石原昌家「沈黙に向き合う ~ 伊是名島虐殺事件」(琉球新報 2018年)

闇の奥の、更なる闇 / 戦後の陸軍中野学校「特務要員」

 

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終戦から30年後、沖縄戦史を研究する研究者とその家族に対して信じがたいほど執拗かつ悪質な脅迫を行っていた「元巡査」。それだけでも十分な恐怖であるが、これが、リアルに地理的に限定された共同体で日本軍兵士と共に軍刀をふりまわし集団的に行われたのであれば、その島にどれほど破壊的な恐怖支配をもたらしたか、想像にかたくない。

 

伊是名島では、こうして日本兵が10月まで島民に日本の敗戦を知らせないまま恐怖支配を続け、連続の虐殺事件を起こした。

 

北の伊平屋島では、6月3日に米軍が上陸し通信基地を設置し、住民は収容所暮らしをしていた、一方、伊是名島では敗残兵が島を占領し、まだ幼さの残る小中学生の子どもをよってたかって撲殺するなど、恐ろしい虐殺事件が続く。

 

いったい何が起こったのか、琉球新報の石原昌家氏の連載から。

 

追記・なお石原昌家氏の連載が書籍化されるという話です。出版を楽しみにしたいと思います。

 

「沈黙に向き合う ~ 伊是名島虐殺事件」石原昌家

新聞寄稿に激しい脅迫 ~ 地域のタブーに踏み込む

戦後も続く恐怖・・・。証言者を教えろ、など研究者に脅迫が続く。

 

「指導者に裏切り者」~ 脅迫機に真相に迫る

 

島の人自身が本出版 ~ タブー破り出身者も歓迎


沈黙に向き合う・沖縄戦聞き取り47年 石原昌家(11)

青年30数人が戦死 ~ 元「巡査」恨まれぬれぎぬ

研究者の自宅に包丁が投げ込まれる

 

島にタブー、真相阻む ~ 証言公表の判断で葛藤も

すごすぎる闇

 



中野学校出、戦後も諜報? ~ 聞き取り直前に沖縄去る

陸軍中野学校の宮城太郎 (本名・斎藤義夫) と国頭支隊の平山勝敏 (本名・申應均) は、戦後は米軍の諜報機関とつながっていた !?

 

 

米軍が日本軍の元「特殊任務要員」を諜報活動のプロとして米軍に雇い入れることは十分に考えられる。米軍は極めて能力主義なのだ。占領地沖縄の「監視」を米軍はどのように行っていたのか、陸軍中野学校は過去の話ではない、ということを考えさせられる。

 

陸軍士官学校を卒業し日本軍の将校として沖縄戦に関与した朝鮮人は、平山勝敏 (本名・申應均) の他にも数名いる。彼らは朝鮮半島に帰国後、また終わらぬ戦争を生きた。申 (平山) は、第二十四師団の砲兵隊長の経験から、韓国で砲兵司令部を創設、軍の要職を歴任、アメリカの陸軍指揮幕僚大学などに留学、その後は軍事畑から一転して、トルコや西ドイツなどの大使も務めるが、米軍の諜報機関とのつながりを考えれば、それもなるほどな、などと深読みができるところである。

 

平山がそうであるなら、宮城太郎 (本名・斎藤義夫) はその日本版かもしれない。米軍が琉球大学の教員を監視するために要員を送り込むのは、日本軍がかつて離島の各学校に教員として離島残置諜者を送り込むのと同じやり方 (経路) である。しかしその赴任が、占領下ではなく、「日本復帰」と同時に、というのも気になる。しかも教職課程の「特殊心理学」なんて講義、あるのか? わからないことだらけである。

 

戦後の「宮城太郎」 (本名・斎藤義夫) は、いったいどこからきて、どこに帰ったのだろうか。

 

闇の底に、更なる闇。

 

 

「島の風景」を読んで

 

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伊是名出身のかたのブログに心を打つ感想が掲載されていましたので、ご紹介したいと思います。

 

家族のなかでも語られることのなかった、島のある事件とは。

 

 
少し長くなりますが、暇な時にでも目を通していただけたら・・・


友人から伊是名島に悲劇があったということを知らされ、そのことを書いた本が出版されていることを知り、注文してから届くのが待ち遠しかったが、ようやく、「島の風景」-仲田精昌著-の本がアマゾンから届いた。


早速、飛ばし読み(本を読むときのクセ)を始めた。
そして大筋を掴んでから本編に目を通していく。だいたいその辺でゆっくり時間を割いて読んでいくのがいつものパターンなのだか、今回は少しばかり違っていた。読み進めていくうちに止まらなくなり、一気に読み進めた、、、、いやっ!読み進めたと言うよりは、釘付け状態になったというのが正解かも知れない、、、それほど衝撃的な内容が書かれている、、、、、、、、、

太平洋戦争は親父たちの時代のことであり、戦後生まれのワタシには戦争について特に考えることもなく、意識の外に存在している事柄(戦争)だった。しかしこの本を読み進むにつれ、実はそうではないことを知る。

そして、当時の現場に居合わせたような錯覚さえも感じざるを得ない。
そう自分の出来事のようにオーバーラップしていくのを感じたのである。

出来事(悲劇、惨劇)は、友人が言っていた私の家の周りで起こっていた、、、

本の著者仲田精昌氏は西隣の家「当時の屋号、スンチョウ(村長)」で幼年期・少年期を過ごした人であり、門中一門である。 本の中で出てくる登場人物の中で唯一固有名詞が出てくる、ハナおじさんは、私のじいちゃん(タンメー)であり、その長男、潤兄さん(戦死)は、私のじいちゃんの本当の1人息子(長男)のことである。

精昌おじさんの実の親はスンチョウ(本家)の三男で、横浜鶴見区で戦中戦後を過ごし、精昌氏は、伊是名のおじさん(実父の兄)に預けられ、そこで幼少期を過ごしている。

私の親父が満州からソ連を経て北海道に着き、しばらく北海道で滞在していたとき、伊是名に送り届けたのは、精昌氏の実父であることがこの本の中から分かった。私の父親はたびたびこのことを口にする。

話は終戦間近に、伊是名島で起こった出来事が書かれている。

終戦間近、伊是名に那覇から徴兵検査の役人一行がやってきたという。
徴兵年齢に達していた、潤兄おじさんは、その徴兵検査を受けた後、召集されることが決まった。

ところが、那覇から新兵を迎える船が来る予定だったのだが、戦火が激しく、1ヶ月たっても船は来なかった、来れない状態だったという。 そのような状況の中、たまたま水の補給で島に立ち寄った日本軍の掃海艇。

その掃海艇に急きょ乗せられて潤おじさんたちは戦地へ、、、、(米軍上陸で地上戦が・・・)

あの時、掃海艇が伊是名に寄航しなければ、もしかして新兵を迎えに来る船は来なかっただろう。そして半年もしないうちに沖縄は占領されていたし終戦を迎えていた。潤おじさんは戦地へ行くこともなく、家督を継いでいただろうし、私の親父が養子で入ることはなかっただろう。 じいちゃん(本文ではハナおじさん)は、長男を行かせたことに死ぬまで悔やんでいたという。

何という運命の悪戯なのだろうか!

皮肉なことに、掃海艇が寄港してなかったら、私自身、この世に存在してなかったことになる。何故かと言うと、潤おじさんが戦死していなかったら家督を継いでいた。そうすると私のオヤジが養子に入ることはなかったのだ!親からも聞かされなかったこの事実はあまりに衝撃的なことだった!

本を読み進めていくうちに、この戦争が意識の外から意識の中へと入り込み、目を閉じると、その情景が浮かんでくるのが分かる、、、

運命の悪戯はこれだけではない!

アメリカ軍が隣の伊平屋島を占領せずに、先に伊是名を占領してから、その後に伊平屋島を占領していたら、伊是名で起きた悲劇、惨劇は絶対に起こらなかっただろう・・・
 
何故アメリカ軍は、伊是名を通り過ぎて伊平屋島に行ったのだろうか?

また、沖縄本島を追われ伊平屋島に向かってサバニー船を漕いでいた伊平屋島に向かっていた敗残兵(日本兵)たち一行が、目的地の伊平屋島に行っていたら、伊是名で起こる悲劇、惨劇はなかったに違いない。
 
漂流して伊是名に流れ着いた最初のアメリカ兵虐殺と、その後に漂流してきたアメリカ兵2人の虐殺、そして、もっとも悲劇な奄美出身の少年3人とバクヨーのチナースー(牛馬の仲買人)虐殺の悲惨な運命は起こらなかっただろう。

最初のアメリカ兵は25歳、妻と2人の子供がおり、さらに3人目がおなかの中に。伊江島を占領していたの米軍部隊に帰すと言ってマッテラ浜に連れて行き、ゴムボートに空気を入れているその後ろから、特殊任務についていた役人が拳銃で後頭部めがけて一撃!
 
即死だったという。

次に漂着してきた2人は、上本部を占領したアメリカ軍の兵士。

つかの間の休息で、ゴムボートを出し遊泳中に流され伊是名のマッテラ浜に漂着したところを捉えられ公民館前に連れて行かれた。その時はすでに日本兵(敗残兵)たちは島人に変装して生活していた。敗残兵たちは、最初のアメリカ兵と同じように上本部の米軍部隊にに帰すと言って、マッテラ浜に連れて行き、今度は大佐の日本刀で惨殺。1人は即死、もう1人は、呻き、のた打ちまわっているまま、穴に投げ込み、生き埋めにして惨殺。

最後の悲劇は、島に住む4人(奄美から来た少年3名とヤンバルの人)

奄美出身の少年たちは何故伊是名に住んでいたのだろうか?
 
少し時代をさかのぼると、琉球王朝時代、奄美諸島琉球王国の領土だった。薩摩の島津に占領された後、明治4年廃藩置県奄美諸島与論島まで)は、鹿児島県に。伊是名島伊平屋島沖縄県へ!
 
琉球領土だった頃、奄美は伊是名との交流が盛んで、伊是名の人もたくさん奄美に住み、親戚関係が多いことは小さいとき聞いたことがある。
 
当時、貧しい家では長男以外は丁稚奉公に出されることが多かったと聞く、、、
 
丁稚奉公と言えば聞こえはいいが、要するに貧しいので売られるということらしい。
伊是名でも糸満に売られた(丁稚奉公)人達がいたそうだ、、、
 
そういう事情で、奄美の少年たちは伊是名に売られてきていたのである。

その少年たちは、日本兵にあらぬ疑いをかけられて、ガナハの浜で虐殺、撲殺された、、、

年頃で言うと、オーサカー少年は(島でのあだ名)中学生、イチロウ少年とツネオ少年は小学校6年生ぐらいの年齢。
 
ガナハの浜に連れて行かれたオーサカー少年が、命乞いするシーンを読んで、何ともいえない悲惨さで胸が苦しくなってくる。

中学生、小学生、まだ子供ではないか!

大人たちがその子供たちを殴り殺したという事実、、、、
狂喜乱舞の敗残兵、、、それに手を貸した伊是名の青年団、、、、

この少年たちの悲劇は、伊平屋にいたバクヨーのチナースーも同じだった!

チナースーとはあだ名で、姓が喜納でスーは親父、それを島ではチナースーの愛称で呼ばれていた。このチナースーはヤンバルのバクヨー(牛の仲買人のことで馬喰(ばくろう)といわれる仕事人)で、伊是名とヤンバルを行き来していたそうだが、伊是名の女子との間で子供ができて、それ以来、伊是名に住んでいたという。

チナースーは仕事で隣の伊平屋に行ったところ、アメリカ軍が上陸、伊平屋島は占領され、伊平屋島の住人全員が収用所に集められ、チナースーもその収用所で生活していた。

ある日、伊平屋からアメリカ兵が伊平屋島住民2人をつれて伊是名にやってきた。その1人がチナースー。おそらく伊是名に住んでいて島のことが詳しいから同行させられたのだろうが、悲劇の始まりはこのときに起こったようだ。チナースーは集会所に集められた伊是名の人たちに向かって、こう言い放ったという。

「日本は負けた。だからアメリカ兵は帰還する。国に帰るアメリカ兵たちは、何かお土産をほしがっている。彼らが喜ぶのは日の丸!戦争記念に日の丸をほしがっているので、お菓子や石鹸などと交換したほうがいいよ」

と、言ったのである。(島民の中に日本兵たちがいることも知らずに)

群衆に隠れて一部始終を聞いていた敗残兵たちは、その光景を見て、アメリカ兵の手先になっているチナースーのことを、スパイだとか売国奴とか言って、血相を変えて「どんなことがあっても絶対あいつを殺してやる!」と言っていたという。

もう一方の悲劇、被害者、奄美少年の1人、イチロウは島の人たちからひどい差別を受けていた。
 
ある日、緒見の知人に対して、伊平屋に泳いでいって、アメリカーに 「島に兵隊(敗残兵)がいると言うことをばらしてやる!」
と冗談を言って、知人に愚痴や不満を漏らしたという、、、
 
もともと海人(ウミンチュー)のイチロウ少年は泳ぎが達者な少年。そのイチロウ少年が泳いで具志川島(伊平屋との間の島)までいったことが、この惨劇につながっていく、、、

策略したのは、おなじ奄美出身で先輩格のオーサカー少年だった。
彼らは捉えられ緒見の集会所の柱にロープでくくりつけられた。

敗残兵たちは、この機会に見せしめとして殺害を決意!

ついでに伊平屋の収用所にいるチナースーも島の漁師を使って誘き出し、サバニー(漁師の船)で伊是名の浜までつれてこられ敗残兵たちに引き渡された。そのとき諸見で捉えられていた奄美少年3人は、時を同じくして、緒見の青年団たちに連れられて、ガナハの浜につれてこられた。

オーサカー少年は殺されるのを察知して、命乞いを繰り返し、抵抗して暴れるのだか命乞いもむなしく、敗残兵に殴り殺されれた。

また、チナースーもガナハの浜に連れて行かれるとき、彼もまた殺されるのを察知して激しく抵抗し、命乞いを繰り返すのだが、抵抗むなしく撲殺される。

イチロウ少年とミノル少年は、恐怖のあまり抵抗することなく撲殺された。

小学校6年生ぐらいの少年が、、、、、どんなに怖かっただろうか…

なんという悲劇、惨劇だろうか!

ガナハの浜やマッテラの浜にしても、ワタシが島にいるとき何度も何度歩いた浜である。あの浜辺に、とてつもなく悲しい哀れな地獄の惨劇があったなんて、、、、
それも私が生まれる13年前に起こった出来事は、50歳目前になるまで知る由もなかった、、、

もう1つ、時の悪戯による悲劇は、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏し戦争を終結させ、天皇陛下による玉音放送が流された後に起こった出来事であるということだ。

島民が終戦を知ったのは玉音放送から2ヵ月後!

空襲によって、連絡船伊福丸の破壊沈没、そして無線も破壊され情報が遮断されて孤立、孤島化した伊是名島。そこへ流れ着いたのが、絶対的権力を持つ敗残兵たち。島民はその権力、(敗残兵)へ迎合することしか選択の余地はなかったのかもしれない、、、、

情報手段が断たれた伊是名の人たちは、アメリカ兵が伊平屋からやってきて、「戦争は負けた!」と言っても信用せず、島民は皇軍(敗残兵とは誰も思ってない)に脅え、時間のずれによって、あの忌まわしい悲劇が起こった。

そのことを知ると何ともやりきれない気持ちが頭の中を駆け巡る、、、

教養もない、教育も受けてない青年たちは、島の役人や有力者たちから聞かされる(教えられる)皇軍天皇崇拝を叩き込まれており、敗残兵とは知らずに、ひたすら戦争に勝つことを信じて、敗残兵に迎合したことは自然の流れだったのかもしれない、、、、 そう考えると、ワタシも青年団の一員だったら、みんなと同じ行動をしていたのかも知れない。

この悲劇(物語)はワタシが住んでいた緒見、しかもワタシの家の隣を舞台にして書かれている。幼少の頃、隣の家(スンチョウ)で毎日遊び、スンチョウのじぃちゃん、ばぁちゃんが亡くなって空き家になった家の掃除をするのは、ワタシたちの日課だったように気がする。その屋敷で、敗残兵の富雄(偽名)が居候し、他の敗残兵たちが毎晩集まって談笑していた、、、、
 
親から聞いたことは一度もない。精昌おじさんがこの真実を世に公開するまでは、、、
 
本の中で、潤おじさんが出征・出兵するときに、何でみんな泣くんだろう、、、 「御国のため、天皇陛下のため、喜ばしいことなのに!」 と、軍人を目指していた精昌少年は当時の心境、心情を本の中でこう書き残している。

「潤兄の家では、親戚が集まって、いましも出征の儀がとりおこなわれようとしていた。そのときの自分の心情、顔の表情を思い出すたびに私は激しい自己嫌悪にかられる。一生つづく悔恨の念である」

村長の家で育ち、従兄妹たちは島で初めて帝国大学出た人や、大学の教授になっている人、病院の院長になった人等々、家柄からして、そういう環境で育った精昌氏は、小学校5年生で宮本武蔵8巻を読破、最高の教育を受けた精昌氏ゆえ、この本が書かれたと思う。そして、少年期にみた悲劇、惨劇や悔恨の念をずっと抱きながら、ご自身、あの忌まわしい戦争へのけじめとして、パンドラの箱を開ける決意をし、真実を書いて本書が世に出たことに感謝する。

見せしめのために殺害された、チナースーやオーサカー少年、イチロウ少年、ミノル少年、それにアメリカ兵たちは成仏出来ずに島の浜を彷徨っているだろう。1日も早く供養しなければ・・・

少し長くなりました。沖縄にはそれぞれの地域で戦争による悲惨なできごとがあります。伊是名でのこの話が何故?今まで封印されていたのだろうか?

それは、敗残兵に手をかした青年団の人たちが今でも島で健在しているからだそうです。精昌氏がこの本を世に出す時、かなり抵抗した人がいたことを聞きました。

精昌氏はこの本「島の風景」出版後に亡くなりました…

沖縄の青い空、きれいな海、人情などに魅せられて、毎年多くの人がやってきます。そして沖縄に癒される人たちがたくさんいます・・・

ただ少しでも沖縄戦の足跡を観たり聞いたりして、ネガティブな沖縄も知ってほしい・・・

風化させないために…

最後まで読んでくれた人に感謝します。

 

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