『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 北谷村・吉原
以下、内閣府ホームページ 証言集 で公開されている『沖縄県史第9巻』(1971年琉球政府編)および『沖縄県史第10巻』(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に使用するため簡易な文字起こしをしたものを便宜上公開しています。読まれる方は、文字化け誤字などがありますので、必ず下記のリンクから原典をご覧ください。
外間朝公
(二十七歳)防衛隊
捕らわれた米軍の偵察・斥候
私は当時おじいさんから、四月一日に米軍が上陸する前に、三月二十七、八日頃、米軍の斥候が北谷にきていたことを聞いています。
当時の私のところの家族構成はですね、おじいさんと、両親に妹と弟でした。その五名は、米軍の斥候を捕虜にしているのを見てから、南部にさがったそうです。
桃原のヤジバンタ、今のアメリカ将校クラブ近くには、友軍の賀谷十二大隊の一分隊がいて、その兵隊たちが、米軍の斥候一人を後手にくびって、うちのおじいさんたちが隠れていた壕の近くまで、つれてきたそうです。すると、比屋根さんというおじいさんが、棒を持ってきて、「チュバチェ、クヮーサ、クヮーサ」して、僕りたがっていたそうです。その後うちの家族は島尻の外間(東風平村)に行ったそうですが、米軍の斥候の話はあとで聞きました。
私は防衛隊になって、北玉小学校に駐屯している船舶工兵隊に所属していました。
私は三月二十四、五日に防衛隊はすぐ部隊に集るようにという伝令でですね、砂辺の今の嘉手納飛行場の一部になっている所ですね、シード(字勢頭)まで行ったんです。そして翌日の午前十時頃から空襲がはじまって、午後一時頃からはものすごい空襲があってですね、北谷ガーラの上になっているシガイから回って下りて行って、部隊の壕に帰りました。それから後日、艦砲射撃がはじまったんです。
田港という家があったんですがね、私はちょうどその家の前に休んで坐っていました。そこにいる子供たちが海の方からピカピカ灯りが見えるよというもんだから、見たらですね、艦砲射撃だもんだから、君たちは早く逃げないと大変だよ、と私は言ったんです。それから砲弾がどんどんもんだから、その家に夕方まで隠れてから、部隊に帰ったんです。空襲が先にあって、三日ぐらいしてから艦砲があったように記憶しています。
そこで、壕の前に坐っている兵隊たちに、あれは艦砲射撃だよと私が言ったら、誰だそんなことをいう奴は、お前は人心を動揺させるようなことをいうが、お前は見たのか、と私は上官にひどくおこられましたよ。
だけど、私が艦砲射撃だと言ってから、すぐに、みんなは艦砲を感じはじめて、壕の入口にいたものもみんな、奥の方へ逃げていました。
それから間もなく、三月二十五日頃、私たちは部隊として五百名ぐらい宜野湾・北谷・越来・読谷・美里等の出身の防衛隊全部が、南部の東風平村の宜次に移動しました。
宜次には二十日間ぐらいいて、塹壕を掘ったり、また糧秣運びなどをしました。糧秣運びはですな、トラックに塹壕(偽装の意)を作って、防衛隊五名に運転手と助手と全部で七名が乗りこんで、南風原村の先の識名の近くまで、夕方から夜にかけて米俵を持って行くことでした。二十日間のうちに七回ぐらい通いました。むこうでは女の人たちが鉄兜を被って、糧秣を受取りにきていたので、それを見て私は、いよいよ戦場が近付いてきたなと思いましたね。二十日経つと、防衛隊の半分は、そこから富盛・八重州の小松隊といって自動車部隊の重隊として、配属されました。私も一緒でしたが、しばらくすると私は工兵隊にやらされました。輜重隊のときは食事はよかったんですけど、工兵隊になってからは、一日に八勺の米しか配給がなかったから、体力が衰えて、もう米を担ぐことができなくなっていましたね。富盛から与座の工兵隊に転属されてからですね、私たちは擲弾筒直射砲の教育を三日受けました。
そして首里に行きました。第一線にやられたわけです。私たちは首里崎山のカジマヤーにある壕に三日間入っていました。一回だけは、私は擲弾筒をもって運玉森まで行ったんですが、一ぺんも撃てなくて、撃ったら最後ですから、生きのびて帰ってきました。私は双眼鏡で見ましたけど、敵は五百メートル近くまできていて、絶対に動けませんでしたね。もし敵が側まで近寄ってきたら、仕方がないから、私はニッコウ箱(急造爆雷)を投げるほかはないと思っていましたよ。
それから私は、繁多川に行って、昼は掘り夜は弾薬運びをして、首里が包囲されるまでいました。またそこでは、第二線陣地から運玉森に、負傷兵を四人で担架を持ってかつぎに行ったんですが、大変だったですな。弾がとんでくると、担がれている人の方が先にとび跳ねて逃げたりして、私はとんできた石にあたったりしもうこれでは、命がいくつあっても足らないと思って、私は逃げてきたんです。
そして私は外間に行ってですね、両親を探して歩いて、ちょうどまた逢うことができたんです。バックナー中将が戦死したところの、国吉・真栄里に私の両親はいたんです。
もう五月下旬か六月上旬でしたから、その辺も危険で、私たちはそこに一週間ぐらいいました。そこでは、国吉の向かいに田原屋取という所があって、その民家に三付いてから、壕を掘って、壕の中に隠れていました。それから一週間後は、毎日地形が変っていましたですな。艦砲射撃で。田原屋取りの近くのから、あとで真壁
の同字に行きました。珍しいことには、ちよっと石をどけて漁ると、落盤した後のように自然があったですね。その穴の中に私たち家族は入っていたんです。けれども、そこも砲弾が激しくなって、逃げるときに、家族はちりぢりばらばらになってしまいました。敵はすぐ眼の前にきていました。私は自然に一人で二、三日入っていました。そこからは一番後になって逃げ出たので、家族がどこへ行ったのやら判りませんでした。私はそこの山を登って、福地まで行って、ウルドマ・タカマブニと逃げたんです。マブニ岳からギーザバンタに行きました。あそこに行ってから、昼間、私は捕虜になったんです。
ギーザバンタに行くまでに、あっちこっちうろついて、入ろうと思ってもなかなか壊はないし、壕があっても死人が多くて、くさくて入れないし、アメリカのトンボぐゎが上空で廻ると逃げなけりやいけない、と経験からすぐ感じていましたから。また三時頃マブニの海岸のウルドマにきてみたら、沖には敵の駆逐艦等が五隻ぐらいおるんですよ。そしてときたまヒュウヒュウ弾がくるんですな、
は、これはもう大変だと思って、ギーザバンタに行ったら、駆逐艦からマイクで呼びかけていましたよ。何もしないから出てきなさい、軍人は裸になって出てこい、というわけです。
私はどうしたらいいのかと迷ってしまいました。そこで私は軍靴(編上靴)をぬいで、しばらく素足で歩いてから、死人の地下足袋を取っていて、軍服も脱ぎ捨てて死人の着物と着替えましたよ。ギーザバンタには、何百人という避難民がいました。友軍もいるし、ジュリアンマーもいるし、ペルーやブラジル帰りもいるし、それだけの雑多な人たちが、もうどうにもならないというわけで、みんな誘い合って、さあさあさあ、と出て行ってみたわけです。私は手榴弾と鉄兜と飯盒の入った風呂敷包みだけは持っていました。その風呂敷包みは、最初は衣類だけ入ったもので、道で拾ったものでした。
そして私たちは、五十名ぐらい一塊りになって出て行ったんです。出てから廻れ右してみたら、すぐ私の眼の前にアメリカーがいたんです。昼は出てみたことがほとんどないもんだから、方向がわからず、私がいつの間にか先頭に立っていたんですよ。さ、お前は逃げるなよ、逃げたら殺されるよ、と側にいる人が私に言っていました。その人は、八十過ぎのおばあさんを背負っていて、私に勇気付けるように、落着いて上って行けよ、みんな後からついて行くから、と言うので、私はただ歩いて行き、みんなもぞろぞろついてきました。
捕虜尋問をクリア - 屋比久収容所へ
捕虜になったとき、私は二十八歳で一番若かったもんだから、それだけの人数から私一人だけ呼び出されて、荷物も取り上げられ、中に入っていた手榴弾はアメリカーが茅の中に投げ捨てて、夕方まで私一人だけ原っぱに坐らせられましたよ。私は殺されるかと思っていましたが、あとで菓子などくれるので、もう殺されないんだなあと安心していました。夕方になって、沢山の捕虜と一緒にされ、仲村渠(玉城村)につれて行かれました。そこで私はまた呼び出され、調べられたんですが、兵隊だったというと大変だと思って、自分は兵隊ではなかったと頑張ったんです。
何回もしつっこく調べるので、それからは私はずっと嘘ばっかりつきました。もう一度風呂敷包みを出して調べられたとき、鉄兜と飯盒は拾ったんだと、私は昭和十八年に南洋から引揚げてきたんだと、女の衣類は昨日まで一緒だった妻が亡くなって残したものだと、実際に自分は県病院に入院したので兵隊にはとられなかったんだと、妻も看護婦もみんな死んで自分一人になったんだと、言い張ったんです。それで私の嘘が通って、私はアメリカーから何か横文字の書かれた札を首からぶらさげられました。そのアイカン (icon) は、立派な証明書だったんですね。私は外間朝公ですけれど、新城朝公と名乗りましたよ。今もそのアイカンは形見に保管してありますよ。それで、私は山原の収容所に行ってからも、そのアイカンのお蔭でずいぶんと助かりました。
その後、二世やCPから、お前は防衛隊だったんだろうと問い詰められたときも、道でアメリカーから訊問されたときも、そのアイカンを見せたらすぐオーケイでしたよ。それで私は、屋比久(佐敷村)の収容所に入ってからも、ずっと新城靭公だと通してきました。
また私はガンチケームンだったので、仕事にも出掛けないで、びっこの真似していました。それというのも、いつ日本軍が反撃に出るかもしれないと思って、いざとなったときのことを考え、そのときは金網を破って逃げるつもりでした。ところが、毎日びっこの真似していたら、ほんとに自分でもびっこのような気がしてきて、ま実際によく歩けなくなっていましたね。
それからずっと後になって、びっこの真似をしないですむようになってから、お前はどうして作業に出ないのかと、班長に問いつめられ、私はマラリヤにかかっているんだと答えましたが、医者に診べられて、どうもないということになって、トラックで真玉橋近くに作業に出されました。仕事は、奥武山公園の米軍キャンプで一日中アメリカーの靴磨きでした。ばかばかしいので、そこでも私は一週間ぐらいしか仕事はしませんでした。頭が痛いとか気分が悪いとか言いわけして。
久志・大川収容所 - タチの悪い二世
屋比久の収容所からは、馬天港から船にのせられ大川(旧久志村)にやらされました。大川で、捕虜になってきた家族と一緒になりました。そこは食糧がほとんどなく、またマラリヤが発生して、大変でした。半年してから、私たちは古知屋に逃げて、そこで私はCPを一か月しました。誰でもすぐ巡査になれたですね。でも、服部という二世が非常に悪い奴でしたね。威張りちらしてみんなをこきつかうし、またイモ掘りに越境してつかまった女の人たちを、夜はつぎつぎと彼が手ごめにして弄んでいました。私はこんな所では働けないと思い、一応家族は古知屋に置いて、一人でまた石川に生活の安定を求めて逃げました。
北谷の先発隊となる
石川で軍作業をしながら家族を呼んで、しばらくしてからコザに移って、コザに集った男たちで組合を作ったんです。私は北谷村の漁業組合に加わって、先発隊として自分の部落に入ったわけでした。そのときは、農工隊、建設隊、漁業隊という組合を作って、それぞれ村の再建にあたったわけです。
上間カメ
(二十七歳)家事
当時、友軍の将校二人と特攻隊五人が私の家に泊っていました。特攻隊は庭でよく太刀(日本刀を持って、振りかざしたり突いたりして練習をしていました。その頃、兵隊さんたちは神経質になっていて、私の家の山羊がよく啼くのを、邪魔になるといって嫌っていました。ちょうど三月二十三日にも、山羊がしよっちゆう啼くもんだから、うちの三女(連れ子・二十歳)が山羊に食べさせるカンラバーを刈りに出掛けているとき、空襲があったわけですよ。それでヨシ子は樹の下に隠れたそうですが、敵に見つかったんでしようね、機銃掃射されて、左足をやられ、そばを通っていた上間の叔父さんがそれを見て、助けて、上間の叔父さんが、ヨシ子はやられたよ、とおんぶしてつれてきていました。
私はヨシ子はもう死んだもんだと思っていました。そしたら私家にいた将校が、ちょうど家にいらっしやったもんだから、謝北谷トンネルの側に、大きな蝶があったんですが、そこには日本軍のお医者さんが何人もいるということで、ヨシ子さんを早くそこへつれて行って診て貰おうということになって、その少尉さんがそこへつれて行って治療して下さいましたよ。二女の姉がついて行きましたけれど、負傷した所に両方からガーゼを入れて薬をつけて包帯したそうです。そして当分は、そこにお医者さんがいる間、ヨシ子はそこにおいた方がいいということになって、三女は預けてあったんですよ。
二十五日には、空襲がはげしくなって、主人と私は壕に移ったですけど、そのとき、北谷の海の近くの山に壕があったので、敵の軍艦が沢山海にきているのが見えるもんだから、そこにももうおれないということになって、私たちはズケランの千六百人以上も入っている大きな壕に行ったんです。その壕は、崖の上と下にあって、宜野湾や北谷やあっちこっちからの避難民が入っていました。
4月5日、壕の中で出産する
そこは、下の広っぱから網をかけて登って入る壕で、私たちは綱をたぐって中に入ったんです。私の母親たちは先にそこにきていました。私は身重でしたから、母親がいるのでほっとして、そこでお産する覚悟はできていました。そこには一週間入っていました。四月五日まで、いたんですけど、もう非常に苦しくてですね。小便するときなどは、いちいち綱でおりてしなければなりませんでした。四月二日でしたか、その壕の上を、戦車がどんどん通って行く音がしていました。そのとき、私の従弟の一中一年生の男の子が、気絶したわけですよ。そこには空気もあまり入らないので、息苦しくなったんでしようね。真暗闇で、誰れかが、気絶しているよ、と叫んだら、人一人ぐらい殺してもなんでもないよ、声は出すな、と声も出せませんでした。そして私は、そこで四月五日の午前十一時に、お産したんですよ。おばあさんが手伝って、手さぐりで、鋏と糸は準備して持っていましたから、臍を切って結んで、そして(後産)をおろすときにアメリカーに見つかってしまったんです。
捕虜になる
アメリカー四名に二世一人が壕の側にきて、下から二世が、ひもじい思いもさせないよ、殺しもしないから出てきなさい、と方言をまじえて喋りながらあがってきました。外人が入ってきたもんだから、おばあさんは汚れた手はそのままで、とうとう大変になった、わたしは自分の家族のところへ行こうね、と言って行ってしまい、二十歳になる怪我した三女はその姉がおんぶして行ってしまい、お産したばかりの私と主人は二人きりになって、出て行くほかはないと諦めました。主人は生れたばかりの赤ちゃんを蒲団でからんでおんぶして、私はどこで殺されるかもしれないからと思って上等の着物を出して着替えて、母親が冷えないようにと出してあった足袋と下駄を履くひまもなく、下着はただパンツ一つでしたけど、側にいる女の子供は今日かぎりで死ぬんだねとわざわず泣くもんだから、私はびっくりして、出血して血が全部流れてしもうてなくなったよで、そのまま立って、荷物を頭にのせて、すぐ綱をつかんでおりたんです。荷物は、赤ちゃんの着替えやオシメ、鰹節、イモクズ、砂糖など入れた風呂敷包みでした。
下にきたら、上間の叔父さんはお産したことに気付いてないもんだから、私の主人に、蒲団を背負っているのか、と言っていました。赤ちゃんをおんぶしてたんですけど。それから私たちは、璩の入口に並べさせられたもんだから、そして戦車が沢山あるのを見て、それで轢き殺すんだなあと思いましたよ。男の人たちは逃げようとしていましたけれど、アメリカーが鉄砲を向けて射ろうとしているので、逃げたら今に殺されるよ、と私が言ったもんだから、から鉄砲を向けているのを見てもう逃げなかったんです。
北谷の野戦病院で治療を受ける
私はそれまで三日間ほとんど何も食べないでお産をしたんですから、母親が持ってきた急須から水を飲んで生き返ったような気持でした。それから私たちは、石平までの一里の道を、すぐに歩かされたんですよ。後から鉄砲をつきつけられて、どんどん追われるように歩いて。それから途中で、休憩させられ、トラックがきて、二世がいうことには、怪我人とお産したものは乗りなさい、ということになって、怪我しているヨシ子と私、また二日前にお産した女の人も、もう一人の最近お産した女の人も、たった四人、そのトラッに乗ったわけです。ところが私たちは海に捨てられると思って、みんなと泣き別れしたんですよ。非常に泣いて。実際にトラックは海に向かっていたんです。着いたところは、今のハンビ飛行場のあるところ、北前の浜に、テントが張ってあって、中には民家から持ってきた畳も敷いてありました。そこには外人の医者がいて、二世が通訳して赤ちゃんを診てくれたんです。赤ちゃんの臍は、暗闇の中でしたもんだから緩くしか怒ってなかったので、腫れあがっていました。外人の医者は糸をはずして強く縊って、薬をつけて、包帯を巻いてくれました。歩いてきた一般の人たちは外にいて、私たちはテントの中に入れられ、食事は玄米の握り飯一コでした。オシメは田んぼで洗っていました。私の母親が。
野嵩収容所から安慶田へ
ハンビ飛行場(北前)に一週間いてから、みんな一緒にトラックで野嵩に運ばれました。出発するとき、浜ではただアメリカーが沢山いるのが見えるだけで、戦争という感じもなく、何事もなかったんです。野嵩に行ったら、弾がどんどんとんでくるんです。みんな壕の中に入って、二週間ばかりそこにいました。砲弾があんまり激しくて、民家に隠れている人たちは、弾にあたって、それは友軍の弾だったかもしれませんけれど、死んだものも、大怪我したものもいました。
野嵩には、外人も入りくんでいますよね。だから英語ができるものは残れという命令が出ていました。みんなはコザ・安慶田に移動するのに、残ったら大変だと思い、私の主人はハワイ帰りで言葉が少し通じていましたから、これは大変だ残ったら飢え死にすると思って、こっそり知らんふりして私と主人は荷物をさきにトラックに乗せてからみんなの中にまぎれこんで乗ったんです。
コザの安慶田に移動してからは、何事もなく、約二年間ずっとそこにいました。最初はアメリカの配給がなかったので、私たちはあっちこっちの畑や山から、イモなどいつも食糧探しをしていました。その頃は、私はお産したばかりだし、三女は怪我しているし、手が足りなくて、人一倍苦労しました。
知念トミ
(三十七歳)
私はその頃、次男坊を妊娠していたもんですから、五月に生れる予定だったので、すすめられていた山原への疎開にも行かなかったわけです。
ヒヒージャーの、泉の側の様に、私たちは入っていました。四月四日でしたか、アメリカさんがきて、私たちを捕虜にして、砂辺の浜につれて行きました。
四月一日にアメリカさんが上陸しているのを、私は妊娠していたので壕にとじこもったきりで見ませんでしたけど、子供たちが山の上にあがって見てきたと言って、おこられてもきかん、子供たちはときどき這って見てくるようでした。そして壕の中でも、上陸しているよ、上陸しているよ、とみんな話していました。擬の中には五十名あまり入っていました。あのときは艦砲射撃もはげしいしね。の上から弾がピュウときたら、松林の松が、パチンパチンと折れる音が壕の中に坐っていて聞こえるし、樹が倒れるのも見られよったんですよ。でもアメリカさんがくるまでは、隣組の非常米やら班長が壕の中に運んで、大きなシンメー鍋にたいて、水もすぐ近くの泉から空襲のないときに汲んできて、みんなに配給していましたから、ひもじい思いはしませんでした。
そしてアメリカさんは、昼、壕から小父さんが小便しに外に出て、歩いているときアメリカさんに見られたんでしょうね、小父さんは「アッシェ、アメリカーが、ウマカラ、歩ッチュン、ヒャー」とびっくりして帰ってきて間もなくして、壕を見つけてきたんです。アメリカさんは鉄砲を持って壕の前におりてきたわけです。「カモワン、カモワン、デテコイ、デテコイ」と二世がいたから、お婆さんが「カマーヨー」と呼んでいると言っていました。「カマーはいないが、どうしてカマーと呼ぶのかね」と。小父さんは「わしが小便するときアメリカーに見られてしまったよ、お婆さん」と答えていました。
すると余所のお父さんが急に決心して、もうどうにもならない、さあさあ年寄りと子供から出なさい、何も持たずに出なさい、何か持ったら大変だから、そのまま出なさい、とみんなにすすめたんです。
みんなが壕の外に出たら、一人びとり上着を脱いだり着物を脱いだりして、アメリカさんが身体検査をして。そのとき私の貯金通帳をアメリカさんが取ってしまいました。やがて捕虜になった人たちは、古い大きな家の庭から畑まで一ぱいになって、二百名ぐらいになっていました。また戦車は、麦から大豆から畑の作物を踏みにじって、一ぱい並んでいましたよ。そして山の下のまで、アメリカさんたちが一ぱい立っていました。アメリカさんは、私たちを休ませて、煙草をふかしてみせてから、欲しい人たちに配っていました。また通訳は、私たちに向かって、殺さないから安心しなさい、食事もあたえるから、と説明していました。
砂辺の臨時収容所
それから捕虜になったそれだけの人たちは、トラックで砂辺の浜につれて行かれました。その日は四月五日だったと思います。砂辺の浜には三日いました。そこでは男の人たちが食糧を近くの壕から探し集めてきて、みんなで焚いて、おにぎりを作ってみんなに配給して、どうやら飢えをしのいでいました。
島袋収容所で出産する
四日目には、年寄りと子供と病人はみんなトラックに乗せられ、比嘉島袋につれて行かれました。袋には大きな家がそのまま沢残っていましたから、私たち百名あまりは民家に分散して入れられたんですよ。
私は島袋の民家の床の前で、五十名もいる中で次男坊をお産したんですよ。シードのおばあさんが産婆代りに手伝ってくれました。その誕生日はだいたいの見当で、五月二十日ということにしました。ちょうどその日に、アメリカのビルマ米が配給されて、みんなこの子はケーブー(徳がある)だねというて、百十七名の分を、大きなシンメー鍋にご飯を焚いて、そしてお祝いのつもりでみんなで食べたんです。
その頃、夜は八時からはどこにも出られませんでした。ところが、私の父の姉にあたるおばあさんが、朝のまだ暗いうちに便所に行って、下の家の便所に行くつもりで、下の屋敷の角でアメリカさんにすぐ殺られてしもうて。アイエナー(感嘆詞)おばあよ、便所入りにいま出て行ったけど、ああ殺られてしまったじゃないの。朝は、九時十時からしか、作業といってアメリカさんにつれて行って貰って食糧さがしに出掛けていませんでしたから。それまでは警戒がきびしかったんです。
宜野座・福山の収容所
島袋には二か月いてから、みんなトラックで宜野座村の福山に移動したんです。福山には四万八千名ほどの避難民が集まっておったんですよ。そこに私たちは一年ばかりいました。食糧難で、配給される豆などの缶詰ではとても足りないので、草の葉や、海の藻や、山にあるサンチラヌ葉(サツマサンキライ)やチファフー(ツハブキ)等を食べておったんです。家といっても、簡単な小屋で、木や茅で作ってあったんですけど、雨が降るとずぶ濡れになるような掘建て小屋でした。
崎浜トシ
(十八歳)
北谷から羽地へ避難
私は当時未婚で、父が関節炎をわずらっていましたから、父代りに農業をしていました。三月二十五日に、もうここは危険だから避難しなさいと、友軍の兵隊から言われてですね。その晩、私は米と味噌と食糧など持てるだけ持って、兄と兄嫁と一緒に、着られるだけ服も重ねて着て、歩いて金武まで行って、夜が明けて敵の飛行機がきたもんだから、すぐ近くの山の中に隠れたんです。そして昼の間中、木陰に隠れてですね。
羽地には、すでに父と母と体の弱い姉と小さい弟たちが、先に疎開していましたから、私たちも金武から羽地に向かったんです。その二十六日は夜通し雨でした。私たちは濡れて、羽地の振慶名に明け方についたんです。むこうでは両親たちが壕を掘りかけていましたから、そこに家族揃って一日入って、夜は葉掘りして、みんなが楽に入れるような壕を作って一週間入っていました。また夜は、兄や一緒になった叔父さんは、遠い所まで食糧探しに出かけました。そして叔父さんは、三度目に、食糧を取りに田井等の方まで行って、アメリカーにつかまえられたということで、帰ってきませんでした。そのときの兄の話で、米軍がすでに上陸していることを知りました。
私たちは山の避難小屋の近くの壊に移っていました。そこヘアメリカーがぺらぺら英語で喋りながらきたんですよね。それで、みんなばらばらに逃げたんです。兄は逃げるときに、アメリカーに射られたんですけど、肩をかするくらいの傷だったんです。兵隊帰りでしたから、戦争の要領を心得ていたんでしょうね、下の方には行かないで、山の上の方に逃げて、命は助かったんです。私はそのすきに避難小屋の後の方から逃げて難をのがれたんです。年寄りと子供たちは避難小屋に残っていたんですけど、アメリカーは来て見て、何もせず、煙草をすってみせてから与えたりマッチやガムやチョコレート等も置いて行ったそうです。
夜になって、私たちのいる山の中に、アメリカーはもういないから帰ってこいよ、と叫びながら探しにきていたんです。私はまだその近くにアメリカーが隠れているかもしれないと思って、夜中になってから帰ったんです。
それからみんな一緒になった翌日、もうそこは危険だからと思い、川上の山の中に避難して、またそこで壕を掘って、その壕に二週間ばかりいました。
アメリカーの話、日本兵の話
女性を捕まえて弄んで捨てるのは米兵の話ではなくて、日本兵の大陸での実体験だったのだろう。実体験だからよけいに説得力があり、大勢の沖縄人は信じるしかなかった。
そこにもアメリカーが近づいてきたので、少しでも自分のシマ(部落)に近い方がいいということになって、山道を方向もわからずただ歩いて、久志村の辺野古に行ったんです。その途中で、大浦あたりで、先に歩いていた兄と従兄の二人はアメリカーにつかまってしまったんです。まわり道して辺野古には、夕方ついたんですが、アメリカーたちは、わいわい喋りながら道端に休憩していて、またレコードをかけて遊んでいましたよ。このアメリカーたちは、私たちを見ても何もしませんでした。近づいて行くと、アメリカーたちは半分日本語で手真似をしてですね、今晩はここに休んで明日金武の方に行きなさい、と言っていました。私たちは言われる通り、辺野古の民家に泊っているとき、夜中に、山から友軍の兵隊たちが食糧探しに下りてきたんです。そして兵隊たちは、あんたがたはどうしたの、と訊くもんだから、こういう事情で自分の部落に帰る途中アメリカーに停められて泊っているんです、と説明したら、大変だよ、アメリカーは若い女は名護に集めてみんなジュリ(娼婦)にするんだよ、みんな弄んで使えなくなったら殺して捨てるんだから大変だよ、山の中に逃げた方がいいよ、と言っていました。
翌日、私たちはそうかもしれないと思って、また久志岳にのぼったんです。道がわからないもんだから、村の人に道案内をお金をあげて頼んで。そして久志岳に約一か月もおりました。
久志岳で栄養失調
山の中では、持っていた米で、少しずつ、おかゆを作って食べていましたけれど、それもなくなった頃、父はこのまま死んでも弾にあたって死んでも同じだから、食糧を探してこようね、と言って、私たちは止めたんですけど、出て行ったんです。父はそれっきり帰ってきませんでした。父は途中で捕虜になっていて、ずっと後になって私たちと石川の収容所で逢ったんですけど。それから私たちは、骨と皮だけになって、久志の部落に下りて行って、畑から芋やキャベツの取った後の根元などを、夜間に探してきて、また潮水を海から汲んできてそれを煮つめて塩を作って、食糧にしていました。また木で小屋を作って茅を敷いて寝ていました。みんな栄養失調になっていましたけど、二見にウス(潮水)を汲みに行くときに、民家の壁に、半分骨が出たミイラになった死体や、福木の根っこにもたれて坐っている子供が、今にも死にそうになって、視力もなさそうに俯いているのを見て、自分たちもそんなふうになると思っていました。
その頃、私が仲宗根にイモが沢山あるという噂をきいてイモを買いに行った帰り、私はアメリカーの山狩りにあって捕虜になってしまったんです。山道で、すぐ待ちなさいと後から止められ、トラックに乗せられ、羽地につれて行かれたんです。私は二世に両親や子供たちを久志の部落においてきたから助けてくださいとお願いしたら、後で家族はCPがつれてきてありました。捕虜になってからは、私たちはまた振慶名の民家の馬小屋に入って暮らしました。そこから軍作業に二日行ったんですけど、黒んぼ(ママ) が石鹸やら何やらくれるもんだから、こわくなってですね、私は若かったもんだから身の危険を感じてもう行かなかったんです。それから、田井等のカンパンの炊事婦に出たんです。その頃は、よく強姦事件がありました。
イモ掘り作業といって、各家庭から集った人たちを、MPがつれて畑に行きよったんです。でも、あの谷間にもこの谷間にもイモのあるところに、みんな散らばって行くもんだから、MPには目が届かないんですよね。だから若い女は、いつの間にかすぐアメリカーにだっこされてつれて行かれてしまうんです。私はこわくて、ほとんど行きませんでした。母の話では、ある人妻がつれて行かれ、着物も引きちぎられて裸の状態になって夕方帰ってきたそうです。
私たちは、それから田井等のカンパンに何か月かいて、津波古という二世におねがいして、石川に移りました。石川で父とも逢い家族みんな揃ったわけでした。
島袋弘
(三十三歳)防衛隊
私は二月十五日に防衛隊に召集されて、今の嘉手納飛行場にですな、むこうの防衛隊として仕事をしておったですよ。その仕事のやりようはですな、敵の爆撃でやられた滑走路をですな、私は班長をしていたもんですから、七十名くらいをつれて、その穴埋め作業をやっておったですよ。
それから上陸二、三日前にですな、友軍がコザのウクラの山の中に沢山の食糧や薬品を隠してあったんですが、私は隊長から命令を受けて、君は部下を七名つれてむこうにいる兵隊と交替してきなさい、と言われて、私たちはむこうに行ってその番をしたんです
三日ぐらい経って、ちょうどウクラの出身の浜平という人がいて、その人は後で死にましたが、そのへんの地形に詳しく、この近くに大きなウカエがあるから、というもんだから、その墓を避難場所にするつもりで、私たちはその墓の中からジイシガーミ(厨子がめ)を出して、私たちは食糧も欲しいだけ食べて墓の中に二晩入っていました。二日目の晩に、波平と比嘉に竹槍を作るから竹を切ってきなさい、と私は命令したんです。銃は私一人しか持ってなかったんですよ。二人は日が暮れてから、沖縄のマータクですな、あれを切りに出掛けたんですよ。その二人は途中でですな、友軍が追われて国頭に逃げるのと会うたわけですよ。そして引返してきて、私にそういうもんだから、島袋さんすぐ近くまでもうアメリカが来ているから逃げよう、そうかじゃ逃げようということに
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