中村仁勇『沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記』(2013年)

 

中村仁勇氏は15歳で阿嘉島の「青年義勇隊」に動員され、住民として、義勇隊として、軍に近い場所からの貴重な証言を記録している。

 

 

  『1945(昭和20)年6月5日、米第10軍情報機関(CICA, G-2, 10th Army, HQ)は、阿嘉島日本軍守備隊の降伏を勧めるため、降伏交渉団(以下、交渉団)を組織した。交渉団のメンバーは団長のクラーク中佐のほかに、…オズボーン海軍中尉、…スチュワート海軍中尉、日系2世の…オダ軍曹、それに日本兵捕虜の染谷…少尉(阿嘉島日本軍守備隊)と神山…中尉(座間味島日本軍守備隊)の5人だった。

    一行は6月10日、座間味島米軍守備隊司令部に阿嘉島行きの許可を求めた。6月12日、同司令部の許可を得た5人は、午後遅く軍の郵便物輸送艇で座間味島に渡り、その足で同守備隊司令部に出向き、降伏交渉の諸準備にとりかかった。

    この作戦は日本兵捕虜の協力に負うところが大きかったが、その中でも特に米軍の間で「まれに見る進歩的な日本兵」として知られていた染谷少尉の働きが大きかった。同少尉は阿嘉島日本軍守備隊について熟知し、山中に潜んだ日本兵や住民らの悲惨な状況、とりわけ飢餓状態のまま放置されている住民・一般兵・朝鮮人軍夫の惨状に強い懸念を抱いていて、この作戦こそが彼らを救出するまたとない機会だと決めていた。』(179頁)

    『降伏交渉団は6月13日〜19日までの7日間、阿嘉島の8つの海岸で大音量の拡声器を使用して日米会談の開催を日本語で呼び掛けた。放送は主として染谷少尉が担当した。…日本軍も住民も、放送には興味は抱いているようだったが、投降する気配は全くなかった。ところが、呼び掛け最終日の6月19日、交渉団はついに日本軍側と海岸で接触することができた。』(180頁)

    《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 179-180頁より》

 

その後、米軍は作戦の継続を決定し、交渉団は複数回にわたり日本軍側と接触できた。6月26、27日の両日、米軍は日本軍の降伏を求める日米会談を実施した。26日、阿嘉島慶留間島に布陣していた海上挺進第2戦隊の隊長、野田義彦少佐も会談の場に現れた。このとき、米軍は負傷して既に捕虜となっていた野田少佐の戦友、梅沢少佐を担架に乗せて連れて来た。これは野田少佐の要求に応じたものであった。

    『…6月26日午前9時、交渉団一行はウタハの浜に拡声器と黄色の旗を携えて上陸した。…午前11時頃、ついに、正装した野田少佐が2人の軍曹と数人の武装護衛兵を伴って交渉団の前に姿を現した。日本軍の警備兵は交渉現場には直接姿を見せなかったが、そこから約35ヤード(約32メートル)ほど離れた茂みの中で警戒に当たっていた。一方、米軍側の護衛兵は海岸から300ヤード(約274メートル)ほど沖に停泊している歩兵上陸用舟艇の中で警戒の任に当たっていた。』(188頁)

    『…クラーク中佐が会談の口火を切った。同少佐は野田少佐に対し、戦況、特に沖縄本島における日本軍の敗北について話した。その上で、戦争終結後の日本軍兵士の役割に触れ、「平和な日本の再建のためには野田少佐や若い有能な部下将兵の貢献が必要であり、無意味な自決や餓死を待つのではなく、生きる勇気を持つことが大切である。このことが天皇に忠誠を尽くす最善の方法でもある」と力説し、阿嘉島日本軍守備隊の降伏を勧めた。

    一方、野田少佐の会談冒頭の発言は、「米軍は武力による阿嘉島の占領を企んでいるのではないか。もし、そうだとすれば、それは軍事基地の強化が狙いなのか」というものだった。…これに対し、クラーク中佐は、交渉団は座間味島米軍守備隊とは組織上直接には関係ないので、この件については返答しかねると答えるとともに、慶良間諸島のほかの島々はすべて米軍の支配下にあり、軍事基地も十分確保できている、とつけ加え日本軍側の不安の払拭に努めた。…その後、野田、梅沢の両少佐は、……2人だけで話し合いを持つことになった。』(189頁)

    『…野田少佐は「結論を出すにはもう少し時間が欲しい」とクラーク中佐に伝えた。しかし、同少佐は、呼び掛けを開始して2週間も経っており、検討する時間は十分あったはずだとし、…野田少佐は…次の日の午前10時に最終回答を提示したいとの新たな提案を行い了承された。』(190頁)

    『日米会談2日目の6月27日午前9時、交渉団は座間味島米軍守備隊から派遣された護衛兵を伴い、歩兵上陸艇でウタハの海岸に向け出発した。9時30分、ウタハの浜に到着し、…10時15分、竹田少尉と2人の軍曹からなる日本軍側の交渉団一行が現れた。しかし、その中に野田少佐の姿はなかった。…竹田少尉は「野田少佐がこの場に直接出席できないのは残念だが」と前置きしながら、野田少佐の回答をクラーク中佐に手渡した。…回答の内容は次のとおりだった。

    … 回答

    1. 天皇やその代理の者からの命令が無い限り、降伏はできない。これは全軍の総意である。

    2. 阿嘉島に対する米軍の攻撃には反撃する。ただし、軍事行動を行わない限り、日本軍は米兵がビーチや港内において貝拾いや海水浴を楽しむ分には、何ら危害を与えることはない。

    3. 座間味島に収容された阿嘉島の帰島については、私は、米軍の要請に従い、住民の解放に関し、そのような約束をしたけれど、阿嘉島に未だ残っている住民は座間味島に住むことに反対している。従って、私はその要求を受け入れることは出来ない。…』(194-195頁)

    『…竹田副官は、…野田少佐の心境を次のように伝えた。

    野田少佐は米軍側の誠意や善意も十分理解している。できることなら、生き延びて国際社会で尊敬される新生日本の建設のために尽くしたいのだが、残念ながら軍紀および武士道精神に反する行為を受け入れることはできない。また、降伏を受け入れることは、下された命令と長年受けてきた教育にも反する。竹田副官は、このように、野田少佐の苦しい心境を伝えた後、米軍側の理解を求めた。…このようにして、2日間にわたって行われた日米会談は、残念ながら決裂した。』(196頁)

    《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇/元就出版社) 188、189、190、194-195、196頁より》

 

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