渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年)

 

 

 

渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) pp. 198-205

逃げる兵の初版本

★ ★ ★ ★ ★ 

 

渡辺憲央[ワタナベノリオ]
1914(大正3)年生まれ。1933年日刊工業新聞社写真部入社。1942年同社退社の後、『ベースボールニュース』の専属カメラマンとしてプロ野球界の写真撮影に従事。1944年応召。1946年復員。ワタナベ写真スタジオを経営、現在に至る

 

屋嘉収容所における捕虜生活

私たちはそれを聞いて慄然とした。そんな爆弾が東京や大阪に次々に落とされたら、日本はどうなるか。私たちの不安をよそにジョーはまたいった。

 

「日本人の私がアメリカ軍にいるのを、あなたたちはけしからんと思うでしょうが、私たちの考えはちがいます。この戦争は一日も早く終らせた方が日本人みんなのしあわせになるのです。日本では零戦のことをカミカゼといっています。戦争に一番大切な人間を自殺させるなんてこんなバカなことはありません。このアメリカの本を見て下さい。バカと書いてあるでしょう」

 

差し出された雑誌に、火を噴きながら墜落する特攻機の写真に添えてBAKAという字が書いてあった。間もなく、キャラメル爆弾が広島に続いて長崎にも投下されたというニュースが伝わり、収容所内はいよいよ重苦しい空気に包まれた。

8月15日

数日後、MPの幕舎附近から、突然自動小銃の発射音が続けざまに響いた。しばらくすると朝鮮人軍夫たちの柵内からウォーッという喚声とともに空罐を打ち鳴らす音がガンガンと鳴りはじめ、人びとの踊り狂う姿が見られた。8月15日、大日本帝国無条件降伏の日である。予期はしていたが、知らせを聞いたとたん、胸の締めつけられるような痛みを覚えた。ほっとした解放感の中に、悲しみと憤りをぶちまけた複雑な心境であった。

未確認の摩文仁司令部の降伏勧告交渉

その夜、上気した顔のジョー高橋が幕舎にやって来て、罐ビールを前に置いて語り出した。「日本はついに降伏しました。もう少し早くしておれば、沖縄でこんなに多くの人が死なずに済んだのに、遅すぎました。沖縄のアメリカ軍は、日本軍司令部が摩文仁に退ったとき勧告の電文を送ったのです。牛島司令官にあなたはよく戦いました。軍人として敬意を表します。でも戦争はもう終りました。これ以上戦って軍や非戦闘員を犠牲にすることを止めて降伏しなさい。そういって話し合う場所と時間を指定したのです。牛島から返ってきた返事には、日本には降伏という文字はない。最後の勝利は日本にある。沖縄には非戦闘員はひとりも存在しない。みんな戦闘員だという答えで、約束の場所には誰も来ませんでした。アメリカはまた通信を送りました。サイパンで玉砕した南雲中将を例にとり、沢山の軍人や非戦闘員の婦女子を死なせて自決した中将に、将軍としての名以外に何が残るのですか。あなたの考えていることは大空の雲に橋を架けるようなものです。もう一度考え直して降伏しなさい。しかし返事がありませんでした」

敗戦後の収容所

その日以来、収容所内は騒然となった。まず慶良間列島守備隊の日本軍将校が朝鮮人柵内に連行され、暴行されたのをきっかけに、将校、下士官が吊し上げられるという事件が起こった。慶良間でひどい仕打ちを受けた朝鮮人軍夫たちの報復であったが、これに憤激した日本兵たちが、こんどは集団で朝鮮人柵内に殴り込みをかけた。騒ぎは日本側内部でも始まった。兵隊たちが将校幕舎、下士官舎に呼び出しをかけ、空いている四大隊柵内で、毎夜悲鳴が聞えるようになった。脛に傷をもつ将校、下士官は戦々恐々とし、人目につかぬよう逃げ廻った。

 

兵隊の仲間うちでも初年兵を苦しめた古兵が槍玉に上がった。中隊でも指折りの悪党だった三谷上等兵が収容されているのを知った仲間は、おなじように四大隊の柵内に上等兵を連れ出し「勘太郎月夜」を歌わせ、軍人勅諭と戦陣訓を唱えさせた。「生きて囚の辱を受けるなかれ」のところで絶句した彼は、「初年兵のみなさま、申しわけありません」と砂の上に土下座して絶叫した。

 

このような毎夜の騒ぎを知ったMPの本部では、朝鮮人たちを柵から出して他所へ移し、将校の柵の入口にはピアノ線を張って、夜間立入りの出来ないようにしてしまった。

朝鮮人捕虜のハワイ移送は6月から7月にかけて沖縄人捕虜と共に行われている。

 

宣撫班 - デテコイ役

敗戦の日以来、残存将兵たちへの投降の呼びかけが連日活発に行なわれたが、容易に成果が上がらなかった。摩文仁の海岸洞窟にひそむ日本兵も民間人も、日本の敗戦を信じようとせず、米軍の掃蕩兵に撃たれたり、逆に米兵が殺されたり、相変わらずの戦闘状態が続いていた。これに手を焼いた米軍は、捕虜の中から希望者を募り、宣撫班を組織したが、呼びかけに行った者が日本兵から射撃される始末であった。しかし、戦友たちのひそんでいるのありかを知っている者たちは、MPに同行して仲間を探し出し、終戦詔勅を読んで聞かせ、納得出来ない将兵には収容所を見学させるなど辛抱強く救出に努めた。

 

こうした活動が効を奏したか、どうして生きていたのかと思われるような兵隊たちが連日、続続と収容所に送り込まれて来るようになった。いずれもボロボロの軍衣に、伸び放題の髯、頰はげっそりと痩せこけて目ばかりがギロリと光っていた。投降して来る将兵が増えるに従って、捕虜カードを作る指揮班の仕事がにわかに忙しくなってきた。敗戦後の捕虜たちは実名を名乗ったが、敗戦前の捕虜はとくに虜囚という名にこだわるのか実名を明かさず、「長谷川一夫」「後藤又兵衛」などと平気で名乗った。中には、戦死した戦友の名前を借用し、その後で誰の名前だったか忘れてしまう者も出る始末で、収容所指揮班は書類の整理に難渋した。

 

二人は次第に大胆になり、夜間しばしば幕舎に忍び込んで糧秣を盗み出した。体調はおかげですっかり恢復し、二人の傷口に新しい肉が盛り上がった。すっかり元気をとり戻した古川は、持ち前の気性から、何でもよい敵に一泡吹かせなければおさまらなくなった。


ある日の夕方、路上に停っている戦車を見つけた。附近に米兵の姿がないのを見届けた古川は、「浦田、しっかり見張っとれ」というなり腰の手榴弾を手に、戦車の天蓋をあけた。無人の戦車内には罐詰やタバコがあって思わぬ収穫にありついたが、古川はそれで満足せず、キャタピラに手榴弾を仕掛けようとした。「やめてくれ」と浦田は拝みたおした。「どうしてそんな無茶なことをするんじゃ。いまさら戦車一台つぶして何になる。そげんことしたら、俺たちはここにおれんごとなるぞ」と必死で止めた。浦田は召集の前に近所の娘と大恋愛のすえ結婚し、女の子が一人生まれていた。古川は浦田より二つ年上の二五歳だが、警察官を父にもち、まだ独身である。やる気十分の彼は、路上に捨てられてある米軍の手榴弾まで雑にしまい込んでいた。

 

ある日、激しい自動小銃の発射音が聞え、大勢のアメリカ兵が「ウォーッ」という喚声を上げながら空に向けて乱射した。数日後、撒かれた伝単には日本軍が無条件降伏したと書いてあったが、二人は敵の謀略だと思っていた。彼らの近くに、江口と名乗る海軍兵四名がひそんでいたが、彼らも日本が降伏するはずがないと息まいた。真栄平の部落には、古川と江口等の海軍兵だけしかいないものと思っていたが、ある夜餓死寸前の敗残兵を見つけ、靴下一足分の米を恵んでやった。兵隊は「海軍の西畑です」と名乗り、「御恩は一生忘れません」と涙を流して喜んだ。西畑は次第に元気をとり戻し、彼らの仲間に加わった。

 

ある朝、三人がいつものように手榴弾を両側に並べて朝飯を食べているとき、突然、石垣の向うから日本兵数名が現われた。中のひとりが、「自分は○○部隊の○○中尉じゃ」といった。そのとたん西畑が、「副官どのではありませんか」と目を輝かした。副官はうなずき、

「みんなご苦労であったが、戦争は負けた」と、もの静かな口調でいった。「きみたちだけではない。日本人全部が負けたんだ。自分もこうして捕虜になっている。武器を捨てて一緒に行こう」

「嘘だ。こいつをやっつけよう」と浦田がいった。
「待って下さい。自分の上官です」
西畑があわてて止めた。副官たちは捕虜収容所から派遣された宜撫班であった。道路わきに停められたジープには、アメリカ兵がハンドルにもたれてタバコを吸っていた。砲声が絶えて一カ月。白昼、民間人たちが鍬を手に芋掘りをしているのどかな風景が見られた。副官のいうとおり、負けたことは確かであった。だが、彼らは捕虜にだけはなりたくなかった。副官は根気よく説得した。降伏は天皇陛下の命令で、日本軍として恥にはならないともいったが、それでも浦田は納得しなかった。説得は長い時間かかった。


「もう階級の差別はない。おたがい日本人じゃないか。俺が頼むから出て行ってくれ」彼らはそういわれて、最後にやっとうなずいたのである。

渡辺憲央『逃げる兵ーサンゴ礁の碑』マルジュ社 (1979年) 240-241頁

 

収容所指揮班

そこで、スイスの万赤十字社へ送る正式カードが全部作り直されることになったが、その前後沖縄周辺の離島、宮古島石垣島方面で武装解除された数千名にのぼる将兵が続々送り込まれて来て、作業はすっかりお手上げの状態になってしまった。


急遽、これらの仕事を片づけるために、写真業務を含む指揮班が、朝鮮人たちの去った柵内に設けられた。私たちはすぐそこへ移った。テントはアメリカ兵とおなじ大型で居心地がよく、雨洩りする棟割長屋から一寸した邸宅に引越したような気分になった。指揮班の編成は、英語を自由に話せる元日本兵の中から選ばれた。私たちの第一号幕舎では、球部隊元兵站の内山軍曹、大竹軍曹、山部隊の田中曹長、角伍長、写真班として私たち二名のほか、田中曹長の部下だったという若い渡辺二等兵が当番兵となって、私たちの身の廻りの世話をすることになった。いずれも通訳や捕虜カードの作成が仕事で、もはや軍の階級を忘れておたがいに"さん"づけで呼び合った。内山さんは津嘉山にいて、球部隊の食糧その他の買付けを専門にやっていた人だが、ついでに慰安婦の元締めも兼ねていた。横浜生れで、鼻の下の長いのを隠すためチョビをはやしていたが、Y談が好きでこの人の話を一席聞くと頭が痛くなり、眠れなくなるとみんなこぼした。大竹さんは浜松生れ、当時米軍内で流行していた「アマポーラ」の歌詞を日本語に訳して教えてくれた。北海道生れで詩人の角さんは、頤に受けた迫撃砲の傷あとをなでながら、夜になると自作の詩をひとり朗読していた。田中さんは北大在学中、思想犯として退学させられたというが、大きな体に似合わぬ心のやさしい人で、みんなからパパと呼ばれた。当番の渡辺さんは私たちが作業から帰るのを待ち受けて、出来立ての飯やスープを用意し、時には配給の毛布を寝台替わりの空箱の上に一枚余分に重ねて、体が痛くならないよう気を配ってくれた。

 

毎日の作業は、日本語の出来ない米人に代わって角、田中両氏が訊問の助手につき、内山、大竹両氏が捕虜カードに英文タイプを打った。顔写真はワスラスキーとレオンが交代で撮影し、現像引伸はジョンソンと私があたった。捕虜はそのときから番号で整理されるようになり、訊問の最後は、ジョー髙橋とジミー谷口が机の上の番号札を示し、「自分の番号を忘れたら、永久に日本に帰れませんよ」といった。私は時々、ジョー高橋から番号係を代わってもらったが、新入りの捕虜は私を二世と勘違いし、将官クラスも敬礼をして帰って行った。私は腰をかけたまま大きくうなずき、人知れず欝憤を晴らした。

『沖縄捕虜新聞』 

またこのとき、二号幕舎には鈴木、大槻、林、臼井、松井内海(現武蔵大学教授)氏らがいたが、間もなく宮古島武装解除された松宮克也氏(現NHK解説委員)等が仲間に加わって『沖縄捕虜新聞』が発行された。

独立高射砲27大隊の兵士

一号幕舎は収容所入口のすぐわきにあったので、収容されて来る捕虜の姿をよく見ることが出来た。私と高橋は作業から帰ると、毎日ゲートわきに立って中に大隊の仲間がいないかと見張りを続けていた。最初に見つけたのは杖にすがった通信の築山だった。ボロボロの上着に、半パンツの下から骨と皮の下肢がむき出しになり、軍靴ばかりが大きく見えた。彼は私の顔を見るなり「お前、生きとったか」と抱きついて泣いた。具志頭で観測に引きとられていった彼は、翌日蛸壺の中で黒崎と一緒に擲弾筒の弾とめをしていたとき、迫撃砲の至近弾で崖下に転落し、洞窟にひそんでいた民間人夫婦に助けられた。それからは沖縄人になりすまし民間人捕虜収容所に入っていたが、あるときふんどしに縫い込んでいたお守りで日本兵であることが発覚し、米軍に捕まったのである。このときおなじ日本兵11名が捕えられトラックに乗せられたが、誰もが処刑場に送られるものと思い込んでいた。はたしてトラックが走り出すと、とたんひとりの兵が飛び降り、芋畑の中へ隠れようとしたが、たちまちMPの自動小銃で射殺されてしまったという。黒崎の消息については知らないといった。私は、その日から栄養になりそうな罐詰を彼の幕舎に運んでやることにした。このあと一中隊ばかりでなく大隊本部や二、三中隊の顔見知りの姿も見るようになっていた。

 

八月二一日には同年兵だった三分隊の藤島、中馬、これに続いて九月初旬には観測班の岩本上等兵。九月一二日には三分隊の古川幸人が収容されて来た。二人とも大隊本部と一中隊間の伝令をつとめていた剛の者である。このほか本部通信班長の田中実義伍長、安田上等兵、二中隊の原口利義上等兵、二中隊長梅田大尉の当番兵だった山之内邦岳、本部糸永副官の書記佐藤高、三分隊の市川光春、三中隊機関銃班長の梅野金親伍長たちが健在なのを知った。観測班の早稲田と一緒に、通信班の仲間だった坂尾の元気な顔も見ることが出来た。最も遅く収容されたのは、大隊本部指揮の叶兼光曹長と永田信夫軍曹である。すでに秋たけなわの一一月二〇日になっていた。だが、私たち通信班が戦場離脱した一件については、同年兵の戦友だけでなく坂尾も聞いていなかったという。ただ、岩本上等兵、梅野伍長だけは知っていた。もちろん見つけ次第、即銃殺の命令が出ていたという。

 

彼らは毎夜遅くまで薄暗い幕舎の中で、その体験を語ってくれた。彼らがどうして生き残ったかは、もはや奇跡としかいいようがなかった。同時に彼ら一人ひとりの証言によって、わが独立高射砲二七大隊の最期の様相もおぼろげながら知ることが出来た。

 

首里の軍司令部が摩文仁に撤退して以来、怒濤のように南下する敵地上軍と周辺海上のおびただしい敵艦隊に包囲されて袋の鼠となり、数知れぬ戦友たちや民間人が、痛恨の思いで死んでいったのである。

 

断末魔の砦

五月二八日、私たち第一中隊が小禄陣地から具志頭へ転進したころ、軍司令部もまた首里を放楽して摩文仁の洞窟に立て籠った。軍司令部の作戦計画は、東海岸から西海岸に至る具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里を最後の前線として抵抗を試みるつもりだったらしく、さしずめ最右翼にいた私たち中隊の任務は、港川方面からの敵を食い止めることにあったようである。

 

そのころ、新川から撤退して来た大隊本部は、摩文仁の南西一キロの海岸線で軍司令部とは背中合せになる小度の洞窟に入っていた。この壕は崖の中腹あたりで南に面して開かれており、もとはといえば、二中隊が火砲一門を設置して南方からの敵に備えていた予備陣地であった。

 

戦況はここ一両日急速に悪化した。南下した米軍は一中隊の具志頭陣地を攻略したあと戦車群を連ねて摩文仁に迫り、同時に小度へも進撃を開始した。またこれに呼応して周辺の海上から艦砲射撃が集中しはじめた。すでに敵の包囲隊形は急激にその範囲をせばめて、余すところわずかに摩文仁、小度二キロの海岸線だけとなり、沖縄日本軍の運命は文字どおり断崖上に立たされる…

 

 

 

 

目次

赤紙の行方
那覇の朝霧
劫火の洗礼
安逸と焦燥の間
兵隊さん、アメリカーが来たよ
アンマー・デージー
南の涯へ
密かなる謀議
7人の落人
漂流
運命の島
今宵かぎりの月
囚われの浜
捕虜収容所の日々
断末魔の砦
敗残の人びと
傷痕は永遠に

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 

http://www.f-take.com/watanabe-book.htm