米海兵隊キャンプ・ハンセンで 「護郷隊」の陣地跡「発見」 ~ 頻繁に自衛隊と合同演習しても、遺跡・遺構調査はかたくなに拒み続ける75年目の占領軍

考古学調査や戦跡・遺骨収集の調査をかたくなに渋る在日米軍

沖縄戦から75年以上もたつというのに、なぜ米軍は沖縄中の土地を占領したまま、地元の発掘調査や戦跡調査、遺骨収集すら拒み続けるのだろうか。

 

自国の兵士の遺骨収集は徹底するアメリカは、沖縄の土地と遺構を占領し、日本の税金を使って、いったい何をしているのか。その土地の最低限の礼も敬意も守れぬものが、一体何を「守る」というのだろうか。

 

海兵隊基地キャンプ・ハンセンのなかに、日本軍によって召集された10代の沖縄の子どもをつかった秘密部隊「護郷隊」の陣地や病院跡や遺骨が埋もれたままであるのは、自明のことである。沖縄戦からまもなくして、米軍は膨大な土地を沖縄から奪ったまま現在に至る。

 

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おそらくは、自国の遺骨収集と戦跡調査はやっている。そのなかで今回の「発見」があった。それが3月のことであり、6月になって取材し、やっとその話が明らかになる。まったくもって誠意がない。

 

沖縄の戦跡や遺骨収集の共同調査も渋る米軍が、日本の駐留費用をつかって駐留し、自衛隊と一体化した合同演習はせっせと行うが、沖縄の考古学調査や戦跡調査はおろか、遺骨収集調査にすらろくに協力もせず、基地内の遺構は保存する気もない。

 

(see. キャンプ・シュワブ内の遺構について) 

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これほど、相手方に敬意と誠意のない「同盟」など、どれほど信頼に値するものか、いったい何の意味があるだろうか。だまされることなく、よくよく考えてみてもらいたい。

 

NHK のこの記事もウエブから見れなくなってしまったので、記録しておく。

 

 

沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊

NHK News 2020年6月21日 19時56分

太平洋戦争末期の沖縄戦の際に旧日本軍が地元の少年らで極秘に編成した「護郷隊(ごきょうたい)」と呼ばれるゲリラ部隊の陣地跡が沖縄のアメリカ軍基地内で見つかりました。この部隊に関する戦争遺跡が見つかったのは初めてで、専門家は少年らを巻き込んだ悲惨な戦闘の実態を検証するため、今後、アメリカ軍に共同調査を申し入れることにしています。

 

75年前の沖縄戦の際、旧日本軍は、正規軍を後方支援し、持久戦に持ち込むため、およそ1000人の地元の10代の少年らを召集して「護郷隊」と呼ばれるゲリラ部隊を極秘に編成しました。

 

護郷隊は昭和20年4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、3か月にわたって山岳地帯でゲリラ戦を展開しましたが、激しい攻撃にさらされるなどして160人が命を落としました。

 

この護郷隊が拠点を置いた陣地跡が、沖縄のアメリカ軍基地「キャンプ・ハンセン」内で見つかっていたことがアメリカ軍への取材でわかりましたアメリカ軍が、ことし3月に基地内に残る戦争遺跡の調査を行っていた際に、沖縄本島北部にある恩納岳(おんなだけ)の山頂付近で見つけたということです。

 

恩納岳には、沖縄戦当時、護郷隊が司令部や野戦病院、それに敵を迎え撃つ機関銃壕などからなる陣地を構築し、今回、機関銃壕の跡や部隊の建物の土台部分とみられる石垣などが確認されました。

 

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護郷隊について調査している地元の専門家によりますと護郷隊の戦争遺跡が見つかったのは、今回が初めてです。

 

一方、恩納岳の一帯は戦後、アメリカ軍が実弾射撃訓練などを行う演習場として使用しているため、少年たちを巻き込んだ悲惨な戦闘の実態について現場での詳しい検証ができないままになっているということです。このため専門家は、今後、アメリカ軍に対して共同調査を申し入れることにしています。


「護郷隊」ほとんどが10代の少年

 

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旧日本軍が作成した資料などによりますと、旧日本軍は劣勢が想定された沖縄戦を前に秘密戦要員の養成機関「陸軍中野学校」の出身者を派遣し、正規軍を支援する遊撃戦=ゲリラ戦専門の部隊を沖縄本島北部で極秘に編成しました。

 

当時、アメリカ軍は日本の本土を攻撃する前線基地を設置するためにまず沖縄本島中部に上陸して近くの飛行場を奪い、その後、正規軍が拠点を置く南部に攻め込んでくるとみられていました。

 

このため、北部の山岳地帯にゲリラ部隊を配置し、上陸した敵を後方から攻撃してかく乱する作戦を立てたということです。編成された部隊は、およそ1000人の隊員のほとんどを地元の10代の少年が占め、「故郷をみずからの手で護る」という意識を持たせるため、「護郷隊」と名付けられました。

 

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「護郷隊」は2つの部隊からなり、「第一護郷隊」は現在の名護市にある多野岳に、「第二護郷隊」は恩納岳に陣地を築き、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した直後から3か月にわたってゲリラ戦を展開しました。

 

また、少年兵らは、見た目が幼かったことから、避難民に成り済ます方法で敵の偵察や正規軍との伝令にも駆り出されたということです。

 

護郷隊について調査している地元の専門家によりますと、戦闘などで隊員160人が命を落としました。

 

一方、秘密部隊だったため沖縄でも戦後長く存在をほとんど知られず、部隊や戦闘の実態について解明されていないことも多いということです。


「護郷隊」と「恩納岳」

恩納岳は沖縄県恩納村金武町の境にある標高363メートルの山で、沖縄戦の際、「第二護郷隊」が陣地を構えました。元少年兵の証言などによりますと、山頂付近に部隊の司令部や機関銃壕などがあり、中腹には野戦病院や兵舎などがありました。

 

しかし、アメリカ軍に攻め込まれると、部隊は山頂へと追い詰められていき、それに伴って山頂近くに移された野戦病院は、負傷した少年兵などであふれかえったということです。

 

そして、部隊は数千人規模による攻撃を受け、昭和20年6月初めに陣地を撤退し、恩納岳はアメリカ軍に制圧されました。

 

部隊が撤退する際、負傷して動けなかった少年兵らは軍医に殺害されたり、手りゅう弾を渡されてみずから命を絶ったりしたということです。

 

戦後、アメリカ軍は昭和22年から恩納岳を含めた一帯を実弾射撃訓練を行う演習場とし、さらに、昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、艦砲射撃や空爆などを伴った演習も行うようになりました。

 

その後、一帯は昭和32年からアメリカ軍基地「キャンプ・ハンセン」として運用され、現在に至るまで軍の特別な許可がなければ立ち入ることができない状態が続いています。

 

米軍撮影 170枚の写真

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NHKは今回、アメリカ軍が恩納岳の護郷隊の陣地跡で撮影したおよそ170枚の写真を軍から入手しました。

 

このうちの1枚には、沖縄戦の際に護郷隊が使った機関銃壕の跡が土砂で一部が埋まった形で写されています。

 

護郷隊の元少年兵によりますと機関銃壕は沖縄戦の直前に少年兵らによって山の斜面に横穴を掘って作られ、入り口近くには土のうなどが積まれていました。そして、壕内には機関銃や弾薬などが備えられ、アメリカ軍が攻め込んでくると少年兵らは中で身を隠しながら機関銃を掃射して迎え撃ったということです。

 

また、別の1枚では石垣が確認でき、護郷隊について調査している専門家によりますと特徴から司令部か物資の保管小屋など部隊の建物の土台部分とみられるということです。

 

このほか、近隣などから陣地に避難してきた住民が使っていたとみられる茶わんや湯飲みの破片なども確認できます。

 

長年、護郷隊について調査している恩納村「村史編さん係」の瀬戸隆博さんは「元少年兵らの証言を裏付けるものだ。恩納岳はアメリカ軍基地内にあるため立ち入りができず、場所ははっきりしないものの遺骨も残っているという元少年兵の証言もあるため、基地内に入ってさらに詳しく調査する必要がある」と話しています。


「根こそぎ動員」の始まり

太平洋戦争で旧日本軍は、敗戦が続き戦局が悪化すると一部で戦果があがっていたゲリラ戦を拡大することを決め、陸軍中野学校出身者の指揮のもと最初の専門部隊を編成して昭和19年3月にニューギニア島に派遣し、その後、第2部隊をインドネシア東部の島で組織しました。

 

そして、「絶対国防圏」の要所のサイパンが陥落した翌月の昭和19年8月、3番目と4番目となる部隊を沖縄に編成することを決めます。これが「第一護郷隊」と「第二護郷隊」です。

 

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それまでは成人の兵士を中心に編成したのに対し、護郷隊は兵士不足のため地元の10代の少年たちを召集することになりました。その際、当時は19歳からだった召集対象の年齢を昭和19年11月に軍の規則を変更して17歳に引き下げ、さらに翌月には、沖縄などでは志願すれば14歳以上の少年も召集できるようにしました。

 

しかし、元少年兵らの証言によりますと当時、志願したとされた少年たちの中には強制的に召集されたケースが少なくなかったということです。

 

護郷隊以降、旧日本軍は子どもたちも戦場に投入する「根こそぎ動員」の動きを加速させ、陸軍中野学校の出身者を全国に派遣して各地の少年や少女などにゲリラ戦の訓練などを施し、本土決戦に備えました。

 

 護郷隊について調査している恩納村「村史編さん係」の瀬戸隆博さんは「護郷隊の戦争が沖縄だけのものでなく、さらにバージョンアップして本土決戦で行われた可能性があった。日本では世界各地で起きているテロなど遠いものとして実感があまりないと思うが、かつて日本で10代の子どもを戦場に送り出し、命を落とすことを推奨して犠牲にしており、決してひと事ではない」と話しています。


元少年兵「戦場という地獄 仲間が次々に」

沖縄県大宜味村に住む瑞慶山良光さん(91)は16歳だった昭和20年3月に召集され、「第二護郷隊」に配属されました。

 

そして、ゲリラ戦の際にアメリカ軍の手りゅう弾で大けがをし、その後は、部隊の後方支援として恩納岳の陣地の野戦病院で負傷兵の搬送や死亡した兵士の埋葬などに当たりました。

 

瑞慶山さんによりますと、野戦病院ではベッドの代わりに板が敷かれ、収容された負傷兵が手当てを受けていたということです。そして、アメリカ軍が攻め込んでくると負傷して動けなくなった兵士の中には捕虜になって情報が漏れるのを避けるため、軍医によって銃殺された人もいたということです。そのうえで、部隊が陣地を撤退する際、残った負傷兵らは手りゅう弾を手渡されみずから命を絶ったということです。

 

瑞慶山さんは「上陸したアメリカ軍と戦えということになり、僕たち少年が最初の戦いを担いました。いつ殺されるのかという恐怖心の中、仲間が次々と『アンマー』と叫びながら死んでいった。戦場という地獄に行き、戦後はPTSDになったうえに、護郷隊は正規軍ではないとして補償も受けられないなど苦しい日々を過ごしました」と話していました。

 

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16歳で赤紙によって球18814部隊に召集された少年の記録をここで引用しておきたい。

 

 4月19日、迫撃砲弾が炸裂した破片で私は右腕と下腹部を負傷し、戦友に野戦病院へ運ばれました。前日には読谷山村出身で従兄弟の松田○○が亡くなり、また幸喜○○も亡くなっていました。私も死ぬのではないかと思いましたが、幸い一命をとりとめることができました。野戦病院は、負傷者のうめき声や痛みを訴える叫び声が聞こえて、生き地獄のようでした。みな傷口から蛆が湧き出し、しかも蛆が湧かない者は不思議と死にました。


 6月2日、私の傷もだいぶ癒え、杖にすがって歩くことができるようになったころ、私たちの第二護郷隊が移動することになりました。負傷兵の中には、移動は不可能だと自決した者もいたと聞きました。すでに恩納岳は敵に包囲されていたので、包囲網脱出の際に負傷、あるいは命を落とした者もいました。読谷山村出身の大嶺○○もその時に亡くなりました。

 

 護郷隊の軍備は三九三名の総数に対して無線が一個、小銃が二九〇、軽機関銃が一六、擲弾筒が一六でした。これで戦車を伴う強力な敵と戦えというのですから、むちゃくちゃな話です。それでも包囲網を突破した時、三〇〇名以上が共に行動していましたから、部隊幹部の指揮は、非常によく取れていたということなのでしょうか。ただ、私たちは食事らしい食事も摂らず、敵の攻撃の中、一日一日を生き伸びるのがやっとという有様で、これが日本帝国軍人なのかと悪夢をみているようでした。

 

 多野岳に配備の第一護郷隊と合流して遊撃戦に移行するとの命令でしたが、私たちが多野岳に着いた時、すでに敵の襲撃を受けて陣地は焼き尽くされていました。

読谷村読谷村史・戦時記録 下巻」より引用

 

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