今帰仁の戦後

テントヤー、カバヤー、キカクヤー

民間人収容所から解放されるのは多くの場合早くても1945年11月下旬以降のことであったが、多くの土地が米軍に占領され基地化された沖縄島中南部や本部半島、伊江島では帰村できない状態が長く続いた。そして多くの住民が永遠に生まれ里を奪われた。

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本部半島の本部飛行場と備瀬の小飛行場

備瀬の仲田栄松さん証言

1945年(昭和20年) 11月下旬(11月17~11月23日ころまで移動終了)のことであった。 久志は羽地よりも二週間ほど遅れて引揚げて来た。ところが、自分の村に引揚げて来たとはいえ、即時に屋敷に立ち入ることは許されなかった。… そのために高良原や長畠原一帯に二、三世帯ずつグループを組んで大型テントを張り、集団生活をすることになった。… ちなみにタナージビラ(坂)から高良原に下りる道路の左右はもとより高良原一帯を埋め、さらにナガバタキー(長畠原)からガジーマンに至るまで、見渡す限りテントが張り詰められ、まるでインデアン部落の光景を呈していた。 もうそこには貧富の差は全くなく、どの家庭も食糧不足であった。 そのころは配給物資も僅かであったので、それだけでは飢を凌ぐことができず、ムイウム(掘り残し の芋から実ったもの)を掘って来てウムニーを炊いたり、パルビラ(野蒜)を摘んで雑炊を炊くなど糧事情は大浦崎並みに困窮していた。従って大人も子供たちも朝から晩まで、それこそ飢えた犬のように食糧探しに余念がなかった。

… やがてあちらこちらで栄養失調による身体の衰弱者が現われ、それにマラリアが発生して高熱を出し、 死亡する者が少なくなかった。

《仲田栄松『備瀬史』(1990) 》

米軍がコーラルで舗装した土地を畑にもどすのに膨大な時間がかかった。飛行場として舗装された畑や、燃料がしみ込んだ畑は、耕地としての仕様をあきらめなければならないこともあった。今帰仁の崎山にも小飛行場が作られていた。

崎山の家屋はほとんど焼かれ、田畑は荒らされ、肥沃だった耕地はコーラルで敷き固められ、そうでない所も重機やトラックでおし固められていてすぐには使えない状態でした。 

大城義雄 崎山の戦争体験

米軍が建設した巨大な本部飛行場の跡地はいまもそのままになっている。

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米軍は基地を作るが、後片付けすることもなく、そのままポイ捨てだ。そこに自衛隊が新基地を作ろうとする。住民は何年もかけて見張り小屋を作り、ついに返還させた。

米軍「本部飛行場」- その負担は誰が担うのか - Basically Okinawa

日本の7割以上の米軍基地が沖縄県に押しつけられ、そのため沖縄島の約19%を米軍基地が占めている。

現行の日米地位協定では、米国は施設及び区域の返還に伴う原状回復義務を免除されているほか、施設及び区域の返還に伴う環境調査及び環境浄化の実施手続きについて明確な規定がありません

要請事項の内容及び説明(日米地位協定)/沖縄県