独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)平山隊 (隊長 平山勝敏・申應均) についての貴重な証言。
父に続き陸軍士官学校を卒業したの平山勝敏については、前々から関心を持っていたが、特に、「上官は北部一円を担当した宇土部隊の宇土武彦大佐。公式な場では上官だが、夜の会食では平山大尉が上座に座った」という話は、通常であればありえないことで、これも平山にまつわる様々な伝聞のひとつ (例えば皇族出身、等) として興味深い。
[語れども語れども・うまんちゅの戦争体験](336)
外間政吉さん/85歳、名護市/父脅した大尉 憎かった
2019年3月31日 5:00
今は桜並木になっている八重岳(本部町)の道沿いに実家があった。通称芭蕉敷(ばしょうしき)がふるさと。家のすぐ近くに15センチ砲2門を持つ平山大砲隊が陣地を構えた。隊長の平山勝敏大尉がうちを使うことになり、一番座と二番座を取られてしまった。
平山大尉は韓国の皇族の出身だったらしい。上官は北部一円を担当した宇土部隊の宇土武彦大佐。公式な場では上官だが、夜の会食では平山大尉が上座に座ったという話を後に聞いた。
わが家は牛、豚、ヤギをたくさん飼っていた。父政昇が「戦争になったら食べられない」と言って少しずつつぶして食べていた。それを知った平山大尉は日本刀を抜いて「勝手に食料を食べるのは国賊だ。たたき切ってやる」と父を脅した。びっくりしたし、憎らしかった。
大砲は伊江島まで届くということだったが、1発も撃たなかった。平山大尉は伊是名、伊平屋、鹿児島を経て帰国し、韓国軍の幕僚になったという。
人の道守った父
戦争が迫った3月、父は「ここは軍隊がいるから危ない」と言って、伊豆味の唐又山に逃げることにした。出征した兄の妻たちは「ここにいれば兵隊さんが守ってくれる。怖いから行けない」と反対した。父は強制せず、「自分で判断しなさい」と言った。結果的には兄の妻たちもついてきて、一家15人はみんな無事だった。
避難中に実家に戻ると、周辺にたくさんの遺体が転がっていた。トラックがそれをひいたりしている。みんなそれを何とも思わない戦争中に、父は墓を作って埋めてあげていた。人の道を外れなかった。周囲は木も全部焼かれてはげ山。実家に残っていたら大変だった。
私は6人兄弟の六男。ある時、五男の政憲と2人で木に登って米軍車両の車列を見ていた。がんまり(いたずら)で木の枝を揺すったら、機銃掃射を浴びた。敵か味方か分からなくても、動くものは撃つ。「うりがるいくさやしぇー」。政憲と言い合いながら木を下りた。
宇土大佐の襟章
戦争が終わり、収容所に入れられることになった。実家は米軍に燃やされてしまった。転々として、最後が辺野古の大浦崎収容所だった。
宇土大佐の金ぴかの襟章を拾ったことがある。米兵がとても喜んで、たくさんのメリケン粉と交換してくれた。日本兵の鉄砲も拾って交換用に持っていたら、(名護市)世冨慶と東江の間のMP(憲兵)ボックスで見つかって取り上げられた。
収容が終わり実家に戻ると、大砲陣地の横にあった弾薬庫の壕に通うようになった。弾薬を包む絹の布は作業着を作る貴重な材料だった。
ある時、壕から出てきて、地元の少年3人とすれ違った。「君たちこれからか」と言葉を交わし、家に帰ったらドカーンと大爆発し、3人は亡くなってしまった。壕は暗いからたいまつを付けていく。中には弾が転がっている。戦果を挙げるのは危険だらけだった。
うちは長男、次男、三男の兄3人が兵隊や軍属に取られ、海外で亡くなった。父は「こんな悲劇はない」と嘆いた。母タマは心痛からか胃潰瘍を患い、亡くなるまでひっくり返るくらいの胃けいれんに苦しんでいた。まさに戦争の傷跡。私も70年前のことを今でも覚えているのは、心の傷として残っているからなのでしょう。(北部報道部・阿部岳)=毎週日曜日掲載
(写図説明)「戸籍が焼けて誕生日が分からなくなり、戦後に10・10空襲の日を届けた」と話す外間政吉さん=名護市宮里の自宅
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