NHK 『沖縄 空白の1年 ~ 基地の島”はこうして生まれた ~ 』

f:id:neverforget1945:20190810115024p:plain

 

NHKスペシャル

沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~  

f:id:neverforget1945:20210814081228p:plain

 1945年8月15日、本土の人々が太平洋戦争の終わりを告げる玉音放送を聞き、悲嘆に暮れる中、沖縄では、人口のおよそ9割が「収容所」に入れられるなど、全く別の「戦後」がはじまろうとしていた。
今回NHKは、アメリカ軍の占領直後―――「1945年6月から1946年にかけて」の映像や、米軍の機密資料、未公開の沖縄の指導者たちの日記等を入手した。資料を詳細にみていくと、この時期、アメリカの占領政策は揺れており、まさに沖縄が「これからどうなるか」が決められていく期間でもあったことが分かってきた。沖縄はこの時期、アメリカでもなく日本でもない、“空白の状態”に置かれながら、次第に「基地の島」へと変貌させられていったのだ。戦後、本土が平和と繁栄を謳歌する一方、その代償として重い負担を背負った沖縄。「空白の1年」を通して、沖縄の戦後の歩みと今を考える。

2016年8月20日放送

 

 

沖縄空白の一年 1945-1946 [ 川平成雄 ]
価格:3080円(税込、送料無料) (2020/8/12時点)

鉄と血の嵐が吹き荒れた沖縄戦。米軍は戦争終結後を見据えた戦略があった。必至に生きる住民の姿、焦土の中での経済復興の経過を詳細に描き、謎につつまれた“空白の一年間”を解明。「戦後」なき沖縄の原点に迫る。 

 

米軍の住民移住計画

f:id:neverforget1945:20210715194310p:plain f:id:neverforget1945:20210718051404p:plain

沖縄島で米軍が設置した12の民間人収容所区域

1 辺土名収容所 … 上島・兼久・桃原・比地・大兼久・大宜見・喜如嘉・謝名白・田嘉里・根路銘・饒波
2 田井等収容所 … 親川・川上・田井等・仲尾次・真喜屋・呉我・古我知・伊差川・山田・我部祖河 孤児院養老院精神科
3 瀬高収容所 … 二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽
4 大浦崎収容所 … 久志・辺野古・大浦崎・豊原
5 古知屋収容所 … 古知屋・高松
6 宜野座収容所 (福山収容所) … 宜野座・福山・大久保・惣慶 … 野戦病院
7 漢那収容所 … 中川・漢那・城原
8 石川収容所 … 石川・伊波・山城
9 平安座収容所 … 浜比嘉・伊計・平安座・宮城
10 前原収容所 … 古謝・川田・具志川・幸崎・塩谷・高江洲・前原・南風原・桃原・豊原
11 コザ収容所 … 嘉間良・越来・室川・安慶田 … 孤児院
12 知念収容所 (百名収容所) … 百名・仲村渠・下茂田・志喜屋・山里・具志堅・知念・久手堅・屋比久・伊原・新里 … 孤児院

米軍の住民移住計画 (resettlement program) で、住民は自分の土地から追い立てられ、基地建設が変更され進展するたびに収容所から収容所へと移送された。住民の住居区域は沖縄島のわずか10%の土地に制限され、その土地の過半は住居に適さない土地であった。

米陸軍報告書からの翻訳

【和訳】(この変更が沖縄島と伊江島にかなりの衝撃を与えた。もともとは沖縄島と伊江島にあわせて10の飛行場を建設する予定だったものが、沖縄島に18の滑走路、伊江島に4つの滑走路が計画された。5月末までに、22の滑走路のうち10が建設中であり、沖縄の基地展開計画で求められていた建設は戦闘の終わりまでに完了しなかったが、その基地建設はますます多くの地所を接収することとなり、おもに島の北部の荒れ果てた小さな区域に民間人の居住を限定することとなった。

これらの進展を懸念するあるオブザーバーは、戦術部隊が軍事施設のために沖縄島の多くを占有したため、「現住民のためのスペースは実質的にひとつも残っていなかった」と述べている。避難民に割り当てられた地域は、戦術部隊のニーズが拡大するにつれて変化し続けた。多くの地域で、避難民の絶え間ない移動が作物の植え付けを完全に妨害し、その結果、食糧事情の悪化の一因となった。民間人が地方の共同体を擁することのできないような小さな点在するポケットにどんどん追い込められていくなか、軍政府のチームはほとんどそうした民間人の状況には対処することはなかった

… これらの民間人避難者が移送された軍政地域は、沖縄島の陸地の約10%に過ぎず、その割合のうち、おそらく半分は定住目的にはまったく不向きな土地であった。

この困難な時期を通して、沖縄県民は苦難にもかかわらず冷静で協力的であり続けた。そしてそこに苦しみと苦悩苦しみがあった。たとえば、6月22日、881人の避難者がトラックで久志に輸送されていた際、1台のトラックが数十人をのせ、その中で3人の死者、つまり2人の子供と1人の年配女性が死んだ状態で到着した。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 57-59》

f:id:neverforget1945:20210801174822p:plain

米国海軍: Life among Japanese people inside a military compound on Okinawa in the Ryukyus as the US forces take over areas of the island.
米軍占領後、収容所内での日本人の生活の様子。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

住民は避難所でトイレに行くためだけでもライフルで警備する兵士に打ち殺される危険性があり、抵抗することは不可能であった。

 

基地建設の労働力 - 軍作業

米軍は、捕虜収容所の捕虜や、民間人収容所の住民を基地建設に従事させた。

f:id:neverforget1945:20190801020219p:plain

Native laborers at Naha, Okinawa, Ryukyu Islands, digging trenches, where ground wire will be laid.

那覇の地元の作業員が、アース線を埋設するための溝を掘っている様子。(1945年8月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

f:id:neverforget1945:20210801184641p:plain

Native labor being used at supply areas, Naha, Ryukyu Islands.

那覇の補給地区で働かされている地元の作業員。(1945年8月1日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■