の情況について語ってもらった。

仲原○○(五十歳)

黒島○○(四四歳)

小浜○○(四四歳)

浦底○○(四一歳)

慶田城○○(三九歳)

 

仲原 わたしは、昭和十八年から昭和十九年にわたって数度徵用されました。主に平得飛行場建設のための徴用でありました。原田組の監督の厳しさにはがまんできませんでした。小浜から徴用された人たちは、今の宮鳥お隣りの石垣会館に収容されるようになっていました。そこから平得飛行場まで歩いて通うのです。

 

朝は五時に起き準備しなければなりませんでした。作業開始は午前八時で、終りが午後六時です。仕事は主に地ならしでありましたが、ツルハシを使っての重労働はたいへんなものでした。それに食事が悪く、たいへん苦しんだものです。

 

食事は、朝、昼、晩とも同じもので、おじやの小さなにぎりでした。炊事のために徴用された小浜の婦人が朝早く、にぎってあるものを朝食として二個食べ、二個は昼食の弁当として包み、作業に出ました。へとへとになって帰って来ても同じにぎり二個しかなかったのです。今考えるだけでも、あのときの腹のすきよう、疲れのぴどさ、苦しさが身にしみる思いです。

 

また苦しめられたのは、時間に追れることでありました。少しでも時間に遅れると、監督は、めった打ちになぐるのです。「君たちが時間に遅れたり、怠けたりしたところで、牢屋に入れることができるわけでもない」といって、監督はなることしかしなかったのです。これにはほんとうに腹がたちました。

 

サイパン島玉砕の報が伝わるや、監督は徴用人を集めて、「サイパン島が玉砕した。こちらにもやって来るおそれが強くなった。だから急いで飛行場を完成させなければならない。死にもの狂いにやれ」と命じて、牛馬のようにこき使いました。

 

その頃、わたしは「日本がアメリカに勝てるはずがない。日本が負ける事は明らかだ」と考えていましたし、小浜の友人たちにもそのことを言っていました。しかし、そのことが軍部にでも聞かれると、わたしは打ち首だから秘密にしてほしい、と念を押して知らん顔をしていました。サイパン島がやられたと聞いた時、「どうせ負けるなら、早く戦争をやめればいいのに」と思いました。

 

どうしてわたしがそのようなことを考えたかというと、わたしは二十年近く川崎汽船豊福丸(六〇〇〇トン)の船乗りをしていて、アメリカのスクラップを日本に輸送していました。日中戦争がはげしくなってくるとアメリカはそのスクラップの輸出を禁止してしまいました。日本の物資は急速に少なくなっていくのです。アメリカの物資は莫大なものであったことはアメリカへ行って知っていました。だから物資の多いアメリカに日本が立ちむかうことが出来るわけがないと考えていたのです。

 

食糧の供出については、村役所から「田のあるものは全部耕作せよ」と命ぜられ、収穫したものはほとんど供出させられました。小浜島の田からは普通一反歩につきおよそ五俵とれるが、そのうち四俵は供出、あとの一俵しか自分のものにならなかったのです。在民の主食は芋で、供出米を作るあい間に芋を作ったのですから、食うのに十分ではなかったのです。しかも徴用で作業に引っぱり出されるし、作物を作る余裕などありませんでした。そのうちに空襲となり、避難した昭和二十年三月から戦後にかけて、ついに決定的に食糧難に苦しめられました。

 

家畜の供出はなかったが、軍は申しわけ的な金をやって、牛や豚をむりやりにつれて行くこともありました。その頃島の人にはお金など必要なかったのです。しかし軍の言うことに逆うとどういうことになるかあとがこわいので仕方なく従ったものです。

 

避難は昭和二十年の三月頃から行なわれました。山小屋や嫁のなかで六か月も苦しい生活を強いられました。小浜には海兵隊がいたので空襲が多く、部落にはおれなく山なかに小屋をつくってそこへ避難したのです。部隊がなければ避難などしなくてもよかったと思うのです。というのは、小浜にいた兵隊が島を偵察している飛行機に銃撃したのです。それからというのは、部隊のいる小浜部落に機銃掃射をしてきたのです。なかには爆弾さえ落され、一家全滅というところもありました。

 

山に避難したためにマラリアにかかり死んだ人が戦時中だけでも一五〇名を越えていました。わたしもマラリアで子ども一人をなくしてしまいました。当時のことを思うとほんとに怒りがこみあげてきます。戦さをしなければこんなことにはならなかったのです。わたしたちは、戦争はもうごめんです。二度とこんな戦争はしたくないものです。

平得飛行場から白保飛行場の建設へ

小浜 わたしは、十九年に、平得飛行場建設のため三週間ほど徴用として働かされました。当時小浜から飛行場建設のために徴用として駆り出されたのは四〇名ぐらいで、小浜丸と照島丸で行きました。石垣での収容所は、竹富村役場で準備してありました。それが今の宮烏お猿の所で、三週間の徴用が終ると今度は別の島から四〇名ほど交替でやってくるというしくみになっていました。

 

わたしは二度も徴用にかり出されました。仕事は主に飛行場の地ならしでした。ツルハシをふったり、モッコで土砂を運ぶのは、島での仕事で慣れてもいたためそんなにつらいとも感じなかったが、空腹にはがまんができませんでした。小さなにぎり飯二個を食としてとり、午前六時には宮鳥を出発、八時から仕事が始まるのでした。遅刻するとそれこそたいへんです。ぶんなぐられるということがこわくて八時の時刻だけは何とかして間にあわせました。昼の弁当といってもわずかおにぎり二個です。そのときはほんとうにがまらさ(くやしい)かった。

 

徴用も無事に終え、やれやれと思っていたら、今度は白保特設工兵隊入隊の赤令状がきました。昭和十九年の十一月のことでした。国家の命令はしかたがありません。身体検査があるというので石垣へ行きました。特設工兵隊入隊の身体検査は、今の「海星」小学校の運動場で、そこはあの頃、記念運動場と呼んでいました。

 

その身体検査のしかたというのは、わたしらを南方の土人とでも思っているのか、それこそ人をばかにしたやり方でありました。ふんどし一つも着けさせず、全くの丸裸で、数十人一列横隊に並ばせ軍医が調べるのです。大の男がぶらんぶらんと全玉をぶらさげて運動場に立ち並んでいる姿を想像して見て下さい。全く人間の差恥心を無視した日本軍の本質そのものではありませんか。恥かしくても軍命に従わないとどういうことをさせられるかそれがこわいので、みんな一言もいわずに黙って検査をさせていました。今では考えられないことを平気で軍隊はしたものです。

 

浦底 わたしは、昭和十九年一月から九月まで平得飛行場づくりに、十月から西表の松切り部隊に徴用として駆り出されました。あちらでは山から松を切りたおし運び出す仕事をさせられ、牛もわたしと一緒でした。

 

そして十一月には白保の特設工兵隊に入隊させられました。隊長は元琉大学長の高良鉄夫氏でした。部隊は白保飛行場の北方にあり、主に飛行場の補修、飛行機の整備、爆弾・燃料の積み込み作業、タコツボ掘りなどでした。

 

睡眠時間は昼の一時間で、その後は夜の二時頃まで働かされました。一、二中隊は飛行場の弾痕埋め、そのために白保部落の石垣がみな低くなっています。三~五中隊は飛行機を格納庫に出し入れする仕事でした。格納庫といっても、白保海岸近くの雑木林をきり開いてつくった所で偽装しやすいようにつくってありました。飛行機が飛び立つのは赤下の秘密飛行場で、そこまで飛行機をおさなければなりませんでした。夜しか飛行機はおせませんでした。昼はもう敵の空襲にあい、どうしようもなかったのです。

 

特に一九四五年(昭和二十年)の三月以降はたいへんひどかったものです。特攻機は台湾から薄暗くなって白保飛行場に着陸し、燃料の補給、搭乗員が休養をとり、未明に飛び立つようになっていました。白保飛行場から赤下近くの秘密飛行場まで飛行機おして歩くのはなみたいていのことではありませんでした。午後五時頃から午前二時頃まで飛行機おしをさせられたのにはたいへんつらい思いをしました。

 

慶田城 つらかったのは、秘密飛行場をつくるために、一日中働かされた上、食糧は親指ほどの二本の芋で、仕事中目まいして倒れそうになったことも何度かありました。ほんとに泣くに泣けない状態でした。一九四五年の彼岸の頃、白保の戦友が、もちをもってきてみんなにわけてくれた時ほど嬉しかったことはありませんでした。そのときのもちの味は今でも忘れることができません。

 

黒島 ほんとに、ひもじさにはたえられませんでした。こんなことがありました。あまりのひもじさに、五、六名の者が集まって相談しました。長山の山城さんという人の中に芋を植えてあるので、これをほってきて食べようではないかという相談です。だれもこんなことは悪いとは知りつつもどうしようもなかったのです。みんなの相談がまとまって、いざ実行となりましたが、これが上官にでも見つかったらそれこそたいへんです。何かいい方法はないちのか、いろいろ考えたすえ、芋の汁が着物については、ばれるからということで、雨具に芋をつっむことになり、その通り実行しました。生まれて初めて他人のものに手を入れるのですから、ほんとに胸がドキドキしました。やっとのことで、芋を十五、六個何とかしてほりだし、雨具につつんで持ち帰りました。

 

ところが次に困ったことは、それをどのようにして煮て食べるかということです。カンカン(空缶)で煮て食べようとするけど、今度は煙が出て、これでばれてはもともこもなくなりこれまでの相談がダメになってしまうとあって、いろいろ考えましたがどうすることもできず、思いきって煮てみました。

 

運よく、わたしたちの取りはからいはばれることなく、煮てある芋をみんなで分けて食べたときは、何ともいえない思いでした。イクサヌタミカテイ、ヒトヌアコンハフリフオンディアルキ、バカイナムヌナ(戦争のために、他人の芋を掘って食べようとして歩き、わたしたちは残念だね)。

 

浦底 わたしはクミンツナ(畑に自生する雑草)の汁をつくり、味づけしないと食べられないので部隊に塩をもらいに行きました。幸か不幸かだれもいないので、「いただきます」と言って、手のひら一杯の塩をもってきて、味づけをし、みな喜んで食事をしていました。そしたら、そこへ部隊の上官が入ってきたのです。「塩を盗っていったのは誰か。わたしは品川で水浴びをしていて、ちゃんとこの目で見ている。正直に言え」とのこと。みなの喜びも束の間わたしの顔はいつのまにか青ざめていました。わたしは勇気を出して、正直に「わたし塩をとりました」と申し出たら、ビンタを思いきりたたかれました。この時のくやしさは何とも言えない。

 

赤ハブをとってきて味つけのないまま食べた時もありました。ひおじさにはがまんができなかったのです。もう二度とこんな思いはしたくありません。

 

五、白保飛行場の土地接収

大浜村字白保豊里○○(四十歳)

白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東流手刈、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。砂糖きび、芋、大麦、粟、キン、カズラ豆、大豆、野菜等が年々作られていた。このような立派な土地が強制的に日本軍によって接収されたのは、たしか昭和十九年の五、六月頃だった。陸軍省から塚原事務官と田中見習士官がやってきて、白保に飛行場を設営しなければならない。それで、「前に掲げてある土地を提供せよ」との命令である。国家総動員法による命令である。当時だれもがそうであったように、国家の命令には絶対服従である。土地がとられるのはいやだと思っていても、それを表面にあらわすことは出来なかった。国が勝つためには、やむを得ないという立場に追いやられていたのである。

 

軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。必要な所をみな測衰し終えた後で、土地代は大浜村役場で支払う。印鑑をもって取りに来いということだった。全く国側の一方的な仕打ちで地主はただ国家の指示する価格に従わなければならなかった。このようにして白保の飛行場用地は国に取りあげられたのである。そして山田部隊浅沼部隊などが入りこんで来、飛行場建設に着工したのであった。工事がすすむのに従い作物の収穫もしなければならない。たいへんいそがしかった。宮良○○ (当時四五歳ごろ) さんなども芋をたくさん植えてあり、それを収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。しゃくにさわった。

 

土地代の支払いにもそのようなでたらめさがあらわれている。土地接収で、面積の少ない者には全額受取った者もあり、また全く支払われない者もいる。全額をもらったにしても、その金額の内訳がわからない。(地上物件補償金なのか、土地代なのか)広い面積(わたしなど二町歩余りとりあげられている)の人々は分割して支払うというやり方だったが現金は二%ぐらいで、残金は、銀行定期預金証書や、国庫債券を交付してわたした。

 

だが戦後二十八年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。そこで私たち地主は、国が強制的に接収した白保飛行場の土地を返還してほしいと今国に要請している。要請は1951年からはじめ、1973年のいまもなお続けている。私たちの要求は正しいと思う。戦後28年にもなっているのに戦後処理がいまなおなされていない。強制的に土地を接収し、その代金も未支払いのまま国有地になされている。どう考えても納得がいかない。戦争遂行のため接収した土地であるし、当然、土地は地主に返すべきではないか。

 

六、白保飛行場の土地問題

陸軍の飛行場用地として日本陸軍省が接収した白保の土地面積は六九町二反二畝六一歩であった。その内、畑、四七町八反六畝二九歩、原野、二一町三反四畝五歩、溜池、二畝二三歩、墓地四歩である。

 

土地の価格は、当時の八重山警察署、八重山支庁長、村長、地主側より代表者を選定し価格を決定したようで、価格の基準は、土地台帳による各地目別貨貸価格によって算出した。

 

協定書

石垣島耳用施設整備ニ伴フ土地価格並ニ地上物件移転補償費等)価格ヲ左記之通り協定ス

左記、

一、土地売買(売渡)

     価格区分  段当単価

一、宅地 六00円  二、00円

二、畑        坪当単価

四五級以上240円  O、八0円

四四級以下210円  O、七0円

三、

山林原野 一三五円一三五円 〇、四五円

その他  一三五円一三五円 〇、四五円

二、耕作物補償費

区分段当单低坪当单師甘藷10円O、三円栗四五円O、一五円

三、立木竹類移転補償費

芭蕉1本円松一寸~三寸O、O六円松四~六寸O、三〇円松七~九寸O、五〇円松一尺以上、八O円以上ノ通り協定ス昭和一九年九月二六日球一六一六部隊陸軍主計少佐见鳴

八重山郡大浜村長一真玉橋朝大浜村字白保区長豊里友

南部落会長榎本博北部落会長仲宗根土地代表者星

天久朝正

内原加球経営第一五九号

加正克弘行吉珍春

土地代価ノ支払ニ関スル件通深昭和一九年十月十一日

球第一六一六部隊経理部長八重山郡大浜村長殿

※通牒抜粋一、土地ノ代価ハ臨時資金調整法ニ依り、国債ノ購入又ハ長期据置

貯金ヲ実施セシメ現金ノ交付ハ、負債整理等特別ノ必要アル額ニ限定スルコト二、本人ノ受領証ハ貴職ニ於テ保管シ置キ随時要求ニ依リ提示シ得

ル如ク整理ヲシミクコト三、尚残額ハ全部移転登記終了ト同時ニ支払フベキニ付申添フ

 

右資料は旧陸軍用地に関する書類によったものである。このような協定書と通牒によって白保の土地接収はなされていった。白保の土地接収の年月日は昭和十九年六月十日となっており、所有権(陸軍省)移転が昭和十九年十一月から昭和二十年十二月二十七日までとなっている。終戦後所有権移転が完了している。当然のことながら通牒にもあるように移転登記終了と同時に全額が支払われるべきだのにその履行の義務を政府はいまだに怠っている実情である。

 

終戦後土地は米国の財産管理所に管理され、そこから農耕地として借り受け耕作するようになった。今は日本政府になり国有財産として、沖縄総合事務局内にその管理所がある。米軍占領時一九四七年(昭和二十二年)、南部琉球軍政本部主席政官マクラム中佐は経済命令第四号(一九四七年四月十五日公布)だし、日本陸軍所有地として登記されてある土地を処分した。該当者は、現在の耕作所有地が一、五00坪以下のもの、現金および財産が合計五〇、。00円以下の地主となっている。その経済命令第四号で一部の土地は地主に返還された。約十名ほどの地主で、二町九反七畝六歩だった。

 

経済命令第四号も、一九四七年十月十二日経済命令第六号で廃止になっている。その経済命令第四号が出されたことを知っている地主はわずかの人数しかおらず大部分の地主はそのことを知らなかった。それにしても命令で土地は地主に返還された。残りの土地も返還してくれるように地主からくり返しくり返し、日本政府とアメリカ政府へ当時の琉球政府を通じ陳情をした。アメリカ政府の回答は、

「石垣の三飛行場及び西表の一地域含む土地の所有権を再取得したいとの旧地主の要望は理解できる。しかしながら旧所有者は、日本政府にこれらを売却した時に、当該財産に対する権利を失ったのでこれらの土地について適法な請求権を持たない。旧所有者の権利復活方要請に基く、貴政府の要請を好意的に是認することは適当でないと考える」(高等弁務官に代り総務部長、ケネス・S・ヒッチ中佐)

以上の通りで、アメリカ政府も、日本政府も不当に土地を取り上げながら、旧地主の陳情や琉球政府の要請にも耳をかそうとしない態度である。「まだ政府は戦後処理をしていない」と地主たちは情激し、市町長、市町議会、県知事、県議会を通じ、政府に要請している。

 

陳情書

元白保飛行場用地を元地主に返還できるよう御配慮方陳情趣旨

去る大戦中日本軍使用の白保飛行場用地を元地主に返還できるよう御配慮方陳情いたします。理由一、元白保飛行場は去る大戦に日本軍が建設して使用しました。飛行場用地は、私達白保部落に最も価値の高い生産源でありました。二、然しながら当時すべての日本国民がそうであったように戦争を有利に導く為には如何なる犠牲をも辞せずという地主の心情から国家の強制的買上げにも私たちは応じて戦争協力の善意に基づいた行動に出たのであります。土地代金は日本軍の評価するままに応じて大浜村長の調整による土地代金支払い調書の示すように、わずか二割の現金支払いがなされただけで残り八割は鹿児島興業銀行八重山代理店の定期預金又は当座預金証書が渡されました。その預金も終戦と共に凍結され現在いま尚土地代の八割は地主の掌中に入っておりません。三、又農耕地は農民の生命であるにもかかわらず関係当局はその代替地を与えて一日も早く生活の安定を計ろうとする施策もなされておりません。

四、然るに戦後の食基難の悩みの中で、自らの生活の為めに施政権者である米国民政府財産管理課八重山支部から適正地料で借地して耕作しています。然しその土地を耕地化する為には予想以上の困難があり、特に弾痕の処理埋立、表面の敷石の除去等耕起復元に多くの労資が投ぜられ現在まで大方の地主が土地の改善を計りながら耕作をしています。以上元白保飛行場の現在までの推移を簡単に述べましたが当局におかせられては私達旧地主の実状を御賢察の上一日も早く私達に土地が返還出来るよう御高配願います。

今や国家も社会も平和を迎え国民生活も安定の方向に進んでおります。この期に当り戦争の出来ごとであることについて理非曲直を正し温情ある御処置によって、元白保飛行場用地が一日も早く私達元地主に返還されるよう関係書類を添付して陳情いたします。

代表者豊里友美

代表者天久朝功

 

以上のような旧日本陸軍用地の返還運動が展開される中で、今度は新たな問題が提起された。それは国から借地して耕作している人々の耕作権の問題である。次は現耕作人の陳情文である。

 

陳情書

旧陸海軍用地の現耕作者の保護について

大東亜餓争終戦後昭和二一年より日本陸軍省有地(元白保飛行場跡地)を米軍財産管理課から借受け、食耀不足とマラリアで弱りきった体に鞭打ちツルハシと錫鉱で敷詰められた石を掘り起し、押し固められた土地を動起して土砲を砕き無数にあけられた弾痕を埋めて整地して、やっと畑地にし芋や砂糖キビを植付け、当時の食糧難を解消し、ようやく今日まで生活を続けて参りました。

過去を振り返って見ると、当時敗戦で無一物の中から裸一貫で激しい労働と長い日数を費し血と汗の苦しみを続け、ようやく育てた作物も毎年のように襲いくる干ばっと台風にたたきのめされました。然しそれにも負けることなく耕作を続け生命を守って来たことはまことに筆舌に尽し難い苦難の歴史でありまして該土地こそ私達の生命線であり、永久に耕作の出来る土地であると信じて大事に耕作を続けております。

ところが最近元地主の方々が返還陳情していると聞いて大変心配しております。農地法に照してる現耕作者優先で絶対に取りあげられることはないと信じますが、若しものことがあってはと考え、陳情に及ぶ次第であります。該土地が当時飛行場用地として買収された時は、地代として現金或は国償又は証券等で支払われているし、その補償は国の責任に於いてなさるべきであると考えます。又元地主は、買収された土地の代りに戦後白保上牧場、下牧場の一部を廃牧し、優先的に払下げを受け、又其の他市有地の払下げも受ける等して耕地の確保は充分できて生活に支障がなく営農を続けています。元地主の中には契約名義を現耕作者に名義売りした事実もあり、今更、返還して貰いたいとのことは現耕作者の生活権を奪うを

ので私達耕作者にとって断じて許せないことであり、農地法の趣旨にも反するものであると思います。

愈々二〇有余年の悲願でありました祖国復帰も五月一五日と決定し、該土地も米軍管理から日本政府に移管されるものと思います。幸い日本政府としても本土県並みに農業の振興も御計画されておられるようですし、私達としても政府の政策に対応するため、土地改良組合を結成し、灌漑施設、土壌改良、防風林施設等の基盤の整備をして安心して耕作することができるようにしたいと考えています。その為には是非とも該土地の払下げを受けることが必要でありますので、私達の意を御察し下さいまして実情御調査の上、特別な御配慮を賜わりますよう、耕作者署名捺印の上陳情申し上げます。

昭和四七年三月二二日元日本陸軍白保飛行場耕作者

 

代表宮里太郎印以上のように今日保飛行場土地問題は二つの運動が展開されてい

る。

 

 

第三章 踏みにじられる子どもの教育

一、教育の名において教育を殺す

仲山○○(十三歳)

軍が学校を占有する

「国民の教育権」を考えるごとに、戦争中の私たちの惨めな教育を思いださずにはおれない。

 

教育内容については、真実を教えず、教育勅語と神勅を詰め込み、事実に基いて、事物を科学的に考える態度を育ててくれなかった。神国日本と日本の無窮の繁栄を信じさせて、私たちの頭から科学の芽をつみとったのである。私は当時、大浜国民学校の六年生でしたが、サイパン島の日本軍全滅、東条内閣総辞職、沖縄空襲という事態が相次ぎ、日本の敗戦が濃厚となっていたにもかかわらず、不安を持ちながらも、神威を信じ、それに期待を寄せて、日本の勝利を疑うことを知らなかったのである。

 

戦争が私たちから奪ったのは、科学的な思考力だけでなく、授業も校舎もとりあげたのである。

 

私の通っていた大浜国民学校は、一九三三年(昭和八年)の台風で、大浜部落にあった学校が倒壊したのを機会に、大浜、平得、真栄里の三部落間に、一九三四年に建てられた真新しい学校であった。敷地は現八重山病院の建っているところである。「日本の戦局の危機を反映して、一九四三年(昭和十八年)には私たちの学校大浜校の北方三百メートルの位置に海軍飛行場が、翌四四年には、白保の北方に陸軍飛行場の建設が突貫工事で進められ、軍隊も夥しく移駐してきた。私たちの静かな学習環境は打ち破られ、勉強どころの話でなくなった。私たちは、ペンやノートの代りに鍬やモッコを担がされ、勤労奉仕隊として頻繁に動員された。平得飛行場の整地、ペーギナー飛行場の草刈り、道路の改修、轟川方面の部隊の兵舎用の茅刈りとその運搬、道路両脇のたこ壺掘りなどであった。真夏の炎天下、飲水もない所での作業のきっかったことは、今になお忘れられない。

 

飛行場に近接している私たちの学校は、航空隊にとっては、恰好の兵舎であった。一九四四年(昭和十九年)六月、飛行機整備隊の大久保隊員十人がやってきて、校舎の一部を兵告に使用するようになって以来、軍隊が次第に増員され、やがて私たちと軍隊の主客が転倒するようになった。フィリピン方面での戦局は日増しに悪化し、その方面への特攻隊の出撃が始まるようになると、特攻隊員も宿泊するようになった。

 

九月はじめ職員室を除く全校合がとうとう軍隊にとりあげられた。私たちは、自分らの学校を追いだされ、各自の机と椅子をもって民家にくだった。四年生以下は大浜、平真に分割されて双方で、五年生以上は大浜部落で授業を継続することとなった。私たち六年生の仮教室は兼久さん宅であった。両部落間の距離は、飛行場を間に挟み、約二キロメートル、途中には陣地もあって、万一の場合には危険であった。

 

仮教室は、屋根は低く、部屋は狭く、採光は悪く大変窮屈であった。男の先生は多く召集され、月水金曜日は男子組が午前、火木土は女子組が午前授業というように、一つの教室を男・女組が交互に使用し、授業も一人の先生で担当した。私たちの担任は高等科二年にまわされ、私たちは女子組の先生に担当してもらった。

 

校舎は、九月の末、二日にわたって三年以上の全校生が出校して、海岸からアダンを切って来て屋根に乗せ、きれいに擬装した。校舎は遠くからはアダンの森に見えた。学校には、以後一回、擬装の補強に行っただけで、行く機会はもうなく、完全に兵舎と化してしまい、永久に私たちに戻ってこなかった。

疎開

情勢はますます悪化し、十月十日、本島に大空襲があって那覇市が全滅した悲報が伝わってきた。これまで、何とか情勢が好転してと幻想にも似た淡い期待感から台湾疎開をちゅうちょしていた私の家も、ついに意を決し、台湾疎開に踏みきった。祖父、父、姉が残り、祖母、母、私以下の子どもが疎開することに決り、豚もつぶして準備にとりかかった。

 

十月十二日、その日は男子の午後授業の日で、八時は過ぎていたろうか、私は、野原から帰ってくる途中、北方の空に、煙幕を張って急降下しながら機銃掃射している四機を見つけた。友軍の実弾演習の噂があっただけに、私はてっきり友軍の演習だと思い、得々と岩に上って見ていた。ところが何と、それは敵機だったのである。部落全体が右往左往し、安全地帯を求めて海岸や野良に避難を始めた。その日の午後と翌午前中はどうともなかった。

 

私たちは、部落内では危険なので郊外に防空壕をつくろうということで、午後から母と姉と二人で、部落はずれの森の片隅に防空壕を掘っていた。午後三時は過ぎていたように思う。南東の方向に爆音が聞こえた。機体を発見したときには、十三機がすでに平得飛行場をめざして爆撃を開始していた。私たちの頭上を低く、敵機が乱舞し、爆弾、ロケット、機銃掃射を浴びせてくるので、全く生きた心地はしなかった。草をかぶって岩のかげにじっーとこらえていた。そこへ祖母が私たちの安否を心配して飛んできたのである。ところが、岩かげにかくれている私たちをさがせる筈がない。途方にくれたように、森の上に立って「バンテーヌファーヌメーヤージマハドゥハッタカヤー」(家の子もたちは何処に行ったのだろう)と、弾の中を私たちを探している姿が、それから三十年にもなろうとする今日なお目に残っている。台湾疎開は自然取り止めとなった。

 

一九四五年(昭和二十年)に入っては、敵機来襲が頻繁となり、危険が増大したので、二月一日、ついに五年以上の生徒も各部落で授業をするようになった。私たちの大浜校は事実上二つの学校に分離したのである。部落の集会所に教室を定めに学年は、新たな軍隊の移駐によって、またそこを追いだされ、別の民家に移った。その民家にもやがて、別の軍隊がやってきてまた追いだされた。結局、落ち着いた所は、部落の拝所としてのお獄であった。その頃には、頻繁な敵機来襲で休校も多くなった。

 

三月二十三日、危険を冒して大浜役場の庭で、形ばかりの修了式が行われた。例年歌われる卒業式の歌もなく、君が代海ゆかばを歌わされた。久しぶりに全級友が揃ったが、数人の者にとっては、それがみんなと会う最後の機会となったのである。

 

四日後の三月二十六日、米軍慶良間島上陸、四月一日沖縄本島上陸、史上未曾有の大変事沖縄戦がはじまった。それとともに酷烈な空襲が八重山にも連日おそってきた。危険にさらされた地域の伝民は、安全地を求めて四月上旬頃までには、山岳地帯に避難した。

 

私も四月初め、於茂登山麓の開南部落に避難していたが、中学校の入学式があって、祖母の制止もきかずに一週間後には村に戻った。入学式は四月十日であった。途中、生命の危険にさらされて潮く中学校にたどり着いた。学校での入学式は危険なので、学校の部のマイツバお嶽が式場に当てられていた。

 

安里校長の訓辞中に敵爆来襲

対空監視が「敵機来襲」を伝えるが早いか中学校に爆弾投下。至近弾の炸裂となった。式場は一瞬にして騒然となった。「その場で伏せ」「動くな、動くな、動くと切るぞ」と高良隊長の声が聞えた。無我夢中でその場に伏した。我にかえって顔をあげた時には、大木のかげに潜んでいる者、お獄の縁の下にもぐっている者、さまざまであった。

 

入学後、間もなく鉄血勤皇隊編入、中学生としての使命は全く放棄せねばならなかった。生命がけで出校し、空襲の合間に、食糧増産のための運動場の明娘と軍事教練、そして時折旅団本部の雑役に従事する、それが六月十日避難前の私たち新入鉄血勤皇隊の毎日の日課であった。

 

六月八日、名蔵大田原に避難、七月初めマラリアで倒れ、以後一九四五年一月の半ばまで学校がどうなっているのかも分らなかった。マラリアとの苦闘、それにおいかぶさって来る食植難、うち統く家族の不幸が原因であった。

 

日本の歴史上こういう教育の時代が他にあっただろうか。子どもから真実を奪い、自由に考える能力を窒息させ、権力に無批判に従属する型にはまった人間をつくりあげて、戦争にふりだす。その結果は自らを破滅に呟く。教育の名において、教育を締めだし、人間を殺していたのが、当時の教育であった。再び過ちをおかさないよう「教育の自由」を守り通す決意を新たにするものである。

 

二、学童、軍の使役と化す

国民学校高等科一年南風野○○(十四歳)

教育という名の軍国主義

太平洋戦争が誰の目にも日本に不利だという情況がはっきりしてきた昭和十九年(一九四四年)、(しかし、当時は引きつけ作戦だと学校では教えていた)、私は十四歳、高等科一年生でした。昭和十八、九年ともなると学校教育は以前にも増して軍国主が徹底し、学校の諸行事の中にも軍国主義的行事がかなりの比重を占め、教科内容も軍国主義一色ながら、その教科の授業のための時間すら相当に削減されねばならなかった。

 

先生を無条件に信じ、教科書には何の疑惑も抱かず「聖書」として忠実にこれに従った私たち、その上、四大節(元旦、紀元節天長節明治節)をはじめ「青少年学徒に賜りたる勅語」の奉読式、楠公祭、海軍記念日、文那事変勃発記念日訓話満州国承認記念日講話、航空日講話、軍人援護に関する勅語奉読、教育勅語奉読、国旗制定記念日訓話陸軍記念日講話等の年中行事、毎月八日の大詔奉戴日、臨時に頻繁に行われた靖国神社大祭、替の家(戦没軍人家)、奉仕作業、時局紙芝居、学徒心身鍛練、毎日の宮城遙拝等、私たちを何の抵抗もなしにすっかり軍国主義者にしてしまい、神国日本を信じて疑わないものにしてしまった。開戦後いち早く日本が占領した諸島の中で、アッツ島や南方のガダルカナル島での玉砕が報じられても、心の片すみにおこる不安を、神国日本の思想で自らそれを打ち消し、戦争に対する不安や戦死者に対する悲しみよりは、ひき寄せ作戦や神風に期待を寄せ、戦死者を最後の一兵まで戦った軍神として崇め奉る気持のほうが強かった。山本五十六連合艦隊司令長官の死についても同じく、その国葬は、皇国軍人としての最高の死に方だとしてうらやましい限りであった。

 

昭和十九学年度(一九四四年)ともなると授業時間は更に削減され、戦争行事や作業がいちだんと増強された。県では食糧確保が必課題となったのだろう。食概型歴ということが盛んに唱えられた。国家による食桃微発は全く一方的で、家族の需要や希望も無視して行われていた。こうした事情は学校にまで波及した。授業を捨て、五年生以上が重い鎌をふりあげて岩石の多い荒野を「食糧増産」のために耕すことも幾度かあった。あるいは油の欠乏ということで校庭周辺を抑りおこしひ麻植えもした。時々は三年生以上が朝未明より芋ほりや虫駆除にあたることもあった。全校生徒の二日にわたる豆ひき作業、兵舎柄築のための茅仮作業、色々な作業に動員された。いずれも私たちにとっては耐えがたい過量な労働であった。

 

だが私たちは、鍬をうち駅をふるうひとつひとつの仕事が天皇陛下のためであり、尽忠報国につながるものと思って文句の一つも言わずに耐え忍んだ。その頃までは、校舎や運動場は私たちのものであり、授業の場であった。

 

ところが六月のはじめ、突如「郷土防衛隊」が入りこんできて全校舎がとりあげられ、兵舎にあてがわれた。しかしその時でさえ、わたしたちは、授業では教わったがまだみたことのない憧れの的だった兵隊(陸軍)が、整然としかも勇ましく歩調をとりながら行進してきた姿には拍手をおくった。兵隊の駐屯のため私たち全校生徒が校舎を追いだされ、四日間ではあったが校舎周辺のがじゅまる木の木蔭を校舎に定め授業を継続した。しかし、もう授業ではなく授業のようなものを続けているにすぎないものであった。六月末には教室移転命令がきた。私たちは各自の机と椅子をもって割りあてられた民家に移った。もう二部授業以外の他なかった。だがまもなく「軍駐屯おくれる」の報で再び本校に移転し、一学期は何とか終了した。ところが二学期になってまちなく、再び川平に軍隊(隊長・渡辺高太郎)が進駐してき、全校舎が兵舎として使用するためとりあげられた。私たちは机・腰掛をかついで再び民家にくだった。この渡辺部隊は、まもなく彼らの駐屯すべき土地拶海に兵舎が完成したらしく、一週間後には学校を去ったが、次々と別の軍隊が入りこんできて、校舎は私たちに戻ることはなかった。授業は九月いっぱいは宮鳥御嶽と部落会館で行われ、十月以降は高等科が御木本真珠養殖所、五・六年が部落会館、一・二年が糸数宅で行われ、職員宅は芭蕉工場であった。

 

まもなく三〇〇余の海軍も川平に入りこんできた。静かだった川平も陸海軍がいり混ってにわかに騒然となり、いよいよ本土決戦か、と誰の胸にも緊張感がみなぎった。兵隊の数も日培しに多くなった。

芋畑を荒らす「皇国軍人」の実態

しかし、ここに駐屯した兵隊は、私たちがおそわった兵隊、想像しあこがれていた兵隊とは似ても似つかなかった。道義的にも地におちていた。特に海軍がきてからは住民の家禽を勝手に持ち去るし、芋畑をもあらすようになった。食糧事情も悪化していることとて、畑主が怒って芋どろぼうの兵隊を捕えれば、兵隊はひらきなおって「我々は君らを守るためにきているのだ。この皇国軍人を捕えるとは何たることだ貴様らを軍法会議にまわしてやる」と逆に畑主をしぼりあげる有様であった。人々は底知れぬ不安と反感を抱きながらも兵隊に対する恐怖心と郷土を防衛してもらうという立場から、不平不満を口外する者はなく、表面的には彼らのいうことに唯々諾々と従うより他なかった。

海上特攻艇基地建設のための川平部落の強制疎開騒ぎ

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石垣市 特攻艇秘匿壕|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

特に私の頭に強烈に刻みこまれているのが川平部落の疎開問題である。一九四四年(昭和十九年)九月の半ば九州方面への学童疎開問題がおこって、関係者と私たちの親との間に懇談会がもたれたが、実施されないうちに十月十二、三日の空襲となり結局中止におわった。

 

ところが十一月半ば、川平部落を他府県(九州方面)に疎開させるというのです。もちろん労働力は残して......。そのために平良署長や石垣町助役がやって来て、懇談会をもったのです。そこで伝えられた話の内容は、「川平湾を特攻艇(私たちは青蛙とよんでいた)の基地にするため川平部落をあけわたせ」ということでした。戦況がここに至って疎開を強制されることは死の宣告をうけるのも同然であった。当時の制海権は既にアメリに握られていて、目的地に到達しないうちに敵潜水艦の魚雷にあい撃沈されるのは常識となっていたからである。部落民は総立ちになり、非国民呼ばわりを覚悟に、八重山支庁、石垣町役場、八重山署、軍関係へその中止方を陳情した。その時井上隊長は、部落民代表の九州向け疎開中止の哀願に対し、日本刀をガチャガチャさせ、今にも切りつけんばかりの態度で、「君たちが、中途敵潜水艦に撃沈されて死のうが、内地でこごえ死にしようが、僕の知ったことでない。この計画は階下のお定になったもので今更変更することはまかりならん」と言ったというのです。軍国主義教育で頭をかためられ皇国軍人に憧れている私ではあったが、あの時ばかりは幼な心にも「いかに軍人といってもそんな暴言をはいてもいいのか」と心の底から慌りを感じた。私が中学校に受験を決意した契機もその井上大佐の暴言であった。「こんなに兵隊に馬鹿にされてたまるか。学校をでていい上官になり、こんな奴を許してはならない」という一念からであった。

 

部落民の総意を背に、死をも覚悟の上の代表団の切なる陳情は効を奏し、十七日には石垣町長、助役が、中止になった朗報を伝えてきた。その時の父母や部落の人々の歓びようは筆舌につくせないものがあった。涙して喜んだ老人の姿は特に印象的である。ところが中止のには川平部落の総移転という但し書きがついていた。十九日には、宮崎旅団長、井上隊長、大州支庁長、翁長町長等が川平に来て海軍部隊立入禁止区域を決定した。早速翌々二十一日から部落民総出動で部落移転作業にとりかかった。十一月末のこととて寒風は吹きすさび雨も降っていた。ウフャ、トゥラの家宅をもっている者はトゥラを、両者が一つになっているのはその一つをと、長年住み慣れたわが家をとり壊す人、それを指定された移転先へ運ぶ人あるいはただちに指定場所で仮小屋建築にあたる人、隣組単位に者若男女、川平部落民全員が部落移転作業にとりかかった。もちろん学校も九日間にわたって臨時休校。限られた一定の短期間に移転しなければならない。運びだすものは食糧、衣類をはじめ家屋・家財道具一切、家畜に至るすべてである。移転先への道路は限られた一本道。たちまち混雑した。限られた期間内に部落民の力だけでは部落移転は不可能であった。軍命によってかりだされた四か字からの徴用人が移転作業を手伝った。巡送機関としてトラックその他の自動車がある訳でもない。せいぜい馬車が大きな運送機関で、すべてが人力、帝力にたよる以外になく、そのために数多く往復するしかなかった。馬や馬車にのることは許されない。馬や馬車には荷物を満載し、その後には幼児を背負い片手には荷物をもち、もう一方の手には子供の手をひっぱった母親たちの列が長蛇をなしてつらなり、疎開地(当時はこう呼んでいた)へと急ぐのであった。天気は悪く、それだけの人間が昼夜の別なく往復するのだから道路はたちまちぬかるみ、膝あたりまでおちるところも所々にでてきた。その道路の補修作業がまた私たち学童の任務であった。連日浜から幾十回となく砂利を迎んで道路の都修にあたった。私たち十四、三識を最年長者に十歳位の者までが、重い砂利を肩に思も絶え絶えに坂道を登ったあの苦しみは生涯忘れることはできないだろう。

 

こうしてやっとのことで仮小屋を造り、荷物を運び家族も移転をすまし一段落がついた。

 

ところが、明日が期限の終の日(十一月二十九日)というとき、部落の入口などには「立入禁止」の桃札も見うけられたが、突然「移転するに及ばず、もとのところに戻ってよろしい」ということになった。「馬鹿をいえ、部落民を馬鹿にするにも程がある。」そのときの憤りは表現のしようがない。みんな怒った。だが軍命にそむくことはできない。また同じ道を逆に引きかえすのである。

学童の強制労働

部落移転が免除されたかわりに、部落入口からヨーンに至る一キロ余の海岸線は、川平湾がみえないように茅でおおうことが強制された。もちろんその塀から湾の方に入ることは全面的に禁止。その辺にしか田んぼを持たない私の家は耕作することもできず大変困った。

 

年が明けても私たちの軍への奉仕作業はやまなかった。いやむしろ、主客転倒して軍作業の方が主であったようにしか思えない。砂利採取、道路修繕、兵舎建築のための茅刈り、やらぶの実、ひ麻採集、畑打ち、バラス採取、除草、炭焼等々。中でも多かったのが砂利採取、道路修繕作業であった。それもそのはずで、雨の日、風の日を問わず多数の軍用車掃の頻繁な往来には道路はたちまちのうちにデコボコになっていた。その修繕は私たちの任務であるかのようになっていった。道路の補修がすめば芽刈り、畑打ち、陸軍が競って私たちを使役した。授業は名前だけで、実際には何も行われなかった。

 

こうしてともかく三月末修了式を終えて、四月十日、県立八重山中学に入学することとなった。四月にはってから連日、夜明けとともに始まる空襲は夕方まで断続的に行われ、壕生活が主となった。私は十日の入学式には空襲のため参加できず、おくれて入学した。

 

私たちの教科書は敏であった。授業をするのではなく、毎日空襲のあい間に芋を植えるための運動場の開墾作業と軍事教練のくりかえしであった。ときどき高良配属将校(琉大教授)の救急法講話も行われた。まもなく私たち一年生も鉄血勤皇隊に入隊。八重山農学校に本拠を構えた旅団本部の雑役にも時々動員された。そういう状況にあっても私たちは日本の必勝を信じていたが、宮良英副先生が「日本は負ける。この調子だと日本人はいなくなる」といわれたことに私は大変なショックでした。

 

六月十日、第三避難場への避難の最終日である。級友は親と共に山に避難し、山でつとめをすることになった。私は親元を離れているので指揮班として田所隊に配置され、旅団本部の松の木の上に立って、対空監視役をつとめることになった。私は最下級生であったためもっぱら炊事と伝令にあてられた。朝は四時からおきて夜明けまで十五尋るある井戸で水汲み、そして炊事、あとかたづけ、伝令、雑役と息つく暇もなかった。食事といっても芋に少量の米がはいったものでンナ汁(味だけつけた水だけのおつゆ)のお粗末なものであった。それさえも腹一ぱいはなかった。極度の栄養失調と過労で、上級生は次々病に倒れた。幸い私はマラリアからはまぬかれたが、不眠不休の上級生の看病は大変なもので、その苦労は筆舌につくせないものがあった。今思うと悪夢のようであるが、こうした恐怖と欠乏と苦労の生活は私たちだけでもう十分だ。二度とそういうことがないよう、私たちは真実を求め、腕をくみ声を大にして平和を叫ばなければならない。

 

三、松の上から対空監視

与那国○○(十四歳)

八重山鉄血勤皇隊

国民服というカーキー色のステープルファイバー布地の制服に身を固め、憧れの県立八重山中学校に入学。軍人勅諭、戦陣訓が配本された。小学校時代は修身、中学校では公民の科目があり、もっぱら人間の生命は湯毛よりも軽しと言われてきた。天皇の為にいさぎよく戦死する事を本望とせよとの教育が施された。そういう異常なふんいきの中で、ある日の英語の時間(担当は英語教諭陸軍少尉、有銘與昭先生)生徒のほうから、「どの教師も口々に米英撃滅を唱えながら、中学校の必須科目に英語があるのは不自然、世界を制覇し大東亜共栄をうちだしながら英語を勉強することは何事か、むしろ日本語を世界中に樹立すべきである。よって吾々は英語排斥をなすべきである」との意見がだされた。もちろん神国日本が必勝するという事を全生徒が堅持していたからである。

 

戦前派でもなく、戦後派でもない、戦争熾烈の中の昭和十七年の入学生。完全な授業は一日もなく、月月火水木金金の国士防衛のための飛行場建設工事に動員される。平得飛行場、原田組請負、その余暇に竹槍訓練、学校運動場地ならし作業がくりかえされる。学校に行くのに教科書やノートは持参せず、少、つるはし、運搬道具等が教科用具の代り、当時の年間授業時数はどうなっていただろうか。国家総動員の旗印の下に参集し、国家の危機を憂いあった。

 

県立八重山中学校配属将校陸軍中尉高良鉄夫(琉大教授)より命令下る。宮崎旅団本部付対空監視哨へ中学校より十名、農学校より十名、計二十名。旅団本部は現在の農林高校。対空監視の勤務場所は現在の帝産試験場の場所に高くそびえていた本の琉球松である。その中の一番大きな松の木の枝で、一時間交替で二人で監視することになった。地上六メートル位の高さ、生命惜しまぬ予科練より、むしろ鉄血勤皇隊のほうが後国のための決意はできていた。それは教育されるすべてを信じていたからであろう。

 

宮崎旅団長より鉄血勤皇隊対空監視に訓示あり。「諸君は鉄血勤皇隊より選抜されて旅団本部対空監視として任務につく事になった。今日よりはかえり見なくて大君のしこの御楯と出で立つ吾は敵アメリカは四月一日沖縄本島に上陸し今や八重山に上陸する可能性は強くなった。一磁国民がうって一丸となって日本本士を守らねばならない。閣下も御国のため死を覚悟して作戦に参加する。諸君はその若さで任務を全うせよ。神国日本の勝利を信じ設国のため華と散ろう。そして閣下も諸君も東京の靖国神社で会おう」全員やるぞというファイトがみなぎる。鉄血勤皇隊の歌を斉唱する。

防衛隊と学徒兵のほかは西表に強制疎開

父は郷士防衛隊に召集され、母は弟妹達を連れて西表に強制疎開、親子の完全な音信不通が続く。夜は光なく、昼は敵機に見舞われる。希望を持って生存し続けるのだ。このように考えながらも三角ピラミッド兵舎で明日の恐怖を想像する。

 

ある日のこと、午後三時すぎ、敵機グラマン数十機、およそ二時間位の猛攻撃に遭遇した。太陽の光を背にして旅団本部に急降下、機銃掃射、爆弾投下の雨あられ、生きた心地もする筈がない。爆弾投下と共に強い爆風が耳をつんざく。松の木の枝の対空監視は五分板三枚をしばりつけたお粗末なもの、すぐ下の枝が爆弾の破片でへし折れる。わずか二〇桃もちがえば南無阿弥陀仏である。それでも上空ではグラマン機が旋回をつづけ猛攻撃を続けている。弾の音は身をかすめる。ピューと言う音、ピューンと言う音、連続的にとんでくる。一瞬目を閉じる。「神様、お父さん、お母さん、僕をこの松の木で死なさないで下さい」。誰に祈るとなしに合掌する。生地獄はまだ続いている。交替時間はすぎても交替できるはずがない。日本軍の抵抗は時折、一発か二発、全く大人と子供の角力である。

海軍宮田部隊の偽砲

敵機が攻撃をやめて帰還する。松の枝で無事生きている事が全くの奇蹟。防空警報解除の指令を出す。この怖さが二度と地球上にあって許されるものでない。飛行場周辺整備に当っていた海軍宮田部隊は高射砲陣地を構築したが、本物でなく松の丸太棒で偽装した物が多く、物の用に供されるものでなかった。全く情ない話である。

 

今思う時、天皇制教育の悲しさをひしひしと感じ、一銭五厘のハガキ一枚で召集され、それでも御国のために尽くそうとした、ああいう教育を施した人々の罪の深さは一朝一夕にして精算されるものではないと考えている。

 

四、忘れられない祖父の言葉

大浜村字真栄里山田○○(十六歳)

八重山中通信隊

兵舎の前の畑の中にY字型の木の枝を二本立て、そこに自家製のカンヅメ罐のなべを五つ六つさげて隣の畑から掘ってきたいもを煮ていた。そのときは空襲の合間だったろうか、十四、五人の友だちが雨あがりの畑で半枯れの薪をプープー吹きながら、いもの煮えるのを待っていた。

 

十六、七の食い盛りの年齢。一時間前に夕食を済ませたばかりの時間である。弁当箱の蓋にシモジ二回を軽くついたご飯、弁当箱の中身にヒシャク一杯いもの葉の浮んだお汁。これで腹がみつわけはない。

 

それで前記の自炊となった次第。まだ充分煮えない芋をかじりつつ尽忠報国を誓い、死生命有不足論、畢竟唯将報至尊、と論議をたたかわし特攻隊を礼賛し必勝を信じあっていた。ここは開南部落の西南、相思樹の中、鉄血勤皇隊無線班の兵舎の前である。

 

私達通信隊は、志願入隊という形で三月の末に登野城校の兵舎に二、三日入隊していたが、戦況の変化で、しばらく自宅から通うようになり、五月に入っては完全入隊となって、この開南に来たのである。帽子から眼、ゲートル、靴、弁当箱一切私物である。市街地にいた時は旅団司令部の東の落の近くで、トンツートンツー、モールス符号の練習に励んでいたが、毎日毎日の空襲で、その都度塞に出入りして成績も上らなかったわけである。五月末ここに来ては本格的な機械の操作訓練をうけ送信受信の練習に励んだ。しかし、いよいよ旅団司令部がオモト岳へ移動するようになった時、我々も各部隊への資材運搬にかりだされた。六月の上旬だったろう。一寸先も見えない程の間の夜、開南から資材をかついで小雨降る中、兵隊に引率されてダブダブぬかるむ田回のあぜ道を通り川を渡り畑を横切り林を抜け宮良牧場の中の陣地へ辿りついた時の苦しさ。その陣地で差しだされたにぎり飯一個のおいしかったこと。また、開南からオモト山の奥の司令部まで鉄線一巻を一日二回延ばされた時の疲れ。梅雨あけの六月、小道はぬかるみ坂道はうっそうとしげるジャングルの中、羊腸の如く曲りくねる。ころびつ起きつ友と励まし合いっつ何日か続いたことか。資材運搬が済んだら今度は無線班山奥へ引越し。その間に生徒の中に次々とマラリア思者がでた。食梱不足、過労で弱り切った体にマラリアは悪化する。軽い者はキニネを飲み二、三日休んで作業に出役、重症の者は家庭へ、残った者は家からの差し入れ、父母の手作りのにぎりめしが命の綱。山奥へ引越した時は何人残ったろうか。

 

当時のオモト山中は川をたよりにあちらこちらに兵舎が立ち並び、司令部に通ずる山道は兵隊の往来でにぎわっていた。兵隊にはマラリア薬キニネの配給が行きわたっていたのか、マラリアで背ざめた兵隊は余り見当らなかった。しかし、外泊(公用で自分の家に一泊してくること)で名蔵の田小屋に避難している家族面会に来て、あちこち森影に仮小舎を造って避難している住民の家庭に一歩足をふみ入れると、胃ぶくれした顔の女や子どもが高熱にうなされてうめいていた。ある日のこと、外泊許可がでたので、オモト山中の兵舎をでて名蔵川の上流ブネーラ川の川上から川をたよりにブネーラ田原に出、ピナダ原の我家の前に来た時、隣の小屋糸洲家前に主人の糸洲さんが馬の絞に太い長いタル木を一本くくりつけ、それに大きな箱を積んでいる。父に尋ねると「糸洲家の母が昨晩亡くなったので、今村に引きずって行く所だ」という。箱はばあさんの格箱であった。また浦浜家のおばあさんも村福家の子どもも死んだという。母も高熱のため子どもを流産してしまったとのこと。家の中で母は色青ざめて血の気もない。かすかな声で「密照、元気だったか」という。わずか十日十五日見ないうちにこんなにやせ衰えてしまった。戦争が長びけば母はどうなるのだろう。次外泊に来るまで生きていてくれるのだろうかとじっと母の顔をみる。母も同じ思いで涙をぽろぽろ流している。早速、後の岡に埋葬された無名士の墓、隣の浦浜家村福家の結参りをした。一泊して翌日は早速帰隊。

 

話をオモト山中の無線状にもどそう。オモト山中に避難して後は、同じ通信隊の有線駅や暗号班、その他指揮班や自活班との逃絡も根絶えてしまった。毎日毎日教官から無線電話の操作、受信・送信の実地訓練の退続。勿論、戦況については皆目知らされない。七月の末には、沿岸防衛の各大隊に配備する予定だとのことである。

 

しかし、八月八日勤皇隊に除隊命令が伝達され、八月九日通学カバンに教科書ならぬ無線機の操作、価を書いたノートとモールス階号をなぐり書きにした雑記帳をつめて、大木のうっそうと生い繁るオモト山中の兵舎の前で敬礼も勇ましく除隊となった。

 

無線班当時の班長山本亜門、吉川伍長、教官の古川一等兵や木村見習士官等は現在どこでどうしておられるのだろうか。地元現地入隊で共に生活なさった淡那、座喜味、小波上等兵はみんな健在で家業に精励しておられる。開南で、またオモト山中の茅ぶき兵舎で枕を並べて共に暮らし、生いもをかじり、アンダミソをなめ、高熱にうなされている時、タオルを取り替えてくれた伊波君、遠藤君、瀬名波君ら十数名の戦友は御健在で各方面に活路中である。

 

次に当時の中学生活を願りみて当時七〇歳の老齢で家庭を守った祖父を中心に思い出をつづってみたい。

 

昭和十七年三月、男の初孫が中学校へ合格した宮び。四月入学、

 

自分が入学するような喜びであった。その日、中学生制服姿のたのもしい中学生。

平得飛行場の建設 - 自分のいも畑を埋める

昭和十八年、部落の若者が次から次へと入営応召されていく姿、村を挙げての送別会、「死んで帰ってきます」と勇ましく出で立つ若者。真栄里東原、東田原 (アーバル アーダバル) の飛行場建設、汗水流してやっとまとめ畑の強制買上げ、飛行場建設作業への徴用。労働力のある者は全水牛もつれて飛行場作業。自分のいも畑に石や土をトロッコで運んで埋立てをする様子をじっと見守る姿。六〇の坂を越した年寄りの体で田畑に食糧増産に励む毎日。西表徴用、平得の徴用人夫の川に流されて死亡した話。

 

昭和十九年、いよいよ戦争の激化、日本兵の移駐、野に山にあふれる兵隊、陣地構築、長男伊舎を組合長とし、自分は願人(にがいびと)として守り育てた桃里牧場へ入り込んだ兵隊、次々に減っていく牧場の牛馬。長男は水牛をつれて飛行場建設へ徴用、嫁もまた徴用、孫(小生)もまた生徒の動員作業へ。残る孫五歳・九歳・十二歳を励ましつつの野良仕事。畑はいよいよ埋められていく。合間をみての防空壕掘り。

 

十月十二日の初空襲、五歳の孫一人をつれて右往左往。空襲がすんで家族皆集って、夜、前の畑の木の下で食べた夕食のこと。十月十五日名蔵の田小屋へ避難(二、三日で帰る)。いよいよ戦場となる八重山。長男の特別工兵隊召集。家族つれての避難訓練。子や孫にも荷物をもたせてアイクル坂道を越えて、嫡孫(小生)が学業を放棄して兵隊を志願するということをやっとでやめさせたこと。嫁と孫が白保工兵隊にいる長男伊舎の兵舎へ弁当をつくって食糧をもって通う日々。

 

昭和二十年、元旦から始まる空襲、いよいよ激しくなる空襲。二日頃から部落の人々は、思い思いに山へ田へ避難。毎日の空襲。ピナダに集る避難民、家族ばらばら(長男伊舎は三月三十一日召集解除、年令満期)孫二人(小生は勤皇隊、姉は病院)はそれぞれ別行動。空襲の中での稲刈り。次々殺して食用にする家畜牛馬。毎日来る飢えた兵隊いもを分け、お米とキニネと交換。次々発熱するマラリア熱、芭蕉をくだいて水枕。額にタオル。早朝と夜、細道を通って部落から食糧運び。隣の避難小屋では次々と年寄りや子どもが死んでいく。同じく死ぬなら部落の自分の家で死のうと引揚げた避難小屋。やがて敗戦。


幸いに祖父は生き長らえて終戦十年後八〇歳の長寿を全うして他界した。

戦争で畑を失い牧場の牛馬を失い、空襲におびえていた毎日は、一体何であったろうか。

「兵隊にはなるんじゃないよ」

戦後、食糧危機を脱し、復員兵も帰還し、姉も結婚して長男を産み育てる姿を眺め、曾孫が小学入学する姿をみた祖父は、小生にしみじみと語った。「コーニー (子どもへの愛称)、どんな職業をしてもよいが、兵隊にはなるんじゃないよ。兵隊は人を殺すのが仕事だからね。もう一度戦争をしてはいけないよ」と。「のどもと過れば熱さ忘れる」。年月が経つにつれて過去の悲しみ苦しみ惨めさは薄れていく。


しかし、戦争中の恐しさ、苦しさ、悲しみは益々強く脳裡によみがえってくる。人間同士が殺し合い傷つけ合い、人民一人ひとりを死の道ずれとする戦争の悲惨さ、戦争で尊い生命を失なった人々に対して「もう決して戦争はいたしません」と誓いをすると同時に生きのびた私たちは戦争を憎み、人民の力を結集して戦争拒否の力をつくりあげ、人殺しをする兵隊募集を拒否する運動を展開すべきだと決意を新たにするこの頃である。

 

( 2 ) に続く・・・・

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