米軍基地の悪夢 ~ 伊平屋島、汚染された井戸水

 

伊平屋島伊是名島

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1945年6月3日、米軍が伊平屋島に上陸

1945年6月3日、島民の人口3,000人ほどの小さな離島、伊平屋島に上陸した。日本軍の拠点もないこの小さな離島の島に、尋常ではない大所帯「第8海兵連隊」(第2大隊、第3大隊、おそらく第1大隊も) でもって激しい艦砲射撃の後の上陸だった。その異常な蛮行と、その背後にあるものは、また他の機会に検証するとして。

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Marine laden LST's move toward Iheya which is being pounded by an air assault.【訳】空爆を受ける伊平屋島揚陸艦で向かう海兵隊(1945年6月3日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

山の形が変わるほどの艦砲射撃で住民47名の死傷者。あまりに激しい艦砲射撃で同士討ちとなり、上陸した海兵隊18人が死傷している。日本軍はいない。米軍の記録には「抵抗は皆無」だったと記されている。第8海兵連隊の伊平屋と粟国の米軍上陸作戦は、どう考えても常軌を逸したものだった。

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Marines entering Gakiya on Iheya-no opposition.【訳】我喜屋集落に入る海兵隊。抵抗は皆無。

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そして、上陸軍は伊平屋の里を「ピクチャレスク」 (絵のように美しい) と、ロマン主義的審美理念を最も体現する形容詞で表現しながらも、・・・

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Gakiya looked like this; rainwashed and picturesque with its red tile roofs, grey thatch huts, and green rice fields in the distant valley.【訳】我喜屋の風景。赤瓦、藁葺き屋根、遠くに水田のある風景は絵のように美しい。(1945年6月8日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

その藁屋根の家々を「ばい菌の巣窟」と呼んで、徹底的に火炎放射器で焼き払った。人々の営みと文物には何の価値もないかのように破壊した。

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Iheya Shima, fast working flame throwers destroy germ infested grass houses in the village of Gakiya on the newly covered island of Iheya Shima.【訳】新たに占領した伊平屋島我喜屋集落で、病原菌の巣窟である藁葺き家を、高速火炎放射器で焼き払う。(しかも写真にある家は藁ぶきではない。)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

離島では、焼き払われれば、再建するための木材の供給も困難であるというのに、いったいどうしてくれるのか、ということは軍は一切考えない。

 

米軍は島に特攻機対策としての通信基地を建設し、人々は島の北部の集落に「収容」され、軍作業が強いられた。

米軍はこの島を占領するとここに大変な設備をこしらえました。前泊に仮飛行場ができて、あの岬のクバ山の上には電波探知機があって、クマヤーの洞窟は弾薬庫、この道に沿っていったところにあるヒジャ部落は飲料水取り場になっていました。米軍がこんな島にこれだけの基地をつくったのは本土上陸にそなえていたわけでしょうね。そのころはまだ日本は降伏していないわけですから。私は実際にその基地にはいっていったことがあるんですが、これは偶然そこに迷いこんだわけです。捕虜になると私らは軍作業をやっていたわけです。作業をやらんと一日分の米の配給がもらえんわけです。

「戦時中の伊平屋」『沖縄県史』 伊平屋島・伊是名島 ~ 戦争証言 - Battle of Okinawa

 

 

 

1947年、米軍ヒ素が家族を襲う

1945年11月2日、米軍は撤退し、人々は収容所から解放される。しかし、米軍が去ったあと、戦後ふたたび思いもよらない形で米軍の毒が人々を襲う。

 

伊平屋村我喜屋、当時17歳の証言から

ヒ素のはいった井戸水

... < 中略 > ...

 私たちの戦前の家は大きなカヤ葺家でしたが母屋も牛小屋も豚小屋も焼き払われて石垣囲いもブルで敷きならされていました。

 マリン部隊が引揚げていったので我喜屋の人たちはみんな一緒に部落に帰ってきたわけですが家はないからしばらくは前の海端にある製材所の小屋に居て山から木を切りだしてきて親戚どうしでめいめいの家を建てたわけです。この時、村長さんの相談で、私たちの元の屋敷はどうせ運動場の拡張に使われるから近くの空地と交換しないかと言われて、それで現在の屋敷に家を建てたわけです。この屋敷はもともと空地で井戸が一つだけありました。米軍はここを弾薬集積所に使っていたそうです。

 症状があらわれたのは1947年ごろからでした。最初に目がチクチク針でさされるようになって、涙がでてですね、肌が茶褐色になってあっちこっちに斑点ができて見られたザマではなかったですよ。手足がしびれてきて、肝臓と腎臓と心臓が全部やられたんですね。重くなると体ぜんぶから力がぬけて立つことも食事をすることもできずただ寝ころがっているだけです。そのうち腹に水がたまってふくれあがりんでいました。家族がぜんぶいっぺんに同じ症状になってしまいました。

 私の家族は父正徳、母モウシ、長男正敏、次男正宏、長女名嘉カネ、その子敏子、次女ヨシ子、その子蒲、それに私をいれて九名おりました。カネの長女敏子が四歳ぐらい。ヨシの長男蒲がまだ一か月ぐらいの赤ン坊でした。

 最初に死んだのはで四七年の十一月ごろでした。二、三か月して芳子が亡くなり、それからは次々と死んでいき、一年のうちに八人も死んでしまって私ひとりがやっと生きのこったわけです。体力の弱い者から順に死んでいきました。

 初めのうちは、ながいあいだ原因がわからなかったわけです。島の診療所ではただ皮膚病の薬しか塗ってくれませんでした。部落では悪性梅毒だとか何かのたたりだとか言って、家にも寄りつかないし道ですれ違っても向う側へ逃げていくありさまでした。葬式もごく近い親戚だけで出しました。島の習慣では普通部落全部が参列するんですが。

 他の家族の者たちは島ではどうにもならなくなって名護病院に入院しました。そこでも原因はよくわからないが内臓の治療を受けていると少しはよくなって、それで家へ帰ってくるとまた悪くなるわけです。二回目に入院するともう手のつけられない状態になっていました。

 私は比較的体が強い方でしたから、寝ている病人に御飯をつくってやったり看病しておりました。私が本島に出たころは母と合せて二、三名しか残っていませんでした。母は私に向って、自分たちはもうあきらめているけれどあんただけは生きて、自分の思うように生きて、婿養子でもとってこの家を継いでくれと遺言のように言っていました。それで私は本島へ出て名護病院にはいっていたわけです。その間に母も他の残りの者も全部死んでしまいました。私は葬式にも出られませんでした。

 私はひとりだけ残されて、名護病院、コザ病院、赤十字病院石川病院と入院しましたが全然原因がわかりませんでした。戦前私の家は部落でも二番目の財産家だったんですが田も畑も山も二つの屋敷も入院費に売り払ってあとには田と畑で六百坪ぐらいしか残っていませんでした。財産が全部なくなるまでは救済も受けられないわけです。

 調査員が来たのは八名が死んでしまって私が石川病院にいたころですが、私の空家に無線技師の松本さんが借りて住んでいたんです。家じゅう消毒して井戸水も全部汲みだしてからはいったんですが、この家族にも私たちとまったく同じ症状が現われたんです。それで名護保健所に水を送って検査してみたらヒ素がはいっていることがわかったわけです。松本さんの家族は二、三か月ぐらい治療したら退院できました。

 私の病名も慢性ヒ素中毒ということになって治療法も変わりましたが、もう体じゅうに毒がしみこんでいるのでこれ以上よくなることはありませんでした。今でも少し無理をするとすぐ倒れてしまいます。鍬を二、三回振っただけで体がフラフラになってしまうし昼間じゅう起きていることもできません。今は小さな店をもって子供相手の十円商いをやっています。

 去年(昭和46年)の夏、いつまでも毒のはいった井戸があると目ざわりだし、思いだしたくもないものですから、人を雇って埋めさせたんですが、井戸のまわりの石を掘り起こしたら下から空カン(鉄製円筒形のボンベ)が二個でてきました。警察に知らしたのですが爆弾ではないし中は空っぼでした。私はこれがヒ素の罐ではないかと思います。

『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 伊平屋島 篇

ヒ素の用途は不明であるが、ヒ素は農薬や毒ガスなどの化学兵器にも使用されることがある。例えばキャンプ桑江の一部返還では、土壌が鉛や六価クロムヒ素に汚染されており、土地の引き渡しまでに膨大な税金と年月がかかった。

 

家族を失い、全財産を切り売りしながら、それでも家族の生命と財産が尽きるまで何の情報も支援もない。軍政下で、情報もなく、家族は病の苦しみだけではなく、原因がわからないため偏見にさらされ、警察に知らせても爆弾ではない、と片付けられる。

 

いったいこの不条理はどこからもたらされたのか。

 

米軍基地は最大の環境破壊者

島から水を奪い、汚染物質を垂れながす。そして何の責任もとらない。

これは今も変わらない米軍基地の姿である。

 

垂れ流しの米軍

飲めない水、ヒ素の井戸、燃える井戸。

 

県が2016年度から夏と冬に実施しているアメリカ軍基地周辺の湧き水や川などのPFASの調査結果が12月1日公表され、46カ所の調査地点のうち、32カ所で国の定める暫定指針値を超える濃度で検出されたことが分かりました。

県のPFAS調査を公表 嘉手納町で42倍を検出 – QAB NEWS Headline

 

調査させない米軍

県は発生源の汚染除去をしなければ高額な費用が恒久的に必要となるため、基地内への立ち入り調査をもとめているものの、問題発覚から7年経った今なお実現していない。 

「人権が侵されている」沖縄の本土復帰から51年が経過も米軍基地が由来とみられる水の汚染は解決に至らず | OKITIVE

近年は、騒音以外にも米軍基地における環境汚染が次々と明らかになっています。基地内の廃棄物や航空機燃料などによる土壌汚染、水質汚染は深刻です。ところが、日米地位協定により基地内の管理権は全面的に米軍に委ねられているために、地元自治体が立入調査をすることも自由にできません。日米両政府は、2015年に環境補足協定を締結し、米軍による環境基準の遵守や自治体の立入などについて合意しましたが、実効性についてはまったく担保がありません。

基地問題 | JELF日本環境法律家連盟(Japan Environmental Lawyers Federation)

 

金も払わない米軍

米軍は垂れ流す。米軍の毒の垂れ流しを被害者である日本の国民が血税で支払う。

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旧米軍用地の原状回復に注がれた日本の129億円 - 島袋夏子|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

 

そして国民の無関心

そしてこれを何とも思わない大多数の国民。

日米地位協定 第4条

1 合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当たつて、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、又はその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない

2 日本国は、この協定の終了の際又はその前における施設及び区域の返還の際、当該施設及び区域に加えられている改良又はそこに残される建物若しくはその他の工作物について、合衆国にいかなる補償をする義務も負わない

 

戦後から79年もたつというのに、

 

この、あまりに腐りきった日米地位協定のうえに胡坐をかいているのは、米軍だけではない。

 

米軍負担を一方的に沖縄に押しつけ沖縄が基地を語ると、米軍ではなく沖縄が目障りだと感じる。

 

こうして日本の問題から目をそらし続けてきた、日本の政府と国民も、「他者」の犠牲のうえに胡坐をかいているのと同じである。

 

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▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ 米軍基地の悪夢 ヒ素の井戸、燃える井戸、飲んではいけない水 ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ 垂れ流しの米軍、調査させない米軍、金も払わない米軍。 米軍を一方的に沖縄に押しつけ、沖縄が基地を語ると、米軍ではなく沖縄が目障りだと感じる日本。